藤枝静男は金素雲の著書『近く遥かな国から』が、昭和五十四年に発刊されたとき「金素雲氏の新著を喜ぶ」を書き、金素雲が亡くなったとき、「金素雲さんの死を悼む」を書いている。
金素雲は韓国の人である。藤枝静男と同年の一九〇八年(明治四十一年)釜山の絶影島に生まれる。「新著を喜ぶ」で金の話す日本語に岡松和夫が「僕等が使わなくなった昔の本当の日本語を初めて聞きました」と感心し、藤枝が「共通の時代を共通の東京ですごした共通の語感」と昔を思い出す場面があるが、金素雲の日本語は実は苛烈な経歴からきている。
金の生まれた翌年、金の父は旧韓国度支部の官吏という職責から親日派と見做され、慶州南道の普州で同胞の銃弾に斃れている。十二歳のとき日本行きの石炭船に便乗して単身渡日。新聞の立ち売りなど職業を転々としながら東京開成中学の夜間に通う。このとき同じく十二歳の藤枝静男は、東京郊外池袋の成蹊実務学校に学んでいた。藤枝が「共通の東京」というのはこのことである。関東大震災で焼け出された十五歳の金は半年ほど大阪で過ごす。このとき朝鮮服の金が電車の車掌からひどい扱いをされ、抗議した金が逆に袋叩き寸前になるということがあった(「怨念三十年の歩み」<文芸春秋>昭和二十九年九月号)。十七歳の金は一年半に及ぶ徒歩旅行で日本各地を放浪。二十歳のとき北原白秋の知遇を得て、その翌年『朝鮮民謡集』を刊行する。その後も朝鮮の伝承文学や近現代詩を日本に紹介する文筆活動。大森署に半年間不当に拘束されることもあった。金が日本を離れるのは戦争末期の三十七歳。日本の敗戦を釜山で知る。金素雲の日本語は以上の経歴のなかで身につけたものである。
『近く遥かな国から』刊行に藤枝静男は奔走した。筑摩書房からの出版が一旦決まるが筑摩が倒産。困った藤枝は立原正秋に依頼、立原の尽力で新潮社から出版されることになる。
金素雲と顔を併せたのはわずかに三回だが、たちまち藤枝静男は金素雲を認めている。それは同年生まれとか、同じ時期東京で過ごしたという懐かしさだけではなかった。「その人柄に触れ、また手紙の往復で親しみと敬服の度を増し」たのであった。
藤枝の作品「木と虫と山」で、主人公章がつぎのように述懐する一節がある。
「厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、そのときどきに適用するように案出された理屈にすぎない。現象解釈ならもともと不安定なものに決まっているから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿げたことだと思っている」「ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、または病苦や肉親の死や飢えをどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。そして古い木にはそれが見事に表現されていてマギレがない」。
藤枝は金素雲に古い木のようなマギレのなさを感じとっていたように思う。
林容澤『金素雲「朝鮮詩集」の世界』(中公新書)は、韓国において金素雲に対する厳しい目のあることにふれている。金は昭和十九年、追悼詩「山本五十六元帥国葬の日に」を書いている。また日本軍に徴兵された同胞青年向けの「父祖の汚名を一掃」という一文を発表している。戦後にこのことをとらえて、金素雲を「親日文学家」と位置づける考えが韓国にある。韓国で「親日」とは、「盲目的事大主義的日本礼賛・日本追従」を意味している。大韓民国銀冠文化勲章を死の前年受けるが、金の戦後の活動は同胞の厳しい目にさらされていた。しかし金には、韓国と日本二つの国はお互い無視できないという信念があった。いまは近く遥かであっても。紙数がなく紹介できないが、強靭な評論活動を支えたのはその信念である。ソウルの自宅で昭和五十六年七十三歳で死去。
林は金素雲の戦中の親日的文章や詩篇は、三十六年間の植民地支配に苦しんだ韓国民からみて屈辱的なもので、決して容認できないとしながらも「ただそれが文学者としての、一人の人間としての金素雲の肖像画であるかのように映っていることにもどかしさを感じるのである。ひいては、金素雲が祖国に対して書き残した膨大な文筆活動の成果は、親日文学家としての汚名をすすいで余りあるほど、十分な功績に値する」と書く。
話をもどせば金素雲は昭和八年に『諺文朝鮮口伝民謡集』を刊行している。諺文(げんもん)とは朝鮮の音標文字ハングルのことである。日本の出版社の出版ながら、仮名文字一つまじえぬ純ハングルの書であった。せめて序文だけでも日本語でという周囲の勧めを振り切ってのことである。林はこの金の頑固さを「深く吟味してみる必要があろう」と書いている。
また金は同年、岩波文庫『朝鮮童謡集』を刊行。序文で金は「ふるさとの幼いひとたち」と呼びかけ、「私はただ一つの誇りを忘れはしない。君たちと郷国を一つにして生まれたことは何という倖な偶然であったろう。いや、これは偶然ではない。数学は一から始まる。君たちと私のつながりは伝統の一の単位から始まっている。君たちの呼吸する息吹は、それは私の息吹だ。君たちの泣き歪めた顔、それは私の顔なのだ。君たちの幻想、君たちの歓呼、君たちの意欲、さては五体に脈打つ君たちの血潮さえが悉くそのまま私のものではないか。誰がよくこの深い約束を断ち阻むことが出来ると思う」と書き綴っている。
日韓併合、独立運動弾圧、小学校での朝鮮語使用禁止、創氏改名と韓国民の誇りを踏みにじる日本の暴政はとどまるところを知らなかった。金素雲が生きたのはそんな時代の日本である。祖国の文化と伝統をどう守り抜くか、金素雲が心を砕いたのはそのことであった。そのために不本意なこともあったろう。金素雲の真心は前述の序文にも現れている。
金素雲の仕事のひとつに岩波少年文庫『ネギをうえた人』がある。金素雲の生涯を思うとき、表題にもなっている「ネギをうえた人」の話は象徴的である(一読を)。
金素雲という魅力的な人物に引きあわせてくれたことを、藤枝静男に感謝したい。
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