(「風信」第7号/2001年5月)


 藤枝静男は五冊の随筆集を残しているが、最後の随筆集が『石心桃夭』である。昭和56年、73歳のときのことである。その年は「二ハ二」「みんな泡」を群像に発表、また成瀬書房から『路』限定版を刊行。秋には「没後十年志賀直哉展」が西武美術館で開催され、藤枝所蔵の『座右宝』が出展されている。
 この随筆集『石心桃夭』なる書名について、少し考えてみたい。
 「石心」は後にしてまず「桃夭」を見るなら、藤枝にとってこの「桃夭」は格別の語句であった。
 藤枝静男は12歳のとき、藤枝の田舎から東京池袋の成蹊実務学校に入学する。ここで16歳までの四年間を過ごす。
 中村春二が設立した成蹊実務学校は、特異な学校であった。その様子は川瀬一馬編『成蹊実務学校の想い出』や中村浩著『人間・中村春二』にくわしい。『石心桃夭』に収録されている「中村春二(私の中の日本人)」で藤枝自身語ってもいる。
 成蹊実務学校は一学級定員25名で全寮制自炊。入学金の他は授業料一切不要。日課は朝5時大太鼓の合図で起床し、5時半から駆け足。朝食のあと7時から座禅に似た凝念法を行い心力歌を声を張り上げ合唱する。この凝念法は、夏の土用中は正午に綿入れを着て座り、冬の寒中は上半身裸体で行った。授業は毎週30時間、3時から約2時間の園芸作業。各自が自分の鍬を持ち、自分の舎の畑の種まき、植え付け、草刈り、施肥、堆肥づくりなどに従事した。6時までに夕食を済ませ、一斉に夜の勉強。8時に大太鼓の合図があって講堂に集まり、凝念法を行い心力歌を再び合唱する。消灯は9時。以上が日課である。春、夏季休暇はなく、定期試験もなく受け持ち教師の考えで時々試問し、成績秀でた者は随時進級した。この他、冬12月の三日間の断食会、夏の夜行遠足、試胆会、さらに工場、新聞社、展覧会、国会などの社会見学を実施した。
 12歳から16歳の少年は、刷り込み現象ともいうべき強烈な教育を受けたのである(藤枝は3年時に成蹊中学に転籍)。
 前述の「中村春二(私の中の日本人)」で藤枝は書いている。
 「畑仕事があり便所の汲み取り、その貯蔵、施肥、堆肥造りもその一部であった。ある日教官が肥溜めに指を浸けて舌でなめ、平生生意気な私に向かって『コナれているかどうか試してみよ』と云って私にそれを強要したことがあった。私は従わなかったがこの屈辱は今に忘れないのである」。
 これを読むと、藤枝静男にとり成蹊実務学校が生半可でないことがわかる。
藤枝の人格は正にせよ負にせよ、その何割かは成蹊実務学校によって形作られたと見るべきだろう。藤枝自身折にふれそのことを思い知らされていたのではなかったか。
成蹊実務学校にはまた自治的な課外活動もあった。土曜日の午後、趣味のために活動する会である。名称を「桃夭会」といった。勝見次郎こと藤枝静男は桃夭会の短歌部に所属した。『石心桃夭』の「桃夭」はこの桃夭である。
 「二ハ二」で、「桃夭会」の命名者漢文教師の老N先生が出てくる。授業の合間に、 N先生が不図洩らす。
 「『桃夭』は校名に連なる命名で、詩経に桃ノ夭々(注1)タル、ソノ葉蓁蓁(注2)タリとあってな、若者の元気旺盛な様を現すからよかろうと思うのだが」「けれども何ですな、桃の実は熟してくるにしたがってスベスベと滑かに紅味を帯びてくるのでな、これを処女のアソコになぞらえるということも彼の国の風俗にはあることだで、そこに少々のはばかりがあるけえが」。
 「校名に連なる命名」とは、「成蹊」の由来である史記李廣伝賛「桃李もの言わざれども下おのずから蹊を成す」(注3)に桃とあることを指す。
 「桃夭」の二文字は、藤枝の深層に刻まれた若かった昔を鮮明に呼び起こすキーワードであったのではないか。
 なお藤枝静男の成蹊実務学校入学をめぐって本多秋五が、「どうしてそんなところへ彼を入れたかというと、これは僕の想像だけれど、そこの校長が静岡県出身の人で、何か父親と関係があったんじゃないか思う」と語っている(<群像>平成5年7月号)。前述の『人間・中村春二』によれば、中村家は駿河の出である。東京で生まれ育った春二は、何度か藤枝の志太温泉を訪れている。静男の父親と接触があったかもしれないが、定かではない。
ここで「石心」に考えを及ぼすなら、「石心」は「桃夭」の対極にある。「みんな泡」で藤枝は書く。
 「池の縁に凝っとしゃがみ込んで平べったく濁った水底を眺めていると、何処に帰するあてもない漠とした孤独感が自分を締めつけてくる。それを、視点の呆焼けた頭で自覚するのである。あの脳動脈の生理的硬化細小化という不可避の現象が加速度的に酷薄な歩調を進めて已まぬという想いが自分を悲哀に誘うのである」。
 藤枝静男は、己の心が硬化しつつあることを孤独と悲哀と共に自覚していたのであった。その自覚が、「石心」なる語句を見つけたのではなかろうか。みずみずしい桃に対しての、硬く冷たい石であり、石の心「石心」である。「石心」には「石の中心」、あるいは「石心鐵腸」のように「石のように堅固な志」といった意味もあるが、このとき「石心」は感情の起伏のない鈍麻した心ということであろう。己を見つめる藤枝にとって、「石心」はまさに老いの象徴であった。
話は少しそれるが、「ヤゴの分際」を評したことがある高橋和巳の「我が心は石にあらず」も「詩経」が出典である。この場合の石は、ころころ転がってしまう頼りない存在である。石といってもいろいろということだ。
 さて「石心」を老境、「桃夭」をみずみずしさの代名詞と見て、「石心の桃夭」すなわち「老境のみずみずしさ」と「石心桃夭」を読むこともできる。川西政明も書評で「老境に入ってなお衰えぬ若々しい精神」と書いている。『石心桃夭』の帯にも、「常にみずみずしい感性と若い精神で、人生の諸相を活写する自在の文学者」とある。しかしこれは他者の言であって、藤枝静男自身そうした気張った書名はつけないだろう。
 それまでの随筆集を見れば、『落第免状』『寓目愚談』『小感軽談』『茫界偏視』である。気張った書名はない。もっとも「落第」を藤枝は恥じているわけではない。学生時代の落第も「遊んだためではなかった。私は私なりにまじめに勉強したのだ。ただそれが学校の勉強ではなかっただけだ」と書く。「愚談」「軽談」「偏視」もとくに謙遜しているわけではない。「愚談」「軽談」「偏視」ではあるが、書いていることに嘘はないというのが藤枝の構えである。
 『藤枝静男作品集』の後記に「正貨準備だけはある」と書き、著作集パンフレットに「書捨てみたいなことは一度もやったことはないから読む人をダマすことはないと思っている」と書く。見栄を張ることもなく卑下することもない、等身大男・藤枝静男である。年老いたけれどまだまだ若々しい精神は失っていない、といった書名はつけないだろう。「みんな泡」からも、それはない。何よりも「石心」という語句がそれを否定している。
『石心桃夭』は、「石心と桃夭」だとみたい。「石心」が老いた「今」を示し、対して「桃夭」が若かった「昔」を象徴しているとみたい。前述したように「桃夭」なる語句は、藤枝静男にとって若かった頃を呼び起こすキーワードであったに違いない。『石心桃夭』は、今と昔とを対比させた書名だと考える。
 『石心桃夭』には、若かった頃を回顧した随筆が多数収録されている。一方年老いた己を見つめる随筆群がある。このふたつの間を美術展のことや書評が埋めている。思い悩み傷つきながら過ごしていた限りなく若かった頃、そして今急激な老化の最中にあって精神的な死を危惧している自分、その間に横たわる長い長い年月への想い、それらをひっくるめた感慨が『石心桃夭』という書名になったのであろう。
 最愛の妻を失って四年、平野謙を送って三年、73歳の藤枝静男はもう残り少ないことを自覚していたであろう。『茫界偏視』にも『石心桃夭』にもあとがきがない。形式張ったことなど、もう面倒になったのであろうか。

   (注1)ようよう=若々しくみずみずしいさま。
   (注2)しんしん=木の葉などが盛んに茂るさま。
   (注3)桃や李(すもも)はものを言うわけではないが、美しい花を咲かせ美味しい果実を
        実らせるため、自然に人が集まりそこに蹊(こみち)ができる。



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