私は藤枝静男に生前会うことがなかった。残念でしたねと言われるが、かえって余計なことなしに向き合うことができる。本を開けば藤枝静男の言葉がある。それで私には十分である。
すべてが過剰で集中力が奪われがちないま、立ち止まり藤枝静男の言葉を見つめたい。
「何年か後には死ぬのであるから、できるだけ努力して、人のことはかまわず、小説とはこういうものだなどと教える批評家の言うことは信用せず、自分の考えで都合のいいように書き方を考案してやる以外ないと思っている。やれるだけのことをやったと心に満足して死にたい。死ぬときは一人で死んでいくのである。/だから私の小説を書く目的は、自分だけの利己主義のためで、人のためではない、生意気だと思われても一生のことだから仕方がない」(注1)
中学二年のとき私は木版画と出会った。作文に「版画だけは一生やって行きたい」と書いた。いま八十歳を過ぎて版画を続けてきたこれまでを振り返るとき、自分を拠りどころにするしかないと藤枝静男が示してくれたことを思いおこす。ことは絵に限らない。
「一人の人間が生涯に思いつめて書かなければいられないというモティティーフがそんなにたくさんあるはずはないという気もある。/私の場合などはじめから一つきりで、それを繰り返してきたようなものである」(注2)
私は自分のモティーフになかなか自信が持てない時期があった。「よく変わる人ですね」といわれたことがある。ある審査員が全体講評で「描く必然性のある作品はほとんどない」と語ったとき、反発しながらも動揺した。
そんな私が自分のモティーフを見定めることができたのには、藤枝静男の言葉もあった。
このことでは、人生のモティーフということにも思いがゆく。
藤枝静男が「空気頭」について述べたつぎの言葉に眼が止まる。
「私は私小説を書いたのだが、あるところへ来て自分の心の奥底に潜んでいる部分をありのままに描くとすれば今までの平面的なやり方では駄目だと思った。窮地に追いつめられた以上は跳ね飛ぶか地面にもぐる他ないと思った」(注3)
「この方法は結局失敗に帰したが、しかし自分にとってはムキになってやるだけの必然性はあったので、そのときは精神の緊張と逼迫にかられて書いたのである」と、『空気頭』のあとがきで書いているけれども。藤枝静男はこうと思ったことはやる。思い切りがいい。藤枝静男の気組みはどこからくるのか。私に真似はできない。それでも、藤枝静男のような作家がいることが私の励みとなった。
東京新聞の文芸時評は、藤枝静男でなければ書かなかっただろう。
「これは文芸時評ではないが無関係ではない。―天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先に来た。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロになった駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていて見たら何と思ったろうと想像して傷ましく感じた」(注4)
ここで天皇とは昭和天皇である。米国訪問を終えての記者会見であった。天皇は戦争責任について問われ「そういう言葉のアヤについては、私はそ
ういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」と応じた。
天皇はまた原爆投下について問われ「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒であるが、やむお得ないことと私は思っています」と応じた。
いま天皇をめぐって、藤枝静男のような物言いを眼にしない。藤枝静男はいたたまれなかったのだ。一人筆をとった。藤枝静男の言葉は直截である。
「テレビで見た裸のガンジー、無抵抗不服従運動中の生前のガンジーだけがそうでなかった。難しい不機嫌な顔をし、また放心したような表情をして歩き、痩せた脚であぐらをかき、木製ベッドのうえに縮まるように身体を折り曲げて寝ていた」(注5)
藤枝静男は非人間的なものの対極として、ガンジーの姿を描いた。
藤枝静男の怒りには、美しいものに強くひかれる感性も働いていたのではないか。その感性が醜悪なものを許さなかったのである。
「ブリヂストン美術館にセザンヌの小さな静物画がある。大きさは多分サムホールくらいか。この画の美しさはなんと形容したらいいかわからない」「画全体の調子は青味がかっていて、簡素で静かで、とにかく何よりもまず美しい」(註6)
いまはアーティゾン美術館と名前を変え施設も新しくなったが、私も高校時代この小品の特別な美しさに打たれた。もう一度見たくて、次の日曜日一人田舎から上京した。
「文学者の反核声明」に関するアンケートへの回答もまた直截である。
「私は一対一の殺しあいでも人殺しには絶対反対ですから、核装備など論外で留保の余地はありません」(注7)
この藤枝静男の言葉から何年たったであろう。いまだに、核抑止論から抜け出せない。戦争もなくなることがない。人間を取り巻く危機の多くは、人間が原因である。考え方、暮らし方を人間は変えることができるだろうか。
長い年月を生きてきた木の方が人間なんかより余程チャンとしていると、藤枝静男は考えていた。私には藤枝静男の歩いたあとをたどり、各地の巨木をめぐることがあった。
きりりと直立した武速神社の将軍杉より、浜松市本沢合にあるカヤの木に私は惹かれた。カヤの木は「粗暴に枝をひろげ」「枝ぶりも何もなく、瘤だらけの枝が重なり合ってズングリと生い立っていた」(注8)と藤枝静男が書いたそのままに、その巨体であたりを圧していた。実をつけた無数の小枝が、縄のれんのように垂れて幹を薄暗く包み込んでいる。つがいの雉鳩がその中を飛び交っていた。
「ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう恰好でやったか、やらなかったか、また病苦や肉親の死や飢えをどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがない」(注9)
私が編集しているウェブサイト「藤枝静男―年譜・著作年表」に、最近「肉体精神運動録」と副題をつけた。老木を愛し自身老木に似た藤枝静男の、マギレのない記録であることを願って。
藤枝静男の書いたものの引用ばかりになった。初めからそのつもりだった。何か論ずると、私が藤枝静男に寄せる気持ちから遠のいてしまう。私は藤枝静男へのラブレターしか書けない。
『藤枝静男―年譜・著作年表・参考文献』を二○○二年に発行し、集めた藤枝静男資料を二○一八年日本近代文学館にそのほとんどを寄贈した。それで一段落かと思ったが、いまだに藤枝静男の資料を集め続けている。出てくるのである。
「先日は長くお引止めしました。対談はどうも不出来で申しわけありません。どうか立原君と相談の上具合良くまとめて下さるよう御願いいたします。私は見ないでいいですから。雑誌出たら別刷りを下さい」(注10)
立原正秋との対談「悟りと断念の世界」に関しての新潮社社員宛の葉書である。
「私は見ないでいいですから」で、なんとなく藤枝静男だなあと頬がゆるむ。最近では、志賀直哉にかわって尾崎一雄が勝見次郎(藤枝静男)に返事を出した昭和五年の書簡がある。
この三月修士論文に藤枝静男を取り上げた若者が、私の個展会場に突然現れた。分厚い論文を手渡された。嬉しかった。こうしたことがある。藤枝静男はさまざまな時代に、さまざまなかたちで読み継がれていく作家だと確信する。
(注1)利己主義の小説/読売新聞/昭和43年1月21日
(注2)『藤枝静男作品集』あとがき/昭和49年2月
(注3)ボッシュ/芸術生活/昭和46年5月号
(注4)文芸時評/東京新聞/昭和50年11月28日夕刊
(注5)みな生きもの みな死にもの/群像/昭和54年2月号
(注6)好きな絵/アイオロス2号/昭和39年4月号
(注7)文学者の反核声明=私はこう考える/すばる/昭和57年5月号
(注8)空気頭/群像/昭和42年8月号
(注9)木と虫と山/展望/昭和43年5月号
(注10)日付は昭和50年6月9日。対談「悟りと断念の世界」は「波」同年7月号掲載
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