(館報<日本近代文学館>286号 2018年11月


 <執筆にあたり西川一三著「秘境西域八年の潜行」(芙蓉書房)を参考にした。また、文中に「陶説」二三一号掲載の橋本武治氏の文からの引用がある。記して謝意を表す─著者>
  「田紳有楽」に付記された謝辞だが、この二つの資料が気になる。これがことのはじまりであった。
  『秘境西域八年の潜行』と『陶説』231号を探し出す。鼻フガフガの偽ラマ・サイケンと下っ引きでスパイの滓見という傑出したキャラクターは、この二つの資料を藤枝流に按配したものだとわかる。命名も勝見=滓見=サイケンと、藤枝静男の本名勝見からである。藤枝静男のしてやったりの顔が眼に浮かぶ。
  勢い「群像」の初出と単行本を対比してみた。単行本『田紳有楽』は、初出の表現に比べ総じてボルテージがあがり威勢がいい。藤枝静男はイケイケで筆を入れていったに違いない。
  あとがきに「小説の形から云うと」「朝鮮李朝民画の文房具図も頭にあった」とある。文房具図拝見と浜松の藤枝宅へ押しかけた。藤枝静男が「異様な魅力」という文房具図を、私も手元に置きたいと即座に思った。実はこの四年前、藤枝静男は亡くなっている。生前藤枝静男と会えなかったことが、かえって素直に藤枝静男と向き合えたのかといま思う。
  さてこうして「田紳有楽」の世界を手探って行くなかで、「田紳有楽」の作者藤枝静男をそう言ってよければ好きになった。藤枝静男を追っかけてやろうと、気持ちが高ぶった。資料収集に熱を入れる。
  以上のような経緯であったから、私の収集は筋道だっているとは言えない。藤枝静男が手にし眼にしたものは、私も手にし眼にしたかった。私の藤枝静男コレクションに、藤枝静男の著作以外の資料が多いのはその結果である。
  収集するなかで、藤枝静男展を仮想することもあった。この展示にはこの資料が面白いだろうと集めたものもある。その一つ「作家の眼─藤枝静男と美術」展を平成22年に実現することができた。
  私の収集エネルギーが持続した背景には、「藤枝文学舎ニュース」がある。「いろいろ田紳有楽」、「あれこれ藤枝静男」、「藤枝静男のこと」と藤枝静男について書かせていただいた。「ニュース」は季刊だが、連載はあわせて五十四回を数えた。そのための材料探しもあった。書くなかで、藤枝コレクションに欠かせない新しい資料に気づくこともあった。
「ニュース」は「藤枝文学舎を育てる会」の機関紙である。「育てる会」は小川国夫が育った家を「藤枝文学舎」として保存し文化活動の拠点にしようとする運動の母体として設立された。この「育てる会」との出会いがなければ、私に藤枝静男はなかったろう。
  藤枝静男は美術を生涯こよなく愛し、美術はまた藤枝静男の創作意欲に関わり続けた。「追っかけ」コレクションである。藤枝静男の小説や随筆に出てくる美術館や展覧会の図録もすべて集めた。それらの図録を繰ることで、藤枝静男の眼が具体的に見えてくる。
平野謙の手を煩わし藤枝静男が入手したと同じ分厚い『ボッシュ画集』がある。ドイツ版『デューラー画集』もある。八高時代、芸術論を戦わすために持ち出したのはこれではないか。李朝民画文房具図は、私には高嶺の花である。かわりに画集『李朝民画』上下二巻。親交のあった曽宮一念では、随筆集『日曜随筆家』がある。曽宮の緑内障の主治医でもあった藤枝静男に、「日曜小説家」を書かせた。
「空気頭」関連でいうなら、上半盲を連想させる千葉医科大学時代の藤枝静男の論文、得体が知れない雑誌「瓜茄」、珍妙な人造直立ペニス製造法を紹介している中山恒明『患者の顔 医者の顔』、人類交合断面図の『レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図』などがある。
  青木鐵夫編『藤枝静男─年譜・著作年表・参考文献』の刊行では、孫引きは避けたかった。図書館に通い、新聞や手元にない資料の確認と複写に励んだ。疲れる作業であったが、その時の大量のコピーも今回藤枝静男コレクションとして受け入れていただいた。
  二十年来の資料収集を振り返るとき、印象深いことがある。
  一つに志賀直哉編集『座右寶』特製版の入手があった。志賀直哉の美意識は、藤枝静男に強い影響を与えている。『座右寶』はその証拠物件である。
 見知らぬ福岡の古書店から突然目録が送られてきた。その薄っぺらな目録に、『座右寶』特製版があった。入手を諦めていた藤枝静男が、本多秋五の斡旋でやっと手にしたものである。一刻を争う思いで電話をした。声がうわずっていたかも知れない。届いた漆箱の特製版は、図版に一枚の欠けもない。大判のコロタイプ印刷は美しかった。その後いろいろな古書店と取引を重ねたが、『座右寶』特製版は全く出てこない。夢のような出来事であった。私の藤枝静男コレクションの目玉である。
  新発見もあった。藤枝静男の千葉医科大学時代の小説である。
  藤枝静男の処女作は、「近代文学」昭和22年9月号に発表した「路」になっている。本人は語っていないが、藤枝静男には必ず前があるとにらんでいた。『千葉大学医学部八十五年史』を入手。藤枝静男の在学時、文学部の雑誌に「大學文化」があり勝見次郎(藤枝静男)の名前がある。ネット検索で「大學文化」を見つけた。十余冊のまとめ買いになったが、大当たりであった。町井文(勝見の筆名)「思ひ出」と、勝見次郎「兄の病気」がある。表紙の装画と編集後記を担当した一冊もあった。
 このことで補足したい。
「思ひ出」発表の年、モップル活動への一度のカンパが発覚して藤枝静男は警察署に五十余日拘留される。大学からは無期停学を宣告される。当時、父鎮吉が息子次郎にあてた複写式便箋のコピーがある。処分解除を願う切実な言葉が並んでいる。
  処分を受けた次郎を救ってくれたのは、同郷の伊東弥惠治教授であった。追悼文集『伊東弥惠治先生』を入手する。その中に勝見次郎の追悼文「酋長の娘」があった。当人が当時の事情を生き生きと語っている。
  展覧会の編集・構成を任されることもあった。前にふれた「作家の眼─藤枝静男と美術」展(藤枝市文学館)である。こうした機会は滅多にない。大いに張り切った。これまで収集してきた資料の出番である。『座右寶』特製版をはじめ『イーゼンハイム祭壇画』、『原勝四郎画集』、『ルオー受難パッション』、『摩訶耶寺庭園学術調査報告書』、『濱名史論』、『油畫の描き方』、『大同石仏寺』、『奈良飛鳥園写真集』、『中村春二選集』、『ポンソンビ博士の真面目』などを出品する。
  以上が、とりわけ印象深かったことになる。
なおコレクションに、藤枝静男の葬儀で使われた写真もある。撮影は私が所属している美術団体「国画会」写真部会員の藤井滿生。藤枝静男のポートレイトとしては、『犬の血』の口絵写真と双璧をなすだろう。
  資料収集を締めくくったのは『Das Teuflische  und Grotesken in der Kunst』になった。八高生藤枝静男を、その挿絵の醜悪さで捉えた一冊である。ドイツの古書店から入手した。
 藤枝静男に、谷崎賞のときの言葉がある。 
 「他人の眼には通じなくても何でも、自己の受け取った真実を自分固有のリアリズムの形によって再現するほかないだろう」「他にやりようがないと感じてやっているのだから必然性をもっていると自分では信じている」「少しでも安心成仏に近づきたいわけで、そのために本気で茶番もやるのだ」(文学的近況)
  この藤枝静男の言葉は、版画をやってきた私を鼓舞する。私を資料収集に向かわせた根底には、こうした藤枝静男の折々の言葉への共鳴もあった。
  この度資料を手放すことになったが、寂しくはない。ホームページ「藤枝静男─年譜・著作年表」の更新作業もある。いまはただ、長年収集してきた資料が新しい場所を得たことが嬉しい。

 (注)「日本近代文学館」に寄稿したものに加筆




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