藤枝静男は「わが『近代文学』」昭和三十九年にこう書く。

 「自分が小説を書く気になったのは何時であったか、よくわからない。本当は彼等の元気に触発されて多少そういう気分が生まれつつあったのであろうが、意識的には、自分のなかにそういう欲望は自覚できなかった」「実際にも六十人余りの入院患者をかかえ、妻が病気という状況では、そういうことは思考の範囲外であったに違いない」。

 彼等の元気とは藤枝静男生涯の友、平野謙と本多秋五、そして埴谷雄高らが昭和二十年十二月に「近代文学」を創刊したことをさす。妻は昭和十八年結核を宣告され闘病中であった。

 「だからやっぱり私は平野と本多が二十一年の春に私の病院を訪ねて来たとき『小説を書いてみないか』と勧めてくれた、あの時がキッカケだったろうと思う」。

 平野と本多が浜名郡積志村(現浜松市東区西ケ崎町)の菅原眼科医院を訪ねて来たのは、昭和二十一年四月のことである。藤枝は妻の実家の医院で働いていた。

 藤枝は昭和二十二年四月、作品を本多と平野に送り、そのなかの一篇が「近代文学」昭和二十二年九月号に掲載される。「路」である。作家藤枝静男の誕生、三十九歳。作家としては遅い出発と云えよう。

 この作家藤枝静男誕生にはかならず前史があると、私はずっと考えてきた。それは一つには、本多の藤枝宛て昭和二十二年四月二十二日の手紙があった。

 「小説七篇とは参ったネ。専門で行こうとしてゐる僕なんかでさえ書けないで書けないで、悲鳴をあげているのに」。

 勧められて一年足らず、短篇とはいえ七篇、生半可な「書く気」ではない。創作への思いが無意識にせよ、蓄積されていたと思わざるを得ない。習作的な試みもそれまでにあったろうと思われた。

 この予想は、藤枝静男の大学時代の小説を発見したことで現実のものとなった。千葉医科大学文芸部発行の「大学文化」にあった「思ひ出」と「兄の病気」である。

 「思ひ出」は「大学文化」十六号(昭和八年三月)に掲載されていた。「私は東京における貧民生活─それはまさに行き倒れの丁度一歩手前の所をさまよっていたその前の生活を、断片的にでも記して置こうと思う」として、主人公の放浪と徘徊の日々を書く。活動巡業団でのいざこざ、日華レビュー団への鞍替え、ボロ買い屋二階の暮らし、隣部屋の女給たち、家主夫婦のけんか、職業紹介所でのやりとり、カフェー・トカゲのおけいちゃんの身の上話、禮子の自殺、公園の徘徊と話はめまぐるしく展開する。後年の「硝酸銀」や「或る年の冬 或る年の夏」を彷彿とさせる個所がある。原稿用紙約七十枚、潤色性の強い力作である。

 「兄の病気」は「大学文化」十九号(昭和九年二月)に掲載されていた。兄の突然の喀血を書いている。「私は父と二人で、寝床のかたわらに座って話していた。すると突然兄が起き上がって、寝床の上に座って、外見だけはいつも通りの落ち着いた声で『おい、そこの其の新聞を取ってくれ』と云った。私は併し兄の気配のうちに不思議に切迫したものを直感してうろたえて、あわてて新聞をとって兄に渡した。兄は直ぐそれを口の所へ持って行くと、薄く一面に桃色がかった血を吐いた」。この兄喀血の描写は、「路」冒頭の妻の喀血の場面にそっくり使われている。この後、兄は死を免れて小康を得る。私は「有難し有難し」と日記に書く。喀血から小康にいたる記述は加筆されて、後年の「家族歴」の兄の部分になったとわかる。原稿用紙約十二枚、短いが心に沁みる一篇である。

 本多秋五はある手紙で、藤枝静男の作風を硬派文体・軟派文体の二つに表現した。これに従うなら、「思ひ出」は硬派であり「兄の病気」は軟派である。二つの対照的な作風が、大学時代の作品にすでに現れていることを面白く思う。藤枝静男は若書きの習作として、ことさらこの二作について語らなかったのかも知れない。しかしこの二つの作品は、作家藤枝静男の資質を端的に示している。今回の発見は、藤枝静男研究にとって有意義なものとなろう。

 大学二年の藤枝静男はモップル活動への一回のカンパで検挙され警察署に五十余日拘留、大学から無期停学処分をうける。この深刻な事件をはさむようにして、「思ひ出」と「兄の病気」は書かれた。

 なお検挙された月に発行された「大学文化」 17 号を藤枝は編集、表紙も担当している。

 処分をうけた学生の多くは、大学を去らざるをえなかったようである。藤枝静男を救ったのは「先生」といえば「伊東先生」しかいない、と藤枝が書いている千葉医科大学眼科教授伊東弥恵治である。この伊東の追悼文集『伊東弥恵治先生』昭和三十四年がある。このなかの藤枝の追悼文「酋長の娘」も、最近見つけた一つである。追悼に似つかわしくない題名だが、絵を得意とする伊東が「酋長の娘」を口ずさみながら絵筆をふるっていた思い出による。伊東は自分の試験さえ受けなかった、しかも思想的前科のある藤枝の「弟子にしてください」という突然の申し出を「まあ見学ということで来るならかまわない」と許容してくれた。そして実際他の学生と区別しなかった。先生が「かまわない」と云ってくれたとき、「夜が明けたという言葉を実感で味わった」と追悼文に藤枝は書いている。

 今回の発見は、作家は一朝一夕には生まれない、そしてまた人には運命的瞬間があるということである。



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