(ゐのはな静岡第23号/2015年1月)


 勝見次郎(藤枝静男)の千葉医科大学の卒業証書がある。日付は昭和十一年七月十一日。
 この異例の証書を勝見次郎が手にすることが出来たのには、伊東弥恵治教授の配慮があった。この経緯と伊東先生への思いを、勝見次郎は「酋長の娘」で書いている。
 作家藤枝静男を俯瞰するとき、この卒業証書の持つ意味は大きい。
 作家としての片鱗なら、勝見次郎は旧制第八高等学校の<校友會雑誌>、千葉医科大学の文芸部誌<大学文化>に小説「兄の病気」と「思ひ出」、そして随筆を何篇か発表している。わかったのは没後だが、作家は突然生まれるはずはなく予想されたことであった。
 本格的に書き始めたきっかけと言えば、高校時代の親友本多秋五と平野謙がいる。彼らは雑誌<近代文学>を敗戦直後に創刊し、その翌年浜松に勝見を訪ねた。このときのことを藤枝静男は「平野と本多が二十一年の春に私の病院に訪ねて来たとき『小説を書いてみないか』と勧めてくれた」と書いている。
 以上のような経緯はあるが、多くの人が認めるように医者であったことが決定的だと考えるとき、医者への道を開けた千葉医科大学の卒業証書こそ、作家藤枝静男の起点であると言えるのではないか。
 『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞を受賞したとき、六十八歳の藤枝静男は書いている。
 「医学というのは目前に証拠があっての学問であるから、何年か常接していると、人間という物質に対する認識の確実な部分だけは植えつけられる。私もこの辺から少しメドが立ってきたように思う。医者になって生ま身の病人をあつかうようになるにつれて、私はズルくもなったが人間の隠された心理を漠然とさとり、それが私自身の自縄自縛の恥辱感を寛解する作用を演じ、私を進歩させたと思うのである。つまりやや人間や自分がわかってきたという感を持ったのである」。
 また五十四歳のとき、随筆「日曜小説家」を藤枝静男は書いている。
 「僕が毎日一生懸命に患者を診察し十分な生活をしていると全く同様に、小説家が生活のために多量の仕事をして当然受くべき報酬を受け更にその一部をさいて別荘を建てようと自動車を買おうと何の不思議もない。人間の権利である。─ただこういうことはある。昔の文士は頑迷な固定観念のようなものがあってヤッツケ仕事、つまり画家の売り絵みたいな作品は書かなかったけれど、今の文士は僕が患者を数でこなすように、毎月沢山のいい小説と悪い小説を書く。そこで僕はここに僕らのような日曜作家にも存在すべき理由が出て来たと考えるのである。僕は、活計のために書く必要はないのだから、真面目な小説だけを書く。書く義務があると思う。どうせ趣味でやっているのだから、せめて態度だけは真面目に、内心の要求だけに従った小説を書く。僕のような素人作家が救われる道は他にないだろうと思うのである」。
 藤枝静男を素人作家とは誰もが思っていない。だがことによったら、藤枝静男自身は本気でそう考えていたかも知れない。医者との二足のわらじを承知して、「素人」の強みで書きたいものだけを書き続けた。『藤枝静男著作集』パンフレットに著者の言葉として、「書き捨てみたいなことは一度もやったことがないから読む人をダマすことはないと思っている」と、当たり前のように平然と書くのはその確信からである。
 しかし二足のわらじを簡単に履けるはずはない。本多、平野に勧められて小説を書き始めた三十八歳、藤枝静男を名乗る一年前、勝見次郎の本多秋五への手紙がある。 
 「僕なんか日常生活オンリーの観がある故、こんな時参って了ふ。(妻の)喀血、ヒステリー、これが全部僕にかぶさって来る。老人達は正倉院見物に奈良あたりへ出かけて了ふ。一人で患者を見、会計をし、客を応対し、子供の宿題、御伽話、薬の調合等々」「家政婦は頻々かはる。その度に長距離電話で交渉する」「僕は何時の間にこうなったんだろう」。
 つい泣き言を書き連ねてしまうようななかで、勝見次郎は懸命に働き書いた。二足のわらじを履き続けた。そのことが勝見次郎を鍛え、作家藤枝静男の基盤をつくりあげた。

 いま、藤枝静男に関わる本が次々と刊行されている。没後二十一年、藤枝静男はますます旬である。


<参考文献>

 ある日曜日、することがないので医局に出て新聞を読んでいると、先生が現れて「三里塚へ写生に行こう」。「ええ」と答えたが、一人じゃたまらんと思った。「長山さんを連れて行きましょう」と云うと早速賛成されたので恒さんを拝んでひっぱりだした。当時恒さんは優秀写真機を買い込んだばかりで之に「おさだ号」(つまり医局第一等)と命名し頻りに愛玩して居られた。われわれ一行は、先生と僕は写生道具、恒さんは「おさだ号」を肩にかけて出発した。駅に着くと先生からガマ口を渡されたので官費という意味に解して三人分の切符を買って保管した。
 三里塚の牧場は芝生と森だけの平坦な風景であるから、どういうふうにどこを描けばいいのかさっぱりわからない。さんざん歩き廻った挙句、芝生の向こうに森があって雲が浮かんでいる絵と、樹立の幹が沢山並んでいる絵とをスケッチ板に描いて、入口の茶店で一休みして官費のラムネを飲んだ。それから先生の居られそうなところを捜して行くと、大分奥の方に例の肩幅の広い後姿がみつかった。ゆるい芝の斜面の下の方にプラタナスの大木が立っていて、その向こうに藁葺きのまぐさ小屋がある。「先生」というと振り向いて、例の非常に機嫌のいい時に限ってするニコニコ顔をされた。「何だ二つか。僕はもう四枚目だ」。それから「どら、見せ給え。うん、なかなか面白いね。しかしここのところは」と御得意の遠近法から批評がはじまったが僕の不得手とするところがその遠近法であったから忽ち先生の好餌になってしまった。結局「概していい」という奨励賞で終り。先生は再び画面に向かわれ、僕は二間ばかり離れた草の上に寝転んで目を閉じていた。三十分くらいたったかもしれない。少しウトウトして居た僕の耳に先生の低音の歌声が入ってきた。
 「私のラバさん酋長の娘」と歌っている。「いいろは黒いが南洋じゃ美人」とやっている。それから「テクテーク踊るう」で又はじめへ戻って「私のラバさん」と何度でもやって居るには驚いた。
 しばらくして起き上がって遠くから覗くと、このリズムに乗って先生の絵は終りに近づき、最後に小屋の入口のところに得意の点景人物が描き入れられて完成した。人物が入ると画面の遠近がいっそう鮮やかになって引きしまったのには感服した。
 長山さんは入口の小公園のブロンズの立像の後ろで私達を待っていた。先生の主唱で私達は四街道で小さな食堂に入った。それは外見と内部の貧相なところは確かに食堂に違いなかったけれど、営業状態は明らかに農村青年或は兵隊向きのカフェであった。その証拠には、私達が座ると忽ち三人ばかりの白粉を塗った女給が奥から出てきた、中の一人は素早く先生の横に貼りついた。私と恒さんは向合ったシートにかしこまっていた。今思い出して見るからに可笑しいのだが、その時私は本当にどうしようかと思った。案の定先生はまずい顔をしていたが、女給が「御注文はなあに」と云うと「注文か」と恐ろしい顔をした。「君達何にする。サイダーがいい。サイダーにしたまえ」と忽ち教室の先生に戻ってしまった。早々に外へ飛び出した時、「君チップをやらなかったじゃないか」と問われたのはしかし案外であった。私は腹の中で「誰があんなオカメにチップなんかやる人がありますか」と思ったが勿論黙っていた。しかし先生は女給とはチップをやるものなりと考えて居られることがわかった。
 私は昭和七年に入学したが、その前に二回入学試験に落とされていたから、いよいよ入ったときは「この野郎」という気が強かった。勿論入ったからには遊ぶつもりであった。入学式にも宣誓式にも出なかった。淋しい、雑貨屋が二軒しかなかった千葉海岸の空別荘に、三年浪人四年浪人を経た一高と八高出身のボート部の先輩が七人ばかり分宿していたが、私を仲間に入れてくれたので私は彼等と毎日酒を飲んだり麻雀をやったりしていた。彼等を見ていると、私も学校へ行かなくていいのだということがよくわかった。私達は晩になると、学校へ通うはずの定期で千葉の街へ出て行って、映画の割引を見て、それから歌舞伎というおでん屋で酒を飲んで、もう電車はなくなっているから線路づたいに帰ってくるのであった。出席をとるような先生も殆どいなかった。もう時効になっているから申しますが、私は加賀谷教授と、松村教授と生理の鈴木教授には試験の時はじめて(教室で)お眼にかかりました。しかし他の何人かの教授を含めて、私は先生方の噂を聞いたり、自分でその散歩姿などを見て、心の中で尊敬していた。革の鞄の中へステトなんか入れて、一人前の医者面をして、毎日出席している連中を見ると、「貴様等なんかより俺のほうが余っ程ああいう先生を尊敬しているんだ」と理不尽に考えた。学校は卒業さえすればいい、医者になるのはそれからだと思っていた。今考えて見ても、実に生意気な、ブン殴ってやりたいような学生で私はあった。私はその頃自分の一人ぎめで「自分は自分の心の要求に忠実であればいい」と思い込んでいた。そして学校以外の本ばかり読んでいた。当時校内に左翼の組織があったけれど、私はその人達の人間や、やる事が嫌いであったから無関係であった。ところがえらそうなことを云っている癖に無定見な私は、彼等の一人から獄中にいる徳田球一の家族が困窮していて可哀想だからということを訴えられて小額の金を渡した。そして彼等といっしょに
或る朝手錠をはめられて警察に連れて行かれ、刑事に向かって笑顔をしないという理由で人並み以上の拷問を受け、五十日ばかり留置場にぶち込まれ、無期停学となった。
 多分私が停学になっても謹慎せず、神社に参拝もせず、あい変わらず酒を飲んでいるということが警察から学校に伝わり、先生はその噂を人から聞かれたのだと思う。同級の星野が或る日私に「先生が心配しているから静修会に出ろよ」と云った。
 嘘を云っても仕方がないから書くが、最初入学した頃私に出席をすすめた男が「県人会に出ると、先生は勢力がある人だから得だ」と云った。これですっかり反感を持った。一度も出なかった。先生に一度も会わず、会員の大部分を知らないでただ反抗の姿勢に酔っている無責任な怠け学生が私だった。その昂然たるはずの私が「せっかく心配してくれているなら」などと、自分の打算的な心底をジャスティファイしてのこのこ静修会に出て行った。こういう卑劣な男を殴らなければ、他に殴るやつは見つからないだろう。
 静修会は幸いに不愉快でも愉快でもなかった。三輪清三さんとか鈴木宣民君とか鈴木次郎君とか、それから星野と相磯平嘉とか、皆いい人であった。私はなるべく隅の方に居て先生と顔を合わさないくふうばかりしていた。有難いことに、先生の方も、特別私に注目される様子は全くなかった。
 四年の終りに近づいた時、私は困った。それは、私が父の勧めで、殆ど高等学校時代から将来眼科の医者になるときめていたのに眼科の先生が伊東先生であったからだ。これまで意識的に、当然先生の反感を買ってもいい程度に知らん顔をしていて、それから停学になったからと云って急にオベッカを使って先生主催の県人会に顔を出しておいて、さて卒業しますから先生の弟子にして下さい、面倒みてください、などと云う鉄面皮な男は千人に一人もいないであろう。現に教授会の決定で医局員の河野さんは教室を出て郷里に帰ったままになって居られたし、他の教室であの事件に関係した人は一人として旧職に戻ったものはなかった。いわんや、学生の身で、しかも自分に楯ついた男を誰が弟子にするものか。その頃の日本は、そういう面倒をみるというだけで、教授自身が特高警察から色眼でみられるという御時世であったのだ。おまけにこの年は卒業生の眼科志望が実に七人もあったのだ。そしてもう一つおまけに、私は落第生で他の諸君のように免状を貰うあては全然なかったのである。
 私は困った。散々考えた。しかし私は眼科の医者には絶対なるつもりだったし、また他の病院で勉強することなんか想像したこともなかった。「ええっ、やって見ろ」と思った。
 ある日の昼食の後で、私は教官食堂に上がって行って、「先生の弟子にしてください」と云った。そこには沢山の教授方が食事して居た。先生は黙って席を立ってバルコニー(あの木造の旧病院正面のバルコニーだ)に出て行かれた。柵によりかかってこっちを向いて「フーン」と云ってニヤニヤ笑った。それから「君眼科をやるのはいいけれど、第一僕の試験をサボったじゃないか。まだ受けてないじゃないか」と云った。黙っていると「医者になってないなら、学生の見学で教室へ来るのならかまわないじゃないか」と云った。
 この時は実に嬉しかった。夜が明けたという言葉を実感として味わった。
 私は他の七人の諸君と全く同等にあつかわれ、入院や再来のネーベンにつけられ、手術の指導を先輩からうけた。そしてまた同様に私の名札は先生の手で眼の前で書かれて今もある通りの位置に医局の壁上にかけられた。河野さんの名札も取り除かれることなくキチンとかかっていた。一学期たつと先生は私を呼んで「眼科の試験だ」とメモを渡され、「できたら僕の机の上に置いときたまえ。図書館で答案を書きたまえ」と出て行かれた。メモには鉛筆で「春季カタルとトラコーマの鑑別診断」と書かれてあった。
 私は先生御夫妻の媒酌で妻をもらった。赤のレッテルを貼られた者として第一番に教室員になった。この時の教授会に於ける先生の強硬な主張を後で人から聞いた。ごく自然に「先生」という言葉が頭に浮かぶ時それは私にとって伊東先生を指すようになっていた。何時のまにかそうなった。或る時、或る人を、私もその人を尊敬しているような人を、まわりの人が「先生、先生」と呼ぶ。私は「─さん」と云いたいのだけれど、しかし私だけが、親しくもないその人を「さん」づけにはできない。私は結局その人に話かけることなしに終わってしまうことがある。医者仲間に「勝見先生」などと云われると「俺は君の先生じゃあない。俺にだって、君にだって先生は一人しかいないだろう」と腹の中で思ったりするのである。

(編者注) 
本書は千葉大学医学部眼科教室伊東弥恵治先生記念出版編集委員会による発行。伊東弥恵治は日本眼科学界の泰斗であり、その人物とあいまって伊東の下で研鑽を積むことができた勝見次郎(藤枝静男)は幸せであったといえよう。勝見次郎の論文の表紙には全て、指導者として伊東教授の名がある。また智世子夫人との結婚も伊東の媒酌である。なお、伊東の画技は素人の域を超えていた。藤枝に随筆「先生」がある。


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