勝見次郎(藤枝静男)の千葉医科大学の卒業証書がある。日付は昭和十一年七月十一日。
この異例の証書を勝見次郎が手にすることが出来たのには、伊東弥恵治教授の配慮があった。この経緯と伊東先生への思いを、勝見次郎は「酋長の娘」で書いている。
作家藤枝静男を俯瞰するとき、この卒業証書の持つ意味は大きい。
作家としての片鱗なら、勝見次郎は旧制第八高等学校の<校友會雑誌>、千葉医科大学の文芸部誌<大学文化>に小説「兄の病気」と「思ひ出」、そして随筆を何篇か発表している。わかったのは没後だが、作家は突然生まれるはずはなく予想されたことであった。
本格的に書き始めたきっかけと言えば、高校時代の親友本多秋五と平野謙がいる。彼らは雑誌<近代文学>を敗戦直後に創刊し、その翌年浜松に勝見を訪ねた。このときのことを藤枝静男は「平野と本多が二十一年の春に私の病院に訪ねて来たとき『小説を書いてみないか』と勧めてくれた」と書いている。
以上のような経緯はあるが、多くの人が認めるように医者であったことが決定的だと考えるとき、医者への道を開けた千葉医科大学の卒業証書こそ、作家藤枝静男の起点であると言えるのではないか。
『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞を受賞したとき、六十八歳の藤枝静男は書いている。
「医学というのは目前に証拠があっての学問であるから、何年か常接していると、人間という物質に対する認識の確実な部分だけは植えつけられる。私もこの辺から少しメドが立ってきたように思う。医者になって生ま身の病人をあつかうようになるにつれて、私はズルくもなったが人間の隠された心理を漠然とさとり、それが私自身の自縄自縛の恥辱感を寛解する作用を演じ、私を進歩させたと思うのである。つまりやや人間や自分がわかってきたという感を持ったのである」。
また五十四歳のとき、随筆「日曜小説家」を藤枝静男は書いている。
「僕が毎日一生懸命に患者を診察し十分な生活をしていると全く同様に、小説家が生活のために多量の仕事をして当然受くべき報酬を受け更にその一部をさいて別荘を建てようと自動車を買おうと何の不思議もない。人間の権利である。─ただこういうことはある。昔の文士は頑迷な固定観念のようなものがあってヤッツケ仕事、つまり画家の売り絵みたいな作品は書かなかったけれど、今の文士は僕が患者を数でこなすように、毎月沢山のいい小説と悪い小説を書く。そこで僕はここに僕らのような日曜作家にも存在すべき理由が出て来たと考えるのである。僕は、活計のために書く必要はないのだから、真面目な小説だけを書く。書く義務があると思う。どうせ趣味でやっているのだから、せめて態度だけは真面目に、内心の要求だけに従った小説を書く。僕のような素人作家が救われる道は他にないだろうと思うのである」。
藤枝静男を素人作家とは誰もが思っていない。だがことによったら、藤枝静男自身は本気でそう考えていたかも知れない。医者との二足のわらじを承知して、「素人」の強みで書きたいものだけを書き続けた。『藤枝静男著作集』パンフレットに著者の言葉として、「書き捨てみたいなことは一度もやったことがないから読む人をダマすことはないと思っている」と、当たり前のように平然と書くのはその確信からである。
しかし二足のわらじを簡単に履けるはずはない。本多、平野に勧められて小説を書き始めた三十八歳、藤枝静男を名乗る一年前、勝見次郎の本多秋五への手紙がある。
「僕なんか日常生活オンリーの観がある故、こんな時参って了ふ。(妻の)喀血、ヒステリー、これが全部僕にかぶさって来る。老人達は正倉院見物に奈良あたりへ出かけて了ふ。一人で患者を見、会計をし、客を応対し、子供の宿題、御伽話、薬の調合等々」「家政婦は頻々かはる。その度に長距離電話で交渉する」「僕は何時の間にこうなったんだろう」。
つい泣き言を書き連ねてしまうようななかで、勝見次郎は懸命に働き書いた。二足のわらじを履き続けた。そのことが勝見次郎を鍛え、作家藤枝静男の基盤をつくりあげた。
いま、藤枝静男に関わる本が次々と刊行されている。没後二十一年、藤枝静男はますます旬である。
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