(「あれこれ藤枝静男・ 10 」藤枝文学舎ニュース第 38 号/ 2001 年 10 月)


  藤枝静男の自筆年譜は、昭和八年をつぎのように記す。

 「六月、学内モップルに一回応じて金を出したことがバレて検挙され、千葉警察署に五十余日拘留され、起訴猶予、無期停学処分を受けた。結核発病したが約一年で治癒した」。

 この検挙の六月、父鎮吉から勝見次郎(藤枝静男)への手紙がある。

 前略益々御壮健ト存候 六月分恒例の学資

 一金四拾円也 遠州銀行支店振出シ小切手ニテ

  右在中ノ通リ御受取アリタシ

 何日頃休暇ニテ御帰省アルヤ御報アリタシ

 一同元気  父ヨリ

   次郎殿

 日付は六月二十六日である。まだこの時、息子の異変は父には届いていなかったのである。息子次郎の帰省を鎮吉は楽しみにしている。

 鎮吉の次の手紙は八月三日にとぶ。「八月二日封書二通着、御申込ノ通リ」として、部屋代十円、借入金返済用十六円、入院料廿四日分・食料十三日分共四拾八円十銭、旅費五円九十銭、合計八十円を送金している。鎮吉は封書を次郎から受け取ると、直ちに送金したのであった。残された複写式便箋を見ると、鎮吉は途中まで書いて別紙に書き直している。また字も乱れている。

 次郎は釈放されてすぐ父に手紙を出したと思われる。釈放は七月末か八月初めということになろう。入院料廿四日分とあるのがいささか不可解である。年譜に結核発病とはあるが、入院については随筆等でもふれていない。

 なお小説「或る年の冬 或る年の夏」の主人公寺沢は、昭和六年七月上旬の早朝逮捕、九月中旬のある朝釈放となっており、勝見次郎の実際とは違う。また小説では、父が釈放された寺沢を出迎える場面があるが、残された手紙にはその間の記述はない。

 恒例の送金がこのあとまた続く。九月二十五日、生活費四十円と衣類、薬が次郎に送られている。その直後の九月二十八日には、授業料第二期分四十円、同学友会費五円、計四十五円の大学への納入がある。懸命の送金であったろう。次郎は鎮吉にとり、守らねばならない大事な息子であった。十月と十一月の手紙がある。

 前略

 一金四拾円 十月食十一月舎十一月日用品

 右現金ニ封入候御受領アレ

 尚メリヤス一具同封(適当ナモノ見当ラサルヲ承知アレ)

 学校ノコト苦労ニナリマスカラ様子細大トナリ御通知アレ

 袷モコシラエテアリマスガ次ニ送ルカ

 年末ノキタ折渡スカ何レ必要アレバ直ニ送ッテモヨイ

   十月廿五日

     次郎殿

 前略在中通現金ニテ御送付致候

 金四拾円 十一月食十二月舎及日用品代トシテ

 宣夫ハ懸命ニ勉強シテ居マス 一同元気デス

 解禁ノ問題ハ其後立消デスカ

 好転ハシマセヌカ

 第三学期モアト一ヶ月デス公然タル通学ノ許可ヲ待兼マス

 毎日此話題デ持切リデス

 最軽ノ仲間ノ都志見君ニ君ハドウナッテ居マスカ

 風ヲ引カヌ様身体ニ注意カ第一デス

 兎ニ角様子ヲ知ラセテ下サイ

   十一月廿五日

     次郎殿

 宣夫とは「父の手紙・一」でもふれたように弟宣のことである。「細大トナリ御通知アレ」、「兎ニ角様子ヲ知ラセテ下サイ」。次郎の連絡を待ち切れない父の気持ちが伝わってくる。停学処分解除を、本人以上に心待ちにしている父であった。

 無期停学処分がいつ解除されたかは判らない。勝見次郎の千葉医科大学卒業証書の日付は、四ヶ月遅れの昭和十一年七月十一日となっている。そのことから停学期間を想像するしかない。

 十一月二十五日の手紙のあと、複写式便箋の控えは昭和九年一月十八日にとぶ。そこでは弟宣の受験のことだけが話題である。一月には次郎の停学処分は解除されていたということであろう。父の一難は去ったのである。そして父鎮吉の関心はしばらく宣に向かう。次郎への文面も、受験で上京する宣の出迎えや宿舎の斡旋の依頼である。

 弟宣は四月、東京医学専門学校に入学する。早速四月五日には入学金十円と校友会入会金五円、計十五円が東京医専に振り込まれている。毎月次郎へ四十円、宣へは三十五円の仕送り。そして授業料。父に休む暇はなかった。

 昭和九年五月二十一日鎮吉の宣への手紙。送金の記述に続けて「(略)当方一同元気、秋夫ハ蜂ヲ専門ニ世話シテ居リマス 第一回ノ蜂蜜ヲ採取シマシタ(略)蓮花寺池ニハ前通ト右側通ヘ夜燈篭カ連置サレテ綺麗テス ボートモ五隻カケ舟モ一隻常置サレテ遊覧者ノ便ニ供セラレテ居リマス 藤枝公会堂カ小学校側ヘ目下建設中テス」。

 同月二十五日鎮吉の次郎への手紙。送金の記述に続けて「(略)一同元気 秋夫益々良好(略)菊子殆ト健康時代ト変ラサル状態ナリ 時候柄益々自愛自重ヲ望ム」。

 秋夫は兄秋雄、菊子は妹きくである。結核で自宅療養中の二人も小康を得て、勝見家にもようやく穏やかな日が訪れる。しかし、長くは続かない。

 昭和十年五月、鎮吉は脳溢血で倒れ以後寝たきりとなる。残っている次郎宛の鎮吉の手紙は、倒れるまえの二月二十二日が最後である。送金の記述に続けて「尚大切ナル四学年モ近々ノ事故醫学以外ノ研究ヤラ交際ハ慎ミ方向ヲアヤマラヌ様醫学勉励ニ専心向上シ卒業ニ向ッテ一心集中ノコト希望ニ不堪候」。

 そしてさらに括弧して書き添える。(是ハ毎日仏前礼拝ノ折必ス祈念シツツアル吾勤行ヲ思ヒ常ニ心中ニ置カレタシ)。




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