藤枝静男の父勝見鎮吉が勝見次郎(藤枝静男)に宛てた手紙がある。複写式便箋であったため、控えが父の手元に残されていた。殆どが送金の知らせだが、書き添えに鎮吉の人柄をみることができる。
昭和七年十月廿五日 父ヨリ
一金四拾円 十月食ヒ 十一月舎ヒ 十一月日用品
右御請取アレ
右ノ他肝乳一瓶封入滋養トシテ御用アレ
感冒ハ大敵ナリ専ラ胃腸ノ強健皮膚ノ強健ヲ第一トス
以テ万病ノ因トナル感冒ニ絶大ノ抗抵力ヲ持続スル心得第一也
○襦袢一枚 絣袷一枚 同封
宣夫ハ不断ノ努力ヲ続ケテ居マス
時々激励ト慰籍ノ言葉ヲ与エテ下サイ
彰夫菊子共元気也
次郎どの
昭和七年といえば、藤枝静男が浪人生活二年を経て千葉医科大学にようやく入学した年である。宣夫とは弟宣であり、医学の道に志望を決めてこの時機受験勉強に励んでいた.彰夫、菊子とは、自宅で結核の療養を続けていた兄秋雄と妹きくである。
風邪についての言及は、単なる時候の挨拶ではない。結核にとりつかれた一家の戸主として、それは切実な忠告であった。「時々激励ト慰籍ノ言葉ヲ与エテ下サイ」のくだりでは、藤枝の作品「一枚の油絵」の次の一節を連想する。
「弟は、感情の激しやすい私とちがって、生まれつき柔和な性質であった。そして私の云うことを死ぬまでよくきいてくれた。しかしそんな追憶は、勿論どれも私ひとりだけの感傷にすぎない」。
次郎(藤枝静男)は、父の言いつけに従ってよき兄であっただろうか。
末尾の「彰夫菊子共元気也」の八字には、子供たちの闘病生活に気が休まることのなかった父の思いがある。
冒頭の下宿代生活費月額四十円は、毎月決まって二十五日に送金が続けられた。当然のこととはいえ、金銭に対して鎮吉は厳格であった。大学宛の授業料納入書では、三銭切手を同封し大学から父親宛に領収書を送ってもらうよう手配している。また先の下宿代生活費四十円の送金に当たっても、「安心ノ為入手次第御一報アレ」と息子のきちんとした対応を促す手紙もある。
またこれより前、妹きくが療養所生活から自宅療養にかわる。退院の手続きを次郎に手紙で頼んでいるが、いろいろな場合を想定しての金銭の指示はなかなか細かい。後になるが、東京医専に入学した弟宣への鎮吉の手紙がある。そこでは下宿代を家主とどう交渉するか助言している。
昭和七年九月二十五日の手紙は、宣の進路に関して次郎に書き送ったものだが、次のように結んでいる。
「四ケ年テハ学資供給困難トハ存ゼルモ當人モ真剣ニナッテ居リマスカラ我等モ懸命ニ努力スル積リテス」
小さな町である。家業の薬局の経営に余裕があったとは思われない。二人の病人をかかえ、次郎に仕送りをし、加えて宣の学資捻出は大変だったに違いない。また身一つで薬局を興した鎮吉にとって、お金の有り難みは人一倍自覚していたろう。先にもふれたがお金のことでは細かい。かといって、息子のために出し惜しみはしない。昭和九年四月二十一日の手紙がある。
一金五円封入 右御受取アレ
預リ分四五、五〇ハ四月食五月ヘヤ日学代ニ用ヒラレタシ
差四、五〇ニ今日ノ送金五円ヲ加ヘテ宣夫ニ時計求オリ支出セラレタ分
及靴ヲ盗マレタ(宣夫カラ聞イタ)金ノ補充トセラレヨ
靴ハ求メラレヨ
宣夫モ漸ク学校ニ慣レ来ルマテ時々
寄宿生活ノコトヤ勉強ノコトヲモ注意ヲ与ヘテ下サイ
一同元気如常
次郎殿
靴を盗まれたことを次郎は隠していたか。宣からその話を聞いた父鎮吉は「靴ハ求メラレヨ」と金を送るのである。
鎮吉の手紙を読みながら、母ぬいのことを思った。夫と力を合わせて薬局経営に当たっていたであろうし、息子たちの心配もしていたはずである。しかし見る限り、鎮吉は息子たちの母について一言も触れていない。かわって自らが母親のような細やかな気遣いを見せている。
当時の父親たちは、自分が全てを引き受けて子供の教育に当たる気組みであったのか。それとも鎮吉に限ってのことなのか。ともあれ、息子次郎にとって、父の存在は大きかった。
「一家団欒」の主人公章は、湖を渡り松林を過ぎ墓にたどり着くと、墓の中で父の膝にしがみつく。
─僕はこれくらい当たり前だよ」
と答えたが、急に胸が迫ってきて
「父ちゃん、僕は父ちゃんに悪いことばかりして、悪かったやあ」
と云うと同時に涙がこみあげてきて、父の膝にしがみついた。
「ええに、ええに。お前はええ子だっけによ」
父は慰めるように云って、彼の首のつけねのところから頭にかけて、ごわごわした厚い掌で撫でた。
父はしがみつく息子を母親のように慰めるのだ。
藤枝静男には母の記述が少ない。「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」に登場する母の描写は、すぐれて鮮明であるけれども。父鎮吉の手紙を読みながらそのことを思った。
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