(「藤枝静男のこと・ 14 」藤枝文学舎ニュース第 60 号/2007年4月)


 藤枝静男生誕百周年にあたって、藤枝静男がその没後、どう取り上げられてきたかをざっと眺めてみたい。生誕に没後とは変な組み合わせだが。というのも、亡くなると途端に忘れられて行く作家が多いと某氏の葉書にあったことを思い出したからである。作家藤枝静男はどうか。

 ここでは、藤枝静男が亡くなった直後の「群像」や「文學界」や「新潮」の追悼号、新聞各紙の動向は省く。我々「藤枝文学舎ニュース」のことも省く。

 一番新しい情報から話を始めよう。

 昨年十一月、青弓社から一冊の本『機械=身体のポリティーク』が出ている。これは昨年(二〇〇六年)六月にパリ大学ドフィーヌ校舎内にあるINALCO(フランス国立東洋言語文化大学)で行われたワークショップ「加工/仮構される身体 ― ロボット・女性表象・断片の政治学」参加者の報告内容を中心に編まれた本である。その4章に「『差異』の身体=機械学─藤枝静男『空気頭』論」─佐藤淳二があり、「脳内に人工的に空気を送り込んで空洞を作るという奇抜なアイディアを、いったい他の誰が考えただろうか。藤枝静男の『空気頭』は、作家の代表作であるばかりではなく、戦後日本の本質を凝縮して表現した恐るべき作品である。主人公の脳内に作られた空洞は、時代の無意味と空虚そのものであった」と書き始める。そして、その論を「『田紳有楽』におけるあらゆる地層の攪乱と組み替え、生物と無機物を横断するあらゆる領域の脱領域化と再接合という純粋生成の場は、『空気頭』で確実に描かれている。可視性の究極的な非─倫理の地点に危険を承知で滞留する『空気頭』は、間違いなく戦後日本の『事件』だったのである」と結ぶ。佐藤淳二は北海道大学助教授。

 この一月書店にブラリと寄り、「機械」「身体」の文字に私の勘が働いてこの本を手にしたわけだが、まんまと藤枝静男論に的中した。筆者が一九五四年生まれと比較的「若い」ことも嬉しかった。私のような「年輩者」だけが、藤枝静男に惹かれるわけではなさそうだ。講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』が一昨年第十五刷、同『悲しいだけ・欣求浄土』が昨年第十二冊を重ねている。藤枝静男の新しい読者は生まれ続けている。

 一昨年(二〇〇五年)一月二は、川上弘美編の恋愛小説アンソロジー『感じて。息づかいを。』(光文社)に「悲しいだけ」が収録されている。

 さて話を藤枝静男が亡くなった平成五年に戻して順次見ていきたい。

 著書としては、講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』の刊行(平成五年)。そして作品集『今ここ』の刊行(平成八年)がある。『今ここ』では『虚懐』以後の作品と、単行本に未収録であった作品がまとめられた。「浜松百撰」連載の「静男巷談」が収録されたことは、目にしにくい随筆であっただけによかった。

 藤枝静男論である。

 平成五年十一月に、小川国夫『藤枝静男と私』が刊行される。「静岡新聞」昭和四十一年十月二十日の「体験、省察、そして自己」からはじまり『藤枝静男著作集』解説を経て、書き下ろし「霧の中の藤枝さん」に至までの小川国夫の藤枝静男論を集大成した一冊である。藤枝静男研究者(勿論小川国夫研究者にとっても)必読の書である。

 平成十一年には宮内淳子『藤枝静男論─タンタルスの小説』が出る。約六年にわたって書き続けてきた藤枝静男論を纏めたものである。私はそうした宮内氏の営為をまったく知らなかったので、この一冊の出現は驚きであり、感激した。

 戻って平成五年、講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』の解説─川西政明「藤枝静男の死ののちに」。また勝呂奏が、平成六年から同十三年にかけて「風信」に連載した藤枝静男論がある。「小説家の誕生」、「『風景小説』について」、「戦争文学について」、「歴史小説・大津事件」の四編である。福井淳一は、「主潮」第二十三号(平成八年十二月)に「藤枝静男論(二)」を載せた。名和哲夫は、平成十二年から同十八年にかけて「エクチュールとしての私小説─藤枝静男というテクストから」、「藤枝静男へのデリタ的アプローチ─『空気頭』の私小説性」、「藤枝静男作品『小説』の舞台について」を書いている。さらには、「 is 」平成十二年九月号の四方田犬彦「歯とビンズル」がある。

 つぎに藤枝静男作品を推している主な記事。

 「毎日新聞」平成十年八月十九日の「この100年の文学『実験小説』」で、松浦寿輝が「田紳有楽」、ブルトン「ナジャ」、ボルヘス「伝奇集」、ピンチョン「重力の虹」、バルト「恋愛のディスクール」をベスト5に選んでいる。さらに「読売新聞」平成十二年五月八日の「名文句を読む」で川上弘美が「田紳有楽」を取り上げている。

 他にもさまざまな人たちが、随筆などで藤枝静男を魅力的に描いている。新しいところを一つあげれば、高井有一が昨年末刊行の『夢か現か』で、藤枝静男の老いていく生き様を活写している。

 没後の藤枝静男作品の収録。 

 『夏炉冬扇─中川一政』に「当てずっぽう」、『ふるさと文学館第二十六巻』に「硝酸銀」、『ちくま文学の森』に「私々小説」、「リテレール」第十五号に「盆切り」、『作家のエッセイ2』に「志賀直哉と上司海雲」、『本多秋五全集別巻一』に「わが近代文学」ほか七篇、『明平さんのいる風景』に「書評『小説渡辺華山』」、「三田文学名作選」に「二つの短篇」、講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見 10 』に「一家団欒」、『文士の意地(下)』に「盆切り」、そして最新は昨年十二月刊の『シネマの文學誌』に「映画の想い出」。

 見落としはあるだろう。駆け足で「没後の藤枝静男」を眺めてきた。そして、藤枝静男がこれからも読まれ続けて行くことを確信している。




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