(「あれこれ藤枝静男・1」藤枝文学舎ニュース 29 号/ 1999 年7月)


 藤枝静男は「平野謙断片」のなかで書いている。

 「高校時代の同級の親友で私が一年落第したので一時別のクラスとなり、三年のとき向こうが落第したので同級生になった北川静男という男があった。私の学校は成績順に前からならばせる規則があったから、最劣等生の私と落第生の北川とは最前列に文字通り机を並べたわけで、この北川が卒業まぎわに腸チフスで死んだときは、いま考えても不思議に思うくらいの苦痛を味わった。授業中など隣の空席を見ると急に悲しくなり、涙が後から後から出て机の上に溜まり、とうとう溢れて床にポタポタ落ちてもまだ止まらなかったりした。何故あんなに悲しかったか、今もってよくわからぬ」。

 筆名藤枝静男が登場したのは、処女作「路」(注・その後高校時代、大学時代の小説が発見された)が掲載された「近代文学」昭和二十二年九月号である。本名は勝見次郎。筆名をまかされた本多秋五が、出身地藤枝とこの北川静男の静男とから勝見次郎の筆名を藤枝静男とした。

 ここでいう高校とは、名古屋市にあった旧制第八高等学校である。藤枝静男と本多秋五と平野謙の終生変わらぬ友情がはぐくまれた学び舎であり、その絆のなかに北川静男もいたのであった。

 『光美眞』と題する北川静男の遺稿集がある。発刊は昭和五年十二月二十日。北川静男のノート、日記、手紙、断片と友人と親族の回想とで編集されている。勝見次郎(藤枝静男)が中心になって平野と編集にあたったことが、北川の兄寅夫の後記からうかがえる。

 回想の冒頭にある弔辞「敬愛する北川静男君」は「友人一同」となっているが、勝見が一人で書いたと勝見(藤枝)の後記にある。この弔辞は『藤枝静男著作集第五巻』に収録されている。五十年近く昔の高校時代の弔辞を、著作集に収録したところに藤枝の想いなみえる。

 いま私が手にしているのは、平成五年に北川静男の妹さんによって復刻再刊された『光美眞』である。そのことに驚かされる。『光美眞』のなかの親族の方々の追悼文を読んでも、その情の深さ細やかさに心打たれる。北川静男はこのような人々のなかで育ち、また愛される存在であったのであろう。

 「生ト云ヒ死ト云ヒソレハ或ル境カラ觀ヅレバ宇宙ニタダ忽然ト現レテ又忽然ト消エ去ッテ行ッタト云フダケニ過ギナイノデアル。サレド限リナキ天体ノ一隅ニ現レタ其ノ星ノ神秘的ナ光ハ永遠ニ其美シサヲ残シテ又姿ヲ消シ去ッテ行クノデアル」

 「×に對スル熱烈ナ愛ト自然ニ對スル火ノ様ナ研究心トガ細ヤカニトケ合ッテソコニトケタ鉄ノ様ナ赤熱ノ努力ガ生ジテ来ル。ソハ如何ナル障害モ突破シテシマフダロウ。嗚呼其ノ努力ハ全宇宙ニ花咲ク最モ美シイ永久ノ花デアロウ」

 「一体俺は性欲がさかんなのかそうでないのか一寸見當がつかない。性欲が急に興進してくると急に俺の心は雨あがりのどぶの様ににごってしまう。この濁流が俺の芸術を強く深くするような性格では俺はない。かへって弱はめられて行く」

 「オ前ハ生キテイテオ前ノ血ハ絶ヘズ動イテイル。オ前ハ男ダ今ハ生キテイル男ダ。シカモオ前ノ血ハ赤ク肉ハ新シイ。アアオ前ハ今マデ生キテイル自分ヲ今血ノ流レテイル自分ヲスッカリ忘レテイタノダ。喜ベオ前ハ今自分ハ生キテココニイルコトヲ知ッタノダ」

 北川静男の遺稿の一端である。真摯でウブとも云えるひとりの青年がいる。

 『光美眞』のなかの勝見次郎の回想「四年間」(これも著作集第五巻に収録されている)には、西郷隆盛を崇拝してその言動をなぞったり、相撲部に所属し山を愛し、ニイチェを読み、『鞍馬天狗』を愛読し、ゴッホやブレイクに感心して画集を買い求める北川の姿が描かれている。そして「何でも議論の種となった。学校でも、街を歩きながらでも、カフェでも、北川の部屋でも。夢中になって大聲をあげてどなり会って歩た」と書いている。前述の弔辞「敬愛する北川静男君」はつぎのように結ぶ。

 「君は科學の研究の為には新聞も讀まず他のことは聞かず他のことは見ないとまで書いたかく確乎たる計畫と執着とを持ち強い意志を決心しながら中途で倒れた君の心中を考えると我々は残念でならない。既に君の聲を聞き君の姿を見ることは出来ないけれども君の棺の重みは未だ我々の腕に残って居る我々は今君の前に立ちて君の意志を立派に生かすことを誓ふ」。

 この弔辞から十七年、届けられた「近代文学」に自分の筆名が藤枝静男とあるのを見て、勝見次郎が感じたものは懐かしさだけではなかっただろう。それは北川静男への誓いを思い起こすことであり、北川静男の真摯であった姿勢を引き継いでいくということであったように思う。

 昭和五十三年、平野謙の葬儀で藤枝静男はまた弔辞を読む。

 「われわれは各々の信ずるところに従って、全力を振るって休まず仕事をしてきたと思う。それぞれの意見は一致することもあったし、相違することもあったが、とにかくどんな場合でも妥協することなく、お互い同士を信用し続けてきたし、相手に対して人間不信を抱いたことは一度たりとなかった。この友情は自然であったけれど、誇りとしてよかったと思うし、またこれからも許されると信じている。みんな文学というものが全人間的なものであると心に決めてやってきた。助けを呼ぶことはしなかったけれど、助け合った」。

 このとき七十歳の藤枝静男は、北川静男とともに平野謙に語りかけていたように思う。実のところ、『藤枝静男著作集』刊行の五年前に、平野はその著書『はじめとおわり』に、北川静男の遺稿集『光美眞』に寄せた「回想・北川静男」を初期習作として収録している。そして『はじめとおわり』書評に、「その初々しさは珍重すべき」と藤枝静男は書いた。



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