(「いろいろ田紳有楽・8」藤枝文学舎ニュース 26 号/ 1998 年 10 月)


  「オム マ ニバトメ ホム」

 「ペイーッ ペイーッ」

 ププー プププー デンデン カーン

 「パーダム パーダム」

 ジャラン ジャラン ジャラジャラ

 ガーン ポラーン

 「ペイーッ ペイーッ」

 「田紳有楽 田紳有楽」

 磯碌が妙見が大黒が柿の蔕が丹波が、一斉に大声張り上げて御詠歌大合唱のこのラストは、もうこれしかないラストである。説明はいらない。これでとにかく決まりである(これに不満を呈した方もあるけれど)。とくに「ペイーッ」がいい。この「ペイーッ」は「宇宙の汚れを清める効能を持っている」と偽阿闍梨サイケンの説明にある。これは絶叫しなければ駄目なのである。

 滓見は一回目は「ポチャン」、二回目は「ピチャン」。グイ呑みと出目金C子は「スポン、プクプクプク」。チベットラマ僧は「プージャン、プージャン」「ドンドン、ジャンジャン、カンカン」。烏と犬は「ギャーギャー、ワンワン」。サイケンは酒を「チューチュー」。山村三量は太鼓を「ポンポン」。食用蛙は「ボーボー」。磯碌億山の声帯は「ギーギー」、時々骨笛を「プー」。ラマ苦行僧は気合を入れて「プゥーッ、プゥー、プゥゥーッ」。旧主を絞め殺した丹波は池に「パシャリ」。P子のあそこは「パカパカ」。A号柿の蔕は「がちゃり」とドアを閉じて便器に「シャー」。地蔵と磯碌が歩いていくと水車が「コトンコトン」。鯉が「バシャリ」。磯碌は脇腹を「ボリボリ」。丹波は襖を「コトコト」、妙見の大目高鼻螺髪鰐口を見て「カタカタ」。妙見「アハ、アハ、アハ」。落雷が「ドシン」、雹が「パラパラ」。そして妙見が「ププー、プププー」、磯碌が「デンデンデデン、ドドン」、大黒が「ジャラン、ジャラン、ポラーン、ジャラジャラ」、柿の蔕が「ガーン」、磯碌が「ペイーッ」、妙見大黒が「カンカンカン」、磯碌力をこめて「オム マ ニバトメ ホム」。そしてラストの大合唱。

 『田紳有楽』は「田紳有音」と云ってもいい。高平山の鶏が「濁った声で」啼いているとか、「轟くような」偽阿闍梨の威嚇の声とか、模型飛行機がエンジンの音を「細かく響かせ」、無人モーターボートが「乾いた爆音を絶えずふりま」くとか、「時折り通る東海道線の夜汽車の汽笛が空をわたって伝わってくる」とか、夏の庭の木々に「群がる蝉の声」とか、直の表現以外にも音の記述にはことかかない。

 『田紳有楽』の魅力のひとつは、こうした音響効果である。藤枝作品は元来視覚的であるが、見てきたように聴覚的でもあって、つまりは極めて感覚的である。あるいは譬えて云うなら、文章のリズムとあいまって『田紳有楽』は、意味は分からずとも唱えることで快感と功徳があるお経のような作品である。

 お経といえば、『田紳有楽』に度々登場する「オム マ ニバトメ ホム」。藤枝が参考にしたという西川一三著『秘境西域八年の潜行』では、「オム マニ バトメ ホム」とある。チベット仏教について書かれた本を見ると「オーム・マニ・バドメー・フーム」とか「オム・マニ・ペメ・フーム」とか表記はいろいろである。これは観音菩薩の真言である。南無阿弥陀仏を唱えることで極楽に往生できるとされるように、チベット仏教ではこの真言を唱えることで功徳を積み六道の内のよい区画に転生できるとされている。チベットの人たちが、マニ車(筒)と呼ばれるものを回している光景をテレビで見ることがある。マニ車にはこの真言が隙間なく印刷されていて、一度回すごとに一万回以上唱えたことになるという。実に簡便だが、もうグルグル回しているから本人にもその回数はわからない。

 さてオームである。岩波文庫『浄土三部経』の解説によればa・u・mの三字からなる言葉で、三字はそれぞれ発生、維持、終滅を表し、この一語で全世界が成立しまた滅びる過程を象徴しているという。

 「群像」昭和四十九年一月号に発表された「田紳有楽」は原稿にして十枚。冒頭から「私は不意に道鏡の少年時代を連想したのであった」までであるが、この十枚、まさに発生、維持、終滅を描いている。

 庭は自然界の営みの象徴である。ユーカリの花の生と死が、池の住人たちの密集的生息が、食用蛙の変身が記述される。遍照寺は人の営みの一断面である。生(妊婦)と死(村松梢風)が端的に記述される。生まれ成長変身し衰弱あるいは病を得て、すべては結局死滅する。

 古代世界では言葉・音声に魔力があると信じられていた。それを今に復活させる気はないが、精神感情界における音声の持つ力を認識する必要はありそうだ。藤枝静男は『凶徒津田三蔵』のあとがきで、「或るリズムをもって音読できないような文章は小説ではない」と言い切っている。




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