藤枝静男は随筆「賞とわたし」で、小説集『空気頭』を出版したときのことを書いている。
「むかし『空気頭』を出したとき、先輩友人たちが東京会館(注・正しくは新橋の第一ホテル)で記念パーティーを催してくれ、野間さんも応援出席してくれたので、私は『私の本は売れないことを知っていますから今度から部数を減らしてください』と頼んだ。すると笑って『私の社では初版あれ以下は出さないことになっているのだから─最低ですから』と云って『ほかの本で儲けているから気にしないでください』と慰められた」。野間さんとは野間省一、講談社社長である。
藤枝静男はまた『藤枝静男著作集』(講談社・昭和五十一年〜五十二年)のあとがき「著作集を終えて」で「それまで二十数年間に出してもらった単行本、小説集十冊と随筆集三冊の初版各三千部そこそこの大部分が、売れ残ったあげくに絶版になっているのも作者としては心残りの感がなくもなかったのである」と書く。
藤枝の著書に重版が一つもなかったとも受け取れる口ぶりだが、それは正しくない。
私の手元に『空気頭』『或る年の冬 或る年の夏』『欣求浄土』『愛国者たち』の第二刷がある。『藤枝静男著作集』以前の藤枝の著書が、初版で全部打ち切られていたわけではない。
最近になって昭和五十二年刊の『欣求浄土』第三刷を見つけた。初版は昭和四十五年で、そのしぶとさに感心する。
『藤枝静男著作集』の二年前に、筑摩書房から『藤枝静男作品集』が刊行されている。この書評を安原顯は対話形式でつぎのように書く。
「A あれはいい企画だね。藤枝氏の初期の単行本は現在ほとんど絶版で買いたくても買えなかったし、また時々古本屋なんかで見かけても一冊四、五千円はしていたもんな。それが処女出版の『犬の血』から『ヤゴの分際』『壜の中の水』『空気頭』といった中・短篇集が四冊分入っていて三九〇〇円というんだから、今まで読みたくても読めなかった人にとっては、これはお買い得だよね」
「B ぼくは藤枝氏の小説をはじめて読んだのは、初め『群像』に載って後で単行本になった『空気頭』だな。これを読んだときの衝撃はいまでもはっきり覚えているよ。それから初期のものを全部読んだわけなんだけど、それにしても文芸春秋社や講談社が今までどうして再版しなかったのか全く理解できないね。紙の無駄としかいいようのない吹けば飛ぶようなヘナチョコの青二才の小説集はやたらと出すくせに」(「レコード芸術」昭和四十九年五月号)。
安原の言葉に私は全く同感する。
『藤枝静男著作集』の後になるが、『田紳有楽』と『悲しいだけ』は売れた。『田紳有楽』は昭和五十一年に第一刷が出て、昭和五十四年に第六刷が出ている。『悲しいだけ』は昭和五十四年二月に第一刷が出て、同年十二月には第五刷が出ている。
谷崎潤一郎賞、野間賞を受賞したこの二冊を、有力新聞や読書新聞はこぞって取り上げた。例えば朝日新聞の『田紳有楽』評(昭和五十一年七月五日)。
「おそらく藤枝氏は、現在もっとも脂がのった作家活動をしているひとりだが、この新作小説はその証しともいうべきものだろう。二百枚そこそこの短い作品だが、この作者独特の無駄のない勁い文体はと奔放な空想力によって、読者を存分に楽しませてくれる力作である」。
六十八歳の藤枝静男は、旬の作家として世間の耳目を集めていた。本も売れたのであった。藤枝静男は売れない作家であると認識している人がいたら、いや存外そうでもないといってやりたい。
それはとりわけ、『藤枝静男著作集』に重版があったことを知ったからである。初版は昭和五十一年だが、昭和五十五年に第三刷が出ていた。年月をかけじわじわ売れていたことがわかる。『著作集』の重版を全く予想していなかった筆者は、己の不明を恥じた。このことを教えてくれたE氏も同様であったように思う。
二〇〇二年刊の拙著『藤枝静男─年譜・著作年表・参考文献』を評論家の皆さんにお送りしたとき、各氏からすぐに丁寧な礼状をいただいた。
その反応のよさや、そのお一人桶谷秀昭氏の「いろいろなことを思い出し、わが身の餘命を想ひ、淋しく奮い立つ感を抱きました。一度も失望したことのない本物の文士でした」、また同じく勝又浩氏の「藤枝静男ファンの一人として心から敬意を表します」といった言葉には、藤枝静男の仕事への強い共感と親しみがある。このことは評論家諸氏に限るまい。現在、講談社文芸文庫の『田紳有楽・空気頭』、『悲しいだけ・欣求浄土』は着実に版を重ねている。藤枝静男作品には、新しい読者を生み出さずにはいられない力がある。
重版の正確なところは「群像」編集部に教えていただいた。その礼状に、講談社文芸文庫に『藤枝静男随筆集』の一冊を加えて欲しいと書き添えた。筆者としては、『著作集』後の作品と新発見作品を加え書簡類も収録した『藤枝静男全集』の刊行を期待している。採算が取れると思うのだが。
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