「この夏の終わりころ二階の私の寝室のヴェランダの東端に枝を伸ばしているニセアカシアの股に巣をかけた雌雄のキジバトが、青大将のために雛を呑まれて立ち去ってしまった。私は彼ら夫婦はもう二度と私の庭に現れることはないだろうと諦めた。自然の経緯として妻も去り鳩の親子も去ったという考えに自分を導いて行くほかなかった。訴える相手はどこにもいなかった」。
「雉鳩帰る」の冒頭である。
最近になってなぜか、藤枝静男七十歳のときの作品「雉鳩帰る」が気になる。私も七十に近づいたせいか。前年発表した「悲しいだけ」は注目をあびたが、「群像」昭和五十三年四月号の「雉鳩帰る」は時評でとりあげられることもあまりなかったと思う。唯一承知しているものに、「文藝」五月号に掲載された田久保英夫の一頁時評がある。
田久保は見事に評している。
「藤枝氏には自身の内部に、殷の青銅器の文様さながら、奇怪で得体の知れないもの、『人間存在の悪』と言ったものへの感受性がつよくあって、その視線からは日常の平穏な生活が、『どっちつかずの』『体裁の好い』ものに見える。そのことを、心境とも告白ともどこか違う、投げ出すような直叙の語法で言い切っている。/この無造作に、メスで皮膚を裂くような語法を、いつもながら不思議に思う。この執拗な『果てへの風景』に注ぐ眼や言葉は、一種垂直な宗教的なものだが、それが何と庭のユーカリの葉や、そこに巣くう雉鳩につつましい優しさを、小さな生物の輝きを与えていることだろう。むき出しの内面性が、外の存在感を支えている稀な例がここにある」。
「雉鳩帰る」の主人公「私」は雇女から雉鳩がまた巣をつくったと知らされるが、自分では実見できぬまま四泊五日の韓国旅行に出かける。
「私」はソウルのホテルで、不意に不安のようなものにとりつかれる。そしてある出版社の月報誌表紙にあった「白毛のマリア」のことを思い出す。ヨルダンの沙漠で修行僧が全身灼け爛れて真っ黒になった白毛の老婆に会う。その女は過去の悪業を償うために自らを罰して四十七年間沙漠を彷徨している者だという。
「私」はまた鴎外全集の翻訳短篇集にある「冬の王」のことを思い出す。その男は荒涼たるデンマルク海岸の宿に作男として二十五年間住みつき、七ヶ月の長い夜の続く冬はただ一人小屋に残って沈黙のうちに過ごしている。男はかって殺人をおかし、その刑期をすぎても何かに耐え、何かを償って暮らしている。
「私」はまたテレビで見た映画のことを思い出す。痩せてボロをまとった裸足の若い女が、乾き切った荒野に穴を掘っている。堀り終わると、死んでいる父親か祖父かを引きずってきて穴にうめる。そしてどこへともなく彷徨っていく。
「私」は己を顧みて、これら苛酷な生を課して命を終わる者の姿こそ自分が当然受けるべきものだと思う。しかしその境涯に近づけない「私」は、彼等を理想の強者だと感ずる。
勝又浩は「群像」昭和五十七年四月号に「冬の王の歴史─藤枝静男論」を書いている。勝又は藤枝小説の多くの主人公たちの苛烈な自己呵責、自己裁断ぶりを指摘し、「厭離穢土」の章の言葉「腹の底から愉んだことは一度もなかった」を引用する。「雉鳩帰る」の「私」もまた自責することをやめない。
藤枝静男は「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」で、末尾に画家曾宮一念の詩「火葬小屋」(曾宮一念随筆集『泥鰌のわた』所収)を突如引用して読者の一人富士正晴を面食らわせた(『小感軽談』書評)。時雨に慌てて駆け込むと、そこは火葬小屋、火葬されるにはまだ早い、といった内容の詩である。
「雉鳩帰る」はその三年後、今度は自作の詩を末尾に書く。
釈迦曰く
愛欲を去り、犀角の如く
ただ一人歩めかしと
汝の命如何に終わるとも
流砂のマリアの如く
荒野に住む孤児の如く
はたまた冬の王の如く
自らを罰し
歩めかし汝
「私」は老いてなお自らを罰し続ける。この執拗な自覚が、ひるがえって「私」に小さなものたちを見つめさせる。
このことでは、藤枝静男がブリジストン美術館にあるセザンヌの二十×十八センチの小品「静物(鉢と牛乳入れ)」を愛したことを思い出す。藤枝は「この画の美しさは何と形容したらいいか」「やさしく柔くナイーヴな心情がこの貧しい画材に泉のように流露している」と書く(「私の好きな絵」)。
田久保が言う藤枝静男の「『人間存在の悪』と言ったものへの感受性」、それは主人公たちの「自己呵責、自己裁断」となって作品化されるのだが、そうであるからこそ可憐なもの、美しいものに強く反応する。それが藤枝静男の精神の回路である。
なお文中の「白毛のマリア」が表紙になっていたある出版社の月報誌とは、岩波書店の「図書」昭和五十二年十一月号である。
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