前号で藤枝静男の原稿を掲載誌不明として紹介した。原稿に「百撰用」と朱筆されているが、「浜松百撰」のバックナンバーに何回当たっても見つけることができなかったからである。再度その原稿を紹介する。
生き生きとした文章を
いやなおもいをする、いやなめにあう、何かに疑問を持つ→そのことについていろいろ考える→やっぱり自分の考えが浅かったのだと反省する。そういう形式の文章が多すぎると思った。これは中国から日本に伝えられた模範的伝統的形で、リズミカルに整っているから滑らかで美しいが、かんじんの中味が生き生きと描かれていなければ人間としてはつまらない。形などどうでもいいから、動きまわっている人間、つまりあなた自身の裸を書いてください。あんまり早く、手軽に、模範生にならないでください。反省は勿論すべきです。しかしとことんまでやってください。それを丸出しにしてみせてください」。
これが選評であることはうかがえるが、<浜松百撰>主催の「百撰文芸賞」の選者は第一回(昭和五十一年)からずっと吉田知子である。だから原稿に「百撰用」とあっても、これは「百撰文芸賞」の選評ではない。どうもそこのところがわからなかった。
知人の個展が浜松の画廊であり、そのオープニングに顔を出すことにした。昨年九月初旬のことである。再度「浜松百撰」を調べる気になり、早めに浜松に着くと市立図書館へ向かった。
「浜松百撰」のバックナンバーに当たるのはもう何回目になるだろう。当たり尽くしたつもりでも、ものごとに完全はない。そして実際、その日掲載号を見つけたのであった。見つけてみれば、なぜ気がつかなかったと思うばかりだ。ただそれは目次にのるようなものではなく、谷島屋書店の広告のページであった。昭和五十三年一月号である。藤枝静男の原稿は、谷島屋書店が主催したジュニア・ライター・コンクール「高校文芸」の選評であった。新発見である。
選者は藤枝静男の他に俳人の相生垣瓜人と吉田知子。地方の高校生のコンクールにしては贅沢だ。相生垣と吉田の選評に目を通すと、親切かつ真っ向勝負の藤枝静男の姿勢が浮かびあがる。
相生垣の選評。
「文章と云う物は得体の知れない怪物のように思われる。自分で書く時は先ず難しい。どのようにも書けそうで、又どのようにも書きようが無い思いもする。人の文章となると今度は評価が難しい。その視点を少し変える事によって、どのようにも見えて来て決め所に迷う。(略)応募者諸君も骨が折れたろうが、小生も骨が折れた。(略)小生の感想は一方で物足りなく思い、また一方で是でよいという気もしている。とにかく文章と云うものは難しい」。
いかにも俳人らしい。つぎは吉田の選評。
「はじめての試みであることを考慮してもなおかつ、かなり水準が低いと思いました。この頃の高校生は、このような低次元の世界に生きているのかと失望しました。(略)次回は自由な作品、個性のある作品、楽しみながら書いた作品がたくさん応募されるよう祈っています」。
これまた吉田らしく歯切れがいい。この三人に選を受けた高校生たちは、幸せであったというべきだろう。
藤枝静男の選評といえば、昭和五十六年から五十八年にかけて群像新人賞の選者を担当した。五十六年の新人賞は笙野頼子の「極楽」であった。最後の十数行は「全く無駄」と指摘しながらも、藤枝は「極楽」をつぎのように高く評価した。
「(略)作者は全力をふりしぼって書いているのである。彼の行きつくところは、結局何も描かれていないと同様の、得体のしれぬ毛ばたちと無数の引っ掻き傷で覆われた一枚の画布に過ぎなかったという結末は充分の説得力を持っている。こういう形の具体性をそなえた純観念小説は現今稀である。その意味で作者は大変苦労したろうが、また真面目な寧ろ純私小説だと思った。(略)」。
一方、翌昭和五十七年の候補作品に対しては、藤枝静男は「不愉快だ」と書く。
「今回の候補作品四篇のテーマになっている世界は全部私の識らぬ世界であり、そこで想像も及ばぬ現代若者たちが動きまわっているのだから、何も云う資格もないというのが本音である。しかし思い切って云えば『うさぎ』以外の三篇はシチュエイションも幼稚、想像力も貧困、ただ面白がらせようとしてハネ廻っている恰好が見えるだけで、自分自身の言葉というものがどこにもないし、人間もペンキ塗りのブリキ製の玩具みたいのばかり出てくるから、何だか馬鹿にされているような気がして不愉快だった(略)」。
藤枝静男は「思い切って云えば」とことわりながらも、思ったことを云わずにはいられない。藤枝静男は他人をも自分をも誤摩化すことはいやなのだ。
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