(「藤枝静男のこと・8」藤枝文学舎ニュース第 54 号/ 2005 年 10 月)


 「そのうえ私の声帯は五、六年まえから凝縮しはじめて、今では四六時中ギーギーときしみ、あたりまえの聲が出にくくなってきている。喉中鋸木声というのは鋤雲という人の形容だそうだが、まったく私の目下の声はバラックの製材所から洩れてくる音さながらと云っても云い過ぎではないのである」。

 これは藤枝静男の代表作「田紳有楽」のなかの弥勒菩薩の化身磯碌億山の述懐である。平成八年『田紳有楽事典』を試作したとき、この「鋤雲」がわからなかった。

 「田紳有楽」では、丹波焼き本名滓見白の頭上に紙が舞い落ちる場面も気になった。

 「あるとき風で舞い込んできて池に浮いた紙屑を裏から見上げると、サヴナローラという坊さんの話が印刷されている。この坊さんが『人間の一生はすべて良き死に方をするかということのために存在する』と説教したら、法王が『拙者は「生きた犬は死んだ獅子に勝る」という古いユダヤ人の言葉が気に入っている』と評したと。あれが感傷、これが真理である」。

 この部分の出所はわかった。塩野七生著『神の代理人』昭和四十七年刊に、言葉そのままに同じ話がある。藤枝静男はこの塩野の本を読んで、この話が気に入り取り入れたに違いない。

 この例からも、「鋤雲」の話には出所があると思った。しかし鋤雲だけでは手懸かりが少なすぎた。

 サヴナローラにしても、この鋤雲にしても、その出所が分かろうが分かるまいが「田紳有楽」の鑑賞になんの不都合もない。それでも気になるのが私の癖である。

 その後『瀧井孝作全集別巻』を入手して年譜に眼を通すことがあった。すると鋤雲があったのである。十五歳のところに「高山の明治元年生まれの俳人福田鋤雲を識る」とある。また二十一歳のところにも「高山の福田鋤雲、岐阜の塩谷鵜平から学資の援助を受ける」とある。瀧井と藤枝の密接な関係からこれだと思った。瀧井の作品のどこかに福田鋤雲が出て来て、「喉中鋸木声」もあるに違いないと考えた。

 瀧井の作品「俳人仲間」に福田鋤雲は頻繁に登場する。喜び勇んで読んでいったが、「喉中鋸木声」が出てこない。瀧井の他の作品にも眼を通したがない。福田鋤雲に自著があり、その中にあるかも知れない。しかしそれを探すあてもなく「鋤雲」探索は諦めた。

 つい最近、古本屋で中野重治『本とつきあう法』を立ち読みすることがあった。パラパラ頁を繰っていくと、突然「鋤雲」の文字が飛び込んできた。それは中野が<図書新聞>に昭和二十八年に発表したものである。

 「戦争中のある日、川端康成が『栗本鋤雲遺稿』のことを書いているのを読んでそれが見たくなった。探して見たがここいらの本屋にはない。そこで川端に問い合わせると『遺稿』そのものを一冊送ってくれた。鎌倉書房というところの発行で、藤村が序文を書いている。(中略)『翁は古貌古心、その閲歴もまた尋常ではない』と藤村が書いていて、徳川最後の時期を引き受けた人、四十四、五にもなってフランスへ行き、パリで奮闘しているうちに明治維新になったという人だから、『栗本鋤雲遺稿』のもとになった『匏庵遺稿』の方がしきりに見たくなった」。

 もう一人鋤雲がいたのであった。しかもこの「栗本鋤雲」の方が「福田鋤雲」よりずっと大物である。県立中央図書館にすっ飛んで行った。

 『栗本鋤雲(じょうん)遺稿』はなかったが、そのもとになったという『匏庵(ほうあん)遺稿』(匏庵は鋤雲の別号)が東京大学出版会の覆刻であった。そして「喉中鋸木声」があったのである。

 「獨寐寤言」の章の冒頭の一文「急流勇退」である。

 「幕政の初は知らず、予が経過せる末路六十年間に、能く此四文字に適應せる人物は、唯両人ありしのみ」と書き出す。そして出処進退を弁えぬ輩ばかりのなかで、その二人とは遠山左衛門尉(ドラマに登場する遠山の金さん)父子であったと鋤雲は記す。続けて、その対極にある人物の姿を次のように活写する。

 「見るも気の毒なりしは、背僂腰屈の老官人が両侍に擁持せられ、喉中鋸木聲を為しながら、梅木坂(平川門内に在り、奥向勤仕の者の通行、必由の路なり)を攀ぢ、登衙入直する其何の為なるを問えば、千苞若しくは五百苞の俸米の為め、口腹の欲と妻児の愛に累はされて、此無廉恥の醜體を為して、國家の米廩を蠧せしは扨々苦々敷事にてありし」。

 この老官人に筆者はいささか同情するが、ともあれ「喉中鋸木声」の出所がこれではっきりした。なかなかに痛烈な形容ではある。

 中野の『本とつきあう法』の刊行は昭和五十年二月であり、昭和五十年は「田紳有楽(終節)」の執筆期にあたる。藤枝静男の世代では、栗本鋤雲の存在は常識であったかも知れない。そうだとしても、藤枝静男は中野の本をきっと読んだのだ。そして中野の引用している藤村の序文にも触発されて、『鋤雲遺稿』を手にする気になったのではないか。中野が川端でそうであったように。

 その人の興味、関心、知識といったものは、独自に発生することは先ずない。他者から他者へと伝播され培われていくものだ。そこが面白い。

 川端康成の日記を調べたら、昭和十九年八月十二日に「『栗本鋤雲遺稿』中野重治に送るために買ふ」とあった。川端はわざわざ買い求めたのであった。

 以上のことは筆者がインターネットを始める前のことである。いまなら簡単に鋤雲にたどり着いただろう。そのかわり中野重治も川端康成もなかった。




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