短篇「老友」は、「群像」昭和四十六年十月号に発表された。創刊二十五周年記念号である。藤枝静男六十三歳。藤枝はその前年、九月から十月にかけてソ連作家同盟の招待でソ連そしてヨーロッパを旅行している。このときのことを書いた随筆が「ヨーロッパ寓目」である。パリで古い友人Nと会う。
「彼は私とほぼ同年の六十歳であるが、十八年前にパリにやってきて絵の修行を続け、今も余りさえない画家として貧乏暮らしをやっている男であった.フランス語は話すけれども今だに字の方はよく読み書き出来ないらしく、またほとんど歩くことしかせぬので地下鉄の乗降もおぼつかないように見受けられた」
「彼が今もっとも尊敬しているポリヤコフという画家の個展などを見て歩いた。ポリヤコフの個展会場に入ると、彼は歓声をあげて私を引っぱりまわし、『おれはこの部屋全部の絵を買ってしまいたいよ』と何度か云った。私はパリ郊外の」「彼の借家に同行して彼の新しく手をつけている画稿を何枚か見せられた。それ等は私に、まるで手探りのような、如何にも苦労しそうな印象を与えた」。
このNが「老友」のモデルである。
「老友」は評論家たちの関心をあまり引くことはなかった。<群像>に発表されたときもそうであったし、「老友」が収録された作品集『愛国者たち』の書評でも、ほかの収録作品「愛国者たち」「山川草木」「私々小説」にはふれていても「老友」について書いているものはない。作品集『愛国者たち』の構成にしても、「老友」はその末尾にひっそりと連なっている感がある。云ってみれば地味な作品であるが、再読する度に深い印象を私に与える。それは虚無感と云おうか、寂寥感と云おうか。藤枝静男の奥深くにそうしたものがいつもあって、それが「老友」に静かに流れ出ているように思われる。
老友半井は、主人公大村からの電話で大村が滞在中のホテルに姿を現す。
「小柄な半井は汚れたマフラーの上に引きずるようなオーバーを着、古ぼけたベレー帽の端から半白の髪の毛を不揃いにのぞかせ、陽にやけて縮んだような、しかし三十年前と変わらぬ眼つきをして懐かしそうにじっと彼を見た」。
半井を胡散臭そうな眼つきで眺めていたホテルのマダムに、半井のためのコーヒーを大村は注文する。
「半井は脚を投げ出し、マフラーとオーバーで着膨れた身体を椅子にはまりこませて、ゆっくりコーヒーを啜っていた」。
大村は一年前に半井に会った共通の友人沢田から、半井の暮らしぶりを聞き知っていた。そして、異国でひとり売れない抽象画を描き続けている半井の生活に大村は魅力を覚えていた、それは「大村の背後に、三十余年の辛気臭い開業生活と、そのあいだに重積し彼を包みこんでしまった瘡蓋のような人間関係への、不断の嫌悪がある」からであった。
藤枝静男の分身大村が魅力を覚えた半井の生活は、しかし安穏としたものではない。半井は大村をいくつかの画廊に案内する。「必然性がない」と感想を述べる大村に半井は反論する。
「そんなこと云ったって、必然性か他動的か、偶然か、画描きの方は描いてみなければわかりませんよ。思いつきが必然のはじまりになることだってある。そっちの方が多いくらいですよ。自分でどうなるか、わかるくらいなら苦しみやしない」。
半井は大村を自分のアトリエに案内する。
「大村は半井の習作を次々に見て行った。画面を正中線でわざと折半した堅苦しい構図や、意表に出ようとする意図の露骨に見える色の組合わせや、全体として不快感を誘発せずにはおかぬ、従って呑気に眺めることを拒否するような姿勢が、彼の画面を支配しているように思われた。それらすべてが彼の焦燥から生み出されていることは明らかであった」。
「この円はどうしても真中をはずす気はないのか」
「はじめからど真中に置くつもりでやってるんです。色だってベタ塗りに真黒に、わざと囲りと折り合わないようにしようと思って選んであるんだ」
「おれみたいな気の弱いのが見ていると肩が凝って眼をそらせたくなる。胃の辺が不愉快になるよ」
「だからそこを突き抜けて行きたいんです。見たくないやつにも結局は見せたいんだ。妥協したら駄目だ。どうしたらいいだろうね」
「おれに聞かれたって困るよ」
大村はルーヴルの廊下のような陳列室でホルバインとクラナッハの絵を見つけて半井への助言を思いつく。「しかし半井は拒否するにちがいない。彼にとって、あれは無かすべてかの問題なのだろう。それにこんなものを写したところで、どうせ明日おれは半井に見せずに別れるにきまっている」と大村は思い直す。
小説「老友」はここで終わる。
人の営みとはいったいなんであろう。半井がそうして作品を生み出したとしてもそれがなんであろう。人は他者なしには生きられないとしても、他者との距離を無限に思うときがないだろうか。解りあえるのは不可能だと感じるときがないだろうか。藤枝の分身大村がそうであったように、人は嫌悪を抱きながら日々過ごしていくしかないのだろうか。寂しいけれどもこれが「老友」の読後感である。
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