(「藤枝静男のこと・2」藤枝文学舎ニュース第 48 号/ 2004 年4月)


  冷ややかに水をたたえて斯くあれば

  人は知らじな火を噴きし山のあととも

 藤枝静男の生涯の友であった評論家平野謙は、昭和五十三年四月三日、癌によって死去した。享年七十一歳。「新潮」平野謙追悼号(六月号)に、藤枝は「平野謙一面」を書く。その最後に平野の愛唱詩を記している。それが冒頭の詩であった。

 秋山庄太郎著『写真集 作家の風貌一五九人』がある。作家の肖像写真とその作家の書を見開きで構成した一冊。そのなかの一人藤枝静男は、この平野の愛唱詩を書いている。書の日付は昭和四十九年とあるので、平野がまだ元気だったころのことになる。

 また作品集『空気頭』に亡友平野謙愛唱詩と添え書きをして、この詩を識語として書いたものが筆者の手元にある。「空気頭」の刊行は昭和四十二年であるから、平野の没後頼まれて旧著に書いたものであろう。

 「群像」昭和六十年九月号に発表した小説「今ここ」では、その約三分の一を、この詩についての記述にあてている。

 こうしてみてくると親友平野謙を思い出す詩というだけでなく、藤枝静男自身もこの詩に強く感ずるものがあったと云えよう。

 そうした詩であったが、実は平野謙もこの詩の出典が定かではなかった。「今ここ」を読むと、平野が太宰治から貰った本にサインとともにこの詩が書かれていて「長江詩」とあったという。

 長江とは生田長江である。平野は長江のどの本に載っているか調べたことがあったようだが、また藤枝自身詩に詳しい山室静に尋ねたこともあったようだが、結局のところわからなかった。

 藤枝は大正七、八年ころ出た『詩の作り方』という本に載っているかもしれないと推測している。筆者が図書館で調べると、大正七年九月に新潮社から生田春月(長江ではない。まぎらわしいので念のため)著『詩の作り方』が刊行されている。この本かと思い頁を繰ったが、長江の詩はなかった。

 さらに図書館で調べていくと、昭和五年に刊行された『現代日本文学集』があった。その第二八篇に、生田長江作として「ひややかに」が出ている。これで長江作であることが確かめられたが、それは全文ひらがな表記で、私には好ましいものであった。

   ひややかに

  ひややかにみづをたたへて

  かくあればひとはしらじな

  ひをふきしやまのあととも

 その後しばらくして、昭和三年刊『新作詩入門』生田長江・赤松月船共著を古書店で入手することができた。作例として「ひややかに」が載っている。

 太宰治は「ひややかに」をどこで読んだのだろう。『新作詩入門』発刊の昭和三年は、太宰の旧制弘前高校時代にあたる。高校生である太宰がこの入門書で読んだ可能性がある。とすれば太宰にとって、若き日につながる詩であったのかも知れない。

 さて平野謙である。どんな感慨からこの詩を愛唱し、色紙に書いたりしたのか。藤枝は「今ここ」で、そのあたりのことを推測している。くわしくは「今ここ」で読んでもらうとして、つぎの個所だけ引用しておきたい。

 「美貌の彼に艶っぽい恋愛談はなかったらしいし私もまたそれを確信していると云っていい。遊郭に行ったことも本当になかったらしい。彼の肉体的に知っていた女は奥さんだけだったと思う。このこと、或いはこういうことは、彼の『臆病』に依るものであろうが、そういう臆病は幸いにせよ悪いにせよ若者には属性として存在する。或は、私の若かったころには存在した。私はだから、敗戦後の平野が乞われて已むをえないとき『生田長江詩』と前書きして繰り返し書いていた

   ひややかに水をたたえて かくあれば人は知らじな 火をふきし山のあととも

という古風で感傷的な詩を非常に好む」。

 「非常に」好むと書く。太宰から平野に伝えられたこの「古風で感傷的な詩」は、平野謙ともども藤枝静男の琴線が発する調べであった。平野謙と藤枝静男とは、そうした深いところで結びついてもいたのである。




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