打てば響くとはほめ言葉だが、おかげで迷惑することもある。迷惑といってはその人に叱られるだろうし、実は私にとって楽しくないこともない迷惑であるのだけれど。
「陶説二三一号も見つかりましたよ」と電話があったのには驚いた。もう一冊の『秘境西域八年の潜行』は話題にしてから三日後、そしてその二日後には「陶説二三一号」も見つけてしまったのだから。すぐには無理だろうと思っていた二冊である。その人Eさんはそんな人なのだ。本探しの嗅覚が実に鋭い。天性だろう。この手の本はあの古本屋のあの棚にあると見当をつけて出かけて行く。そしてその前に立ってずっと眺めていると、本の方から現れるというのだ。「陶説二三一号」の場合、二二〇番台の「陶説」が少し顔を見せて、二三一号があることを合図してくれたという。
陶芸雑誌である「陶説二三一号」と冒険実録『秘境西域八年の潜行』は、藤枝静男作品「田紳有楽」の末尾に参考資料として記されている。今にして思えば、そのことをEさんに話し探してくれと頼んだのがいけなかった。ほんの思いつきの頼みを聞き流すこともなくモタモタもせず、アッという間に探してきてしまったのである。軽くつついたつもりが、ガーンと響いてしまったのである。この一年前の成り行きが、「田紳有楽」と藤枝静男の深みに私をひきずりこんでしまった。相手が悪かった。逃げ足も封じられて、二冊の資料と作品の対比をやるはめになった。そして気がつけば、「田紳有楽」の成り立ちのあれこれを調べる毎日である。これがまた面白い。迷惑といったのはそのことである。時間も気持ちも「田紳有楽」をはじめとする藤枝静男にとられてしまって、ほかのことが出来ない。困ったことだと思いながら、藤枝静男のことならいろいろ考えが湧く。
今では「藤枝静男文学館」を自分でつくれないかと、夢のようなことを考えている。そもそも文学は私的な世界である。文学館なるものも、個人的な思い込みでつくった方が相応しいと思う。誰にもわかる藤枝静男なんて面白くもなんともなかろう。私の藤枝静男があれば、あなたの藤枝静男がある。それが本当ではないか。藤枝静男関連の本を集めだしたのはそのためである。文学館としてのいろいろな企画を仮想して、それに必要な資料を少しずつ集めている。
最近、岡松和夫の「志賀島」を手に入れた。昭和五十一年三月、藤枝は立原正秋らと法師温泉に行く。このときの経緯については立原が「法師温泉行き」に書いている。その前年藤枝は東京新聞の文芸時評を半年担当した。旧「犀」同人を中心とする仲間が集まって一月末その慰労会を開催する。「僕が若い者たちからこんなに好かれているとは知らなかった。平野や本多にはだまっていよう」と「長老藤枝」はすこぶる機嫌がよかったと立原は書いている。そしてこの席で岡松和夫の芥川賞受賞の内祝いとして法師温泉行きが決まり、藤枝は同行を申し出たのである。
「志賀島」はこの岡松の受賞作である。温泉行きの前、藤枝の妻智世子さんの乳がん再発手術もあった。「法師温泉行」とその前後という一見とりとめもない時期の藤枝に焦点をあてることで、藤枝静男を示すことができると考える。これはいま夢想している企画の一つだが、こんな重箱の隅をつつくような企画は大きな文学館では考えもしないだろう。
こうして「空想藤枝静男文学館」のための資料集めが始まっているが、資金も乏しくこのことで私自身とてもコレクターとは云えない。しかしコレクターの皆さんの熱中を、いささか理解するようにはなった。
本棚に関連資料がだんだん増えていくのを眺めるのは文句なしに楽しい。表紙には全部パラフィン紙をかけ、ときどき並べ変えたりする。目録が本屋から送られてくると、すべてに最優先でページを繰る。お目当ての本がないか、一刻を争う勢いでまさに血眼になる。
実際、すぐ注文のFAXを入れても先を越されていることが多い。地方にいて目録が届くのが遅れるということもあろう。したがって最近は、目録全部を丁寧に見てからまとめて注文はしない。一冊でもこれだと見つけたら、その時点ですぐFAを入れる。秒単位で姿の見えぬ全国の相手と競っている。こう書いてきて、私もコレクター魂を身につけつつあるのかと思う。これはいささか危ない。
もちろん神田の古本屋街には何回も足を運んだ。最近のヒットは、藤枝静男が平野謙に頼んで買ったという Tolnay 著『ボッシュ画集』を手に入れたことか。Eさんほどでないにしても、あの本屋のあの棚にありそうだと少しは見当がつくようにもなった。神田以外にも活動の範囲を拡げている。
ひとつの資料を見つけるとその先にまた資料がある。やるほどに拡がっていく。収集はなんであれ麻薬である。とり憑かれ離れがたい。仕方なし。
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