瀧井さんのこと
「文學界」一月号 追悼( 今 本追悼文では「私が瀧井さんを知ったのは昭和三年いまから五〇年余り前の八月で」とある。「瀧井さん網野さん尾崎さんのこと」昭和四一年では「瀧井さんにはじめてお目にかかったのが奈良の志賀氏のお宅であったことに間違いないが、それが幸町の旧宅であったか上高畑の新しいお宅であったかということについては記憶がもうろうとしている。とにかく昭和三年か四年か、瀧井さんが三十五、六歳の頃であることは確かである」とある。昭和四八年の自筆年譜では「昭和三年八月二日、奈良市幸町にはじめて志賀直哉を訪ね、その紹介で瀧井孝作と小林秀雄を識った」とある。『藤枝静男著作集』年譜では「昭和三年八月二日、奈良市幸町にはじめて志賀直哉を訪ねる。その紹介で、この日志賀邸を訪ねていた小林秀雄を識り、後、瀧井孝作を識る」とある。『志賀直哉全集』の年譜によれば「昭和三年八月二日、勝見次郎〔藤枝静男〕はじめて来宅。瀧井孝作、小林秀雄来訪中」とある。本書ではこの志賀直哉年譜に従いたい。藤枝は志賀直哉訪問についていくつか随筆を残しているが、小林についてはあっても瀧井については書いていない。なお志賀が上高畑に移ったのは昭和四年四月。また『瀧井孝作全集』の年譜によれば瀧井は大正一四年八月に京都から奈良に転居。昭和五年二月、八王子に移るまで奈良に在住)
瀧井さんのこと
「群像」一月号 追悼( 今 。浜松文芸館にある藤枝静男による切り抜きでは「のこと」が「追悼」に訂正されるなど何カ所か書き込みがある。『今ここ』には本誌初出のまま収録。瀧井については他に「瀧井孝作氏のこと」昭和二九年、「瀧井さん、網野さん、尾崎さんのこと」昭和四一年、「瀧井孝作著『父』」昭和四七年、創作合評「初めての女」昭和四八年、「瀧井孝作著『俳人仲間』」昭和四八年、「瀧井孝作著『志賀さんの生活など』」昭和四九年、「瀧井さん」昭和五三年がある)
尋常高等小学校同窓会
「文學界」二月号 随筆( 今 「父の教育方針で当時東京の池袋にあった全寮制自炊制の中等学校成蹊学園に入れられて」とあるが、正しくは成蹊実務学校である。三年に進級する際、中学部に籍を移した。文末に「年々歳々…」とある。編者の手元に、藤枝静男の色紙「年々歳々花相似 歳々年々人不同」がある)
俳人相生垣瓜人さんの思い出
「静岡新聞」二月一三日夕刊 追悼(単行本未収録。「浜松の二人の俳人」昭和三三年の項参照)
老いたる私小説家の私倍増小説
「文學界」五月号 小説(一段組みで掲載された。誕生日のことが冒頭にある。書いてあるように本当は明治四〇年一二月二〇日生まれである。満年齢と違って、数え年は生まれた年を一歳とし以後正月になると一歳を加えて数える年齢である。従って藤枝静男は明治四一年一月一日にはもう二歳で、入学した大正三年は本当なら数えの八歳であった。誕生日を明治四一年一月一日にしたことで「七ツあがり」となった。/「私鉄単線電車」とは遠州鉄道である。「この電車で北へ三十分ほどの田舎」とは、妻智世子の実家のあった浜名郡積志村西ケ崎〔現浜松市東区西ケ崎町〕である。ユーカリや庭については「田紳有楽」でも、「武蔵川谷右エ門・ユーカリ・等々」昭和五九年でも書いている。/文中「『ダス・エーケル』(嫌悪)」そして「エーケルヘフティッヒ」とある。「厭離穢土」昭和四四年の項参照。「エーケルヘフティッヒ」は ekelhaft のことか。/「同じことを何回も書いて」とある。このことでは「みんな泡」昭和五六年の項参照。「今の私はこんなものだ。精神的にも肉体的にも半ば死んで、つまり何もしないで石の観音様を可愛がっている老いたる私小説家だ。実にイヤだ」と結ぶ。/埴谷雄高はこれをうけて、随筆「老害」新潮八月号を次のように結んでいる。「私はまだまだうんざりするほど長くつづいて『死の到来』まで絶対に書き終わらない長編を、富士山の大沢崩れ以上の凄まじい音をたてて砕ける脳細胞の大崩壊と取り戻しがたいボケの極上の進行のさなかで、なお書き続けなければならないのである。そこには、事物の隠れた秘密の核心の探索どころか、あまりにも明らさまな頭蓋のボケの核心の表示のみがあることは必然である。藤枝静男以上に、私は慄然としていわねばならない。─実にイヤだ」。/藤枝静男の死後、桶谷秀昭が随筆「燃えつきた藤枝静男」を書いている。昭和六三年の浜名湖会のときのこととして、もう書かなくなっていた藤枝を埴谷雄高が「君は小説家なんだから、書けなかったら、書けないということを書いたらいいんだ。とにかく書かなきゃだめだ」と繰り返し口説いた。そのとき藤枝静男がどんな様子であったか、埴谷はなにも云わなかったという。「水月観音」については「虚懐」昭和五七年の項参照。/なお「文学界」本号で特別インタビュー「『極北』の私小説 藤枝静男」。藤枝文学を語るうえで必読のインタビューである。/同じく本号のあとがきに「三月初め、川西政明氏とともに、浜松の藤枝静男氏をお訪ねしました。浜名湖のほとりの宿に泊り、深夜におよぶまで含蓄深い話をうかがいました。翌日、藤枝氏の永年の友人である竹下氏の車に同乗させていただき、半日ドライヴを楽しみました。巨大な将軍杉、盛りを少し過ぎた梅の花など見てまわる藤枝氏の風貌に、前夜の『信頼すべきものとして自然はある』という氏の言葉を思い出しました。藤枝先生のいっそうのご健勝を切に念じ上げます」とある。/なお講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』解説〔川西政明〕で、「文學界」のインタビューの席上「私倍増小説」というタイトルを藤枝が思いついたと書いている。しかし藤枝静男は、「20枚の私私小説」昭和四八年で既に「私倍増」という言葉を使っている)
|