昭和五九年(一九八四年)   七六歳

二月刊行の中川一政随筆集『画にもかけない』で中川一政と対談(特装版にはこの対談は収録されていない)。「武蔵川谷右ェ門・ユーカリ・等々」を『群像』六月号に発表。同月、浜名湖会。関節リューマチ悪化。八月、浜松の友人(方寸会)、大庭みな子夫妻とバリ島・ポロブドゥール旅行。一一月、滝井孝作死去、享年九〇歳。

 

中川一政氏との初対面   
「海燕」一月号  随筆(文中の中川一政随筆集『八十八』昭和五五年には本多秋五と中川の対談が収録されている。藤枝と中川の対談については年譜。同じく文中の大判の画集『中川一政─私の遍歴』は昭和五六年九月に日本橋高島屋で開催のあと各地を巡回した同名の展覧会の図録。 32 × 26 cmとたしかに大きい。中川については対談のほか「当てずっぽう」昭和五〇年がある。 単行本未収録)

日記   
「図書」一月号  随筆(単行本未収録。 冒頭引用している夏目漱石の「生まれた、生まれた」「死んだ死んだ」の詩の草稿は『漱石全集第一三巻日記及び断片』昭和四一年岩波書店にある。小説「虚懐」昭和五七年の虚懐も漱石の漢詩からであった。また藤枝は昭和四三年の講演で「私の漱石」と題して語っている)

偽元旦生まれ   
「中日新聞」一月六日夕刊  随筆(単行本未収録)

大赤字美術館長その後   
「群像」三月号  随筆(  「大赤字美術館長」である横田正臣の著書『生きがい─たった一人で創った博物館』平成一五年モデラートが横田の歿後発行された。「作家の藤枝先生は埴谷雄高先生や本多秋五先生をはじめ多くの作家仲間を連れてきてくださった」とある)

虚子のレコード   
「俳句四季」第三号(三月)  随筆(単行本未収録 昭和四九年に『高浜虚子全集第一巻』月報に同題で書いているものを要約した内容)

阿部君の作品   
『阿部昭全作品3』(三月一五日福武書店)帯   帯文(単行本未収録 なお本文の初出は『阿部昭全作品』パンフレットの推薦文であるが、パンフレットの発行日不詳のためここに入れた)

尾崎さんのこと   
「文學界」四月号  随筆(同題で「連峰」昭和五八年五月号に書いているが別文。

妻の墓   
杉村孝『泣いてござる笑ふてござる』(四月二五日静岡出版)  随筆(単行本未収録)

妻の胸像   
「かんぽ資金」五月号  随筆(単行本未収録)

眼前数尺の風景─MOA美術館見学記   
「墨」五月号  随筆(単行本未収録 藤枝静男の手でタイトルの「眼前数尺の風景」が黒く塗りつぶされるなど訂正書き込みの切り抜きが浜松文芸館にある)

武藏川谷右ェ門・ユーカリ・等々   
「群像」六月号  小説(「私」の家の庭の様子を書いている。玄関先の池のほかに、高さ約八メートル、根まわり一四〇センチのユーカリ、塀際にニセアカシア、山桜、黄素馨、山椿がある。「田紳有楽」の「億山」の庭にはこの他に躑躅、大納言、紫式部、姫林檎、夾竹桃、八つ手もあった。藤枝家の庭も実際そうであったと思うが、区画整理のためこの庭はもうない。/終わりに近く、本多秋五の兄本多静雄からもらった模造『宝珠硯』の箱書きのことが出てくる。藤枝はこうしたことを好んだ。「勝見家代々家宝 薬研薬匙」と箱書きされたものも藤枝家にある〔「薬研・墨壷・匙」昭和五一年の項参照〕。また所蔵の志賀直哉編『座右宝』の目録に藤枝はその由来を書きこんでもいる〔「志賀直哉歿後十年」昭和五六年の項参照〕。また『藤枝静男著作集第三巻』月報3で中野孝次がほほえましい藤枝の箱書きを紹介している。孫が割った茶碗を修復しその函におおよそ次のように書いてあったという。「これは汝(と孫の名を書いて)何歳のとき誤って破壊した茶碗なるぞ。余は祖父としてそが修復に全力しぬ。茶碗は原型に復せるも破壊が事実は永遠に残れり。ために記念にそのいきさつをここに記す。汝成人のあかつきこれを見てかかることありしと知れ、云々。年月日、祖父勝見次郎記」。補足すれば、『日本近代文学大事典』昭和五二年で藤枝静男は「本多静雄」の項を担当している)

 

 

収録─作品集『今ここ』

 

加賀君のこと   
『加賀乙彦短篇小説全集3』(七月五日潮出版)月報3  随筆(単行本未収録)

「晩拾志賀直哉」のこと   
「群像」一〇月号  随筆(  本多秋五の「晩拾志賀直哉」は「群像」昭和五八年五月号よりはじまり完結は昭和六一年一月号、通算一七回。まとめられて岩波新書『志賀直哉』上・下)  

高見順『いやな感じ』のこと   
「群像」一一月号  書評(対象になったのは私家版・高見順二〇回忌記念『いやな感じ』〔八月一七日、高見章子刊〕。文中に本書の書誌的なことが書かれている通り、洒落たデザインの本である。   本書には夫人高見秋子の挨拶文が添付されている。以下紹介したい。「〔前略〕やがて八月十五日。三十回目の日本国敗戦の日が巡って参ります。その翌々日八月十七日は私個人にとっての敗戦・終戦の日、つまり亡夫高見順の命日に当たります。親亡く、子亡く、あるじ亡き私にも、幸い若干の板木が残されており、それを拠りどころに私なりにせいっぱい生きて来た、長い…とも、短い…とも感じられる十九年間でありました。その私にとっての終戦記念日の墓参を、母、亡児、高見の三人の法要に当てるべく、思うところあって一ヶ月繰り上げて去る七月、身近な者数名のみで済ませました。いっとき墓前に額いていたとき、いつも欠かさず御顔を見せて下さる方々や、昔も今も変らぬ御心遣いを寄せて下さるたくさんの方々のお姿を一人一人思いおこし、改めて、しみじみ有り難いことと思い知りました。「こんちくしょう!」と蹴飛ばしたいような思いをしばしば私にしてくれた夫ではありましたが、その「こんちくしょう」のお陰で兎に角今日までこうして生きてこれたのだ、とも納得し、あの「こんちくしょう」は結構皆様方から愛されていたらしい、そのお陰が、今もって私にも及んでいるということにも思い当たりました。墓の下から照れたような顔つきで、「かみさんのこと、よろしくおたのみしますよ」と言ってる声が聞こえたような気がしました」「文藝春秋の御好意で、二十回忌記念に私家版をこしらえて頂きました。表紙見返しと、裏見返しに、さぞ死にたくはなかったのだろうと思える走り書きのスケッチをそれぞれに挿入し、市販のものとは別の装幀でまとめ「こんちくしょう」の回向といたした次第でございます。〔後略〕」。/その見返しの走り書き「早くラクになりたいね でも 今のままではラクになれない 昭和に生きた人間の人間像を書かないことにはラクになれない」「皆さんさわさわと書いていらっしゃる 見事ですね 書くことと生きることとが不用心な皆さん しっかりおやんなさい」)

序文   
『追想 夫・立原正秋』(一一月三〇日角川書店)序  序文(なお本書には新装版(平成一〇年KSS出版)がある。藤枝静男は立原正秋の葬儀委員長を務めている。 単行本未収録)

『解体する文芸』に就いて   
「群像」一二月号  書評(  著者中島和夫は元「群像」編集長。「浜名湖会」にも参加。編者が拙書『藤枝静男年譜・著作年表.参考文献』をお送りしたところ返事をいただいた。「夜,頁を繰っていろいろな思いに耽りました。「明るい場所」を持参した藤枝さんと初めて会ったのが、本書では昭和三三年とありますから、四十年余のむかしとなります」) 


 

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