遠望軽談
「波」一月号 随筆( 小 ・ 3 。文中の遠藤周作の書は「波」昭和四八年一〇月号の表紙である。 遠藤が書いた詩句は王維の「送別」と題する五言古詩の終わり二行。「下馬飲君酒 問君何所之 君言不得意 帰臥南山陲 但去莫復問 白雲無盡時」。失意の友に送る詩─もう問うまい、行くがいい。白雲を友とし暮らすがいい。/キリスト教に対する「焚書」されかねない言辞がある。このことでは「私々小説」昭和四八年のラストを連想する。「『神は与え、神は奪いたもう』─何を!」。また「山川草木」昭和四七年のラスト、夢のなかで四十余年前に死んだ親友が「ヤソ曰く、神は罰なり」と叫ぶ。この親友は北川静男であろうか。/余談だが、本多秋五に随筆集『遠望近思』昭和四五年がある。同書には青銅器に関する本多の随筆が九篇収録されている。本多はその一つで、青銅器についての関野雄(講談社世界美術体系第八巻)の言葉を引用しているが「製作された当時の殷周銅器は『磨きたての真鍮の洗面器』のようにピカピカ金色に光ったものであり、『美しいというより、むしろグロテスクなもの』であ」った。現代人には抵抗がある光景だが、上品な「青」銅ではなく「赤」がねの器にこそ当時の人々は力を感じたのであろう)
美濃の窯址
「東海ゆうびん」一月号 随筆( 小 )
正月早々
「中日新聞」一月四日夕刊 随筆( 小 )
園池さんのこと
「東京新聞」一月一〇日夕刊 随筆( 小 ・ 2 園池公致〔そのいけきんゆき〕は学習院を中退、侍従職出仕として明治天皇に侍した。「白樺」創刊に参加。子爵。作品に「一人角力」など)
判彫り正月
「静岡新聞」一月一八日朝刊 随筆( 小 ・ 3 。「浜松百撰」昭和五一年一月号にグラフ「作家藤枝静男氏の篆刻」。写真入りで製作の様子が紹介されている。藤枝の篆刻のことを立原正秋が「藤枝長老の盃と印綬」「落款と陶器と酒」で書いている〔立原正秋『夢幻のなか』昭和五一年新潮社に収録〕。また『大庭みな子全集』平成二年〜三年の表紙デザインに藤枝静男が大庭のために作った落款を使用〔特染め布装厚表紙に藤枝作の落款を空押し〕)
「座右宝」のことなど
『志賀直哉全集第七巻』(一月一八日岩波書店)月報8 随筆(志賀直哉編集の美術図録『座右宝』の書誌的なことは、本随筆が詳しい。ただ編者の手元にある藤枝所蔵と同じ特製版『座右宝』には、大きなサイズの目録の他に小さな略目録も付いている。文中の老紳士が手にしていたのは「ほぼ菊判大、横綴の」とあるから、この略目録と符合する。藤枝はこの略目録についてふれていないが、略目録もついて完本か。編者の場合、特製版の方を最初に手に入れた。九州の古本屋からある日送られてきた目録で見つけた。興奮して足元を見られないよう冷静を装い確認の電話を入れたが、いささか語尾がふるえていたかも知れない。その後一度も特製版を見ることはない。編者の家宝といえようか。二分冊の並製は時々出てくる。特製版にくらべると割高だったが、資料として並製も購入した。漆箱入り特製版には二枚続き、三枚続きの大判写真も含まれている。その一つに龍安寺石庭があり、そこに写っている石庭には白砂利は敷かれていない。「悪口」昭和五四年で書いている。「『座右宝』に写されたころはもちろん、私がはじめて見たときにも、今のように厚ぼったく仰山に敷きつめられた砕石の白砂利などなかった。ましてや熊手で石のまわりを円形になぞったり全体に筋目をいれたりして海に浮かぶ島さながらに見立てた演出なんかありはしなかった」。そしてこうも書く。「あれはもともと建物と塀の間に細長い空地ができたから石を気持ちよいように配置して開放的に落ち着いた目のやり場をつくっただけのものだろう。すばらしく美しい。しかし作らせた偉い坊さんは、まさかあの庭に禅の真諦があると弟子に教訓したわけではあるまい。悟るつもりなら山のなかの樹下石上に座ってやぶ蚊に食われていろといっただろう」。この藤枝の見解はその通りであるかも知れない。/志賀は『座右宝』序文の末尾に「今の美術史家が疑問としてゐる絵が一つあるが、私はその疑問に疑問をもってゐるので、それらは其儘入れることにした」と書く。この自分の眼に確信を置く志賀の姿勢は、藤枝に受け継がれたといえよう。「勝手な読書」昭和四五年で「ただ私は、暗黙のうちに氏〔志賀直哉〕の人生に対する態度や、美術に対する態度を学んだだけです。だから私は、よけい先生だと思っているのです」と書いている。/「志賀直哉歿後十年」昭和五六年の「座右宝」の部分は本随筆の改稿。「前号『志賀直哉歿後十年』への訂正その他」同年の項参照。/なお『座右宝』については、NHK日曜美術館「志賀直哉の眼・文豪がみた美の精華」がある。編者が見たのは 1996.12 再放送。 小 ・ 1 なお藤枝所蔵の『座右宝』は平成八年奈良県立美術館で開催された「志賀直哉の空想美術館」展にも出展され、その図録で『座右宝』の内容が写真入りで詳しく紹介されている。なお『座右宝』については「本との出会い」昭和五一年でも取り上げている)
阿弥陀如来下向す ─載随筆「雑記帳から」連載1
「ちくま」二月号 随筆( 小 ・ 2 )
志賀直哉文学紀行─個性に貫かれた風景
『現代日本文学アルバム6 志賀直哉』二月一日学習研究社・本書には昭和五五年刊の普及版がある。 (「 志賀直哉紀行 」として 小 ・ 1 ・『現代日本紀行文學全集補卷3』昭和五一年ほるぷ出版に収録。直哉が住んだ三軒長屋を取材する藤枝と同行の平野謙・本多秋五、「観玄?」の掛軸の前で歓談する上司海雲・藤枝・本多のスナップ写真などが挿入されている。/「麻布三河台」の章で、園池公致の名がみえるが、この年正月に亡くなっている。「園池さんのこと」がある。「座右宝」については「『座右宝』のことなど」の項参照。/「松江」の章の里見?『怡吾庵酔語』は昭和四七年に中央公論社から刊行。「学者まかせ」昭和四七年、「里見さんの恩」昭和五三年でも同書を取り上げている。藤枝が引用している志賀直哉と里見?が橋の上で引っ張り合う場面は「家を出たものの」にある。余談になるが、そこで里見が「大正六年だったかに『或る年の初夏に』という題の短篇を書いた」とある。偶然の類似か、藤枝に「或る年の冬 或る年の夏」がある。云えば立原正秋には「その年の冬」がある。/「赤城山」の章で「私は大正十年と昭和六年の二回赤城にのぼって」と書いているが、「或る年の冬 或る年の夏」で主人公寺沢は赤城山に登り自殺志願者と間違われる。/「奈良」の章で志賀直哉「万暦赤絵」の一節、中国の青銅器を「これは鯱だ」と形容する部分を引用している。志賀が青銅器を見て帰宅、昂奮して話す場に藤枝は丁度立ち会っている。「奈良の夏休み」昭和三二年にそのときの様子を書いている。この「万暦赤絵」収録の『万暦赤絵』は昭和一一年刊。梅原龍三郎の書いた題字を木版摺りにした、活字の大きな洒落た本である。青銅器では「在らざるにあらず」昭和五一年で青銅器に惹きつけられ「たいしたもんだ」と心のなかで繰り返す主人公を登場させている。東大寺塔頭の勧進所で「『観玄?』の大幅をはじめて眼のあたりに見る」とある。このことでは「庭の生きものたち」昭和五二年、「いろいろのこと」昭和五五年の項参照。「観玄(?)」は藤枝静男の書き初めの定番の一つであった。「?」は「虚」に同じ。「観玄?」の出典については、「庭の生きものたち」昭和五二年で藤枝が書いている。/最後の「熱海と東京」の章で志賀が「批評家なんて無用の長物だ」と言い捨てる様子を書いているが、このことは「仕事中」昭和三二年でも。/なお本アルバムに平野謙も「志賀直哉とその時代」を書いている)
われら落第体験派"全員集合"
「週刊朝日」二月四日号 アンケート(単行本未収録)
杉山二郎著『木下杢太郎』 ─丹念に追求した評伝・伊東に生まれ育った異才
「静岡新聞」二月八日 書評 ( 小 ・ 4 「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」昭和五四年で、高校時代図書館に通い、木下杢太郎・木村荘八共著『大同石仏寺』を熱心に読んだことを書いている。木下は明治一八年静岡県伊東市生まれ、昭和二〇年歿。詩人.・作家・美術史家。医学者としても優れ、愛知医専、東北大、東京帝大などの教授を歴任。皮膚科専攻、ハンセン病の権威者。愛知医専教授着任は大正一三年で、藤枝の兄秋雄が在学していた時にあたる)
『藤枝静男作品集』あとがき
『藤枝静男作品集』(二月一〇日筑摩書房) 自著あとがき(「これが私の全小説である。顧て才能の乏しさと生産の貧弱を恥じるほかないけれど、一方には一人の人間が生涯に思いつめて書かなければいられないというモティーフがそんなに沢山あるはずがないという気もある」とある。同じことを「隠居の弁」でも書いている。 6 )
洋服屋ほか ─連載随筆「雑記帳から」連載2
「ちくま」三月号 随筆( 小 ・ 3 文中のHについては「落第仲間」昭和四一年で「〔千葉医大の〕一年上に林君がいた。そこで今度は二人して家を借りて」とある。また「三度目の勝負」昭和四八年に「八高の二級上で東大一本槍連続落第組の林」とある)
追憶
「学鐙」三月号 随筆( 小 ・ 4 メソジスト教会の福島牧師について書いている。福島が癇癪持ちであること、羽織袴のこと、「ウイルキンの野郎」といって外人牧師と喧嘩したこと、英語の手ほどきをうけたことなど「雄飛号来たる」の新田牧師のモデルであることは間違いない。ただし「雄飛号来たる」の項でも書いたが、福島の藤枝着任は大正六年であり牧師館建設や雄飛号飛来のあとである。/「福島さんの世話で東京の中等学校に入学した」とあるが、そのいきさつについてははっきりしない。「雄飛号来たる」「少年時代のこと」の項参照。また中等学校ではなく正しくは成蹊実務学校である。/兄秋雄が三高受験の際その下宿に泊めてもらったという、福島牧師夫人の甥北川冬彦のことがある。編者が北川冬彦で頭に浮かぶのは「馬」と題する九文字の詩である。「馬 軍港を内蔵している。」 「満州であったかシベリアであったかを背景にした氏の反戦の長い詩を、私は心にとめて読んだ」とあるが、それは「翅蟲の群れ」のことであろうか。詩集『いやらしい神』昭和一一年に収録されている。本の題名になった作品「いやらしい神」について詩人自身の思い出話がある。「当時、反戦詩を大ぴらに書くことは身を危険にさらすことで、私としては、判る人には判って貰えればそれでいいと思って書いた。願わくは検閲当局には判って貰いたくないと思っていたが、どうやら判らなかったらしく、発表された雑誌に何の手入れもなくて済んだのである」。「翅蟲の群れ」については、作者解説に「小説として書いた」とある。これより七年前の昭和四年刊行の詩集『戦争』ではストレートに反戦をうたっている。「義眼の眼にダイヤモンドを入れて貰ったとて、何にならう。苔の生えた肋骨に勲章を懸けたとて、それが何にならう。腸詰をぶら下げた巨大な頭を粉砕しなければならぬ。腸詰をぶら下げた巨大な頭は粉砕しなければならぬ。その骨灰を掌の上でタンポポのやうに吹き飛ばすのは、いつの日であらう」。義眼と云うことでは「空気頭(初稿)」の白黒眼鏡男は義眼の傷痍軍人を連想する。またこの義眼の傷痍軍人の眼の威力、ピカリと一瞥ということでは、前出の「翅蟲の群れ」の登場人物佐々木の左眼は妖しい光を放つ。北川冬彦は本名田畔〔たぐろ〕忠彦。明治三三年生まれ、平成二年歿。『北川冬彦詩集』昭和二六年宝文館は装幀林武。それまでの詩集の表紙も中扉にカットとして挿入され、「著者の解説」まで巻末にある。魅力的な一冊である)
二流品を好く理由など ─連載随筆「雑記帳から」連載3
「ちくま」四月号 随筆(小見出し 二流品を好く理由・空な模倣・詔勅と占領との間。 それぞれの見出しを独立させて 小 。「 二流品を好く理由 」と「 詔勅と占領との間 」が 4 、「 空な模倣 」が 1 二流品ということでは、「田紳有楽」で柿の蔕が自分が住まう池を見回して「まずは気楽で、景色もわるくない。一等地でもないけれど四等地でもない」と語る。「詔勅と占領との間」で「あの空白期に遭遇した人々の肉体と精神を如実に描いてくれた人が一人もいない。誰か書いてくれぬか」と藤枝は書く。この翌年、天皇の記者会見を見てまた書く。「あの状態を悲劇にも喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい」東京新聞文芸時評。/詔勅から連合国軍による占領に至る経緯の概略は次の通り。八月一四日、日本降伏の旨を中立国を通じて通告し勅語発布。八月一五日、国民に向けての「玉音放送」。八月一六日、日本政府陸海軍に停戦を命ずる。八月一七日、天皇、支那派遣軍と南方軍に停戦の勅旨。八月一九日、関東軍とソ連軍が停戦交渉。フィリッピンに停戦命令届く。八月二六日、満州での戦闘終わる。八月二八日、テンチ米陸軍大佐以下一五〇名が横浜に初上陸し連合国軍本部を置く。以後全国で上陸相次ぐ。進駐兵力は最大で四三万人。八月三〇日、マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。九月二日、日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。なおドイツやオーストリアがそうであったように、米・英・ソ・中で分割統治する案があったが実行されなかった。以上『ウイキペディア』より。「玉音放送」については小森陽一『天皇の玉音放送』朝日文庫が詳しい。玉音放送CD付き)
異床同夢
「文藝」四月号 小説(創作集『異床同夢』あとがきに「『武井衛生二等兵の証言』『異床同夢』は浜松の友人竹下利夫氏からうかがった経験談が材料になっている。事実そのままでないことは勿論である」とある。竹下氏は藤枝の随筆に度々登場するTさんである。「武井衛生二等兵の証言」の項参照) |