昭和四九年(一九七四年)  六六歳

「田紳有楽」を『群像』一月号に発表。園池公致の告別式に本多と参列。二月、『藤枝静男作品集』を筑摩書房から、『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』を講談社から刊行。同月、『現代日本文学アルバム6 志賀直哉』に「志賀直哉紀行─個性に貫かれた風景」を発表。「異床同夢」を『文藝』四月号に発表。五月、「私々小説」が『文学一九七四』 ( 講談社 ) に収録される。『文藝』六月号で阿部昭と対談「作家の姿勢」。六月、創作集『愛国者たち』により第二回平林たい子賞を受賞。同月、講演「主観と客観について」(講演記録「俳句」九月号)。浜名湖会(立原正秋も来会。天竜川河口、井伊谷、龍潭寺を見る)。「田紳有楽前書き」を『群像』七月号に、「聖ヨハネ教会堂」を『海』七月号に発表。七月二四日より八月五日まで友人三人と北欧旅行。フランクフルトで埴谷雄高絶賛の「伝ルクレティア・ボルジア」像を見る。一〇月、妻智世子乳癌手術、一二月退院。『三田文学』一一月号でインタビュー「現代文学のフロンティア5藤枝静男」(『現代文学のフロンティア』昭和五〇年出帆社に収録)。一二月三〇日、インド・ネパール旅行に出発。この年、曽宮一念の画業展(図録に寄稿)、セザンヌ展を見る。なお桶谷秀明が『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』の巻末作家論として「絶対感情と『私』」を、中野孝次が「早稲田文学」三月号に「突放たれるプレザンス」を、蓮實重彦が『海』五、六月号に「藤枝静男論」(『「私小説」を読む』昭和五四年に収録)を書いている。

  田紳有楽    
「群像」一月号〔短篇創作特集〕  小説(十枚 最初から「道鏡の少年時代を連想したのであった」〔講談社文芸文庫一五頁。以下「文庫」と略〕まで。/文末に「 ( 後記 ) 文中に『陶説』二三一号掲載の橋本武治の文からの引用がある。記して謝意を表す」とある。単行本『田紳有楽』及び文庫では全体の最後に『秘境西域八年の潜行』と合わせて記している。これは『陶説』二三一号〔昭和四七年六月号〕掲載の橋本武治「古丹波焼余話・山出しのこと」をさす。文そのままの引用ではないが、藤枝が謝意を表するように、作中の滓見が話す「処世術」はこの随筆の内容・語句にそっている。この『陶説』二三一号を探し出してくれたのが江崎武男氏である。この『陶説』と『田紳有楽』を対比することが、編者が藤枝静男にかかわる端緒となった。平成八年五月のことである。その後の江崎氏の助言励ましに感謝し、個人的なことではあるがここに記す。このときのことを編者は「とり憑かれてしまった」浜松百撰平成九年一〇月号に書いた。なお後出の「前書き」「前書き ( 二 ) 」「終節」は単行本『田紳有楽』として一冊に纏める際書き換えが多いが、この「十枚」は冒頭の「昼寝を終えて」を加えたほか少ない。/ここで『田紳有楽』に登場するものたちの命名について、編者の考えを纏めて書いておきたい。滓見白は藤枝静男の本名勝見次郎からである〔滓見をサイケンと読ませてチベットラマ僧の名に擬している〕。陶工千山は「海千山千」からであろう。京都の陶工万山は一つ位をあげて「五万と体験した」からか。そして主人公弥勒の化身磯碌億山。これは自ら「私も名前どおり五十六億年ののちにこの世に正体をあらわす」と名乗るように、弥勒下生の五十六億〔五十六=イソロク〕年からである。これで、千山、万山、億山と並ぶ。院敷尊者はインチキからであろう。A号柿の蔕の人間変身名「貝谷歌舞麗」はかぶれるである。「嫌らしい二つ名」というように随分である。このことでは、『藤枝静男著作集第六卷』月報6で坂上弘が書いている。「〔藤枝静男から〕突然『君は女性の生殖器を美しいと思うかね』と言われた。咄嗟のことで返事に窮していると『いや、この前平野と話していて、かれは美しいというんだが、僕は美しいとは思えないねえ、ホラ貝みたいで』と憮然たる表情だった」。貝谷の貝とはこのホラ貝である。話はそれる。有徳の尼僧が「マラ来る、マラ来る」と夢現に叫んで果てた話を平野謙が書いていることを藤枝は「筆まかせ」昭和四七年で書いている。前述の話とあわせ平野を「美しい」派とすれば、「性交行為とそれに用いられる部位は極めて醜いものであり、そのため顔の美しさや慎み深い態度がそこになければ、自然は人類を失うことになろう」と解剖図の余白に書いたレオナルド・ダ・ヴィンチ〔「空気頭」にレオナルドの「人類交合断面図」があり、レオナルドが「手記のなかで『人体に於いて醜の最たるものは生殖器である』と云っております」とある〕と憮然たる表情の藤枝は「醜い」派である。命名に戻る。密偵山村三量と岡山の陶芸研究家川村東伍、山に対して川、三に対して五〔伍〕ということか。なぜ「量」でなぜ「東」か。密偵=三呈としてみたがあまりにミエミエで字面が似た「量」にしたか。また陶=東か。よくわからない。なお初出「田紳有楽前書き」で「億山のところに出入りする」というべきところを「万山の」、同じく初出「田紳前書き(二)」で「億山に買い取られて」というべきところを「万山に」となっている。これは誤植か藤枝の勘違いか、あるいはこの時点でまだ主人=弥勒菩薩=磯碌億山のアイディアが生まれていなかったか。それぞれ単独で読めば不都合はない。命名については編者に、「名前考」─「三田文学」平成一四年八月号がある。/小川国夫は「藤枝静男晩年の境位」で「なぜ藤枝さんはなぜこんな泥に進んで侵たり、心が闇汁になってしまったか」と書いている。「田紳有楽」で「泥」は頻繁に出てくる。ユーカリの実は泥にまみれ〔文庫九頁〕、二坪たらずの池には泥蟹、泥溝蛙がいる〔文庫一一頁〕。高平山の鶏は汚れている〔文庫一一頁〕。池の汚い泥〔文庫一五頁〕は、志野の貫入に入り込む〔文庫一六頁〕。睡蓮は泥をかぶっている〔文庫一八頁〕。古貫入に汚穢な泥が浸みこみ〔文庫一九頁〕、柿の蔕は汚らしい口を歪め志野を殴る。志野の内腹に生臭い泥滓が侵入する〔文庫二一頁〕。志野とC子は泥深い池底をゆく〔文庫二四頁〕。お前の来世は泥水かもしれない〔文庫三〇頁〕─といった具合である。そして丹波に、主人評として「あらゆるものは泥のなかに浸けておけば真物に生まれかわると信じている」と云わせている〔文庫三八頁〕。「滓見」そのものが泥滓である。/なお村松梢風の妻が梢風より一年遅れて死去しているのを知り、「梢風は楽しかったであろうし、夫人は最後の一年は楽しかったであろう」と主人公億山は思う。藤枝静男の死は、妻の死から一六年後であった/編者に試作『田紳有楽辞典』、及び「藤枝文学舎ニュース」に一〇回連載した拙文「いろいろ田紳有楽」がある。/なお「群像」本号に『愛国者たち』書評─高橋秀夫「『私』の倍増という自我のあり方」。また「批評家三三氏による戦後小説一〇選」で大橋健三郎・桶谷秀昭が「空気頭」、中野孝次が「欣求浄土」、座談会「戦後文学を再検討する」で上田三四二が藤枝静男の作品について)
 

 

時評─高橋英夫「共同通信」昭和四八年一二月二〇日(『文学1975』昭和五〇年講談社)・蓮實重彦「日本読書新聞」一月一四日号(『文学1975』)   

収録─日本文芸家協会編『文学1975』(昭和五一年講談社)・この「田紳有楽」と後出の「田紳有楽前書き」「田紳有楽前書き(二)」「田紳有楽(終節)」の四篇を長編小説「田紳有楽」として構成し『田紳有楽』(昭和五一年講談社)以下同じ・『藤枝静男著作集第六卷』・講談社文庫『田紳有楽』(昭和五三年講談社)・『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』

 

遠望軽談   
「波」一月号  随筆( 。文中の遠藤周作の書は「波」昭和四八年一〇月号の表紙である。  遠藤が書いた詩句は王維の「送別」と題する五言古詩の終わり二行。「下馬飲君酒 問君何所之 君言不得意 帰臥南山陲 但去莫復問 白雲無盡時」。失意の友に送る詩─もう問うまい、行くがいい。白雲を友とし暮らすがいい。/キリスト教に対する「焚書」されかねない言辞がある。このことでは「私々小説」昭和四八年のラストを連想する。「『神は与え、神は奪いたもう』─何を!」。また「山川草木」昭和四七年のラスト、夢のなかで四十余年前に死んだ親友が「ヤソ曰く、神は罰なり」と叫ぶ。この親友は北川静男であろうか。/余談だが、本多秋五に随筆集『遠望近思』昭和四五年がある。同書には青銅器に関する本多の随筆が九篇収録されている。本多はその一つで、青銅器についての関野雄(講談社世界美術体系第八巻)の言葉を引用しているが「製作された当時の殷周銅器は『磨きたての真鍮の洗面器』のようにピカピカ金色に光ったものであり、『美しいというより、むしろグロテスクなもの』であ」った。現代人には抵抗がある光景だが、上品な「青」銅ではなく「赤」がねの器にこそ当時の人々は力を感じたのであろう)

美濃の窯址   
「東海ゆうびん」一月号  随筆( )    

正月早々   
「中日新聞」一月四日夕刊  随筆( )  

園池さんのこと   
「東京新聞」一月一〇日夕刊  随筆(  園池公致〔そのいけきんゆき〕は学習院を中退、侍従職出仕として明治天皇に侍した。「白樺」創刊に参加。子爵。作品に「一人角力」など)

判彫り正月   
「静岡新聞」一月一八日朝刊  随筆( 。「浜松百撰」昭和五一年一月号にグラフ「作家藤枝静男氏の篆刻」。写真入りで製作の様子が紹介されている。藤枝の篆刻のことを立原正秋が「藤枝長老の盃と印綬」「落款と陶器と酒」で書いている〔立原正秋『夢幻のなか』昭和五一年新潮社に収録〕。また『大庭みな子全集』平成二年〜三年の表紙デザインに藤枝静男が大庭のために作った落款を使用〔特染め布装厚表紙に藤枝作の落款を空押し〕)

「座右宝」のことなど   
『志賀直哉全集第七巻』(一月一八日岩波書店)月報8  随筆(志賀直哉編集の美術図録『座右宝』の書誌的なことは、本随筆が詳しい。ただ編者の手元にある藤枝所蔵と同じ特製版『座右宝』には、大きなサイズの目録の他に小さな略目録も付いている。文中の老紳士が手にしていたのは「ほぼ菊判大、横綴の」とあるから、この略目録と符合する。藤枝はこの略目録についてふれていないが、略目録もついて完本か。編者の場合、特製版の方を最初に手に入れた。九州の古本屋からある日送られてきた目録で見つけた。興奮して足元を見られないよう冷静を装い確認の電話を入れたが、いささか語尾がふるえていたかも知れない。その後一度も特製版を見ることはない。編者の家宝といえようか。二分冊の並製は時々出てくる。特製版にくらべると割高だったが、資料として並製も購入した。漆箱入り特製版には二枚続き、三枚続きの大判写真も含まれている。その一つに龍安寺石庭があり、そこに写っている石庭には白砂利は敷かれていない。「悪口」昭和五四年で書いている。「『座右宝』に写されたころはもちろん、私がはじめて見たときにも、今のように厚ぼったく仰山に敷きつめられた砕石の白砂利などなかった。ましてや熊手で石のまわりを円形になぞったり全体に筋目をいれたりして海に浮かぶ島さながらに見立てた演出なんかありはしなかった」。そしてこうも書く。「あれはもともと建物と塀の間に細長い空地ができたから石を気持ちよいように配置して開放的に落ち着いた目のやり場をつくっただけのものだろう。すばらしく美しい。しかし作らせた偉い坊さんは、まさかあの庭に禅の真諦があると弟子に教訓したわけではあるまい。悟るつもりなら山のなかの樹下石上に座ってやぶ蚊に食われていろといっただろう」。この藤枝の見解はその通りであるかも知れない。/志賀は『座右宝』序文の末尾に「今の美術史家が疑問としてゐる絵が一つあるが、私はその疑問に疑問をもってゐるので、それらは其儘入れることにした」と書く。この自分の眼に確信を置く志賀の姿勢は、藤枝に受け継がれたといえよう。「勝手な読書」昭和四五年で「ただ私は、暗黙のうちに氏〔志賀直哉〕の人生に対する態度や、美術に対する態度を学んだだけです。だから私は、よけい先生だと思っているのです」と書いている。/「志賀直哉歿後十年」昭和五六年の「座右宝」の部分は本随筆の改稿。「前号『志賀直哉歿後十年』への訂正その他」同年の項参照。/なお『座右宝』については、NHK日曜美術館「志賀直哉の眼・文豪がみた美の精華」がある。編者が見たのは 1996.12 再放送。   なお藤枝所蔵の『座右宝』は平成八年奈良県立美術館で開催された「志賀直哉の空想美術館」展にも出展され、その図録で『座右宝』の内容が写真入りで詳しく紹介されている。なお『座右宝』については「本との出会い」昭和五一年でも取り上げている)

阿弥陀如来下向す ─載随筆「雑記帳から」連載1  
「ちくま」二月号  随筆(

志賀直哉文学紀行─個性に貫かれた風景   
『現代日本文学アルバム6 志賀直哉』二月一日学習研究社・本書には昭和五五年刊の普及版がある。 (「 志賀直哉紀行 」として ・『現代日本紀行文學全集補卷3』昭和五一年ほるぷ出版に収録。直哉が住んだ三軒長屋を取材する藤枝と同行の平野謙・本多秋五、「観玄?」の掛軸の前で歓談する上司海雲・藤枝・本多のスナップ写真などが挿入されている。/「麻布三河台」の章で、園池公致の名がみえるが、この年正月に亡くなっている。「園池さんのこと」がある。「座右宝」については「『座右宝』のことなど」の項参照。/「松江」の章の里見?『怡吾庵酔語』は昭和四七年に中央公論社から刊行。「学者まかせ」昭和四七年、「里見さんの恩」昭和五三年でも同書を取り上げている。藤枝が引用している志賀直哉と里見?が橋の上で引っ張り合う場面は「家を出たものの」にある。余談になるが、そこで里見が「大正六年だったかに『或る年の初夏に』という題の短篇を書いた」とある。偶然の類似か、藤枝に「或る年の冬 或る年の夏」がある。云えば立原正秋には「その年の冬」がある。/「赤城山」の章で「私は大正十年と昭和六年の二回赤城にのぼって」と書いているが、「或る年の冬 或る年の夏」で主人公寺沢は赤城山に登り自殺志願者と間違われる。/「奈良」の章で志賀直哉「万暦赤絵」の一節、中国の青銅器を「これは鯱だ」と形容する部分を引用している。志賀が青銅器を見て帰宅、昂奮して話す場に藤枝は丁度立ち会っている。「奈良の夏休み」昭和三二年にそのときの様子を書いている。この「万暦赤絵」収録の『万暦赤絵』は昭和一一年刊。梅原龍三郎の書いた題字を木版摺りにした、活字の大きな洒落た本である。青銅器では「在らざるにあらず」昭和五一年で青銅器に惹きつけられ「たいしたもんだ」と心のなかで繰り返す主人公を登場させている。東大寺塔頭の勧進所で「『観玄?』の大幅をはじめて眼のあたりに見る」とある。このことでは「庭の生きものたち」昭和五二年、「いろいろのこと」昭和五五年の項参照。「観玄(?)」は藤枝静男の書き初めの定番の一つであった。「?」は「虚」に同じ。「観玄?」の出典については、「庭の生きものたち」昭和五二年で藤枝が書いている。/最後の「熱海と東京」の章で志賀が「批評家なんて無用の長物だ」と言い捨てる様子を書いているが、このことは「仕事中」昭和三二年でも。/なお本アルバムに平野謙も「志賀直哉とその時代」を書いている)

われら落第体験派"全員集合"
「週刊朝日」二月四日号  アンケート(単行本未収録)

杉山二郎著『木下杢太郎』 ─丹念に追求した評伝・伊東に生まれ育った異才  
「静岡新聞」二月八日  書評  (  「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」昭和五四年で、高校時代図書館に通い、木下杢太郎・木村荘八共著『大同石仏寺』を熱心に読んだことを書いている。木下は明治一八年静岡県伊東市生まれ、昭和二〇年歿。詩人.・作家・美術史家。医学者としても優れ、愛知医専、東北大、東京帝大などの教授を歴任。皮膚科専攻、ハンセン病の権威者。愛知医専教授着任は大正一三年で、藤枝の兄秋雄が在学していた時にあたる)

『藤枝静男作品集』あとがき   
『藤枝静男作品集』(二月一〇日筑摩書房)  自著あとがき(「これが私の全小説である。顧て才能の乏しさと生産の貧弱を恥じるほかないけれど、一方には一人の人間が生涯に思いつめて書かなければいられないというモティーフがそんなに沢山あるはずがないという気もある」とある。同じことを「隠居の弁」でも書いている。

洋服屋ほか ─連載随筆「雑記帳から」連載2  
「ちくま」三月号  随筆(   文中のHについては「落第仲間」昭和四一年で「〔千葉医大の〕一年上に林君がいた。そこで今度は二人して家を借りて」とある。また「三度目の勝負」昭和四八年に「八高の二級上で東大一本槍連続落第組の林」とある)

追憶   
「学鐙」三月号  随筆(   メソジスト教会の福島牧師について書いている。福島が癇癪持ちであること、羽織袴のこと、「ウイルキンの野郎」といって外人牧師と喧嘩したこと、英語の手ほどきをうけたことなど「雄飛号来たる」の新田牧師のモデルであることは間違いない。ただし「雄飛号来たる」の項でも書いたが、福島の藤枝着任は大正六年であり牧師館建設や雄飛号飛来のあとである。/「福島さんの世話で東京の中等学校に入学した」とあるが、そのいきさつについてははっきりしない。「雄飛号来たる」「少年時代のこと」の項参照。また中等学校ではなく正しくは成蹊実務学校である。/兄秋雄が三高受験の際その下宿に泊めてもらったという、福島牧師夫人の甥北川冬彦のことがある。編者が北川冬彦で頭に浮かぶのは「馬」と題する九文字の詩である。「馬  軍港を内蔵している。」 「満州であったかシベリアであったかを背景にした氏の反戦の長い詩を、私は心にとめて読んだ」とあるが、それは「翅蟲の群れ」のことであろうか。詩集『いやらしい神』昭和一一年に収録されている。本の題名になった作品「いやらしい神」について詩人自身の思い出話がある。「当時、反戦詩を大ぴらに書くことは身を危険にさらすことで、私としては、判る人には判って貰えればそれでいいと思って書いた。願わくは検閲当局には判って貰いたくないと思っていたが、どうやら判らなかったらしく、発表された雑誌に何の手入れもなくて済んだのである」。「翅蟲の群れ」については、作者解説に「小説として書いた」とある。これより七年前の昭和四年刊行の詩集『戦争』ではストレートに反戦をうたっている。「義眼の眼にダイヤモンドを入れて貰ったとて、何にならう。苔の生えた肋骨に勲章を懸けたとて、それが何にならう。腸詰をぶら下げた巨大な頭を粉砕しなければならぬ。腸詰をぶら下げた巨大な頭は粉砕しなければならぬ。その骨灰を掌の上でタンポポのやうに吹き飛ばすのは、いつの日であらう」。義眼と云うことでは「空気頭(初稿)」の白黒眼鏡男は義眼の傷痍軍人を連想する。またこの義眼の傷痍軍人の眼の威力、ピカリと一瞥ということでは、前出の「翅蟲の群れ」の登場人物佐々木の左眼は妖しい光を放つ。北川冬彦は本名田畔〔たぐろ〕忠彦。明治三三年生まれ、平成二年歿。『北川冬彦詩集』昭和二六年宝文館は装幀林武。それまでの詩集の表紙も中扉にカットとして挿入され、「著者の解説」まで巻末にある。魅力的な一冊である)

二流品を好く理由など ─連載随筆「雑記帳から」連載3  
「ちくま」四月号  随筆(小見出し 二流品を好く理由・空な模倣・詔勅と占領との間。 それぞれの見出しを独立させて「 二流品を好く理由 」「 詔勅と占領との間 」「 空な模倣 」  二流品ということでは、「田紳有楽」で柿の蔕が自分が住まう池を見回して「まずは気楽で、景色もわるくない。一等地でもないけれど四等地でもない」と語る。「詔勅と占領との間」で「あの空白期に遭遇した人々の肉体と精神を如実に描いてくれた人が一人もいない。誰か書いてくれぬか」と藤枝は書く。この翌年、天皇の記者会見を見てまた書く。「あの状態を悲劇にも喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい」東京新聞文芸時評。/詔勅から連合国軍による占領に至る経緯の概略は次の通り。八月一四日、日本降伏の旨を中立国を通じて通告し勅語発布。八月一五日、国民に向けての「玉音放送」。八月一六日、日本政府陸海軍に停戦を命ずる。八月一七日、天皇、支那派遣軍と南方軍に停戦の勅旨。八月一九日、関東軍とソ連軍が停戦交渉。フィリッピンに停戦命令届く。八月二六日、満州での戦闘終わる。八月二八日、テンチ米陸軍大佐以下一五〇名が横浜に初上陸し連合国軍本部を置く。以後全国で上陸相次ぐ。進駐兵力は最大で四三万人。八月三〇日、マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。九月二日、日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。なおドイツやオーストリアがそうであったように、米・英・ソ・中で分割統治する案があったが実行されなかった。以上『ウイキペディア』より。「玉音放送」については小森陽一『天皇の玉音放送』朝日文庫が詳しい。玉音放送CD付き)

異床同夢    
「文藝」四月号  小説(創作集『異床同夢』あとがきに「『武井衛生二等兵の証言』『異床同夢』は浜松の友人竹下利夫氏からうかがった経験談が材料になっている。事実そのままでないことは勿論である」とある。竹下氏は藤枝の随筆に度々登場するTさんである。「武井衛生二等兵の証言」の項参照)

 

 

時評─佐伯彰一「サンケイ新聞」三月二五日夕刊     

収録─創作集『異床同夢』・『藤枝静男著作集第四卷』

  小川国夫小観  
「群像」四月号特集・現代作家論  随筆(冒頭小川国夫からの手紙に「自分はいま三つの筋書きをもっている」とあったことが紹介されている。後年まったく同じことを、小川は講演で語っている。その軸のブレなさは、創作する者にとって教訓的である。/藤枝は「絵画ばかり持ち出すのは迷惑かも知れないが」とあとでことわりながら「小川国夫の文体描写がルオーの強い決断力に富んだ筆触色彩に似ている」と書く。このことは書評「アポロンの島」昭和四二年でも「遠近なしで、遠い山も脚下の草むらも同一の光をはねかえしている」と絵に例えている。/キリストの描き方について、小川国夫と遠藤周作とを対比していて興味深い。藤枝も書くように、無宗教者にとっては「とやかく云う資格はない」。ただ、寄って立つ信仰のありようの相違だと想像するしかない。キリスト教については「遠望軽談」で率直に語っている。熱心な信者にとっては、焚書に値する内容と云えようか。総題「 小川国夫のこと 」の三「小川国夫小観」として 、「小川国夫小観─藤枝静男」として『小川国夫作品集別巻』昭和五〇年河出書房新社)

版画の値段   
「毎日新聞」四月五日夕刊  随筆(  油絵や日本画を「版画」にしたものがある。エスタンプという。それは要するに版画という工程による複製画、印刷物である。それは「版画印刷」であって「版画作品」とはいえない。作品としての『版画』とは、作者が当初から版の独自性を自覚し、その自覚に基づいて構想し、その構想を版の絵として表現したものをいう。未だにエスタンプと『版画』の別が定かでない人がいる。編者は残念に思う)

趣味としての篆刻   
「出版ダイジェスト」四月一一日号  随筆( ・『書を語る?』昭和六三年二玄社)  

志賀直哉の油絵 ─連載随筆「雑記帳から」連載4  
「ちくま」五月号  随筆(小見出し 志賀直哉の油絵・「リッチ」と「留女」のこと・中野重治『わが読書案内』について。 それぞれ見出しを独立させて 「 志賀直哉の油絵 」「 『リッチ』と『留女』のこと 」「 中野重治『わが読書案内』について 」   志賀の油絵ラッパ水仙とボケの花は「空気人形」昭和二六年のカットに使われている。また藤枝の死後であるが、『座右宝』とともに平成八年奈良県立美術館で開催の「志賀直哉の空想美術館」展に出展された。その図録にカラーで掲載されている。ちなみにサイズは二七センチ×四〇センチ) 

少年に帰るとき  
『ふるさとの文学3静岡』(四月二五日 文京書房)  随筆(単行本未収録)  

小川国夫─キリストの幻影を追って放浪する巡礼者  
右同『ふるさとの文学3静岡』  随筆(単行本未収録  本書に小川国夫が「故郷の中の自分」「藤枝静男─十六年前と今」を書いている)

曾宮氏のこと   
『曽宮一念の画業展』図録(曽宮一念の画業展 四月二八日〜五月三一日 浜松市美術館   曾宮一念については「日曜小説家」昭和三七年の項参照。曾宮の作品「虹」については、「虹」昭和五三年がある。昭和六二年、静岡県立美術館開催の「曾宮一念」展に「虹」も出展された)

道具屋の親爺   
「風景」五月号  随筆(  道具屋の主人が蒙古やチベットで特務機関をやっていたとある。このことでは「田紳有楽前書き(二)」昭和五〇年に日本国密偵山村三量が登場する。山村三量のキャラクターのヒントはこの親爺との出会いがあったからか。もっとも「田紳有楽」の参考資料の一つ『秘境西域八年の潜行』の著者西川一三その人が特務調査工作員であった)

「曾宮一念の画業展」を見る   
「静岡新聞」五月三日朝刊  随筆(「曾宮一念の画業展」 4.28 〜 5.31 浜松市美術館  

緑の光   
「サンケイ新聞」五月四日朝刊  随筆(   孫からチリメンワカナ、カワニナ、マシジミもタニシと同じ胎生だと教えられ「感謝した」と書く。このことでは「田紳有楽」でも、滓見から「『これから僕の処世術を、僕の副業とする骨董品の買い出しになぞらえて教えますから、どうか参考にして下さい』と云ったので感謝した」とある)

志賀直哉と築山殿のこと ─連載随筆「雑記帳から」連載5  
「ちくま」六月号  随筆(小見出し 志賀直哉と築山殿のこと・志賀氏と禅のこと。 それぞれ見出しを独立させて 「 志賀直哉と築山殿のこと 」はそのまま「志賀氏と禅のこと」は「 志賀さんと禅のこと 」と改題して ) 

セザンヌの色彩「セザンヌ展」   
「文藝」六月号  随筆(「セザンヌ展」 3.30 〜 5.19 国立西洋美術館 「 セザンヌの色彩 」として  「好きな絵」昭和三九年の項参照。「藤枝静男はセザンヌが一番好きだったのではないか」とは、藤枝と親しかった画廊主の言。本号に阿部昭との対談「作家の姿勢」があり冒頭「セザンヌ展」を話題にしている)

風姿蔵骨器抄─近江風土記の丘「蔵骨器展」をみて   
「藝術新潮」六月号  随筆(「 日野市大谷古墳出土蔵骨器 」として   昭和四三年に「骨壺自慢」がある)

薬師寺東院聖観音 ─連載随筆「雑記帳から」連載6 ( 完 )   
「ちくま」七月号  随筆(小見出し 薬師寺東院聖観音・二人組強盗。  それぞれの見出しを独立させて 「 薬師寺聖観音 」「 二人組強盗 」

瀧井孝作著『志賀さんの生活など』 ─半世紀の交友の追憶  
「サンケイ新聞」六月二四日夕刊 書評(  『志賀さんの生活など』には、藤枝の作品「イペリット眼」「痩我慢の説」「犬の血」が候補になったときのものも含めて瀧井の芥川賞選評が収録されている)

受賞のことば   
「新潮」七月号  随筆(『愛国者たち』で第二回平林たい子賞受賞。単行本未収録。   平林たい子といえば藤枝が「一得」昭和三九年で書いている。「『掌中果』というたった二十枚くらいの短篇が『群像』の合評会〔昭和三二年八月号〕でとりあげられたとき、平林たい子氏が『こういう資質が現れて来たら今の作家はひとたまりもありませんよ』というような凄い発言をされ、同席の圓地、佐多両氏がアッケにとられている記事がでた。これには讀んだ私も仰天した」)

田紳有楽前書き   
「群像」七月号  小説(三三枚「私は池の底に住む一個の志野筒型グイ呑みである」文庫一五頁から「蝦蟇を持ってこい、皮剥きを持ってこい」文庫三七頁まで。 単行本『田紳有楽』として纏める際、この「三三枚」は書き加えが目立つ。細かな加筆は略すが、文庫三三頁の「勿論本音はその奥にある」から「弥勒さんを待つくらいの腹づもりはしているのである」と、「地中すべては深い眠りのなかにあった」文庫三六頁から「蝦蟇を持ってこい、皮剥ぎを持ってこい」文庫三七頁の部分はこの初出にはない。/「柿の蔕」は高麗茶碗の一種。柿の蔕と呼ぶのは、茶碗を伏せた形が柿の蔕を思わせるところからきている。「一等地でもないけれど四等地でもない」とある。このことでは「二流品を好く理由」昭和四九年がある。/ところで院敷尊者の院敷がインチキのもじりであることは前に書いた。この院敷について少し整理したい。この初出では鎌倉時代、院敷が池に身を投じて初代、五百年後、江戸時代の乞食黙次が院敷を撲殺して二代目。ところがこのあとの「田紳有楽前書き(二)」「群像」昭和五〇年四月では、サイケン・ラマが黙次と名前を変え敗戦日本を放浪していて院敷を撲殺し二代目。また「田紳有楽(終節)」昭和五二年一月では黙次の名前は出てこないが、サイケンを絞め殺して丹波・滓見Bが四代目院敷となる。以上内容的に食い違いがあった。単行本『田紳有楽』で次のように整理された。七〇〇年後の日本敗戦の一年前、乞食黙次が院敷を撲殺して二代目院敷。そしてさらに日本に渡来したサイケン・ラマが黙次を殺害して三代目院敷。この三代目院敷即ちサイケンの首をしめて丹波・滓見Bが四代目院敷となる。私倍増ならぬインチキ倍々々増である。そしてまた、サイケン=滓見〔藤枝の本名勝見の当て字〕=滓見A号〔柿の蔕〕=滓見B号〔丹波〕はみんなお仲間なのである。/なお五十六億七千年後の弥勒菩薩下生に立ち会うため、命長い大蛇に身を化して池に住みつく話や御櫃納めのことは、静岡県御前崎市浜岡町佐倉の桜ヶ池の伝説の内容に大凡そっている。/鰻が「今度の生まれかわりは熊切村の杉の木」とあるが、天竜川の支流の気田川の支流に熊切川がある。かってこの熊切川に沿って熊切村があった。昭和三一年犬居町と合併し春野町、平成一七年に浜松市に編入合併。「選挙」〔執筆年月不明として『落第免状』に収録〕で熊切村の村長選について書いている。水母で命をつないでいる大鰻が出てくる。「土中の庭」昭和四五年の沼の主の大鰻は「章」を戦慄させる。/グイ呑みとC子の生物と死物の結合ということでは、中上健次との対談「新しい文学と私小説」昭和五一年で藤枝は「ありうることとして、リアリズムとしてあれは書いているんです」と語っている。また生物と死物といえば「みな生きものみな死にもの」昭和五四年を連想する)
 

 

時評─立原正秋「東京新聞」六月二五日夕刊(『夢幻のなか』昭和五一年新潮社・『立原正秋全集第十一巻』角川書店)・佐伯彰一「サンケイ新聞」六月二六日夕刊・上田三四二「群像」八月号  
収録─「田紳有楽」に同じ。

  小川国夫のこと(半ば冗談に)   
「国文學」七月号  随筆(総題「 小川国夫のこと 」の二「 藤枝と小川君(半ば冗談に) 」として  「半ば冗談に」と云う言い方では「フランクフルトのルクレツィア─半ば冗談に埴谷雄高氏へ」昭和五〇年がある。小川国夫とは対談「わが風土・わが文学」昭和五二年があり、また小川に藤枝静男論をまとめた『藤枝静男と私』平成五年がある)

聖ヨハネ教会堂   
「海」七月号  小説(「静岡新聞」昭和四八年九月六日発表の随筆「聖ヨハネ教会堂」の小説化。室井達三郎は「添田紀三郎のこと」昭和四六年の添田がモデル。随筆「聖ヨハネ教会堂」では本名で書いている。「私」が女給に「あハハ、これ飲めだってさ」と笑われる場面は、「或る年の冬 或る年の夏」でも使われている。モデルについての本書の立場は「春の水」昭和三七年の項に書いた)
 

 

時評─「田紳有楽前書き」の時評で共に論じられている。

収録─創作集『異床同夢』・『藤枝静男著作集第五巻』

 

憎まれ口   
「文芸家協会ニュース」八月号「会員通信」爛  随筆(「憎まれ口」の二として   「本の口絵や広告に作者の写真を出すのが当たりまえのようになっている」「いやに気取った自分自身の風貌ポーズを広告で見たら冷や汗がでるだろう」「出版社や広告係りに同調して自己の肉体を売ることには僕は反対である」と書いている。しかしこの少し前に刊行された『藤枝静男作品集』には、赤城山大沼の桟橋にポーズして立つ著者近影が口絵としてある。またこのあと昭和五一年から五二年にかけて刊行の『藤枝静男著作集』には、全巻に著者近影が添えらている。その広告パンフレットにも気取っていないとはいえない作者の写真が堂々と掲げられている。そもそも、処女作品集の『犬の血』の口絵は庄司肇も絶賛した著者近影であった。これら写真が残されたことは編者にとって喜びであるが、「藤枝さん、どうなっているの?」と、ちょっと「憎まれ口」を云ってみたくもなる。/自分の原稿料を各雑誌別に公表している。「サンデー毎日」九月二二日号「サンデー・トピックス」欄がその?勇気?を取り上げている。「憎まれ口」の一は、昭和四八年六月発表の「憎まれ口」)

また接吻された ─北欧を旅して 
「東京新聞」八月一七日夕刊・「中日新聞」八月二一日夕刊 随筆(  「田紳有楽前書き(二)」の北欧旅行の部分はこの旅行の体験からであろう。但し単行本『田紳有楽』としてまとめられる際、この北欧旅行の部分はカットされた。この旅行の大きな成果の一つは、埴谷雄高絶讃の「伝ルクレツィア像」を見ることが出来たことであろう。「フランクフルトのルクレツィア」昭和五〇年の項参照。接吻ということでは、昭和四五年に小説「接吻」がある)

北欧の風物など・上   
「静岡新聞」八月三一日朝刊 随筆( ・『酔っぱらい読本・陸』昭和五四年講談社)

北欧の風物など・下   
「静岡新聞」九月二日夕刊  随筆(右同 「田紳有楽前書き(二)」群像昭和五〇年四月号の初出では、この北欧旅行の体験を素材にした記述がある。単行本にまとめられる際その部分はカットされた。その箇所の一部を本随筆を補足するものとして以下紹介する。「広漠たる荒海に浮かぶツンドラと氷河の島を眺めた。氷河の先端に近いあたりに石炭採掘場らしい建物が小さくかたまり、そのかたわらの宿舎から数条の煙がちぎれながらたちのぼっていた。冷たい強い風が、あたかも深い呼吸をするように脈を打って地上を吹いていた。通過しながら眼をこらしたが人影はまったくなかった」「ゆるい起伏をもって広がる四辺のあちこちに貧血した白っぽい草が生え、浅い水溜まりの岸または水にすこし入りこんだあたりには菲弱い灌木の群が細かい葉をまばらにつけて風に吹かれていたが、露出した地上の大部分は、岩から剥ぎこぼれたらしい板状のギザついた石ころの堆積であった。どれもこれも、その表面は白鉛をべったりと塗りつけられたような鈍重な光を放って転がっていた。しかしそれは全体としては黄褐色を帯びて視界から遠のき、更におなじような低い丘で区切られ、それらを超えた彼方からは北極海の海鳴りが、風で煮えたつような不断の咆哮を重く単調に響かせていた」「乏しい生きものたちが、お互い無関係のまがいなしの自然のなかで、短くて単純な生死の交替をくりかえしている。すべてが、のっぺりし、さっぱりしていた。怖しくもあった」。/なお本随筆ではふれていないが、この旅行で埴谷雄高絶賛の「伝ルクレツィア・ボルジア」像と対面している。「フランクフルトのルクレツィア─半ば冗談に埴谷雄高氏へ」昭和五〇年の項参照)

隠居の弁   
「泉」九月秋号(第六号)  随筆(「文學界」昭和四六年発表の同題異文があり間違えやすいので注意。なお『藤枝静男著作集第三巻』初出一覧で「文學界」発表のものも昭和四九年になっているが誤り。赤ちゃんが肝油液を甘露のようにむさぼり吸ったことは「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年でも書いている。/「どうしても書かなければならないというモティーフが一人の人間にそう沢山あるはずがない」は編者の座右の銘である。時に編者は己の才能の乏しさの弁護に使ったりするが、勿論藤枝静男のそれは、そうした消極的意味合いではない。『藤枝静男作品集』あとがきでも同じことを書いている。 

写真集『ふるさとの百年』推薦文   
「静岡新聞」九月二七日  推薦文(単行本未収録)

内田六郎さんのこと   
「静岡新聞」一〇月五日朝刊  追悼文(「内田六郎さんのこと」の一として  内田は第八高等学校第五回卒業〔藤枝静男は第二〇回〕。静岡県榛原郡吉田町出身。産婦人科医。著書に『硝子繪』。浜松市美術館所蔵のガラス絵は内田の寄贈品が核になっている。浜松市名誉市民。藤枝静男との交流は深かった。Uの仮名で随筆に度々登場している。句集に『鶴を待つ』昭和四三年がある。享年八一歳)

吉村昭著『冬の鷹』 ─良沢の淋しい死と玄白の華やかな死  
「週刊読書人」一〇月七日号  書評(

阿部昭著『無縁の生活』 ─対象を捩じ伏せる力  
「群像」一一月号  書評(  阿部昭に関しては対談「作家の姿勢」昭和四九年、「文芸時評」昭和五〇年で「人生の一日」「水のほとり」。また『阿部昭全作品』内容案内パンフレットの推薦文「阿部君の作品」がある。推薦文は『同作品集3』昭和五九年の帯文に使われている)

小川君との初対面   
『小川国夫作品集第二卷』(一一月河出書房新社)付録  随筆(「 小川国夫のこと 」の一として   文中小川の初訪問を「昭和三三年のことだ(そうだ)」と書き、また『藤枝静男著作集』の藤枝静男年譜では「昭和三三年三月」のこととなっているが、「昭和三三年四月」が正しい。このことでは、山本恵一郎『年譜制作者』平成一〇年がくわしい。小川国夫の母の弟が八高で藤枝静男と同級、平野謙や本多秋五と文乙同組で元検事総長竹内寿平であったとある。昭和五年刊の『第八高等学校一覧』によれば、竹内は平野・本多と同組ではなく文甲である。平野・本多は文乙。甲は英語を第一外国語、乙は独語を第一外国語。「静岡新聞」昭和五六年一月二六日に藤枝の竹内に対する談話がある)

虚子のレコード   
『高浜虚子全集第一巻』(昭和四九年毎日新聞社)月報     随筆(  「俳句四季」三号昭和五九年三月に、同題で本随筆を要約したものを書いている)

みんな同じ   
「冬休みの友・中学一年」(編集 静岡県校長会・静岡県教職員組合・静岡県出版文化協会)一二月一〇日  随筆(

内田さん   
「松」一二月冬号  追悼文(「内田六郎さんのこと」の二として


『藤枝静男作品集』  
昭和四九年二月一〇日  筑摩書房刊             
装  幀 利根山光人
年  譜 藤枝静男自筆(文末に昭和 ・ )
付  録 平野謙「作品集『犬の血』のこと」・川村二郎「藤枝さんの近作」・高井有一「小説の主役」中野孝次「藤枝さんのこと」・江藤淳「旅の思い出」
収録作品 路/イペリット眼/家族歴/文平と卓と僕/痩我慢の説/犬の血/雄飛号来る/掌中果/阿井さん/明るい場所/春の水/ヤゴの分際/鷹のいる村/わが先生のひとり/壜の中の水/魁生老人/硝酸銀/一家団欒/冬の虹/空気頭/欣求浄土
あとがき 藤枝静男

 

『藤枝静男作品集』書評
安原顯「レコード芸術」五月号(『まだ死ねずにいる文学のために』昭和六一年筑摩書房)・匿名「読売新聞」三月一八日朝刊





『現代の文学 藤枝静男01・秋元松代 』  
昭和四九年二月一六日  講談社刊
装  幀 横山明・依岡昭三巻頭写真 野上 透 
巻末作家論 桶谷秀昭「絶対感情と『私』」
年  譜 無記名
月  報 小川国夫「地熱─藤枝静男」
収録作品 家族歴/ヤゴの分際/鷹のいる村/わが先生のひとり/壜の中の水/硝酸銀/空気頭/欣求浄土/私々小説




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