昭和五〇年(一九七五年)   六七歳

「一枚の油絵」を『文藝』一月号に、「プラハの案内人」を『新潮』一月号に発表。一月一七日、インド・ネパール旅行から帰国。『海』二月号で平野謙と対談「青春今昔」。二月、妻智世子、長女章子とインド旅行。三月、本多と真鶴に中川一政を訪ねる。丁度、耕治人居合わせる。三月二九日、講演「私の文学的立場」(藤枝市民会館・藤枝市立図書館主催)。「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」を『季刊藝術』四月春季号に、「田紳有楽前書き(二)」を『群像』四月号に発表。『文藝』四月号から六月号の読書鼎談を高井有一、吉田健一と担当。五月、「田紳有楽」が『文学一九七五』(講談社)に収録される。六月、浜名湖会(弁天島泊。伊場遺跡、浜松美術館を見る)。このとき埴谷が美術館でガラス戸にぶつかる。「志賀直哉・天皇・中野重治」を『文藝』七月号に発表。『波』七月号で立原正秋と対談「悟りと断念の世界」。七月、第三随筆集『小感軽談』を筑摩書房から、八月、創作集『異床同夢』を河出書房新社から刊行。同月、妻智世子と湖東旅行。このときのことを「琵琶湖東岸の寺」に書いている。石造三重塔の前でにこやかな妻智世子の写真がある。九月、平野、本多と能登半島旅行。七月から一二月まで『東京新聞』の文芸時評を担当する。その一二月の冒頭「これは文芸時評ではないが無関係ではない」と天皇の記者会見を批判。「文藝」一一月号で坂上弘と対談「文学と社会倫理」。この年、醍醐寺密教美術展、日本の名陶展を見る。なお「主潮」第三号に桑原敬治「ある自我の彷徨─『欣求浄土』への軌跡」がある。

  一枚の油絵   
「文藝」一月号  小説(「私」は「私が死んで、私の魂が」「沢山の波頭になっている父母兄弟たち」に迎えられることを空想する。蓮見重彦は『異床同夢』の書評に書く。「『白く崩れながら微かに笑いかけ』る一族の死者たちが、海と川との境いめにたちさわぐ『沢山の波頭』となって『私』を待ちうけているという途方もなく美しいこのイメージ」「妙に湿ってもいなければ必要以上に乾いてもいないある種の抒情を、まぎれもない言葉として語っている」。/藤枝に影響を与えた云々ではなく、波に姿を変えるということではシュペルヴィエルの詩「ロオトレアモンに」がある。新潮文庫『シュペルヴィエル詩集』堀口大学訳昭和三〇年に収録されている。小川国夫の愛読書であった。「藤枝文学舎ニュース第六五号で岩崎豊市が「一九五〇年代には、まだシュペルヴィエルの本は少なく、小川さんは青い海を見ながら、新潮文庫で読んだ」と書いている。そして小川訳の一部を引用している。「なぜなら、君は一八七〇年以降死んでいて、精液も出なくなり/それも平気と人を信じさせるため、波に身を変えているんだから」。同じ個所の堀口訳は「君は一八七〇年以来死んでしまってゐて精液も出なくなり/それでも平気だと人に思はせるため波にまで身をやつしてゐる事を思ふと」。以上余談。/「私々小説」昭和四八年と本作のモデルである弟勝見宣〔夫〕を「島田・金谷の美術家たち展」平成一八年島田市博物館が取り上げている。展示されたなかに「兄秋雄像」がある。写真を見て描いたのであろうか。同図録にやさしげな宣夫の顔写真・略歴・油絵作品が掲載され、解説〔安藤節雄「島田の美術家の思い出」〕で勝見宣夫とサークル「茜会」などの思い出、また安藤が藤枝静男宅を訪問したときのことなどが語られている。「弟が同じ墓に入った」とある。このことでは「黒い石」昭和五七年の項参照。また宣夫のあと耳鼻咽喉科医院を継いだ息子祐介も水彩画を描いており、「島田・金谷の美術家たち?展」平成一九年島田市博物館でその作品が展示された。同図録の勝見祐介の年譜によれば、「昭和一九年千葉市生まれ」とある。/「私々小説」の「私」の弟は「私の母校の千葉医大の解剖学教室に入り、ぎりぎりの生活費を近くの医院を手伝うことで得ながら勉強を続けた。しかし学位論文ができあがって教授に提出した終戦まぢかい或る夜千葉は空襲を受け、無責任にも教授の机の上に放り出されていたこの三年間の苦心の結晶は教室とともに焼け失せてしまった」。これに従えば祐介は、父宣夫が千葉で苦労していた時の誕 生ということになる。なお「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」に甥が登場する。モデルについての本書の立場は「春の水」の項に書いた)
 

 

時評─上田三四二「京都新聞」昭和四九年一二月二九日朝刊・高橋英夫「神奈川新聞」昭和四九年一二月二二日朝刊(『文学1976』昭和五一年講談社)・川村二郎「読売新聞」昭和四九年一二月二三日夕刊(『文学の生理─文芸時評 1973 〜 1976 』) 

収録─創作集『異床同夢』・日本文芸家協会編『文学1976』(昭和五一年五月講談社)・『藤枝静男著作集第二卷』

  プラハの案内人   
「新潮」一月号  小説(昭和四六年の「キエフの海」・「老友」同様、昭和四五年のソ連・ヨーロッパ旅行の体験を素材にしている。冒頭「私」の住まいに隣接する家屋の記述があるが、「またもや近火」昭和五七年でこの隣家の焼失が語られる。/文中の「同行のE」は江藤淳であろう。同様「S」は城山三郎であろう。ハシェク作「兵士シュベイクの冒険」の邦訳にはヨゼフ・ラダの優れた挿絵とともに『兵士シュベイクの冒険(上)(下)』昭和四三年筑摩書房がある。/ザトペックとチャスラフスカが「自由に与する声明に署名したかどで地位をうしなった」とある。それは一九六八年のチェコスロバキアの民主化運動、いわゆる「プラハの春」のとき二人が自由を求める「二千語宣言」の署名者であったために、続くソ連軍のチェコ侵攻のあと国内で冷遇されたことをさす。一九八九年の民主化により復権した。/映画「プラーグの大学生」はH・H・エーヴェルスの怪奇小説の映画化。カフカは一八八三年プラハ生まれ、一九二四年オーストリアで死去、代表作に「変身」。ヤン・フス〔一三六九〜一四一五〕はボヘミヤ出身の宗教思想家。フスの宗教運動はカトリック教会から異端として断罪され、杭にかけられて焼かれた。遺灰はライン川に捨てられた。)
 

 

収録─創作集『異床同夢』・『藤枝静男著作集第三卷』
  

  フランクフルトのルクレツィア─半ば冗談に埴谷雄高氏へ   
「海」一月号  随筆( ・埴谷雄高の「ルクレツィア・ボルジア」と共に『筑摩現代文学大系 埴谷雄高・藤枝静男集』に収録。埴谷「ルクレツィア・ボルジア─バルトロメオ・ダ・ヴェネツィアの絵」の初出は「潮」昭和四四年八月号。藤枝も書いているが埴谷はこの随筆を自著『兜と冥府』『作品集5』『欧州紀行』の三冊に収録している。/取り上げられている絵は、最近の画集では「遊女」のタイトルで出ている。一六世紀始めのテンペラ画で、サイズは四四×三五センチ。フランクフルト・アム・マイン市のシュテーデル美術館蔵。シュテーデル美術館にはフェルメール「地理学者」、ボッティチェッリ「女性の肖像」などがある。なおこの「遊女」のモデルに擬せられたルクレツィアは、「田紳有楽」に登場する法王の娘である。このことでは「田紳有楽前書き(二)」の項参照。/埴谷のこの作品に対する執着は本随筆に過不足なく描かれているが、中公新書『欧州紀行』の埴谷自身のあとがきを紹介する─「『ルクレツィア・ボルジア』の章は私の他の書物にすでに収められているけれども、バルトロメオ・ダ・ヴェネツィアという私達にこれまでまったく知られていない若い画家の仕事にひどくうたれた私としては、若くして亡くなったこの画家のこの作品をことごとに敢えて喧伝したくてここにもまた収めたのである」。/本随筆は藤枝の埴谷への友情の証であるとともに、両者の感性の違いを示している)

偽仏真仏   
「藝術新潮」一月号  随筆( ・『日本の名随筆別巻9 骨董』平成三年作品社に収録。「横好き」昭和四二年でも「入庵」の渾名の由来。藤枝が「一世一代の掘り出しもの」と自負する阿弥陀如来像については「阿弥陀如来下向す」昭和四九年がある。/なお藤枝から貰った「偽」如来像をめぐる後日談として水上勉が「私版・偽仏真仏」〔「藝術新潮」七月号〕を書いている。また水上は『藤枝静男著作集第六卷』月報にお礼に藤枝宅に持参した国東の石地蔵のこと「仏・眼識・それから」を書いている。『作家のインデックス』〔平成一〇年集英社〕の水上勉の頁にある仏壇に収まっている如来像はこのときのものと思われる。水上とのことは「仏さまの功徳(一)」「同(二)」「同(追加)」五月二日、五月九日、五月一六日静岡新聞・窓辺欄にも書いている。/また「太陽」昭和五四年二月号の特集・にせ物ほん物に「平安胎内仏─藤枝静男」〔談〕がある。この如来像を購入するきっかけになった胎内仏〔金銅千手観音〕の写真に、「いやぁ、だまされと思ったんだけど、つい最近、やっぱりほん物とわかってねぇ」という藤枝のご満悦の談話が添えられている。/なおこの時期書き続けていた「田紳有楽」は、偽物たちのオンパレードであった。偽物と云えば、島尾敏雄に「贋学生」昭和二五年があることを指摘しておきたい)

昭和五十年   
「静岡新聞」一月三日朝刊  随筆(  三方原の開拓農家への往診のことは「みんな泡」昭和五六年に書いている」)

インド瞥見   
「東京新聞」一月二九日夕刊  随筆(  インド旅行の同行者名簿によれば、「斉藤画伯」は版画家斉藤寿一、「辻村デザイナー」は辻村益朗。辻村は昭和五四年の中国旅行でも同行している。斉藤は「群像」昭和四八年度の表紙を担当。辻村はこのあと藤枝の著書の大半の装幀を担当。このインド旅行の際の携帯品目一覧を「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」昭和五四年の冒頭書いている)

ガンジス河・ヒマラヤ   
「静岡新聞」二月一日朝刊  随筆(  「いま或る小説を書いていて」とあるのは勿論「田紳有楽」である。「ヒマラヤを遠望する場面」とは丹波焼き滓見Bが空中高く放たれる場面である。「正面の彼方にカンチェンジュンガ、西にナンガパルバット、ダウラギリ、傾きかける満月を浴びた八千メトル級の聖なるヒマラヤの山々は、今や白く凝結してわが足下に沈もうとしていた」。/ちなみに『ヒマラヤ名峰事典』によれば、カンチェンジュンガとダウラギリは共にネパール・ヒマラヤに属する。ナンガパルバットはこの二峰から西に遠く離れて、パンジャーブ・ヒマラヤに属する。カンチェンジュンガの山名はチベット語でカン=雪山、チェン=大きい、ジュ=宝、ンガ=5、つまり五つの宝庫をもつ偉大な山であり仏教で言う五大宝蔵を意味する。ダウラギリの山名はサンスクリット語のダヴァラギリからきており、ダヴァラ=白い、ギリ=山、つまり白い山を意味する。ナンガパルバットの山名は同じくサンスクリット語を起源とし、ナンガ=裸の、パルバット=山、つまり裸の山。裸の山とは、急峻な雪の山体のなかに見える断崖となった巨大なむきだしの岩に基ずく。/藤枝静男は地図の上で語感もあってこの三峰を選んだのであろう。実際にこの三峰を同時に足下に眺めようとしたら、人工衛星並みの高みを必要としよう。なお藤枝がポカラから眺める事ができたのは、ポカラの北西七〇キロのダウラギリであったと思われる。またこの三年後になるが、「浜松百撰」昭和五三年二月号の「伝言板」欄で「一月二日の夕方と一月一六日の朝一〇時にNHKで再放送された?空からのヒマラヤ?という一時間番組があったのですが、その美しかったこと。とにかく非常に感激し、もう一度観たいので、もし、この番組をカセットテープに取った方がいたら、是非一日貸していただきたい」と藤枝は書いている。編者もまたポカラの地に立って、ヒマラヤを遠望したい)

奈良坂・高畑─頭塔の森の美しいみ仏たち   
『日本の旅路─ふるさとの物語8─奈良』(二月一日千趣会) 随筆(単行本未収録  頭塔の森は高校時代、本多・平野とキャンプを張った懐かしい場所である)

歴史一巡の文学的経験   
『平野謙全集第二卷』(二月二五日新潮社)付録  随筆(「 平野謙のこと─歴史一巡の文学的経験 」として  文中の平野謙『島崎藤村』昭和二二年八月一〇日筑摩書房北海道支社発行は平野の処女出版である。余談だがこの処女出版で平野は書いている「一番ガッカリしたのは、青山二郎の装幀だったことである。青山二郎と棟方志功とか戦時中装幀家としてハヤっていたが、私はあの二人だけにはたのむまいと決心していたにもかかわらず、出来上がるまでそれを知らなかったのだ」昭和二九年「私の処女出版」。藤枝静男は本書の「あとがき」にふれている。その「あとがき」で平野は「(昭和一八年の春)それが私の家族の一家団欒の最後であった」と書きその後の家族の転変を記述している。すぐ下の弟は満州調査部事件に連座して捕えられ、二番目の弟はガダルカナルで戦死、満州に嫁いだ下の妹は産後の精神錯乱で二階から飛び降りて重体、三番目と四番目の弟が学徒動員で海軍へ入団、弟の遺骨を静岡へ無理をして迎えに行った父は昭和一九年一月に死去、享年七三歳。その三日後、上の妹が死去。五月には平野にも召集令状、筋肉薄弱をもって六月除隊。検挙を避け大井広介の紹介で敗戦まで九州の炭坑。戦後、海軍の二人の弟は無事帰還、捕えられていた弟は出所・軍隊を経て親子五人連れで無事帰国、下の妹夫婦は心労と病気で長男一人を残して死去。平野は「一家の事情をながながと書いた。おそらくこの程度の辛労はどの家庭でもなめて来ているにちがいない」と結んでいる。/平野がその「新生論」で藤村の対社会的悪賢さを暴露したということでは、藤枝は「平沢計七・鷹野つぎのこと」昭和四年で、鷹野つぎ小説集『悲しき配分』の藤村の序文についてつぎのように書いている。「慕い寄ってくる女性作家志望者や女性読者の胸をくすぐりときめかさずに置かぬ名文であると云っていい。しかし、遠慮なく云えば、これは彼独特の意味ありげにねばねばと気取った、重々しくて中身のない傑作である」。/芥川龍之介の言葉「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった」は「或阿呆の一生」の「四十六 ?」にある。佐藤輔子〔すけこ〕は藤村初恋の人。なお昭和四〇年に「平野のこと」がある)

インドの弥生壷   
「陶説」三月号  随筆(筆者名が「藤枝静男・辻村益朗」になっている。九点の写真が掲載されており,写真撮影が辻村ということであろう。『小感軽談』あとがきに「インド・ネパール旅行でさんざん迷惑をかけたうえ装幀まで引きうけてもらった辻村益朗氏」とある。辻村はこのあと、藤枝の著書の装幀を多数手がけている。

志賀直哉氏と上司海雲氏   
「日本近代文学館館報」第二四号(三月一五日)  随筆( ・『作家のエッセイ2 人生の僅かな時間』平成一〇年小学館。上司海雲については「阿弥陀如来下向す」昭和四九年、「偽仏真仏」昭和五〇年、「いろいろのこと」昭和五五年、小説「庭の生きものたち」昭和五二年がある)

田紳有楽前書き(二)   
「群像」四月号  小説(五四枚「私は池底の最古参者、丹波焼き」文庫三七頁から「二階の主人にあんな売り込みをやっているのであろうか。それとも下っ引きスパイだなどと自称して売りこんでいるところを見ると何か勘づいているのだろうか。私は知らない」文庫六九頁まで。「それとも下っ引きスパイだなどと〜何か勘づいているのだろうか」は本初出にはない。/文末に「執筆にあたり西川一三著『秘境西域八年の潜行』〔芙蓉書房〕を参考にした。記して謝します─筆者」とある。単行本『田紳有楽』及び文庫では全体の最後に『陶説』と合わせて記している。『秘境西域八年の潜行』は上巻及び下巻の初版がそれぞれ昭和四十二年、昭和四十三年であるが版を重ねている。刊行当時かなり話題になった本と思われる〔現在中公文庫『秘境西域八年の潜行抄』がある〕。この本の利用につき出版社に問い合わせた経緯は「泡のように」昭和五三年で書いている。このとき藤枝は著者と連絡がつかなかった。平成二〇年二月八日の共同通信配信に「西川一三=太平洋戦争時の特務調査工作員、二月七日肺炎のため死去。八九歳。山口県出身。自宅は盛岡市云々」。/なおこの「五四枚」は、単行本『田紳有楽』として纏める際大きな変更がある。昭和四九年の北欧旅行の体験から書かれたと思われる部分がカットされた。すなわち「さてこのへんで長々と書いてきた私の身の上話を終わることにしよう。」に続く北欧旅行の部分が全面的に削除された。かわって「さてこのへんで」の前に「翌朝早く私はスパイ山村の懐におさまってザリーラ峠をあとにインドへ下って行った」文庫六五頁から「重たいと見えてすぐ捨ててしまった」文庫六六頁が書き加えられている。/「わからんものは丹波にしておけ」という格言については、柳宗悦『丹波の古陶』昭和三一年日本民芸館の序に同じ言がある。丹波焼きの鑑定は発掘調査の成果が乏しいこともあって、古窯のなかで難しく他と取り違えられることが多いという。/また文中の法王とサヴォナローラの話は塩野七生『神の代理人』〔昭和四七年中央公論社〕からとったと思われる。法王の言葉は旧約聖書の「コヘレトの言葉(伝道の書)」の章にあるが、その言葉の一つを使っての塩野の創作であろう。付記で塩野は「バルトロメオ・フロリドの日誌は著者の完全な創作である」と記している。このときの法王アレッサンドロ六世〔在位一四九二〜一五〇三〕は、歴代の法王のなかでも悪名が高い。法王庁の堕落を攻撃したサヴォナローラを絞首刑兼火刑に処し、人妻との間に四人の子供をつくり、自らのボルジア家の繁栄のために手段を選ばなかった。子供四人のうちの二人が、かのチェーザレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジアである。/「オム マ ニバトメ ホム」については、チベット仏教について書かれた本には「オーム・マニ・バドメー・フーム」とか「オム・マニ・ペメ・フーム」と表記されている。これは観音菩薩の真言である。この真言を唱えることで功徳を積み六道の内の良い区劃に転生できるとされる。/なお「大津絵の鬼」云々があるが、「瀧井孝作氏のこと」─初出では「古大津絵─瀧井孝作」  昭和二九年で内田六郎蒐集の大津絵「鬼の念仏」について書いている。大津絵の文献としては『大津絵図録』昭和三五年三彩社がすぐれている。/年増娘のシャンゴーの「ぽっちゃりと膨れた頬」とある。「田紳有楽」に登場する女性たちはこのぽっちゃりシャンゴーをはじめとして、出目金C子は肥った身体をプルプルさせ、ホステスP子はポチャついた柔肌で、バーダムバー・サンジューはオッパイの隆々と盛り上がった尻の太い裸の神様じゃあ、である。/「突拍子もないときに骨笛を吹いたり鉦を叩いたり」とある。藤枝静男自身どひょうしなところがあった。そのことを『藤枝静男著作集第一巻』月報「藤枝さんの調子」で阿部昭が書いている。/「天皇がイカモノの正体を現した」とある。このことでは「文芸時評」昭和五〇年の項参照。/丹波焼き滓見白はザリーラ峠で飛行の術をさずけられる。『秘境西域八年の潜行』にインドから宙を飛来したものだといわれる青銅製のドルチイ〔罪を清める杵〕が出てくる。焼物に空を飛ばせる構想の一つのヒントであったかもしれない。カンチェンジュンガ、ナンガパルバット、ダウラギリについては「ガンジス河・ヒマラヤ」昭和五〇年の項参照。)
 

 

収録─「田紳有楽」に同じ
 

  しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機   
「季刊藝術」四月春季号  小説(最後に引用している曾宮一念の詩は曾宮の随筆集『泥鰌(どじょう)のわた』昭和三九年創文社にある。この突如の引用についての富士正晴の「週刊現代」八月二一日号掲載の評が興味深い。藤枝は『日本近代文学大事典』昭和五二年で曾宮一念の項を担当したが、そのなかでもこの詩を引用している。/東名高速道路バスに乗っていて「わたし」は「不意に『ああ』と思」う。この旧東海道線のことは「尾崎一雄氏との初対面」昭和三二年でもふれており、「わが青春(8)」昭和四七年の項参照。/甥については「一枚の油絵」の項、藤相鉄道については、「わが青春(3)懐かしき軽便電車」の項参照。飛行機については「落ちた飛行機」五月三〇日静岡新聞・窓辺欄に書いている。/「おれはカアチャンと見たもの」とある。このことでは「平野断片」昭和三六年に平野が道で父に出会ったとき「あッ、お父チャンだ」と声を発する場面がある。/蓮實重彦は『異床同夢』書評で「これまで藤枝があまり語ることがなかった母親の記憶が、ハンケチの白さとして描かれるこの光景の美しさは尋常のものではない」と書く。たしかに藤枝は、母についてあまり語っていない。なお橋の記述はその通りである)
 

 

時評─富士正晴「東京新聞」四月二四日夕刊

収録─創作集『異床同夢』・『藤枝静男著作集第二卷』

 

古代人の生活の跡   
『ふるさと百話 第一三巻』(四月一五日静岡新聞社)  帯文(単行本未収録)

仏さまの功徳 ─「窓辺」欄連載(一)  
「静岡新聞」五月二日夕刊  随筆(単行本未収録 「偽仏真仏」にある水上勉への阿弥陀如来像の贈呈のこと)

仏さまの功徳 ─「窓辺」欄連載(二)  
「静岡新聞」五月九日夕刊  随筆(単行本未収録 水上がお礼として藤枝に石仏を贈ったことなど。このことは水上が『藤枝静男著作集第六巻』月報に書いている)

当てずっぽう   
『中川一政文集第一巻』(五月一五日筑摩書房)月報一  随筆( ・『夏炉冬扇─中川一政論集成』平成五年沖積社。 文中の吉井画廊「白樺派とその周辺─書画展」の会期は昭和四九年一二月一〇日〜一二月二四日。中川の作品では「草枯れし監獄の横」油彩 22,5 × 31.5 一九二〇年が図録に掲載されている。最後に「この頃の仕事を見ると、全身にトゲが生えた人間のようで気味の悪いところがある」と書いている。このことでは坂上弘と藤枝の対談「文学と社会倫理」昭和五〇年で「もうちょっと棘が生えたようにやりたいんですよ。人間というのは、ほかのものでもそうかもしらんけれども、丸くなって落ち着いて、それで消えていくという形もありますけれども、ほかのいろんな要素を含んでいる。頭の中にも持っているし、欲望も持っているし、自分でもよくわからないものも、ほんとうはおなかの中にあるから、それを書いてやろうと思っているんです。それを書けば、形にすると、なんだか棘が生えたような、へんなものになるんじゃないか」と語っている)

仏さまの功徳(追加) ─「窓辺」欄連載(三)  「静岡新聞」五月一六日夕刊  随筆(単行本未収録 今度出す随筆集の装幀の打ち合わせとあるが『小感軽談』であろう。装幀は辻村益朗。また文中の「醍醐寺密教美術展」は 3.18 〜 4.29 東京国立博物館)

尾崎さんのこと   旺文社文庫・尾崎一雄『まぼろしの記・他五篇』(五月二〇日旺文社)  解説(『尾崎一雄─人と文学』昭和五〇年三月永田書房に収録)

発奮奇談 ─「窓辺」欄連載(四)  
「静岡新聞」五月二三日夕刊  随筆(単行本未収録 下宿の押し入れにあったズロースが先住者の女飛行士のものだと下宿の婆さんから知らされて発奮した人の話)

落ちた飛行機 ─「窓辺」欄連載(五)  
「静岡新聞」五月三〇日夕刊  随筆(単行本未収陸 女飛行士の飛行機の墜落。この出来事は「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」のモティーフの一つ)

ゆで卵 ─「窓辺」欄連載(六)  「静岡新聞」六月六日夕刊  随筆(単行本未収録 幼い頃家族で蓮華寺池の西岸から富士見平に登って半日を楽しんだときのこと)

藤枝─静岡─東京 ─「窓辺」欄連載(七)  
「静岡新聞」六月一三日夕刊  随筆(単行本未収録 「少年時代」で書いている父と一緒に静岡の街に一斉に灯が点るのを眺めたことと、東京への進学。このことで成蹊実務学校に進んだのは「多分となりのメソジスト教会の牧師」「福島さんの世話によるものだったと思うが」と書いている。福島の勧め、そしてまた「渋谷道玄坂の福島さんの実家」を受験の宿として利用させてもらったことはあっても、息子次郎を東京に進学させるについては父鎮吉の主体的判断があったように編者には思われる。『藤枝教會九十年記念誌』の年表によれば、大正六年に福島重義牧師着任とある。藤枝静男が小学校四年生のときにあたる。「少年時代のこと」昭和四七年の項参照)

人をひきつけるもの   
『ふるさと百話 第一四巻』(六月二〇日静岡新聞社)  帯文(単行本未収録)

白ざくろ ─「窓辺」欄連載(八)  
「静岡新聞」六月二〇日夕刊  随筆(志賀直哉と白ざくろについては、「志賀さんのこと」昭和四六年、「白柘榴」昭和四七年がある。 単行本未収録)

文芸時評・七月号(上) ─迫る?妄想の格闘?─埴谷雄高「夢魔の世界」・べとつく女の甘え─宇野千代「八重山の雪」  
「東京新聞」六月二五日夕刊・「中日新聞」六月二八日夕刊  文芸時評( 「文芸時評 昭和 50 年6月 」として 4 。埴谷雄高「夢魔の世界」評の箇所が「詩人的才能を示す埴谷雄高『夢魔の世界』(『死霊』第五章)─藤枝静男」として『作家の世界 埴谷雄高』昭和五二年番町書房刊。さらにその一部が『埴谷雄高全集』全一九巻出版案内パンフレット) 

文芸時評・七月号(下) ─鮮烈な詩的感覚─三木卓「魔に擽られて」・?女の業?映す力作─高橋揆一郎「氷かんざし」  
「東京新聞」六月二六日夕刊・「中日新聞」六月三〇日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年6月 」として 。高橋揆一郎「氷かんざし」評の箇所が高橋揆一郎『観音力疾走・木偶おがみ』昭和五三年東京新聞出版局刊の帯)

志賀さん来浜 ─「窓辺」欄連載(九)  
「静岡新聞」六月二七日夕刊  随筆(単行本未収録 静男巷談の「小説の神様の休日」とほぼ同じ)

志賀直哉・天皇・中野重治   
「文藝」七月号  評論(このとき中野重治は藤枝静男宛に葉書を出している。(1)、(2)と番号をふったクセのある書体の二枚である。「も一枚を書いてしまってから、もう少し読んで、すると大分よむことになり、志賀さん関係のところ大分よくわかってきました。自分のこともよくわかってきました云々」。この中野の葉書を「高麗人形のことなど」昭和五四年で藤枝は引用している。/なお平野謙は『藤枝静男著作集第五巻』月報の「四方八方からの論」でこの「志賀直哉・天皇・中野重治」を高く評価している。また平野謙の日記がある。平野は昭和五一年五月に食道癌の手術を受け六月に退院。その自宅療養中の九月一九日の日記である。「藤枝静男ノ『田紳有楽』ヲ読了。ヨクワカラヌ。次手ニ著作集第一巻の志賀直哉ノ項目ヲ読了。ヤハリ『志賀直哉・天皇・中野重治』ニ感心ス」。平野は『田紳有楽』が谷崎賞を受賞したのであらためて読み直したのであろう。そして親友平野の感想は「田紳有楽」は「ヨクワカラヌ」で、「志賀直哉・天皇・中野重治」には「感心ス」であった。天皇については、「皇居拝観」昭和三五年、「明治村」昭和四一年と東京新聞文芸時評一二月号(上)の項参照。 

推理小説 ─「窓辺」欄連載(一〇)  
「静岡新聞」七月四日夕刊  随筆(単行本未収録 「古本屋ケメトス」とほぼ同じ)

泥棒 (一)─「窓辺」欄連載(一一)  
「静岡新聞」七月一一日夕刊  随筆(単行本未収録 「『泥棒三題』の2」昭和三一年で書いたこと)

随筆集『小感軽談』あとがき   
『小感軽談』(七月一五日筑摩書房)  自著あとがき(「屑同然の断片まで集めて入れてあることは確かだから、これで僕の気持を判断してもらっても文句はない。しかし何と云っても呑気で上澄み的な部分が多いことは気がさす。題に免じてお許し願いたい」とある。

泥棒 (二)─「窓辺」欄連載(一二)  
「静岡新聞」七月一八日夕刊  随筆(単行本未収録 「『泥棒三題』の3」で書いたこと)    

選挙 ─「窓辺」欄連載(一三)完  
「静岡新聞」七月二五日夕刊  随筆(単行本未収録 『落第免状』に「年月不明、未発表」として収録の同じ題のもの〔昭和四三年に記載〕とほぼ同じ)

文芸時評・八月号(上) ─鋭くて快い緊張感─阿部昭「人生の一日」・老衰と死の影漂わす労作─佐々木基一「交歓」  
「東京新聞」七月二五日夕刊・「中日新聞」七月三〇日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年7月 」として 。阿部昭「人生の一日」評の箇所が『阿部昭全短篇(下)』昭和五三年講談社刊の付録))

文芸時評・八月号(下) ─圧倒的な事実の重さ─林京子「二人の墓標」・好みな運びで読ませる─野呂邦暢「高く跳べパック」  
「東京新聞」七月二六日夕刊・「中日新聞」七月三一日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年7月 」として

遠州森町・天宮神社のナギ ─遠い古代が目前に  
「サンケイ新聞」八月二四日(サンデーファミリー版)連載企画「樹霊」  随筆(天宮神社のナギについては昭和四三年「木と虫と山」の項参照。『樹霊』昭和五一年人文書院刊に収録。本書には新装版〔平成九年〕がある)

文芸時評・九月号(上) ─モティーフに疑問─金石範「遺された記憶」・じめつかず清潔な仕上げ─中上健次「蛇淫」  
「東京新聞」八月二五日夕刊・「中日新聞」八月二九日夕刊  文芸時評(「九月号」として『文芸年鑑一九七六』(昭和五一年新潮社)、「 文芸時評 昭和 50 年8月 」として 。中上健次「蛇淫」評の箇所が『現代日 本の作家 24  中上健次』平成八年小学館刊に収録)

文芸時評・九月号(下) ─作品の背景しっかり─島村氏の「白い舞踏会」・気になる臭い貴族趣味─藤沢氏の「砕かれた光」  
「東京新聞」八月二六日夕刊・「中日新聞」八月三〇日夕刊  文芸時評(「九月号」として『文芸年鑑一九七六』、「 文芸時評 昭和 50 年8月 」として

創作集『異床同夢』あとがき   
『異床同夢』(八月二九日河出書房新社)  自著あとがき(「生きている以上そんなわけがない。自己の固有を小説で表現するためには、必然性ある新しい形式とやり方を考案しなければならないと思う」とある。

文芸時評・一〇月(上) ─埴谷氏の気合いに同感─江藤氏に答えて・迫力欠く生きた現実追求─江口幹「道化たちの柩」  
「東京新聞」九月二五日夕刊・「中日新聞」九月二六日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年9月 」として   「要するに私は残念ながら埴谷氏の哲学の深奥を理解することはできぬ。にも拘らず、私は芸術家のハシクレとして、氏の小説がまさしく小説であるという気合いをハッキリと感ずることができる」と書く。「小説気合い論」とでも云おうか)

文芸時評・一〇月(下) ─力こもった秀作─中上健次「岬」・前衛映画を思わす詩情─小松紀夫「酸漿」  
「東京新聞」九月二六日夕刊・「中日新聞」九月二七日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年9月 」として播磨   「文芸展望」一〇月秋季号  随筆(

井伊家下屋敷に泊って湖東三山をめぐる   
「旅」一〇月号  随筆(「 琵琶湖東岸の寺 」と改題して 妻智世子を伴っての旅行であったが、文中には「私と同行者二人」とあるだけで妻についての記述はない。もう一人は「八木君」とあるが写真家であり民俗学に造詣の深い八木洋行氏である。この旅行のときのことを「韓国の日々」昭和五三年でふれているが、その一節には妻が「ほんとにねえ」と嘆声をもらしたとある)

私の見たい名品─白天目に期待   
「朝日新聞」名古屋本社版一〇月四日朝刊  随筆(「日本名陶展─古代から現代まで─」 10.14 〜 10.26 愛知県美術館   「 私の見たい『秋草文壷』と白天目 」として  「田紳有楽」で、池の中のグイ呑みが泥にもまれて変容し「話に聞く室町期の名碗白天目の肌を連想させる」とある)

懐かしい村祭り風景   
『ふるさと百話 第一五巻』(一〇月六日静岡新聞社)  帯文(単行本未収録)

能登の旅 ─あきない海の眺め─平野、本多両氏を道連れに  
「静岡新聞」一〇月一一日朝刊  随筆(  四高との定期戦のことは「青春愚談」昭和四六年にある。本多が口ずさんだという四高応援歌〔南下軍の歌〕の歌詞は次の通り。「一、啻〔ただ〕に血を盛る瓶〔かめ〕ならば、五尺〔せき〕の男子要なきも、高打つ心臓〔むね〕の陣太鼓、霊〔たま〕の響きを伝へつつ、不滅の真理戦闘に、進めて鳴るを如何にせん 二、嵐狂えば雪降れば、いよいよ燃え立つ意気の火に、血は逆巻きて溢れきて、陣鼓響きて北海の、健児髀肉〔ひにく〕を嘆ぜしか、遂に南下の時到る 三、花は御室〔おむろ〕か嵐山、人三春の行楽に、現〔うつつ〕もあらで迷う時、西洛陽の薄霞、霞にまがふ砂煙、蹴立てて進む南下軍 四、平和はいづれ倫安〔とうあん〕の、秒時〔しばし〕の夢に憬るる、『痴人始めてよく説かん』、丈夫〔ますら〕武夫〔たけお〕は今日の春、花よりもなほ華やかに、輝く戦功〔いさを〕立てんかな」。相手方の応援歌である)

文芸時評・一一月号(上) ─安易と通俗避ける─坂上弘「優しい人々」・動物的な臭気ムンムン─中上健次「水の家」  「東京新聞」・「中日新聞」一〇月二七日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年 10 月 」として 。坂 上弘「優しい人々」評の箇所が坂上弘『優しい人々』昭和五一年河出書房新社刊の帯)

文芸時評・一一月(下) ─柔らかい清潔さ発見─佐多稲子「時に佇つ」・カラリとした印象に注目─大谷藤子「風の声」  
「東京新聞」・「「中日新聞」一〇月二八日夕刊  文芸時評(「 文芸時評 昭和 50 年 10 月 」として  『兵本善矩遺作集』を取り上げているが、「志賀直哉・小林秀雄両氏との初対面」昭和三二年で兵本)

御前崎・大井川 ─古い街道と灯台の岬の旅情  
『日本の旅路 ふるさとの物語6 伊豆・東海』(一一月一日 千趣会)  随筆(単行本未収録 「田紳有楽〔終節〕」で滓見A号貝谷歌舞麗にさそわれて、億山は御前崎灯台あたりまでドライブする)

先生─一高   
「潮」一一月号  随筆(単行本未収録 小学校時代の様々な思い出と、第一高等学校に願書は出したが、門を入って試験場を遠望しただけで帰って来たことを書いている。「泡のように」昭和五三年の項参照)

文芸時評・一二月号(上) ─みごとな構成と描写─野呂邦暢「一滴の夏」・同時代人の共感を呼ぶ─佐多稲子「時に佇つ」  
「東京新聞」・「中日新聞」一一月二八日夕刊  文芸時評(「一二月号」として『文芸年鑑一九七六』、「 文芸時評 昭和 50 年 11 月 」として 。野呂邦暢「一滴の夏」評の箇所が野呂邦暢『一滴の夏』昭和五一年文藝春秋社刊の帯。/なお本時評の冒頭「これは文芸時評ではないが無関係ではない」と一〇月三一日に行われた天皇の「生まれてはじめて」の記者会見を批判している。この藤枝の批判に共鳴して、伊藤成彦が「春秋」昭和五一年二・三月合併号に「『五勺の酒』と?ボロボロの駝鳥?」を書いている。「三島由紀夫は天皇に対して、なぜ人間になったかと恨み、藤枝静男は、お前はそれでも人間か、と怒っているのだから、天皇としては立つ瀬がなさそうだが、そこに『人間天皇』というものの本質的な背理が両側面からみごとに照らしだされている」。そして伊藤は「あの『人間宣言』は?現人神?という戦前のフィクションを?人間天皇?という戦後状況に合わせたもう一つのフィクションに切り替えたもの」にすぎないと明言する。藤枝静男はこのあと「在らざるにあらず」昭和五一年で「人間の恥から見事に自由になっている天皇」と書く。「明治村」昭和四一年の項参照。編者に拙文「怒り」藤枝文学舎ニュース第六一号がある)

文芸時評・一二月(下) ─哀愁を帯びた好短編─後藤明生「鞍馬天狗」・難しい題材を描き切る─岡松和夫「深く目覚めよ」  
「東京新聞」・「中日新聞」一一月二九日夕刊  文芸時評(「一二月号」として『文芸年鑑一九七六』、「 文芸時評 昭和 50 年 11 月 」として 。岡松和夫「深く目覚めよ」評の箇所が岡松和夫『深く目覚めよ』昭和五二年講談社刊の帯。/半年間の文芸時評を次のように締めくくる。「小説を馬鹿にしたような作に出会うと人並み以上に腹が立って云わなくていい悪口を書いた.中野重治が『褒められたことは役に立ったが、けなされた方は役に立たなかった』という意味のことをもらしたと聞いたか読んだかしたが、自分にあてはめてもさもあらんと後悔した。立原正秋からも『新人の場合は出来がわるければ批評せぬがいい』と忠告されたが、いざとなると守れなかった。新聞の読者がいちいち雑誌を買うわけではないから筋の抄録も心掛けたが肝心の批評が侵蝕された害もあった。記してすべて陳謝したい」。中野や立原の云うことに編者は首肯する。しかし藤枝静男は黙っていられない)

一九七五年の成果   
「文藝」一二月号  アンケート(単行本未収録 吉行理恵「井戸の星」・阿部昭「人生の一日」・佐々木基一「交歓」・中上健次「蛇淫」「岬」・小松紀夫「酸漿」の六点をあげている)。

句集『明治草』帯文 (無題)  
相生垣瓜人『明治草』(一二月二五日海坂発行所)  帯文(単行本未収録 この句集で相生垣は蛇笏賞を受賞。昭和五一年に「相生垣瓜人のこと─句集『明治草』にふれて」がある)

焼き物を求めて進む   
「週刊現代」一二月二五日号  随筆(


随筆集『小感軽談』  
昭和五〇年七月一五日  筑摩書房刊  
装  幀 辻村益朗
収録作品 
1見たり彫ったり(正月早々/美濃の窯址/日野市大谷古墳出土蔵骨器/阿弥陀如来下向す/偽仏真仏/フランクフルトのルクレツィア/セザンヌの色彩/「曽宮一念の画業展」を見る/当てずっぽう/薬師寺東院聖観音/道具屋の親爺/ケチな横好き/二流品を好く理由/空な模倣/版画の値段/判彫り正月/趣味としての篆刻)
2旅など(また接吻された/北欧の風物など/ガンジス河・ヒマラヤ/インド瞥見/インドの弥生壷/緑の光/追憶/読書と創作/みんな同じ/三度目の勝負/洋服屋ほか/虚子のレコード/二人組強盗/詔勅と占領の間/遠望軽談/憎まれ口/隠居の弁/昭和五十年)
3志賀さんのこと(志賀直哉紀行/明治四十三年二十七歳/志賀直哉と築山殿のこと/志賀氏と禅のこと/志賀直哉の油絵/「リッチ」と「留女」のこと/「座右宝」のことなど/志賀直哉全集第一巻)
4ひと(上司海雲氏のこと/園池さんのこと/原勝四郎氏のこと/曽宮氏のこと/内田六郎さんのこと/平野謙のこと/小川国夫のこと)
5読んだものから(瀧井孝作「俳人仲間」/瀧井孝作「志賀さんの生活など」/広津桃子「父・広津和郎」/永井龍男「雑談衣食住」/永井龍男「雀の卵その他」/中野重治「わが読書案内」について/網野菊「雪晴れ」/石塚友二「田螺の唄」/杉山二郎「木下杢太郎」/小原二郎「木の文化」/杉浦明平「田園組曲」/杉浦明平「華山探索」/吉村昭「冬の鷹」/江藤淳「一族再会(第一部)」/江藤淳「批評家の気儘な散歩」/小林美代子「繭になった女」/阿部昭「無縁の生活」)  
あとがき 藤枝静男  

 

『小感軽談』書評 
亀井秀雄「群像」一一月号・紅野敏郎「えるむ」一一月号・大畑専「静岡新聞」八月二二日朝刊・富士正晴「週刊現代」八月二一日号





創作集『異床同夢』  
昭和五〇年八月二九日  河出書房新社刊  
装  幀 菊池 薫  
収録作品 武井衛生二等兵の証言/異床同夢/盆切り/一枚の油絵/しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機/疎遠の友/聖ヨハネ教会堂/プラハの案内人 
あとがき 藤枝静男

 

『異床同夢』書評
山室静「東京新聞」九月二九日朝刊・阿部昭「サンケイ新聞」九月三〇日夕刊(『阿部昭集第十一巻』平成四年岩波書店)・上田三四二「日本読書新聞」一〇月二〇日号・沼田卓爾「赤旗」一〇月一三日号・蓮實重彦「海」一一月号(『小説論=批評論』昭和五七年)・亀井秀雄「群像」一一月号・大橋健三郎「群像」一二月号・遠藤周作×後藤明生×水上勉「文藝」一一月号〔読書鼎談〕・森川達也「週間読書人」一二月八日号・野呂春眠「静岡新聞」一〇月一〇日朝刊・吉良任市「静岡新聞」一二月一二日朝刊・匿名「朝日新聞」九月二二日朝刊・匿名「読売新聞」一〇日一三日朝刊・匿名「南日本新聞」一一月四日朝刊





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