昭和一三年(一九三八年)
三〇歳

四月、静岡県浜名郡積志村西ケ埼(現浜松市東区西ケ崎町)の眼科開業医、菅原龍次郎の三女智世子(ちせこ・大正五年一一月一一日生まれ)と結婚。同月、国家総動員法発令。医局の命で千葉県保田の原眼科の留守をあずかるが、原因不明の熱病に罹り診療は十分できなかった。九月、兄秋雄が結核のため死去、享年三五歳。十月、漸く正式に入局を許され、眼科教室副手となる。一二月、神田の学士会館で行われた本多秋五の結婚式に平野謙とともに出席する。なお平野の結婚は『平野謙を偲ぶ』にある年譜の昭和九年に「泉允の妹・たづ子としりあい、後に結婚する」とある。この年四月、志賀直哉奈良を去り東京市淀橋区諏訪町に移る。


昭和一四年(一九三九年)
三一歳

九月、長女章子生まれる。章子の名前は前年死去した兄秋雄からという。「落第坊主」昭和三四年に「大学を卒業してからは自分の専門の眼科に熱中して、最後の二年位のあいだ四階の研究室から殆ど下りず、三度の食事も食堂からとり寄せて、家には寝に帰るだけのことがあった。研究室に泊まりこむことが多かった。そのため妻の留守中に空巣に入られたりしたけれど、やっぱりその頃の私には妻の思惑など気にする閑がなかった」とある。この年から昭和一六年にかけて埴谷雄高が処女作「不合理ゆえに吾信ず」を「構想」に発表。なお昭和一五年三月、平野謙は東京帝国大学文学部美学科を卒業。同五月、志賀直哉世田谷区新町に移る。


昭和一六年(一九四一年) 三三歳
一一月、次女本子生まれる。約束により、生まれると同時に妻の実家の名籍を継がせるため菅原龍次郎、ますの養女とする。この頃かと思われるが、「謹呈兄上様 次郎」と表書きされた論文がいくつか残されている。兄秋雄の霊前に手向けたものであろう。一二月、真珠湾攻撃。

昭和一七年(一九四二年) 三四歳
三月五日、父鎭吉が脳溢血の再発で死去、享年七〇歳。六月、医学博士の学位を受ける(學位記 静岡縣 勝見次郎 右者論文ヲ提出シテ學位ヲ請求シ本學教授會ノ審査ニ合格シタリ 仍テ大正九年勅令第二百號學位令ニ依リ茲ニ醫學博士ノ學位ヲ授ク 昭和十七年六月九日 千葉醫科大學 第七二七號)。藤枝は生前の父に学位取得を報告できなかった。九月、平塚市海軍火薬廠共済病院眼科部長となる。


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