昭和一八年(一九四三年) | 三五歳 | |||
妻智世子が肺結核の宣告を受け、夏から秋にかけての約半年間、平塚海軍共済病院内科に入院。人工気胸術を受ける。一〇月、出陣学徒壮行会が明治神宮外苑の陸上競技場で行われる。なお昭和一九年七月、平野謙は三島の野戦重砲隊に教育召集(丙種)されるが、既往症のため一〇日ほどで除隊。敗戦のとき平野は九州の炭坑にいた。本多秋五は昭和二〇年五月、浜松市郊外三方原の第五七五部隊に招集され、二俣町船明(ふなぎら)で工場防衛にあたっていて敗戦。埴谷雄高は敗戦の二週間前に丙種合格、東京武蔵野地区の地域防衛にあたっていて敗戦。また震洋特攻隊長島尾敏雄は、出撃の最終命令が出ないまま奄美加計呂麻島で八月一五日を迎えている。
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昭和二〇年(一九四五年) | 三七歳 | |||
陸軍の招集を避けるため予防処置として予備海軍医少尉を任じられる。七月一六日、平塚大空襲。市域の約八割を焼失、死者二三七名。八月一五日、敗戦。占領軍によって病院と住宅が接収されたので、浜名郡積志村西ヶ埼の妻の実家に身を寄せ、眼科診療を手伝う。一二月中旬、通信の途絶えていた本多秋五から突然『近代文学』発刊の挨拶状をもらう。藤枝静男は「小躍りして喜び、また昂奮した」と自筆年譜に書いている。本多の一二月一七日の日記、「勝見から雑誌を鼓舞激励する手紙貰ふ。『いよいよ始まった』と、有難う。〇時すぎ就寝」。また平野謙とも連絡がつく。埴谷雄高は随筆「老害」(「新潮」昭和六〇年八月号)で「『近代文学』創刊が決まったとき、いささか大げさにいえば、日本中で最も喜んだのは、藤枝静男である。八高時代の同級生の親友平野謙、本多秋五がそれを出すことに心底から快哉を叫んだのであるが、そのとき、彼自身予想しなかったことに、『近代文学』創刊によって、浜松の眼科医勝見次郎が作家藤枝静男となって生誕し、彼が望んでいた『文学的方向の達成』がほかならぬ彼自身によってもまた実現されることになったのである」と書いている。『近代文学』創刊号二〇〇〇部が年末に出来上がり、一二月三〇日の新日本文学会創立大会で立ち売りされた。『近代文学』の創立同人は荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五、山室静の七名、編集は本多秋五。当時の情況を伝えるものに『「近代文学」創刊のころ』昭和五二年がある。なお「近代文学」が創刊されたとき、富士正晴は武装を解かずにまだ中国大陸にいた(富士の復員は昭和二一年五月。富士の生死不明により、親族の話し合いで妻は離婚していた)。 |
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昭和二一年(一九四六年) | 三八歳 | |||
四月二〇日、積志村の菅原眼科医院を平野謙と本多秋五が訪ねてくる。二泊。この時、小説を書くことを勧められる。河村直も来談。『近代文学』掲載の佐々木基一「停まれる時の合間に」に同感し勇気を得る。藤枝静男は「停まれる時の合間に」を「読まなかったら私は『近代文学』に自分の小説をのせてもらう勇気は出ないでしまっただろう」と「わが『近代文学』」昭和三九年に書いている。妻智世子再び喀血、秋から約半年間天竜川畔の結核療養所に入院し人工気胸術を受ける。
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昭和二二年(一九四七年) | 三九歳 | |||
五月、本多秋五に短篇四作を送る。その内の一篇「路」が『近代文学』九月号に掲載される。筆名を平野謙と本多秋五にまかせたが、送られてきた掲載号に「藤枝静男」とあった。筆名は本多秋五が考えた。郷里藤枝と八高時代の共通の友、北川静男に由来する。なお本多は戦前、「北川静雄」の筆名で作品を発表している(兄本多静雄と北川静男からであろう)。「短篇四作」については、「近代文学」終刊号昭和三九年に藤枝静男自身が「十枚乃至三十枚の短篇四つを本多に送ったのは二十二年の五月であった」と語っており、また『本多秋五全集』の本多の年譜昭和二二年に「五月、勝見次郎から処女作『路』のほか三篇が届く」とあるので冒頭のように書いた。しかし「七篇」と書いてある本多の手紙もある。「路」の項参照。なおこの年一〇月、富士正晴・島尾敏雄らがVIKNGを創刊。
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