昭和三年(一九二八年) | 二〇歳 | ||
二年に進級。「校友会雑誌」に初めての小説「兄の病気」及び詩「冬の朝」発表。八月二日、奈良市幸町に初めて志賀直哉を訪ねる。丁度来訪中の小林秀雄、瀧井孝作を識る(「瀧井さんのこと」昭和六〇年の項参照)。一一月二日から五日にかけて、平野謙、本多秋五を誘って奈良にキャンプ旅行。再び志賀直哉を訪ねる。この頃からマルクス主義運動の波が地方高校にも押し寄せてきて、精神的動揺を受ける。志賀直哉訪問について藤枝静男は「志賀直哉・小林秀雄両氏との初対面」「奈良公園幕営」「奈良の夏休み」「奈良の野猿」(『藤枝静男著作集第一巻』収録)などに書いている。
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昭和四年(一九二九年) | 二一歳 |
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三年に進級、北川静男が落第し再び同級となる。「私の学校は成績順に前からならばせる規則があったから、最劣等生の私と落第生の北川とは最前列に文字通り机をならべた」と「平野断片」に書いている。四月、本多秋五が東京帝国大学文学部国文学科に入学。なおこの年四月、志賀直哉新築した奈良市上高畑の家に移る。一二月、岸田劉生尿毒症のため死去、享年三八歳。藤枝静男は岸田劉生の講演を聴いている。 ![]() 左より勝見次郎(藤枝静男)、平野朗(平野謙)、本多秋五ー 昭和4年2月撮影 |
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昭和五年(一九三〇年) | 二二歳 | ||
二月、北川静男が腸チフスで死去。後年『近代文学』に「路」を発表する際、本多秋五により筆名を「藤枝静男」とされるが、北川静男に由来する。三月、第八高等学校を卒業。千葉医科大学を受験したが失敗し、名古屋で浪人生活。平野謙は東京帝国大学文学部社会学科に進学(八年三月中退し、一二年四月に美学科へ再入学)。七月三日から一一日まで奈良の日吉館に止宿して一日おきに志賀直哉を訪ねる。平野謙と奈良・京都旅行し、帰途愛知県挙母町で氷屋をやっていた本多秋五を訪ねる。北川静男の遺稿集『光美眞』を編集、一二月に刊行。『光美眞』に一文「四年間」を寄せる。弔辞「敬愛する北川静男君」「後記」も藤枝静男の手になる。平野謙が一二月、帰省途中に藤枝静男の下宿に立ち寄り、上京して勉強することを勧める。なおこの年二月、瀧井孝作奈良を去り八王子へ移る.
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昭和六年(一九三一年) | 二三歳 | ||
二月、父鎭吉宛の平野謙の手紙により上京を許され、東京本郷森川町大正門前の下宿双葉館三階の平野の部屋に同居する。藤枝は「社会学科在学の平野、国文学科在学の本多と旧交を暖めるようになったが、すでに左翼運動という別の世界に脚を踏み入れていた二人と全面積をもって交流することは不可能になっていた」と自筆年譜に書いている。三月、千葉医科大学を受験するも再び失敗。四月、妹きくが肺結核で喀血し療養生活に入る。五月ころ、平野謙を誘い小林秀雄を訪ねる。本郷蓬莱町、高円寺、深川同潤会アパートと下宿を移る。雑誌 < 経済往来 > の六号記事を書いたり、小石川の印刷所の校正をする。なおこの年一一月、小林多喜二が志賀直哉宅を訪ね一泊している。
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昭和七年(一九三二年) | 二四歳 | ||
四月、千葉医科大学に入学.千葉海岸に住む。五月、五・一五事件。父鎮吉の次郎(藤枝静男)宛の手紙がある。多くは送金の知らせだが、送金の細かな内訳、そして薬や下着を同封し「感冒ハ大敵ナリ専ラ胃腸ノ強健皮膚ノ強健ヲ第一トス」と諭している。なおこの年三月、本多秋五は東京帝国大学文学部国文学科を卒業、大学院に進む。「当時は不況で、文学士の就職先は極度に少なく、大学院は就職待機生のたまり場の観があった。本多の場合は、東京に居残るための口実であった」と本多の年譜にある。なおこの年三月、埴谷雄高逮捕され豊多摩刑務所へ送られる。 |
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