昭和八年(一九三三年) | 二五歳 | |||
三月、「大學文化」第一六号に「思ひ出」を発表。六月、「大學文化」第一七号の編集担当、表紙も描く。同月、学内モップル活動に一回応じて金を出したのが発覚し検挙される。千葉警察署に五〇余日拘留され、起訴猶予。大学から無期停学処分を受ける。この年結核を発病したが約一年で治癒する。次郎の身を案ずる父鎭吉の次郎宛て一一月二五日の手紙「宣夫(注・弟宣のこと)ハ懸命ニ勉強シテ居マス 一同元気デス 解禁ノ問題ハ其後立消デスカ 好転シマセヌカ 第三学期モアト一ヶ月デス 公然タル通学ノ許可ヲ待兼マス」。『千葉大学医学部八十五年史』の昭和七年に「治安維持法に触れるものを生じ、本学にてもそのため放学処分に付せられるものがあるに至った」、また同八年に「本年もまた思想問題による学生処罰問題が発生した」。なお本書の寄稿に三浦隆蔵「ルネッサンス時代」があり、文芸部雑誌「大学文化」の盛り上がりとそのなかに藤枝静男がいたことにふれている。なおこの年二月、小林多喜二が警察で拷問を受け死亡。多喜二の母宛に志賀直哉悔やみの手紙を書く。一一月、本多秋五が西大久保の下宿で検挙され拘留される(昭和九年四月、起訴猶予で釈放)、同月埴谷雄高が懲役二年執行猶予四年の判決をうけ出所。
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昭和九年(一九三四年) | 二六歳 | |||
二月、「大學文化」一九号に「兄の病気」を発表。四月、弟宣が東京医科専門学校に入学。なお父鎮吉の手紙だが、昭和八年一一月二五日のあとは昭和九年一月一八日にとぶ。その手紙では停学処分に一切ふれていない。そのあとの手紙にもない。一月には無期停学処分は解除されていたか。四月二一日の手紙は盗まれた靴のこと、弟のことを心配している。「差四、五〇ニ今日ノ送金五円ヲ加ヘテ宣夫ニ時計求オリ支出セラレタ分及靴ヲ盗マレタ(宣夫カラ聞イタ)金ノ補充トセラレヨ靴ハ求メラレヨ宣夫モ漸ク学校ニ慣レテ来ルマテ時々寄宿生活ノコトヤ勉学ノコトヲモ注意ヲ与ヘテ下サイ」。この年、福島コレクション展を見る。
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昭和一〇年(一九三五年) | 二七歳 | |||
三月、弟宣が結核を発病,しかし約一年で治癒して復学。五月、父鎭吉が脳溢血で倒れ半身不随となり、以後寝たきりとなる。父鎮吉の二月二一日付けの次郎宛の手紙「尚大切ナル四学年モ近々ノ事故醫學以外ノ研究ヤラ交際等ハ慎ミ方向ヲアヤマラヌ様醫學勉励ニ専心向上シ卒業ニ向ッテ一心集中ノコト希望ニ不堪候〔是毎日仏前礼拝ノ折必ズ祈念シツツアル吾勤励ヲ思ヒ常ニ心中ニ置カレタシ〕」。これが残っている次郎宛の父最後の手紙である。 |
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昭和一一年(一九三六年) | 二八歳 | |||
二月、二・二六事件。七月、四ヶ月遅れて千葉医科大学卒業(卒業証書の日付は七月一一日となっている)。思想的前歴のため正式な入局は許されず、静男巷談「先生」に書かれている伊東弥恵治教授の好意で医局に出入りし眼科を学ぶ。このときのことを「酋長の娘」昭和三四年に書いている。浜松出身の伊東にとって藤枝静男は同県人である。また学内の文化活動で藤枝を認知していたということがあったかも知れない。医局から派遣されて八王子市の大学先輩倉田眼科の留守をあずかる。同市在住の瀧井孝作を度々訪問する。この年七月、平野謙・・山室静編集の『批評』創刊(昭和一二年一一月・一二月合併号をもって一四号で終刊。 |
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昭和一二年(一九三七年) | 二九歳 | |||
医局の命で、新潟県長岡市の大学先輩伊知地眼科医院の留守をあずかる。「みんな泡」昭和五六年のモチーフの一つにこのときのことがある。『批評』二月号に「奈良の一日─志賀さんと小林さん」を発表。この年四月、スペインの小都市ゲルニカをナチスが無差別空爆。ピカソが大作「ゲルニカ」を制作。七月、盧溝橋事件。
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