明治四一年(一九〇八年)  
一月一日(実際は明治四〇年一二月二〇日午前八時)静岡県志太郡藤枝町市部六四番地(現藤枝市)に生まれる。本名勝見次郎。父は勝見鎮吉、母はぬい。家業は薬局。一〇歳年長の姉はる、八歳年長の姉なつ、五歳年長の兄秋雄、三歳年長の姉ふゆがいた。父鎮吉は割烹旅館魚安楼の次男であったが左官業勝見常吉・阿さの養子となり刻苦勉励、弱冠一六歳で薬剤師試験に合格。さらに医師をめざしたが喀血、養父母の面倒もあり望みは果たせなかった。藤枝静男は昭和五四年 NHK 第一放送で父について語っている。それによれば鎮吉は、大変な努力家であると同時に好奇心の強いユーモアを解する趣味人であった。破窓楼主人あるいは素貧寒生と号し、「東洋ロビンソン」といった漂流奇談を書いたり、狂歌,漢詩、さらには易、細工物も好きであった。なお藤枝静男は「偽元旦生まれ」昭和五九年で、自らの生年月日について書いている。


父 鎮吉

明治四三年(一九一〇年)  二歳
二月、妹けいが生まれたが、一〇月結核性脳膜炎で死去。四月に「白樺」が創刊される。

明治四四年(一九一一年) 三歳
一〇月、妹きくが生まれる 。

大正二年(一九一三年) 五歳
七月、姉なつが肺結核で死去(享年一二歳)。一一月、弟三郎が生まれる。

大正三年(一九一四年) 六歳
四月、藤枝町立尋常高等小学校に入学。同月、弟三郎結核性脳膜炎で死去(享年一歳)。六月、サラエボ事件、第一次世界大戦勃発。八月、日本参戦。

大正四年(一九一五年) 七歳
四月、姉はるが結核性腹膜炎で死去(享年一七歳)。七月、弟宣(のぶ)が生まれる。

大正五年(一九一六年) 八歳
一月、藤枝上空を所沢・大阪間の長距離飛行をめざす飛行船「雄飛号」が東から西へ通過する。当時の新聞記事には「一月二一日午後四時五十三分静岡市上空に現れ、高度六百米突にて御用邸の東方を船首を南西に向けつつ徐行し、同五時二十分藤枝を通過せり」とある。藤枝静男の小説「雄飛号来たる」昭和三二年の雄飛号は、まっ蒼な青空を背景に午近い頃その姿を現す。


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