大正七年(一九一八年) 一〇歳
七月二三日、富山県下新川郡魚津町の漁民の妻女たちが米価引き下げ、生活救済の行動を起こしたが、このいわゆる米騒動はたちまち全国に波及、八月一二日には静岡市、同一五日には藤枝町でも人々が群れをなして乱暴をはたらくことが起こった。豊橋憲兵隊編『米価騒擾詳報』によれば藤枝町の被害戸数一六戸、検挙者四二名。このときの体験を「或る年の冬 或る年の夏」などに書いている。

大正九年(一九二〇年) 一二歳
三月、藤枝町立尋常高等小学校を卒業。一人で上京し受験。四月、東京郊外池袋の成蹊学園内の五年制乙種実務学校に入学。「疎遠の友」の仕手のモデル河村直がいた。藤枝静男は自筆年譜に「一級三〇名、全寮制自炊の禅僧生活的スパルタ教育を受けた。肯定と否定の交錯に悩んだ」と書く。藤枝静男の自筆年譜では「四年制」と書かれており他の年譜もそれにならっているが、川瀬一馬編『成蹊実務学校の想い出』昭和五六年桃蔭会(本書は成蹊実務学校を知るには最善の資料である)を見ると「五年制」が正しいと思われる。藤枝の田舎から東京の成蹊実務学校へ進学した経緯については「少年時代のこと」昭和四七年の項参照。なおこの年教師に引率され第二回帝展を見学、中村彝「エロシェンコ像」を見る。雑司ヶ谷の畑の道でエロシェンコに会う。

大正一一年(一九二二年) 一四歳
一月、実務学校を大正一三年を期して廃止することが突然学校から発表される。学園理事会で成蹊教育の学制改革が決議されたことによる。希望する者は四年で卒業とし就職は保証、あるいは中学部へ転籍させるという条件であった。なおこの年教師に引率され第四回帝展を見学、フジタ「我が画室の内にて」を見る。

大正一二年(一九二三年) 一五歳
九月、関東大震災。混乱のさなか大杉栄、平沢計七らが憲兵によって虐殺される。藤枝静男は「平沢計七・鷹野つぎのこと」昭和五四年を書いている。「白樺」が八月号をもって廃刊。この年、上級学校受験資格を得るために中学部に籍を移す。この頃より学校に隠れて小説類に読みふけり映画館に通う。要注意人物となり退学を勧告されるが、学園長中村春二のとりなしで免れる。「ハムスターの仔」昭和五八年には「神田新宿あたりへ禁制の映画を見に行ったことが曝れて停学を食い、父が呼び出されたりしたこともあった。その度に一人で、或は父に連れられて家に帰った」と書いている。なおこの年六月、有島武郎縊死心中。



左より次郎(藤枝静男)、弟宣、父鎮吉、兄秋雄、妹きく、姉ふゆ、母ぬい

大正一三年(一九二四年) 一六歳
二月、学園長中村春二死去。四年終了で第八高等学校へ願書を出す決心をし、三月成蹊中学を退学。第八高等学校を受験したが失敗。藤枝に帰る。自筆年譜に「文学書を乱読し、当時愛知医科大学生であった兄秋雄の影響で、一時ドイツ表現派の戯曲やダダイズム運動に興味を持ったが、次第に武者小路実篤から入って白樺派の文学に惹かれて行った」と書いている。なお昭和二四年一月発行の『成蹊會會員名簿』がある。勝見次郎(藤枝静男)は中学校第九回(大正一四年)五五名中、中退八名の内の一人として河村直とともに載っている。この年一二月、中村彝死去。

大正一四年(一九二五年) 一七歳
三月、第一高等学校に願書を出したが、試験場入り口から引き返して受験せず(このときのことを「先生─一高」昭和五〇年に書いている)。兄秋雄とともに名古屋市瑞穂区に下宿、予備校中野塾に通う。口は聞かなかったが塾に北川静男がいた。ロシア、北欧の作家の小説類を耽読するが、やがて関心は志賀直哉に向かう。この年四月、志賀直哉京都府宇治郡山科より奈良市幸町に移る。

大正一五年・昭和元年(一九二六年) 一八歳
四月、第八高等学校理科乙類に一番の成績で入学。北川静男も入学、親友となる。南寮で平野謙(本名・朗あきら)と同室になる。入学後の生活については、「青春愚談」にくわしい。七月、兄秋雄が突然喀血、一時重体、以後死に至るまでの病床生活に入る。この年かと思われるが、桃蹊会(成蹊中学同窓会)発行の『三好君追悼号』に「三好君に(一)(二)」を寄せている。なおこの年六月、志賀直哉『座右宝』を刊行。
  三好君に ( 一 )( 二 )  
「三好君追悼号」 発行月日未詳  追悼(2 筆名は二郎・文末に一九二六・八・二一とある。三好は三好修。文中の河村は河村直である。「疎遠の友」昭和四八年の項参照。収録の『藤枝静男著作集第二卷』初出一覧では「『桃蹊』三好君追悼号 大正十五年」。題簽にペンで「桃蹊三好君追悼號」と書かれたものが藤枝静男所蔵本としてある。またこれと造本・内容が全く同じで題簽に「秋海棠」と印刷されたものがある。ガリ版印刷・和綴じで発行日なし。「秋海棠」は「しゅうかいどう」。植物名、夏の末に淡紅色の花を開く)


 

昭和二年(一九二七年) 一九歳

一月、八高南寮を勝手に出て素人下宿に移る。平野謙の紹介で本多秋五と知り合う。本多は中学時代から「朱雀」という同人雑誌をやっていた文学青年であった。平野、本多、藤枝は生涯の友となる。また北川静男のほかに成蹊学園でも一緒の「疎遠の友」のモデル河村直、「聖ヨハネ教会堂」のモデル室田(添田)紀三郎、『幕がおりるとき』を書いた毛利孝一らがいた。三月、進級試験に失敗して落第。平野は仮病をつかって休学。この年かと思われるが、桃蹊会発行の『長郷堅一・金子榮輔追悼文集』に「長郷君のこと」「金子君」を寄せている。また第八高等学校校友会発行「校友会雑誌」に随筆「考える事」「奈良行き」発表。この年七月、芥川龍之介自殺。


 

長郷君のこと
桃夭會発行「長郷堅一・金子榮輔追悼文集」発行月日なし  追悼 ( 筆名は勝見二郎・文末に一九二七・三・二十三とある。ガリ版印刷。単行本未収録) 

金子君
上同   追悼(筆名は勝見次郎・文末に一九二七・四・二とある。単行本未収録

考える事 
「校友会雑誌」第五一号(一〇月)第八高等学校校友会雑誌部   随筆(筆名は勝見二郎。『伊吹おろしの雪消えて─第八高等学校史─』昭和四八年八月発行に「校友会雑誌」目次一覧があり、そこに「勝見二郎」の名があることを平成二〇年一〇月堀場博氏より教えられる。その後金沢大学付属図書館に該当の「校友会雑誌」が所蔵されていることがわかり、コピーをお願いし確認した。「美」「深い心」「色彩に就いての考へ」「光」「北斎の色彩」「早朝曵上げられる舩をみて」「河豚」と題する七つの小文から構成されている。最後の「河豚」には小品文と付記があり、極く短いが随筆というより小説といっていいかも知れない。単行本未収録。なお藤枝は昭和四一年の「序文」で、高校時代に感想小品を雑誌に載せた記憶があると書いている。「一覧」で本号に「晩秋挿話」平野朗〈謙〉)

奈良行き 
「校友会雑誌」第五二号(一二月)第八高等学校校友会雑誌部  随筆(筆名は勝見二郎。新発見。発見の経緯は上に同じ。志賀直哉のことは書いていない。文末に「一九二七、一一、四」。単行本未収録)



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