平野謙一面
「新潮」六月号 追悼( 茫 平野の愛唱詩については昭和六〇年の「今ここ」の項を参照)
弔辞
「海」六月号 弔辞(四月一二日の平野謙告別式における弔辞。一部引用する。「われわれは各々の信ずるところに従って、全力を振るって休まず仕事をしてきたと思う。それぞれの意見は一致することもあったし、相違することもあったが、とにかくどんな場合でも妥協することなく、お互い同志を信用し続けて来たし、相手に対して人間的不信を抱いたことは一度たりともなかった。この友情は自然であったけれど、誇りとしてもよかったと思うし、またこれからも許されると信じている。みんな文学というものが全人間的なものであると心に決めてやってきた。助けを呼ぶことはしなかったけれど、助け合った」。藤枝の弔辞としては他に「弔辞─敬愛する北川静男君」昭和五年がある。単行本未収録。/「海」本号に本多との対談「平野謙の青春」がある)。
泡のように(1) ─旧東海道の藤枝町
「読売新聞」六月二三日夕刊 随筆(「連載企画・自伝抄」欄。『自伝抄6』昭和五四年読売新聞社刊に収録。各回の題をはぶき「泡のように」として 茫 。以下同じ)
泡のように(2) ─一人で東京の中学へ
「読売新聞」六月二四日夕刊 随筆(鋳鉄の文鎮については「先生─一高」昭和五〇年に書いている。「成蹊学園という中等学校」とあるが、正しくは「成蹊実務学校」である。三年に進級する際に中学部へ転籍)
泡のように(3) ─子に託した父の夢
「読売新聞」六月二六日夕刊 随筆(「米騒動」のことは「或る年の冬 或る年の夏」に書いている。小学唱歌にある「わが大君の食す国」で、天皇がどうして国を「食う」のかと思ったとある。「食す」の読みは「おす」。天皇などが「治める」の尊敬語。「土中の庭」昭和四五年では昭憲皇太后の歌の「金剛石も磨かずば 珠の光は添わざらん」で「章」は父に「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」と尋ねる)
泡のように(4) ─牛肉を"恐れた"母
「読売新聞」六月二七日夕刊 随筆(小学校の先生のことは「先生─一高」に、牧師館のことは「雄飛号来る」昭和三二年に書いている)
泡のように(5) ─自由教育の実務学校
「読売新聞」六月二八日夕刊 随筆
泡のように(6) ─懐旧の人と町と自然
「読売新聞」六月二九日夕刊 随筆(中村彝の絶筆「中村春二像」は中村浩著『人間・中村春二伝』昭和四四年岩崎美術社に掲載されている。なお文中の川瀬一馬は『成蹊実務学校教育の想い出』昭和五六年〔藤枝静男寄稿〕の編集者であり、『筑摩現代文学大系 埴谷雄高・藤枝静男集』昭和五三年の月報に「五十四年目の再会」を寄せている。なお川瀬は当然ながら『成蹊実務学校教育の想い出』に寄稿しており、その文末の肩書きは「学士院賞、紫綬褒章、青山学院女子短期大学教授、静岡英和女学院長兼短大学長、文化財保護審議委員会専門委員」)
泡のように(7) ─中田善水のこと
「読売新聞」六月三〇日 随筆(『成蹊會会員名簿』昭和二三年の実務学校第九回生に川瀬一馬、第一〇回生に中田善水の名がある。中田は前出の『成蹊実務学校教育の想い出』に勝見次郎〔藤枝静男〕と並んで寄稿している。一、成蹊に入るまで、二、本部での一年、三、実務学校の五年間と長文である。その文中「勝見君は心力歌の作者が田中智学先生のように著書の中で書かれていたが、これは漢学者であり、仏教にもくわしい、中央大学教授の小林一郎先生であったと記憶している」とある。中田の記憶が正しい。なお中田の文末の肩書きは「回教圏研究所、特別養護老人ホーム土佐清風園々長」。藤枝は中学部に籍を移しているので中学校第九回生に、高校受験のため四年で退学したので退学者として載っている。/『秘境西域八年の潜行』については「田紳有楽前書き(二)」昭和五〇年の項参照)
慰め与える貴重な証言・死への真摯な問いかけ─ 毛利孝一著『幕のおりるとき』
「図書新聞」七月一日号 書評(「毛利孝一著『幕のおりるとき』のこと 」として 茫 毛利は第八高等学校理科乙類の同期生である。「異物」昭和三二年の主人公の名前毛利は、毛利孝一から思いついたと思われる。/なお毛利が取り上げている『扶氏医戒』、そして『扶氏医戒』の原著者のプロシャ国王侍医フーフェランドにふれているが、「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年に「フーフェランド医典には」云々がある。『幕がおりるとき』によれば、扶氏とはフーフェランドの名を扶歇蘭度〔ヒュヘランド〕と漢字をあてて呼んでいたその頭字に由来する。『扶氏医戒』は、フーフェランド著『エンシリディオン・メディクム〔医学便覧〕』一八三六年の「医師の義務」ともいうべき終わりの一章を、杉田玄白の孫杉田成卿が翻訳し文久三年に刊行したもの。正しくは『済生三方附医戒』。幕末多くの人々に読まれた。同書には「みな生きもの みな死にもの」にある「金玉云々」は勿論 ない。なお『医戒』の参考文献として現代教養文庫『医戒─幕末の西欧医学思想』昭和四七年がある。/「僕についての一文」とは「八高時代の藤枝君」である。そのなかで「或る年の冬 或る年の夏」に登場するストライキの指導者菅沼は都留重人がモデルであると記している。藤枝も「泡のように」で「二級下で頭もよく元気も充分な正義漢都留重人が共産青年同盟として八高内に最初にして最後の組織をつくり、ストまで持って行って退学させられた」と書いている)
泡のように(8) ─中村園長と不良少年
「読売新聞」七月一日夕刊 随筆(「中村春二(私の中の日本人)」 昭和五一年の項、読んだ本については「青春愚談」昭和四六年の項参照。中村園長が藤村の「千曲川旅情の歌」を取り上げてそれとなく少年藤枝を慰めてくれたとある。このことでは『成蹊実務学校教育の想い出』で同期生北浜健一、板倉正夫、田中全太郎がこのときのことを書いている。印象深い出来事であったことがわかる。また板倉の文に不言会〔生徒会〕の「図書部の委員は勝見君だったと思う」とある)
泡のように(9) ─天下の一高に挑戦
「読売新聞」七月三日夕刊 随筆(一高挑戦は「先生─一高」に書いている)
泡のように( 10 ) ─八高寮のわが青春
「読売新聞」七月四日夕刊 随筆(八高時代のことは「青春愚談」の項参照。文中の川村二郎に「或る年の夏」「接吻」「キエフの海」「怠惰な男」「武井衛生二等兵の証言」「風景小説」「私々小説」「盆切り」「一枚の油絵」「田紳有楽(終節)」「滝とビンズル」「在らざるにあらず」「半僧坊」「みな生きもの みな死にもの」「虚懐」「またもや近火」の時評、『欣求浄土』『或る年の冬 或る年の夏』『寓目愚談』『田紳有楽』『虚懐』『今ここ』の書評がある)
泡のように( 11 ) ─文学書と応援の日々
「読売新聞」七月五日夕刊 随筆
泡のように( 12 ) ─懐旧の情そそる風景
「読売新聞」七月六日夕刊 随筆(武蔵川谷右ェ門については、静男巷談「操りの糸(牛込亭)」昭和三三年、「硝酸銀」昭和四一年、「武蔵川谷右ェ門・ユーカリ・等々」昭和五九年がある)
泡のように( 13 ) ─苦々しい怠惰な生活
「読売新聞」七月七日夕刊 随筆
泡のように( 14 ) ─やっと眼科医、写真結婚
「読売新聞」七月八日夕刊 随筆(文中の「今昔物語集」については「野太い今昔物語」昭和四六年が、伊東教授と?写真結婚?については静男巷談「先生」昭和三四年がある)
泡のように( 15 ) ─招集避け軍の病院へ
「読売新聞」七月一〇日夕刊 随筆(泥棒のことは「泥棒三題」昭和三一年に書いている。この時期の論文がいくつか残っている。「空気頭」に関連がある「兩眼内下方四分ノ一半盲症ノ一例」もその一つである。藤枝静男が博士号を取得したのは昭和一七年六月。博士号取得を本人以上に望んでいたであろう父鎮吉は、その三ヶ月前に脳溢血で死去。弟の死をモティーフにした作品に「私々小説」昭和四八年、「一枚の油絵」昭和五〇年がある)
泡のように( 16 ) 戦勢、しだいに傾斜
「読売新聞」七月一一日夕刊 随筆(この時期の体験をモティーフに作品「イペリット眼」昭和二四年、「明るい場所」昭和三三年がある)
泡のように( 17 ) ─終戦─そして処女作
「読売新聞」七月一二日夕刊 随筆
泡のように( 18 ) ─庭で楽しむ造形芸術
「読売新聞」七月一三日夕刊 随筆(「壷あれこれ」昭和五七年The骨董第5集に藤枝宅の庭に置かれた壷たちの写真)
泡のように( 19 ) ─花見会で陶器の講義
「読売新聞」七月一四日夕刊 随筆(文中の本多静雄については『日本近代文学大事典』昭和五二年で「本多静雄」の項担当。文中の鈴木重一は第八高等学校第一八回理科乙類卒。「三度目の勝負」昭和四八年に出てくる「二級上で東大一本槍連続落第組」の鈴木がそうか。だとすれば「或る年の冬 或る年の夏」の朝川のモデルである可能性がある。「怠惰な男」昭和四六年の項参照)
泡のように( 20 ) ─生きざま、死にざま
「読売新聞」七月一五日夕刊(完) 随筆
わたしのすすめる味な店
「ファミリー fan fan」八月号 随筆( 石 「私はここの入れ込みの広間が好きだ」とある。入れ込み=多くの人を区別なく一カ所にまぜて入れること。「鳥善」浜松市佐鳴台六─八─三〇、鳥の味噌鍋が名物)
虹
梅田画廊・梅田近代美術館ニュース第四号(九月一二日発行) 随筆(『石心桃夭』の掲載誌〔紙〕一覧では「曾宮一念展ニュース」となっているが不正確。/梅田近代美術館で九月一二日から一〇月一日にかけて「孤高の詩情─曾宮一念展」が開催された。曾宮は昭和四六年に緑内障により両眼とも失明していた。図録によれば自薦展とある。展示作品九八点すべてが図録に掲載されている。藤枝の所蔵作品「虹」はその中の一点。。/本展については『回想 曾宮一念』平成八年木耳社の矢倉喜八郎「大阪展のこと」がある。それによれば藤枝静男は富士正晴と初日に会場を訪れている。なお梅田近代美術館は現在廃館。/「作品との不思議な出会い」昭和五一年で「虹」のこと。また作品「虹」は、『曾宮一念展』図録昭和六二年静岡県立美術館・曾宮一念『画家は廃業』平成四年静岡新聞社に掲載されている。『画家は廃業』に対談があり、菅沼貞三の「虹の絵はとってもいい絵だったですね」に対し曾宮一念は「そうなんだ。ほかにはないんだ。あれももちろん想像画」と応じている。/作品サイズ四一センチ×二七センチ。昭和二五年制作。なお曾宮は同じ絵柄ながら、色合いと構図・大きさの異なる「虹」を何枚か描いており、もう一枚の「虹」が藤枝静男コレクションとしてある)
八百キロドライブ
『石心桃夭』の掲載誌(紙)一覧で(昭和五一年九月一一日共同通信)となっているが、掲載誌(紙)未見。
解説
集英社文庫・小川国夫『流域』(九月三〇日集英社) 解説(「小川国夫著『流域』解説 」として 石 )
尾崎一雄氏─奈良での文学開眼
「静岡新聞」一〇月に八日朝刊 随筆(「尾崎一雄氏の文化勲章 」として 石 尾崎については他に「尾崎一雄氏との初対面」昭和三二年、「瀧井さん、網野さん、尾崎さんのこと」昭和四一年、「永井龍男『灰皿抄』・尾崎一雄『冬眠居閑談』」昭和四四年、「尾崎一雄『ある私小説家の憂鬱』」昭和四五年、「尾崎さんのこと」・文芸時評「八幡坂のあたり」昭和五〇年、「『日本近代文学事典』尾崎一雄」昭和五二年、「兄弟子」昭和五七年、「尾崎一雄追悼座談会」昭和五八年、「尾崎さんのこと」昭和五九年がある)
初めてお茶に呼ばれた
「サンケイ新聞」一一月一八日朝刊 随筆( 石 )
瀧井さん
『瀧井孝作全集第四卷』(一二月二五日中央公論社)月報4 随筆( 石 昭和二七年の瀧井の来浜については「瀧井孝作氏のこと」昭和二九年で書いている。)
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