昭和五三年(一九七八年)   七〇歳

二月、『現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』を筑摩書房から刊行。三月、『文体』第三号で平野謙と対談「私小説と作家の自我」。「雉鳩帰る」を『群像』四月号に発表。四月三日、生涯の友平野謙クモ膜下出血で死去、享年七一歳。葬儀委員長は本多秋五。「彼はごくたまではあったが、半分は冗談めいた顔をして、─冷やかに水をたたえて斯くあれば 人は知らじな火を噴きし山のあととも─という詩を口ずさんでみせることがあった」と藤枝は追悼文に書いている(「新潮」六月号)。五月、中日文化賞を受賞。六月、「半僧坊」を『文体』第四号に発表。『海』六月号で本多秋五と対談「平野謙の青春」。「群像」六月号で座談会「平野謙・人と文学」。「芸術新潮」六月号で奈良国立博物館開催の「日本仏教美術の源流」展をめぐり対談「仏像の表情を語る」。六月、三年ぶりの浜名湖会。六月から七月にかけて『読売新聞』に「泡のように」を連載。『群像』創作合評を七月号から九月号まで秋山駿・黒井千次と担当。七月、浜松市市勢功労賞を受賞。NHKテレビ番組「女性手帳」で「わが道・わが文学」と題し八月二八日から九月一日にかけ五日連続で語る(浜松文芸館にこのときの脚本があり各回の題は「友・平野謙」「四十才の出発」「二足のわらじ」「近代文学の仲間たち」「にせもの・ほんもの」)。一一月、第四随筆集『茫界偏視』を講談社から刊行。同月、講談社文庫『田紳有楽』を刊行。この年、日本仏教美術の源流展、日本の書展、救世熱海美術館名品展を見る。なお「主潮」第六号に桑原敬治「藤枝静男論(二)─自我の形成と解放の模索」がある。

 

韓国の日々   
「海」一月号  随筆(  大庭みな子の夫大庭利雄の著書はつぎの通り。『かけがえのない地球と人間』昭和四七年、『自然のなかでの人間─ある科学者からのよびかけ』昭和四八年毎日新聞社、『人間が生きのびる道』昭和五〇年毎日新聞社、『終わりの蜜月─大庭みな子介護日誌』平成一四年新潮社。大庭みな子は平成一九年五月死去。このときの韓国は昭和三六年に軍事クーデターで大統領に就任した朴正煕政権時代である。/「私は三度ばかり琵琶湖東岸に残るいくつかの古寺を訪ねた」とあるが、その一つを「琵琶湖東岸の寺」昭和五〇年で書いている。そこでは同行した妻にまったく触れていないが、本随筆ではそのとき「妻も『ほんとにねえ』と嘆声をもらした」と書いている。妻の「肉声」を随筆に書くのは極めてめずらしい。/藤枝静男は金素雲と席が隣になる。金素雲については「金素雲氏の新著を喜ぶ」昭和五五年、「金素雲さんの死を悼む」昭和五七年がある。/なお「海」本号で埴谷雄高が「評論家と小説家」─竹内好と藤枝静男─を書いている)

生き生きとした文章を   
「浜松百撰」一月号谷島屋書店広告頁〔原稿からこの存在を知ったが、掲載誌がなかなかわからなかった。目次にもなく探し当てるのに手間取った〕  選評(谷島屋書店主催ジュニアライター・コンクールの選評 このときの選者は藤枝と吉田知子、相生垣瓜人の三人。吉田知子が一番手厳しい。 単行本未収録。 編者に「藤枝静男のこと?選評(二)」藤枝文学舎ニュース第五一号がある)

直哉と父柏蔭の間で─平野謙著『志賀直哉とその時代』   
「中日新聞」一月九日朝刊  書評(  取り上げている『平野柏蔭遺稿集』は、平野謙が闘病(食道癌)のなかで父の遺稿を編んだもの。三一書房昭和五二年一一月刊。あとがきに平野は書く「最初から魚住折蘆、松村荒村、大塚甲山、平出修、竹内仁らのすぐれた遺稿集などには及びもつかないことぐらい、下根の私といえども先刻承知している。ただ当世風にいえば、一文芸評論家としての私のルーツは、よかれあしかれここに存しているはずだと思っているばかりである」。平野は昭和五三年四月に死去。/並記するのもおこがましいが、趣味人であった父の遺作「切り絵展」を編者は父の一周忌に開催した。来場者の幾人かから、編者の版画作品の源はここにあったかと云われたりした) 

藤枝静男殿 プルーストの質問書   
「浜松百撰」二月号  アンケート(単行本未収録 全部で二四の質問に答えている。その一部を紹介。「一、好きな色は?新緑。三、好きな名前は?章子。六、なってみたいものは?石。二一、持ち合わせなかった天賦の才は?寛大。二三、好きな銘句または信条は?去愛欲如犀角唯独歩。二四、あなたの性格をかたちづくる根本的なものは?肉親への執着」。/なお本号「伝言 」欄に藤枝は「探しています」として釣り竿と大型犬用の犬小屋と赤ちゃん(人間)のサークルとNHK放映の「空から見たヒマラヤ」のテープ。「ガンジス河・ヒマラヤ」昭和五〇年の項参照)

塔巡り ─塗り替えても変わらぬ美しさに喜びの感傷が  
「読売新聞」二月八日夕刊  随筆(  頭頭の森のことは「奈良公園幕営」昭和三二年がある)

年譜   
『筑摩現代文学大系74 埴谷雄高・藤枝静男集』(二月一五日筑摩書房) これまでの著者自筆年譜に加筆。最後の自筆年譜(作成の日付はない)。なお最初の自筆年譜は『現代日本文學大系48 瀧井耕作・網野菊・藤枝静男集』昭和四七年一二月五日発行)の年譜である。この年譜にも作成の日付はないが、「群像」昭和四七年一二月号に「山川草木」を発表するところまでで、一二月二五日母を亡くしたことは書かれていないのでその作成時期はおおよそ想像できる。次が講談社文庫『空気頭・欣求浄土』の年譜(昭和四八年一月作成)、次が『藤枝静男作品集』の年譜(昭和四八年一一月作成)。以上三つは近接している。そして本年譜になる。すべて時の経過による追加だけで、遡っての書き換えは一切ない。また『藤枝静男著作集第六卷』の年譜〔伊東康夫編〕は考慮していない)

中野嘉一著『古賀春江─芸術と病理』   
「三彩」三月号  書評(  「或る年の冬 或る年の夏」のなかに「或るモダニズム流行画家の二科会出品画そっくりであった。海水着をきた若い女優は舞台の裾に立って、のびあがるように片手をあげてポーズしていた」とある。その出品画とは本随筆にもある古賀春江の代表作「海」)

思いつくまま   
「新潮」三月号  随筆(  冒頭の『日本近代文学大事典』〔昭和五二年刊〕では、藤枝も「尾崎一雄」「曾宮一念」「本多静雄」の項を担当している。/文体3号の「放談」とあるのは対談「私小説と作家の自我」をさす。平野の最後の対談である〔単行本未収録〕。この対談については、このあとの「平野謙一面」でふれている。/武者小路の手紙に出てくる独語教授桜井天壇は『第八高等学校一覧』の職員名簿に「櫻井政隆・新潟」とあるその人である。「青春愚談」昭和四六年で天壇)

初対面その他   
「ユリイカ」三月号・特集/埴谷雄高  随筆(  埴谷については「文芸時評・七月(上)」「文芸時評・一〇月(上)」昭和五〇年の項参照。「僕は埴谷氏の哲学を理解していない、と云うよりは、その気で苦労して読んでも、いまだにわからない」の言いようが面白い。関連して平野謙の自ら編んだ父の遺稿集『平野柏蔭遺稿集』昭和五二年解説のなかの述懐、父もそうだったとして「私も残念ながら埴谷雄高のような難解な文章は一度も書いたおぼえはなく、その一点だけでも、私は埴谷雄高や吉本隆明のようなカリスマ的存在となり得る資格に缺けているのである。碌々たる一文藝評論家のまま間もなく一生を終わりそうな所以である」は編者には甚だ興味深い。/なお「ユリイカ」本号に小川国夫「永遠の生命と夢幻の未来」)

ひとり旅   
「旅」四月号  随筆(  高校時代奈良に遊んだことを書いているが、第八高等学校「校友会雑誌」五二号昭和二年一二月に「奈良行き」を寄稿している。文中の小川晴暘については「青春愚談」昭和四六年、「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」昭和五四年の項参照)       

雉鳩帰る   
「群像」四月号   小説(雉鳩のことは「庭の生きものたち」昭和五二年、「ゼンマイ人間」昭和五五年、「人間抜き」昭和五七年、「ハムスターの仔」昭和五八年、「老いたる私小説家の私倍増小説」昭和六〇年、「今ここ」同年などでも書いている。いってみれば雉鳩はユーカリとともに晩年の藤枝作品の常連である。とりわけ「人間抜き」は雉鳩の「卵が孵ったのち惨殺されるまで」の日記である。/本作の素材となった実際の韓国旅行については随筆「韓国の日々」がある。それによればいろいろ悶着があって、このときの同行者は岡松和夫一人であった。/「白毛のマリヤ」が表紙の雑誌は、「図書」五二年一一月号である。鴎外訳「冬の王」は、「ボッシュ画集」昭和四四年および「ボッシュ」昭和四六年でもふれている。本作ではこの流砂のマリアと荒野の孤児と冬の王にひかれる主人公を描いているが、「庭に生きものたち」昭和五二年では自宅を建てるときに刑務所を想う主人公を描き、「自分は罰せらるべき人間」だと語らせてもいる。/また再会した「貼文新羅壷」は、『韓国美術五千年展図録』昭和五一年に不鮮明な図版だが「土偶装飾長頚壷」の名称で載っている。藤枝はこの展覧会を見ていたのであろう。/「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年では曾宮一念の詩を最後に引用したが、本作では最後に自作の詩をのせる。「釈迦曰く 愛欲を去り、犀角の如く、ただ一人歩めかしと 汝の命如何に終わるとも 流砂のマリアの如く 荒野に住む孤児の如く はたまた冬の王の如く 自らを罰し 歩めかし汝」。/原始仏教経典アーガマ〔阿含経〕のパーリ語テクストに一五の経からなる「小部」があり、そのなかの一つに「スッタニパータ」がある。「スッタニパータ」は全五章一一四九の詩・散文から成る。その第三五〜七五詩の第四五詩を除く計四〇の詩のすべてに、「犀の角のごとく ただ独り 歩め」が繰り返されている。なお「スッタニパータ」は「スッタ(経)」の「ニパータ(集)」であり、五章の各一章は元々は独立した経典であったとされる。以上のことは小学館ライブラリー『バウッダ』による。/編者に拙文「雉鳩帰る」藤枝文学舎ニュース六四号がある)

 

 

収録─創作集『悲しいだけ』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』

 

平野謙の想い出 ─小林秀雄を苦しんで読む─「近代文学」の位置を形成  
「日本読書新聞」四月一七日号 談話(単行本未収録 藤枝静男の手で「談話」とメモされた切り抜きが浜松文芸館にある)

故平野謙との青春の日々   
「週刊朝日」四月二一日号  随筆(  文中の「ファンニーヒル」、「変態資料」などについては「青春愚談」昭和四六年の項参照)

里見さんの恩  
 『里見?全集第五卷』(四月二五日筑摩書房)月報6  随筆(  文中「いつか吉井画廊で見た」というのは、「当てずっぽう」昭和五〇年でも書いている「白樺派とその周辺─書画展」のことであろう。志賀直哉・里見?・小津安二郎の来浜については静男巷談「小説の神様の休日1」昭和三二年、「小説の神様の休日2」昭和三三年で書いている。/里見が色紙に書いた志賀の言葉「離而強即」を、藤枝静男も色紙に書いている。この「「離而強即」は「文學界」昭和六〇年五月号インタビュー「『極北』の私小説 藤枝静男」のキー・ワードでもあった。/また里見?が志賀直哉の呪縛をふりきる場面のことは、「志賀直哉文学紀行」昭和四九年に書いている) 

貰ったもの失ったもの   
「東京新聞」・「中日新聞」五月二二日夕刊  随筆(  余談であるが、小谷剛『確証』と由起しげ子『本の話』はなぜか古本目録で高額である。/平野謙が生まれ育った寺法蔵寺の住所は岐阜県各務原市〔かがみがはらし〕那加西市場町五─一三八八、平野謙の墓がある。戒名は評言院釋秀亮。「友人のなかでここに足を踏み入れたものは本多秋五だけである」とある。本多年譜昭和二四年に「一〇月七日、岐阜師範における講演のため、平野謙と岐阜に行く。このときはじめて平野の生家がお寺であることを知る。法蔵寺に三泊する」。親しい仲でも、平野は自分の生家について話すことはなかったのである。/また平野の情報局辞令のことがある。平野年譜昭和一六年に「二月に情報局第五部第三課の嘱託となる」。/中学時代の平野謙が父愛蔵の雑誌切り取りが暴露して、雑誌というものは総体保存が大切であると父から懇々とさとされたという話がある。ことは総体保存のことだが、雑誌が資料的に重要であることを強く云いたい。単行本は云ってみれば上澄み的である。創作の経緯や作品が生み出された時代の空気を実感することは難しい。まして限定本・豪華本の類は「愛書家」の世界であって、研究資料としてはあまり価値はない。また雑誌は古本市場にも出てきにくい。収集の立場からいっても貴重である。例えば編者が「三田文学」昭和二三年六月号を入手するのに一〇余年かかった。/なお藤枝静男は豪華本の類を嫌った。断れぬわけがあったらしい昭和五六年の『路』成瀬書房の一冊だけである)  

半僧坊    
「文体」六月夏季号  小説(「新羅堂」「摩訶耶寺」「千頭ヶ峯」については「千頭ヶ峰城址」昭和五一年、「眠りをさます東海の名園」昭和五四年で書いている。ダダイスト高橋新吉については「青春愚談」昭和四六年でふれている。高橋は藤枝も読んだ『ダダイスト新吉の詩』で当時の詩壇に衝撃をあたえるが、次第に禪の世界に傾斜して行き、禪に関する著書も多い─明治三四年生まれ、昭和六二年歿、享年八六歳。/藤枝静男は半僧坊を「山深く逃れ、しかし死ぬこともできずにほぼ四十年の長い年月を生きながらえてきた南朝勇将の一人」に見立てている。このことでは「雉鳩帰る」の「冬の王」を連想する。藤枝が共鳴するモデルと云えようか)

 

 

時評─川村二郎「文藝」八月号(『文芸時評』昭和六三年河出書房新社) 

収録─創作集『悲しいだけ』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』

 

平野謙一面  
「新潮」六月号  追悼(  平野の愛唱詩については昭和六〇年の「今ここ」の項を参照)  

弔辞   
「海」六月号  弔辞(四月一二日の平野謙告別式における弔辞。一部引用する。「われわれは各々の信ずるところに従って、全力を振るって休まず仕事をしてきたと思う。それぞれの意見は一致することもあったし、相違することもあったが、とにかくどんな場合でも妥協することなく、お互い同志を信用し続けて来たし、相手に対して人間的不信を抱いたことは一度たりともなかった。この友情は自然であったけれど、誇りとしてもよかったと思うし、またこれからも許されると信じている。みんな文学というものが全人間的なものであると心に決めてやってきた。助けを呼ぶことはしなかったけれど、助け合った」。藤枝の弔辞としては他に「弔辞─敬愛する北川静男君」昭和五年がある。単行本未収録。/「海」本号に本多との対談「平野謙の青春」がある)。

泡のように(1) ─旧東海道の藤枝町  
「読売新聞」六月二三日夕刊   随筆(「連載企画・自伝抄」欄。『自伝抄6』昭和五四年読売新聞社刊に収録。各回の題をはぶき「泡のように」として 。以下同じ)

泡のように(2) ─一人で東京の中学へ  
「読売新聞」六月二四日夕刊   随筆(鋳鉄の文鎮については「先生─一高」昭和五〇年に書いている。「成蹊学園という中等学校」とあるが、正しくは「成蹊実務学校」である。三年に進級する際に中学部へ転籍)

泡のように(3) ─子に託した父の夢  
「読売新聞」六月二六日夕刊   随筆(「米騒動」のことは「或る年の冬 或る年の夏」に書いている。小学唱歌にある「わが大君の食す国」で、天皇がどうして国を「食う」のかと思ったとある。「食す」の読みは「おす」。天皇などが「治める」の尊敬語。「土中の庭」昭和四五年では昭憲皇太后の歌の「金剛石も磨かずば 珠の光は添わざらん」で「章」は父に「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」と尋ねる)

泡のように(4) ─牛肉を"恐れた"母  
「読売新聞」六月二七日夕刊   随筆(小学校の先生のことは「先生─一高」に、牧師館のことは「雄飛号来る」昭和三二年に書いている)

泡のように(5) ─自由教育の実務学校  
「読売新聞」六月二八日夕刊   随筆

泡のように(6) ─懐旧の人と町と自然  
「読売新聞」六月二九日夕刊   随筆(中村彝の絶筆「中村春二像」は中村浩著『人間・中村春二伝』昭和四四年岩崎美術社に掲載されている。なお文中の川瀬一馬は『成蹊実務学校教育の想い出』昭和五六年〔藤枝静男寄稿〕の編集者であり、『筑摩現代文学大系 埴谷雄高・藤枝静男集』昭和五三年の月報に「五十四年目の再会」を寄せている。なお川瀬は当然ながら『成蹊実務学校教育の想い出』に寄稿しており、その文末の肩書きは「学士院賞、紫綬褒章、青山学院女子短期大学教授、静岡英和女学院長兼短大学長、文化財保護審議委員会専門委員」)

泡のように(7) ─中田善水のこと  
「読売新聞」六月三〇日   随筆(『成蹊會会員名簿』昭和二三年の実務学校第九回生に川瀬一馬、第一〇回生に中田善水の名がある。中田は前出の『成蹊実務学校教育の想い出』に勝見次郎〔藤枝静男〕と並んで寄稿している。一、成蹊に入るまで、二、本部での一年、三、実務学校の五年間と長文である。その文中「勝見君は心力歌の作者が田中智学先生のように著書の中で書かれていたが、これは漢学者であり、仏教にもくわしい、中央大学教授の小林一郎先生であったと記憶している」とある。中田の記憶が正しい。なお中田の文末の肩書きは「回教圏研究所、特別養護老人ホーム土佐清風園々長」。藤枝は中学部に籍を移しているので中学校第九回生に、高校受験のため四年で退学したので退学者として載っている。/『秘境西域八年の潜行』については「田紳有楽前書き(二)」昭和五〇年の項参照)                                      

慰め与える貴重な証言・死への真摯な問いかけ─ 毛利孝一著『幕のおりるとき』  
「図書新聞」七月一日号 書評(「毛利孝一著『幕のおりるとき』のこと 」として  毛利は第八高等学校理科乙類の同期生である。「異物」昭和三二年の主人公の名前毛利は、毛利孝一から思いついたと思われる。/なお毛利が取り上げている『扶氏医戒』、そして『扶氏医戒』の原著者のプロシャ国王侍医フーフェランドにふれているが、「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年に「フーフェランド医典には」云々がある。『幕がおりるとき』によれば、扶氏とはフーフェランドの名を扶歇蘭度〔ヒュヘランド〕と漢字をあてて呼んでいたその頭字に由来する。『扶氏医戒』は、フーフェランド著『エンシリディオン・メディクム〔医学便覧〕』一八三六年の「医師の義務」ともいうべき終わりの一章を、杉田玄白の孫杉田成卿が翻訳し文久三年に刊行したもの。正しくは『済生三方附医戒』。幕末多くの人々に読まれた。同書には「みな生きもの みな死にもの」にある「金玉云々」は勿論 ない。なお『医戒』の参考文献として現代教養文庫『医戒─幕末の西欧医学思想』昭和四七年がある。/「僕についての一文」とは「八高時代の藤枝君」である。そのなかで「或る年の冬 或る年の夏」に登場するストライキの指導者菅沼は都留重人がモデルであると記している。藤枝も「泡のように」で「二級下で頭もよく元気も充分な正義漢都留重人が共産青年同盟として八高内に最初にして最後の組織をつくり、ストまで持って行って退学させられた」と書いている)

泡のように(8) ─中村園長と不良少年  
「読売新聞」七月一日夕刊   随筆(「中村春二(私の中の日本人)」  昭和五一年の項、読んだ本については「青春愚談」昭和四六年の項参照。中村園長が藤村の「千曲川旅情の歌」を取り上げてそれとなく少年藤枝を慰めてくれたとある。このことでは『成蹊実務学校教育の想い出』で同期生北浜健一、板倉正夫、田中全太郎がこのときのことを書いている。印象深い出来事であったことがわかる。また板倉の文に不言会〔生徒会〕の「図書部の委員は勝見君だったと思う」とある)

泡のように(9) ─天下の一高に挑戦  
「読売新聞」七月三日夕刊   随筆(一高挑戦は「先生─一高」に書いている)

泡のように( 10 ) ─八高寮のわが青春  
「読売新聞」七月四日夕刊   随筆(八高時代のことは「青春愚談」の項参照。文中の川村二郎に「或る年の夏」「接吻」「キエフの海」「怠惰な男」「武井衛生二等兵の証言」「風景小説」「私々小説」「盆切り」「一枚の油絵」「田紳有楽(終節)」「滝とビンズル」「在らざるにあらず」「半僧坊」「みな生きもの みな死にもの」「虚懐」「またもや近火」の時評、『欣求浄土』『或る年の冬 或る年の夏』『寓目愚談』『田紳有楽』『虚懐』『今ここ』の書評がある)

泡のように( 11 ) ─文学書と応援の日々  
「読売新聞」七月五日夕刊   随筆

泡のように( 12 ) ─懐旧の情そそる風景  
「読売新聞」七月六日夕刊   随筆(武蔵川谷右ェ門については、静男巷談「操りの糸(牛込亭)」昭和三三年、「硝酸銀」昭和四一年、「武蔵川谷右ェ門・ユーカリ・等々」昭和五九年がある)

泡のように( 13 ) ─苦々しい怠惰な生活  
「読売新聞」七月七日夕刊   随筆

泡のように( 14 ) ─やっと眼科医、写真結婚  
「読売新聞」七月八日夕刊   随筆(文中の「今昔物語集」については「野太い今昔物語」昭和四六年が、伊東教授と?写真結婚?については静男巷談「先生」昭和三四年がある) 

泡のように( 15 ) ─招集避け軍の病院へ  
「読売新聞」七月一〇日夕刊   随筆(泥棒のことは「泥棒三題」昭和三一年に書いている。この時期の論文がいくつか残っている。「空気頭」に関連がある「兩眼内下方四分ノ一半盲症ノ一例」もその一つである。藤枝静男が博士号を取得したのは昭和一七年六月。博士号取得を本人以上に望んでいたであろう父鎮吉は、その三ヶ月前に脳溢血で死去。弟の死をモティーフにした作品に「私々小説」昭和四八年、「一枚の油絵」昭和五〇年がある)

泡のように( 16 ) 戦勢、しだいに傾斜  
「読売新聞」七月一一日夕刊   随筆(この時期の体験をモティーフに作品「イペリット眼」昭和二四年、「明るい場所」昭和三三年がある)

泡のように( 17 ) ─終戦─そして処女作   
「読売新聞」七月一二日夕刊   随筆

泡のように( 18 ) ─庭で楽しむ造形芸術  
「読売新聞」七月一三日夕刊   随筆(「壷あれこれ」昭和五七年The骨董第5集に藤枝宅の庭に置かれた壷たちの写真)

泡のように( 19 ) ─花見会で陶器の講義  
「読売新聞」七月一四日夕刊   随筆(文中の本多静雄については『日本近代文学大事典』昭和五二年で「本多静雄」の項担当。文中の鈴木重一は第八高等学校第一八回理科乙類卒。「三度目の勝負」昭和四八年に出てくる「二級上で東大一本槍連続落第組」の鈴木がそうか。だとすれば「或る年の冬 或る年の夏」の朝川のモデルである可能性がある。「怠惰な男」昭和四六年の項参照)

泡のように( 20 ) ─生きざま、死にざま  
「読売新聞」七月一五日夕刊(完)   随筆

わたしのすすめる味な店   
「ファミリー fan fan」八月号   随筆(  「私はここの入れ込みの広間が好きだ」とある。入れ込み=多くの人を区別なく一カ所にまぜて入れること。「鳥善」浜松市佐鳴台六─八─三〇、鳥の味噌鍋が名物) 

   
梅田画廊・梅田近代美術館ニュース第四号(九月一二日発行)   随筆(『石心桃夭』の掲載誌〔紙〕一覧では「曾宮一念展ニュース」となっているが不正確。/梅田近代美術館で九月一二日から一〇月一日にかけて「孤高の詩情─曾宮一念展」が開催された。曾宮は昭和四六年に緑内障により両眼とも失明していた。図録によれば自薦展とある。展示作品九八点すべてが図録に掲載されている。藤枝の所蔵作品「虹」はその中の一点。。/本展については『回想 曾宮一念』平成八年木耳社の矢倉喜八郎「大阪展のこと」がある。それによれば藤枝静男は富士正晴と初日に会場を訪れている。なお梅田近代美術館は現在廃館。/「作品との不思議な出会い」昭和五一年で「虹」のこと。また作品「虹」は、『曾宮一念展』図録昭和六二年静岡県立美術館・曾宮一念『画家は廃業』平成四年静岡新聞社に掲載されている。『画家は廃業』に対談があり、菅沼貞三の「虹の絵はとってもいい絵だったですね」に対し曾宮一念は「そうなんだ。ほかにはないんだ。あれももちろん想像画」と応じている。/作品サイズ四一センチ×二七センチ。昭和二五年制作。なお曾宮は同じ絵柄ながら、色合いと構図・大きさの異なる「虹」を何枚か描いており、もう一枚の「虹」が藤枝静男コレクションとしてある)

八百キロドライブ   
『石心桃夭』の掲載誌(紙)一覧で(昭和五一年九月一一日共同通信)となっているが、掲載誌(紙)未見。

解説   
集英社文庫・小川国夫『流域』(九月三〇日集英社)  解説(「小川国夫著『流域』解説 」として

尾崎一雄氏─奈良での文学開眼   
「静岡新聞」一〇月に八日朝刊 随筆(「尾崎一雄氏の文化勲章 」として  尾崎については他に「尾崎一雄氏との初対面」昭和三二年、「瀧井さん、網野さん、尾崎さんのこと」昭和四一年、「永井龍男『灰皿抄』・尾崎一雄『冬眠居閑談』」昭和四四年、「尾崎一雄『ある私小説家の憂鬱』」昭和四五年、「尾崎さんのこと」・文芸時評「八幡坂のあたり」昭和五〇年、「『日本近代文学事典』尾崎一雄」昭和五二年、「兄弟子」昭和五七年、「尾崎一雄追悼座談会」昭和五八年、「尾崎さんのこと」昭和五九年がある)

初めてお茶に呼ばれた   
「サンケイ新聞」一一月一八日朝刊  随筆(

瀧井さん   
『瀧井孝作全集第四卷』(一二月二五日中央公論社)月報4  随筆(  昭和二七年の瀧井の来浜については「瀧井孝作氏のこと」昭和二九年で書いている。)


『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』  
昭和五三年二月一五日  筑摩書房刊    
口絵写真(一九七七年一二月、浜松市東田町の自宅書斎。愛蔵の聖徳王神鐘<韓国慶州博物館在>陽鋳飛天拓影屏風を背にして)撮影・金井塚一男
筆 跡 藤枝静男「此地別燕丹 壮士髪衝冠 昔時人既没 今日水猶寒  昭和丙辰四月録駱賓王詩 藤枝静男 落款 」(注)昭和丙辰=昭和五一年。駱賓王( らくひんのう )の「易水送別」(この地こそはその昔、荊軻が燕の太子丹と別れたところ。壮士の髪は逆立って冠を突き上げんばかりであった。そうした昔の人は姿を消してもういないが、易水の水は何百年後の今日なおさむざむと流れている(岩波文庫『中国名詩選<中>』より)
月  報 川瀬一馬「五十四年目の再会」・芝木好子「小説の中」
収録作品 路/春の水/ヤゴの分際/硝酸銀/一家団欒/空気頭/欣求浄土/愛国者たち/私々小説/フランクフルトのルクレツィア(なお埴谷雄高の収録作品は「死霊」と「ルクレツィア・ボルジア)
年  譜 藤枝静男(最後の自筆年譜)
解  説 桶谷秀昭「人と文学」

講談社文庫『田紳有楽』  
昭和五三年一一月一五日  講談社刊
カバー装画 辻村益朗(なお同じ初版でも背表紙が異なる三種類のカバーがある)
収録作品 田紳有楽
解  説 川村二郎
年  譜 伊東康雄編(『藤枝静男著作集第六卷』の年譜に追加)



随筆集『 茫界偏視 ( ぼうかいへんし ) 』  
昭和五三年一一月二四日  講談社刊
装  幀 辻村益朗
収録作品 
1(作品との不思議な出会い/再び二流品のこと/ひばりのいる麦畑/内なる美/「岸田劉生とその周辺」展のこと/劉生と潤一郎/中野嘉一著『古賀春江─ 芸術と病理 』/堀田善衛氏の「ゴヤ」について/箪笥・版画・戦後派文学)
2(竹絵付け皿─ 骨董歳時記1 /壷三箇桶一箇─ 骨董歳時記2 /朝鮮民画─ 骨董歳時記3 /青銅瓶─ 骨董夜話1 /木彫小地蔵尊─ 骨董夜話2 /青織部菊皿─ 骨董夜話3 /チベットの短剣と骨笛─ 骨董夜話4 /京伝の扇面─ 骨董夜話5 /初期伊万里小壷─ 骨董夜話6 /薬研・墨壷・匙/観音寺の大壺/「高麗人形」ほか/日本国宝展によせて/私の見たい「秋草文壷」と白天目/まぐれ当り/木村浩著『ロシアの美的世界』/焼きものを求めて進む/二流品・無流品)
3(能登の旅/美女入浴/ひとり旅/昨日今日/誕生日/琵琶湖東岸の寺/千頭ヶ峰城址/塔巡り/韓国の日々)
4(「文体・文章」/文学的近況/平野謙著「志賀直哉とその時代」/跋文/思いつくまま/平野謙一面/故平野謙との青春の日々/貰ったもの失ったもの/里見さんの恩/初対面その他/毛利孝一著「幕のおりるとき」のこと/相生垣瓜人氏のこと/「近代文学賞」のこと他/志賀直哉・天皇・中野重治)
5(本との出会い/運命─ 私の読者 /私の著作集について/使用済み原稿用紙/妻の遺骨/泡のように)
本書には「あとがき」はない

『茫界偏視』書評
岡松和夫「群像」昭和五四年二月号・巌谷大四「静岡新聞」昭和五四年二月一二日朝刊・吉田知子「日本読書新聞」昭和五四年一月二二日号・高橋英夫「日本経済新聞」昭和五四年一月二八日朝刊(『小説は玻璃の輝き』)



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