昭和五二年(一九七七年)   六九歳

一月、『週刊読書人』三日・一〇日合併号で小川国夫と対談「わが風土わが文学」。同月、『藤枝静男著作集第四巻』刊行。二月二六日、妻智世子乳癌に癌性腹膜炎を併発し死去、享年六〇歳。告別式などは行わず、雛壇に写真と骨壺を置く。藤枝静男は「『妻の死が悲しいだけ』という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している」と小説「悲しいだけ」に書く。三月、『藤枝静男著作集第五巻』刊行。同月、本多の同伴を得て倉敷・熊本など一週間旅行。四月一二日、本多と藤枝の世話で平野謙の『昭和文学私論』出版記念会(恩賜賞受賞祝賀会)が開催される。五月、「滝とビンズル」が『文学一九七七』(講談社)に収録される。同月、『藤枝静男著作集第六巻』刊行(全六巻完結)。七月、立原正秋ら旧『犀』同人が中心になって『藤枝静男著作集』完結祝いと藤枝静男を励ます会が開かれる。「雛祭り」を『海』八月号に発表。八月一九日より二一日まで大庭みな子らと韓国旅行。八月三一日、狛江の菅原家 ( 次女本子宅 ) で『藤枝静男著作集』完結、『「近代文学」創刊のころ』出版、山室静『籐椅子の上で』出版を祝う会。本多、平野も出席。「悲しいだけ」を『群像』一〇月号に発表。一〇月二九日より一一月三日まで韓国国際文化協会の招待で岡松和夫らと韓国旅行、再び慶州およびソウル、雪岳山にも登る。「庭の生きものたち」を『群像』一一月号に発表。一二月、奈良旅行。浜名湖会は開催されなかった。この年「主潮」第六号に桑原敬治「藤枝静男論(一)─『凶徒津田三蔵』まで」がある。

追記/久保田正文宛の藤枝静男の葉書(一一月一九日付)がある。「十二月七日に狛江の娘宅で『文体』のために平野と雑談するため上京いたします。しかし韓国から帰ってから歯が痛く義歯をはめられずオカユばかりでへばっていますから日帰りいたします」。平野との雑談とは「文体」三号( 1978 年春季号)に掲載の平野謙との対談「私小説と作家の自我」。

 

青銅瓶 ─「骨董夜話」連載1  
「太陽」一月号  随筆(  本連載には写真が添えられている)

箪笥・版画・戦後派文学   
「文學界」一月号  随筆(

木彫小地蔵尊 ─「骨董夜話」連載2  
「太陽」二月号  随筆(

青織部菊皿 ─「骨董夜話」連載3  
「太陽」三月号  随筆(

二流品・無流品   
「銀座百点」三月号  随筆(  本号の表紙は風間完) 

チベットの短剣と骨笛 ─「骨董夜話」連載4  
「太陽」四月号  随筆( 「田紳有楽」で主人億山が骨笛をふく場面がある。「チベットと云えば、この数日来、池の斜めうえの二回にある主人億山の書斎から、しきりに素っとんきょうな笛の音が聞こえてきて私の郷愁をさそってやまないのである。音律も強弱も何もない、ただ子供が力いっぱい竹の筒に息をふきこんでいるような、短くて甲高い、のっぺらぼうな音だけれど、耳を澄ませて聞き入っているうちに」「身をむしられるような愁いに胸を襲われるのだ」。/現在藤枝家に短剣はあるが、骨笛は行方不明。本号掲載の写真でしか見ることが出来ない)

妻の遺骨 ─あの美術館の中庭で起こったこと  
「毎日新聞」三月二八日夕刊  随筆( ・『日本の名随筆8死』昭和五八年作品社刊に収録)

京伝の扇面 ─「骨董夜話」連載5  
「太陽」五月号  随筆(

著作集を終えて   
『藤枝静男著作集第六卷』(五月二八日講談社)  自著あとがき(「この最後の卷の署名をその病床のかたわらで終えた数日後の二月二十六日、。最愛の妻を失った。その霊にこの著作集を捧げたい。私事として記すことを許されよ」とあとがきを結んでいる。 単行本未収録)

初期伊万里小壷 ─「骨董夜話」連載6(完)  
「太陽」六月号  随筆(

跋文   
「群像」六月号  随筆(本号の平野謙「恩賜賞受賞のこと」のなかで平野は「私個人として当日の特筆大書すべきことは、署名簿の最後に、藤枝静男がつぎのような跋文を書いてくれたことである」として引用。これは本多秋五と藤枝静男の世話で開かれた平野謙『昭和文学私論』出版記念会(恩賜賞受賞祝賀会)でのことである。平野の恩賜賞受賞に対し批判する者もいたなかでのことであった。跋文の最後に「一九七七年四月十二日夕、世話人藤枝静男記ス」。   なお平野謙の恩賜賞受賞のことで本多秋五「芸術院恩賜賞のことなど」文学界昭和五四年八月号がある)。

雛祭り   
「海」八月号  小説(文中の「マアちゃん」、そして「或る年の冬 或る年の夏」の「沖」は俳人岡田鈴石がモデルである。藤枝市・向善寺に岡田の墓がある。岡田鈴石については、鈴木貞子「岡田鈴石ノート」─『藤枝文学舎ニュース』第九号〜第一二号が詳しい。/文中出てくる映画「首の座」については「或る年の夏」の項参照。「浪人街」は「首の座」と同じく山上伊太郎原作脚色、マキノ正博監督。昭和三年から四年にかけて第一話「美しき獲物」、第二話「楽屋風呂」、第三話「憑かれた人々」と製作されている。ちなみに第三話の広告文「尖鋭化せる山上伊太郎蒼白の筆致と、雄渾にして微妙なるマキノ正博の近代的タッチに、三木稔のキャメラの妙を配して武家政治下に於ける浪人群の歓喜、憂鬱、豪快、自棄、耽溺、を描いて餘すところなし。反面有閑階級の悪徳、奸悪商人のからくりを暴露し批判して、冷徹骨を刺すの感あらしむ。正にこれ第八藝術の最尖端。昭和四年度最優秀作品中の最高峰。ああマキノの『浪人街』、日本の『浪人街』、世界の『浪人街』!」キネマ旬報昭和四年一一月一一日号。第三話はキネマ旬報ベストテンの第三位になったが、前年第一位になった「首の座」同様興行的には失敗であったようだ。この時のことをマキノ自身が『映画渡世・天の巻』昭和五二年平凡社で語っている。/最後の方で「妹はクリスチャンである」とある通り、藤枝市岳叟寺にある実際の勝見家累代の墓に妹きくの名はない。/妻が「わたしはこのお墓に入るのはいやです」という場面は、「空気頭」昭和四二年でも書き、このあとの「悲しいだけ」でも書いている。妻の「宙に浮いた小骨片一個」とは、「妻の遺骨」にある大原美術館から突き返された妻の骨片である。モデルについての本書の立場は「春の水」昭和三七年の項に書いた。/なお「海」本号に埴谷雄高「逆光のなかの白内障」─眼科医としての藤枝静男のこと)

 

 

時評─奥野健男「未詳」七月二六日未詳(『奥野健男文芸時評 1976 〜 1992 (上)』平成五年河出書房新社)

収録─創作集『悲しいだけ』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』

 

「近代文学賞」のこと他   
『「近代文学」創刊のころ』(八月一五日深夜叢書社)  随筆(  埴谷雄高の「銓衡経過」も引用、「近代文学賞」についての基本文献といえよう)  

悲しいだけ    
「群像」一〇月号  小説(冒頭「友人の本多秋五が『彼の最後に近くなって書く小説は、たぶん最初のそれに戻るだろうという気がする』となにかに書いた」とあるのは、『藤枝静男著作集第六卷』参考文献にあるアンケートのことであろう。参考文献では「顔」昭和三九年七月号とあるが、「顔」について編者は未見。編者がアンケートを見ることができたのは浜松文芸館にある藤枝静男の手で「藤枝静男論─アンケート・藤枝小文・論─?文炎?」と記された切り抜きである。そのなかの編集清水信の挨拶文からそれが「文炎」別冊とわかる。内容は『著作集』参考文献で「顔」七月号とされている内容に藤枝の小文が加わったものである。この「文炎」別冊及び藤枝の小文については「序文」昭和四一年の項参照。アンケート「あなたは、藤枝静男作品の何を愛読しましたか」に、本多は次のように答えている。「『路』─作家的力量を発揮した作品は他にあるでしょうが、好きということではこの最初の作品が一番好きです。彼の最後の作品はこれを大きくしたものになるのではないか」。本多の予想は当たったといえようか。/なお「文學界」昭和五七年一月号「どこの港につくじゃやら」で富士正晴は「藤枝老人」の「悲しいだけ」についてふれている。/藤枝静男の長女章子さんは「母は、たぶん父の小説に書かれているのとは、違う人だと思います」と語っている─宮内淳子「藤枝静男の遺愛の品々」。妻智世子は亡くなる前々年には娘とインド旅行、夫〔藤枝静男〕と湖東旅行、また前年には欧州旅行。また三味線、陶器の絵付け、手びねりなどを楽しんでいる。平成元年に開催された「藤枝静男展」には、藤枝が意匠した額縁に入った智世子の静物画が出展された。モデルである智世子にはそうした一面もあったのである。/主人公は法務局の屋上で自衛隊戦闘機がつぎつぎと現れては消えて行く光景を眺めている。また喫茶店で行ったり来たりする機関車を眺めている。こうした繰り返される光景を、そしてその光景に引き寄せられる主人公を藤枝は他でも書いている。/主人公はまた阿寺の七滝を訪れる。そして「子抱き石」から「無機物の妊娠という不気味な妄想」を抱いたことがあったと書く。このことでは「田紳有楽」でグイ呑みと出目金C子の生物死物の結合を描いている。そして中上健次との対談『新しい文学と私小説』昭和五一年で「構造的に考えて、原始時代の生物のないところに、生物が生まれるとすると、これは無機物から生まれるわけでしょう。そこの所ですよ」と語っている。/七滝からの帰り見知らぬ山間に入り、柔らかい蛇文岩が風化し土に化していく光景を眺める。そして「妻の骨もまたこのようにして土に帰り、かねてから望んでいたように水に溶けて地中に吸われて行くのだろう」と思う。このことでは「妻の遺骨」昭和五二年に「妻は全くの無宗教で、平生から自分が死ねばどうせ水になって消えるのだから、骨の小さなかけらを少女時代に親しんだ浜名湖と、それから大好きな倉敷の美術館の庭の隅に埋めて砂利でもかけて踏んでおいてくれ、墓はつくってくれるなといっていた」とある。/また主人公は熊野御前〔ゆやごぜん〕の墓のある寺〔磐田市行興寺〕を訪れる。昭和五八年に随筆「熊野の長藤」がある。/「わたしはこのお墓の下に入るのはいやです」と妻が云う場面は、「空気頭」昭和四二年で書き、「雛祭り」昭和五二年でも書いている。「私が死んだら私の骨壺に妻の残した骨の小片を入れ、帯同してこの父母の待つ墓の下に入り、そして皆で仲良く暮らすつもりである」とあるが、現実の藤枝市岳叟寺にある勝見家の墓に智世子の名は刻まれていない。前述の智世子の言葉からか。また藤枝の骨壺に智世子の骨の小片を入れたかは知らない。知る必要もなかろう。/妻が死を迎えたとき主人公は「ああ、アア」と思う。ラストでもむかし山から戻らない兄の捜索に人々が慌ただしく出かけて行った光景を思い出し「ああ、アア」と思う。そして「同じ物質のように一種の異物として動かないでいる」と書く。「みんな泡」昭和五六年でも「『ああッ』と私は思った。『あれだ』と思った。『おれは小学生のときに、これとおんなじようなことを見てきたのだ。この人たちはどこから移ってきたのだろう。こんな何もできない、井戸を掘っても水のでないところへどうして』と書く)

 

 

時評─桶谷秀昭「静岡新聞」一〇月一日朝刊・秋山駿「読売新聞」九月二四日夕刊(『生の磁場─文芸時評1977 〜 1981 』)奥野健男「未詳」九月二七日未詳(『奥野健男文芸時評 1976 〜 1992 (上)』)

合評─上田三四二・黒井千次・柄谷行人「群像」一一月号

収録─創作集『悲しいだけ』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』・『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』・光文社文庫『恋愛小説アンソロジー 感じて。息づかいを。』(川上弘美撰・平成七年一月光文社)

 

再び二流品のこと   
「展望」一〇月  随筆(  富士正晴の藤枝宛の葉書がある。「『展望』の文章拝読し胸中スカッとするのを覚えましたが、思えばわが国はますますスカッとせんのの方がはびこり、いささか憮然つづきです」九月一三日付)

まぐれ当たり   
「文學界」一〇月号  随筆(  文中のグリューネワルト「キリスト磔刑図」については画集『グリューネヴァルト─ イーゼンハイムの祭壇画 ─』平成五年新潮社がくわしい。なお佐々木基一が『藤枝静男著作集第一巻』月報で、グリューネワルトの祭壇画〔磔刑図〕を藤枝静男に見せたいと書いているが、藤枝は高校受験の浪人中、すでにグリューネワルトに眼をつけていたのであった。編者は平成一九年のフランス旅行で、人口七万の町コルマールにあるウンターリンデン美術館で期待にたがわぬ祭壇画と対面した。ただ窓からの光が直接画面に当るなど作品保護が気になった。監視員はフラッシュ撮影には神経をとがらせていたが)

庭の生きものたち   
「群像」一一月号  小説(動物園の親駝鳥を「狭くて臭い囲いの中をブラついている」「乾燥して重たげな胴体と傷だらけの硬く厚い両脚」とその哀れを描写する。編者は「東京新聞」昭和五〇年一一月の文芸時評を連想した。天皇の記者会見を見た藤枝静男は「『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていて見たら何と思ったろう」と書いている。雉鳩については、このあと「雉鳩帰る」昭和五三年がある。モデルとなっている藤枝静男の自宅の庭については「武蔵川谷右ェ門・ユーカリ・等々」昭和五九年の  項参照。/「ゴチャゴチャと動きまわっている家鴨」を「飽かず眺めていることがある」とある。「田紳有楽」の億山もリモコンの模型飛行機を飽きずに眺める。「悲しいだけ」の主人公も、自衛隊機の現れては消えて行く飛行と行ったり来たりする機関車をぼんやり眺めている。「今ここ」の「私」も模型飛行機から「眼を離すことができ」ない。/「刑務所願望があった。自分は罰せらるべき人間だ」とある。このことでは「雉鳩帰る」昭和五三年で流砂のマリアと荒野の孤児とただひとり冬の海岸で過ごす「冬の王」に引かれる主人公を描き、自作の詩に「自らを罰し/歩めかし汝」と書く。/霧の高草山に登る場面があるが、小川国夫が「霧のなかの藤枝さん」〔『藤枝さんと私』平成五年〕に書いているのはこのときのことであろう。やはり七月とある。高草山は標高五〇一メートルの低山ながら、眼下に志太平野・駿河湾、東には日本平・富士山が眺められる。手軽なハイキング・コースである。/上司海雲については、「壷法師」昭和四八年・「志賀直哉氏と上司海雲氏」昭和五〇年・「いろいろのこと」昭和五五年がある。上司が北川冬彦主宰の詩誌「麺麭」〔めんぽう=パン。軍隊で用いた語〕の同人とあるが、北川冬彦については「追憶」昭和四九年の項参照。/僧形八幡像については「在らざるにあらず」昭和五一年でもふれている。木造、像高八七・一センチ。鎌倉時代快慶の作。/「観玄」については、「観玄?」あるいは「観玄」としたためた藤枝の書が藤枝市だけで四つある〔小川国夫宅、江崎武男宅、杉村孝宅、臼井太衛宅〕。勧進所の田翁筆とされる大幅は『現代日本文学アルバム6 志賀直哉』昭和四九年の「志賀直哉文学紀行」に挿入された写真に写っている。「いろいろのこと」昭和五五年の項参照。/「私」は高校時代の私に思いがとぶ。高校生の私が歩いている池のモデルは、藤枝市の青池である。/「私」はまた韓国旅行を思い出す。韓国旅行については「韓国の日々」昭和五三年があり、また「雉鳩帰る」でも書いている。/「お辞儀したくなるほど美しい遺物や塔」とあるが、「ゼンマイ人間」昭和五五年に「ブリヂストン美術館にある『サン・ヴィクトワール山』『自画像』小さな『静物』なんかのまえを離れるとき、私はどうしても心で有難うございましたとつぶやいてお辞儀せずには去れない」とある。「木と虫と山」昭和四三年では「感心しました」と誰にともなく云う。/なお「群像」本号の合評で「悲しいだけ」)

 

 

収録─創作集『悲しいだけ』・『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』

 

真情の率直な流露─木村浩著『ロシアの美的世界』   
「波」一一月号  書評(

尾崎一雄   
『日本近代文学大事典第一巻』(一一月一八日講談社)  解説(単行本未収録 なお『近代文学大事典』は全六巻。藤枝静男については第三卷で川村二郎が書いている。本事典には全一冊の机上版(昭和五九年一〇月)がある)。

曾宮一念   
『日本近代文学大事典第二卷』(一一月一八日講談社)  解説(「肉体的挫折と家庭的不幸をそのつど粘り強く克服して未来に歩み出す精神力と、その間に交叉する江戸っ子的諦念とが、平明な文体にくるまれて一種楽天的な読後感をかもしだしている」として、その一例として詩「火葬小屋」〔「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年の最後にこの詩を引用〕をあげている。「日曜小説家」昭和三七年の項参照。 単行本未収録)

本多静雄   
『日本近代文学大事典第三卷』(一一月一八日講談社)  解説(本多静雄は本多秋五の兄。随筆家・陶芸研究家。「泡のように」昭和五三年で本多静雄との交流を書いている。なお本多秋五は戦前北川静雄のペンネームを使った。八高時代の親友北川静男と兄本多静雄の合体である。勝見次郎からペンネームをたのまれたとき本多が「藤枝静男」を思いついたのはこのこともあったであろう。 単行本未収録)また本多静雄では本多静雄が司会、藤枝静男が出席した座談会「渥美半島古窯」(『渥美半島古窯址群』昭和四〇年収録)がある。

一九七七年の成果   
「文藝」一二月号   アンケート(坂上弘「故人」・富士正晴?雑誌「俳句」その他に書かれている虚子の小説に関する評論?方々に書かれている独白的小説・中上健次「枯れ灘」・菅原克己「遠い城」をあげている。単行本未収録。/富士正晴宛の藤枝の葉書が富士正晴記念館にある。「『俳句』の方の連載も毎号大共感を以て拝見して居ります。まったく若い人たちはああいう読方をしなければ駄目なところ、今は何を楽しみに読むのか、いくら云ってもまるきりわからず、乱読は罪悪みたいな気で、何だか知りませんが目的を以て小説を読んでいるようです。本当は字があったから読んだというのが享受のすべての基礎なのに、今は読んだら何か感想がなければ悪いと思いこんでいるような気配があって甚気の毒にも感じます。あの小説をああいうふうに読めることはわれわれで終るひとつの幸福だろうと思います。長くお続け下さることをお願致します。このごろの御作の書方、題名には失敬ながら最期のひとはねみたいなところがあり大変愉快に感じております」昭和五二年六月二八日付。藤枝も「在らざるにあらず」「出てこい」と、ひとはねでは負けていない)

 

『藤枝静男著作集第四卷』  
昭和五二年一月一六日  講談社刊 
装  幀 辻村益朗
口絵写真(昭和五一年浜松市の自宅にて)写真提供=日本経済新聞 撮影・大野辰男
月  報 小田切秀雄「文学史のなかの藤枝静男」/杉浦明平「藤枝さんの私小説」/高井有一「藤枝さんの学校」/加賀乙彦「爺さま」
収録作品 
小説(イペリット眼/犬の血/掌中果─ある黄檗僧の話/異物/明るい場所/うじ虫/武井衛生二等兵の証言/異床同夢)
書評(遁走─安岡章太郎/長い谷間─椎名麟三/甲州子守唄─深沢一郎/青梅雨その他─永井龍男/懐胎─耕治人/島尾敏雄作品集第五卷/一條の光─耕治人/新・東海道五十三次─武田泰淳/灰皿抄─永井龍男・冬眠居閑談─尾崎一雄/発掘─伊藤整/虚実─中村光夫/遠山の雪─網野菊/一人の男上・下─武者小路実篤/原民喜のこと/瑠璃庵雑記─谷 口健/小説渡辺華山─杉浦明平/華山探索─杉浦明平/繭となった女─小林美代子/雀の卵その他─永井龍男/父・広津和郎─広津桃子/木の文化─小原二郎/一族再会(第一部)─江藤淳/雑談衣食住─永井龍男/田螺の唄─石塚友二/批評家の気儘な散歩─江藤淳/雪晴れ(志賀直哉先生の思い出)─網野菊/俳人仲間─瀧井耕作/田園組曲─杉浦明平/木下杢太郎─杉山二郎/中野重治「わが読書案内」について/志賀さんの生活など─瀧井孝作/冬の鷹─吉村昭/無縁の生活─阿部昭)
文芸時評
随筆(利己主義の小説/私小説家の不平/作品の背景/勝手な読書/今昔物語集/わたしの敬愛する文章/ある姿勢/学者まかせ/実作者と鑑賞家/二流品を好く理由/読書と創作─わが町・わが本/追憶/「眼は心の窓か」/昔の道/占領と詔勅の間/戦後ということ)
解  説 小川国夫「藤枝静男著作集解説4 戦争・憎みと愛

『藤枝静男著作集第五卷』  
昭和五二年三月一二日  講談社刊  
装  幀 辻村益朗
口絵写真(昭和五一年五月東京・講談社にて)撮影・野上 透
写真裏に、本書の落款についての藤枝静男の説明がある。「二個の印のうち上の印は、亡兄が療養中暇をみて私のために彫ってくれたもので、勝見次郎が私の本名である」 なお下の印は亡兄作の「 Katumi 」に合わせて「 Jiro 」と自作したものであろう。絵心のある藤枝静男ならではの作。
月  報 平野謙「四方八方からの論」/久保田正文「剛気というふうなもの」/古山高麗雄「人柄明快、作品難解」/川村二郎「名古屋の学校」
収録作品 
小説(春の水/或る年の冬 或る年の夏/疎遠の友/聖ヨハネ教会堂)
随筆(少年時代のこと/青春愚談/弔辞─敬愛する北川静男君/四年間/添田紀三郎のこと/平野断片/平野のこと/古本屋ケメトス/平野謙のこと─歴史一巡の文学的経験/ 随筆集 はじめとおわり─平野謙/本多秋五/書き始めたころ/わが「近代文学」/年齢/馬籠行き/四国・九州行き/小豆島文学散歩/西国三カ所/明治村行き/
解  説 小川国夫「藤枝静男著作集解説5 学生時代」

『藤枝静男著作集第六卷』  
昭和五二年五月二八日  講談社刊
装  幀 辻村益朗
口絵写真(昭和五二年四月浜松市の自宅にて)撮影・野上 透明
月  報 大岡昇平「眼の相談」/水上勉「仏・眼識・それから」/坂上弘「河口の眺め」/岡松和夫「下手ものの美」
収録作品 
小説(空気頭─初稿/空気頭/欣求浄土─ 欣求浄土・土中の庭・沼と洞穴・木と虫と山・天女御座・厭離穢土・一家団欒 /田紳有楽)自著後記 『犬の血』『凶徒津田三蔵』『ヤゴの分際』『壜の中の水』『空気頭』『落第免状』『欣求浄土』『或る年の冬 或る年の夏』『寓目愚談』『愛国者たち』『藤枝静男作品集』『小感軽談』『異床同夢』『田紳有楽』以上あとがき
解  説 小川国夫「藤枝静男著作集解説6 風狂」
藤枝静男年譜 伊東康夫編
解題・参考文献一覧 川西政明編
著作集をおえて 藤枝静男



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