昭和四七年(一九七二年) 六四歳
一月、「イペリット眼」が『戦争文学全集第五巻 昭和戦後篇』(毎日新聞社)に収録される。二月、弟宣が膵臓癌で死去、享年五六歳。三月、頚部椎間板症再発。六月、浜名湖会(共楽荘に二泊。鳳来山、阿寺の七滝を見る)。七月、胆嚢切除手術を受ける。「愛国者たち」を『群像』八月号に、「武井衛生二等兵の証言」を『文藝』九月号に発表。九月、第二随筆集『寓目愚談』を講談社より発行。「山川草木」を『群像』一一月号に発表。同月、『現代日本文学アルバム6志賀直哉』の取材旅行。平野、本多同行(尾道・倉敷・奈良)。一二月、『現代日本文学大系第四八巻 瀧井孝作・網野菊・藤枝静男』を筑摩書房より刊行(巻末作家論/平野謙「藤枝静男のこと」・小川国夫「藤枝静男覚え書き」)。一二月二五日、母ぬい死去、享年九二歳。この年、ボストン美術館東洋美術名品展、デューラーとドイツ・ルネッサンス展を見る。なお上田三四二が『群像』七月号に「藤枝静男論」を書いている。

  自然   
「静岡新聞」一月三日朝刊  随筆(単行本未収録 第八高等学校で一緒であった富士宮市長・医師の山川斌にふれている。山川については「落第仲間」昭和四一年がある)

リッチ   
「群像」一月号  随筆(  志賀直哉が認めたミラノのブレラ美術館にあるマンティーニャの作品は、横たわるキリストを足の方から描いていて典型的な短縮法による描写である。「死せるキリスト」とも題される。編者は平成七年、一見陰鬱でさえあるこの傑作と対面することができた。/なお「群像」本号に特集・世界文学における「私」の追求/大橋健三郎「『私』と『世界』─アメリカ」・岩崎力「『私』の源を訪ねて─フランス」・隠れ家をみずから奪う『私』の文学─ドイツ」・小野寺健「開かれた私室の中で─イギリス」・米川良夫「リアリズム作家における『私』─イタリア」。また本号に昭和四六年度野間文芸賞の決定─最終選考作品の一に『或る年の冬 或る年の夏』。受賞作は庄野潤三『絵合わせ』であったが、『或る年の冬 或る年の夏』は一票差であった)

瀧井孝作著『父』 ─作品貫く冒頭の三行─圧縮され煮詰められ  
「神戸新聞」(共同通信社配信)一月三日朝刊  随筆(「 わたしの敬愛する文章 」と改題して ))

養老 ─閑寂残す自然の瀧  
「朝日新聞」名古屋本社版一月四日朝刊  随筆(

わが青春(1) ─静かな城下町に育つ  
「静岡新聞」一月八日朝刊  随筆(見出しをはぶき「 少年時代のこと 」と改題して 。以下「わが青春」の収録については略。文中のメソジスト教会〔初出では「キリスト教会〕については「雄飛号来たる」昭和三二年の項参照)

わが青春(2) 飛行船に町中が興奮  
「静岡新聞」一月九日朝刊  随筆(「雄飛号来たる」の項参照)

わが青春(3) 懐かしき軽便電車  
「静岡新聞」一月一〇日朝刊  随筆(父鎮吉の手になると思われる勝見次郎の成績一覧メモが残っている。一年から六年まで各教科殆ど甲であるが、体操の三年から五年が乙である。/藤枝の田舎から東京の成蹊実務学校へ進んだ経緯は定かではない。ここでは「福島さんの世話で話がきまっていたのであろうか」と書いている。「追憶」昭和四九年でも「福島さんの世話で東京の中等学校に入学した」とある。また藤枝の妹勝見きくは「藤枝文学舎ニュース」第三号に「東京出身の福島牧師さんの紹介で東京の中学に入学したようです。入学する時、着物と袴を作り、母が雑巾十枚とバケツを用意し父が持って行きました」と書いている。『藤枝教會九十年記念』誌年表によれば福島重義牧師の着任は大正六年である。藤枝静男が小学校五年生のときにあたる。本多秋五は「群像」平成五年七月号の藤枝静男追悼座談会で中村春二と父鎮吉との関係を想像している。成蹊学園長の中村春二の父中村秋香〔あきか〕は駿河出身の国学者であり、藤枝の志太温泉にしばしば滞在し『志太温泉誌』明治三四年まで残している。志太温泉入口に秋香の文になる碑が立っている。春二自身も息子を伴い志太温泉に来てもいる。いずれにせよ、教育熱心な父鎮吉の主体的判断からであったと編者は考えている。「尋常高等小学校同級会」昭和六〇年では「父の教育方針で」と述べている。このことでは「雄飛号来たる」「追憶」の項参照。/なお藤相鉄道は大正二年藤枝新駅〜大手間を皮切りに、志太・榛原を結ぶ一般市民の足として開通した。土地の人から藤相または軽便と呼ばれた。大正の末には岡部〜地頭方を結び、後には藤枝から袋井まで六〇・七キロを走り駿遠線と呼び、日本一長い軽便鉄道であった─『藤枝事典』昭和五九年図書刊行会)

医者廃業の正月 ─ヨットのなかで水入らず  
「読売新聞」一月一一日朝刊  随筆(「廃業正月」として  小川国夫が「橘中佐」の歌の一節をとある。もともとこの歌は橘が校長を務めていた名古屋陸軍幼年学校での橘慰霊祭の歌として明治三七年、作詩鍵谷徳三郎・作曲安田俊高で作られた。歌詞は上一九番・下一三番と随分長い。橘は日露戦争で静岡歩兵第三四連隊長として遼東半島にて戦死。この歌はこの橘戦死を唱ったものである。のち三四連隊の隊歌となる。大正元年これをもとに文部省唱歌「橘中佐」が作られた。歌詞は三番まで。その一番、「かばねは積もりて山を築き 血潮は流れて川をなす 修羅の巷か向陽寺〔しゃおんずい〕 雲間を洩るる月青し」。作曲岡野貞一。小学校四年生がこの歌を歌ったのであった。橘周太は戦前軍神と称せられた)

原民喜 ─優しく済んだ詩心─作品につきまとう死の影  
「東京新聞」一月一四日夕刊・「中日新聞」一月二二日朝刊  随筆(「 原民喜のこと 」として   冒頭引用の原の「雑音帳」は「謎」「絵艸紙」「鈴虫」「靴と傘」「皺」「掌」「ビール」「牛乳」「本」「干もの」「にほひ」「だから」「七月二十七日」「時の歪み」の昭和一六年から昭和一九年にかけて書かれた一四の珠玉の掌編からなっている。/『三田文学』に「二つの短篇」が掲載されたことについては「二つの短篇」昭和二三年の項参照。実際の経緯は定かではないが、原の好意があったことは確かであろう。「義弟の佐々木基一」とあるが、原の妻貞恵は佐々木の姉。原民喜は明治三八年一一月生まれ。貞恵との結婚は昭和八年三月。貞恵は敗戦の前年昭和一九年九月に糖尿病及び肺結核で死去する。原は妻の一周忌を前に広島で被爆。その体験を「夏の花」や「原爆小景」に結晶させる。昭和二六年三月鉄道自殺。享年四六歳。佐藤春夫は「三月十三日夜ノ事」と題し次の詩を書いている。「宵ノ間ハ酒場ニテ/少女ラト笑ヒシガ/土手ノカゲ/線路ノ闇ニ枕シテ/十一時卅一分/頭蓋骨後頭部割レ/片脚切レテ/人在リヌ/詰襟ノ服ヲマトヒ/ヨキ服ハ壁ニカケ/友ノタメ残シ置キシハ/ヌケガラニ似テ/「崩れ堕つ 天地のまなか/一輪の花の幻」思ヒツメ/来世ハ雲雀ト念ジ/人死ニヌ/サリゲナク別レシ友ニ/書キ置キハ多カリキ」。/藤枝が若い人たちに読んでもらいたいという「美しき死の岸に」連作、そして「夏の花」は現在講談社文芸文庫『原民喜戦後全小説(上)』で読むことができる。編者の手元に青木文庫『原民喜詩集』昭和三一年がある。昭和二四年撮影の著者肖像、佐藤春夫の序文、年譜、藤島宇内の「原民喜おぼえがき」がある。「おぼえがき」には、自殺の場面を見てしまった二人の女性の話がある。本詩集は最初に「ある時刻 一九四三─四四」一八篇、「小さな庭一九四四─四五」一八篇を載せている。藤島は「ある時刻」が妻の入院から死に至る時期に、「小さな庭」は妻が死んでから後の一年間に書きためた詩であろうとしている。そして年代を付記しているのはこの二つだけであり、原が「もし妻と死別したら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を残すために」と書いたその言葉に対応する詩たちであろうと推測している。原のこの言葉は「美しき死の岸に」連作の一つ「遥かな旅」の、新婚当時の回想のなかに出てくる。「若い妻の顔を眺めていると、ふと間もなく彼女に死なれてしまうのではないかという気がし」て「突飛な烈しい念想」として浮き上がった言葉である。妻の死が現実となったとき、原のなかでこの「想念」がどんな展開を見せたかは他者にはうかがうことは出来ない。『原民喜作品集第二巻・美しき死の岸に』昭和二七年角川書店解説で山本健吉は書いている。「約束された一年が来る寸前に、宿命的な八月六日がやってくるのです。これは原にとって新しい啓示でありました。結婚が孤独の彼に対者との世界を教えたとすれば、あの惨劇の体験は、総ての者に『嘆き』を通じてつながる世界を教えたのです。その瞬間から、原爆の、戦争の、すべての犠牲者たちへの鎮魂の歌を歌い出します。一年と限られた生は、この新しい使命を果たすため、まだしばらく延ばされなければなりません。彼の中に一つの転身が成就します。一つの証言と化すこと、祈りと化すこと、嘆きと化すことが、その後生き耐えた五年間のすべてでありました」。山本の云うことは、その通りであるかも知れない。前出の講談社文芸文庫『原民喜戦後全小説』の解説で川西政明は「美しき死の岸に」連作一四篇が「一冊の詩集」にあたるとしている。山本健吉は前出の解説で「『原爆以後』『美しき死の岸に』といふ分類は、生前原自身がこのやうな表題で単行本として出版する希望を以て、自らまとめておいた形をそのまま踏襲したものです」とも書いている。「悲しい美しい一冊の詩集」という「想念」が惨劇の体験を経るなかで「美しき死の岸に」一四篇に具体化していったということかも知れない。このなかに「ある時刻」は入っていない。しかし「悲しい美しい一冊の詩集」の原初的イメージは、藤島の云う「ある時刻」と「小さな庭」とで構成された簡素な詩集であったように編者には感じられる。昭和四〇年刊行の『原民喜全集』全二巻芳賀書店では、短篇作品の一篇として「ある時刻」を扱っている。「ある時刻」は「三田文学」昭和二一年一〇・一一月合併号・復活第八号に散文詩として発表されている。/芳賀の全二巻では「ある時刻」初出が四月号とあるが間違い。しかしそれに従って入手した四・五月合併号には原の「六號記」があった。「去年はとうとう苺を見なかった。一昨年は千葉で友人が訪れてきた時、妻の病床で苺の箱をひらいたものだった。原子爆弾の廣島から東京へ移って来た私は、焼けのこってゐる街がひどく頼もしく思へてならなかった。銀座の柳がうすみどりに映えてゐる朝、とあるショーウインドーの銀皿にあざやかに盛られた苺は、何か私をはっとさすのであった」。/「小さな庭」は「三田文学」昭和二一年六月号・復活第五号に同じく散文詩として発表されている。/なお「三田文学」は昭和二六年六月号・復刊第二号で原民喜追悼を組んでいる。先に引用した佐藤春夫の詩はその一つである。また同七月号.復刊第三号に山本健吉「詩人の死の意味するもの」、藤島宇内「悲歌」及び原の遺稿「永遠のみどり」。山本の評論は先に引用した『原民喜全集』解説に転用されている。その最後に山本は書いている。「原の死を一作家の死ではなく、一文学青年の死に過ぎぬとある匿名批評家は言ひます〔編者注・「東京新聞」大波小波欄〕。情けない言葉をきくものです。生前原を執拗に文壇の垣の内に入れることを拒んだけちな根性が、その死の後までも同じやうに出てくるのでせうか。彼等が原を作家でないといふのは、文壇人でないと言ふに過ぎないでせう。死んだ者に、文壇が何の意味がありませう。だが私は原の死を一文学者、一詩人の死として哭し、その死が意味し訴えるものを、何時までも守り傅えたいと思ふのであります」。また藤島の評論「悲歌」は改稿されて、先に引用した『原民喜詩集』昭和三一年の「原民喜おぼえ書き」の二。/編者に知人の同人誌への寄稿「藤枝静男からの戴きもの」平成二〇年があるが、こうして原の事跡を辿ることも「戴きもの」の一つである。付記すれば、「民喜」は本名で、戦争に勝って民が喜ぶの意と云う。原が生まれたのはそうした時代であった)

わが青春(4) ─自力一本槍の教え  
「静岡新聞」一月一五日朝刊  随筆

わが青春(5) ─礼儀作法に閉口  
「静岡新聞」一月一六日朝刊  随筆(編者は平成一九年一二月、NHK「あのひとに会いたい」で日本オペラ草分け田谷力三がローシー氏のことを語っているのを聞き、「船が出てハンケチふりふり泣いてゐる、ローシーさんのおくさんの顔」を思いだしたのであった。この歌の作者松居桃多郎〔とうたろう〕は『成蹊会会員名簿』に中学校第一一回生として載っている。藤枝静男は第九回生。桃多郎は藤枝同様中退となっている。中村春二学園長の死去をうけて父松翁が息子を転校させたためである。戦後バタヤ部落を支援、「蟻の街」と名付け砦をつくって啓蒙活動を行う。著書『蟻の街のマリア』は昭和三三年映画化される。筆名松居桃楼〔とうる〕。『ゼノ死ぬひまない─アリの町の神父─人生遍歴』、『微笑む禅─生きる奥義をたずねて』『はじめみんな宇宙塵─人生にクズはない』などの著書がある。晩年は他の命を犠牲にしない平和な食べ物として、緑藻クロレラで生きて行ける実験を自らに課す。/なお中村彝の「エロシェンコ氏像」は大正九年、第二回帝展出品、藤田嗣治の「我が画室の内にて」は大正一一年、第四回帝展出品)

谷口さんの文章   
谷口健『瑠璃庵雑記』(一月二〇日、講談社出版刊)跋文  (「 瑠璃庵雑記─谷口健 」として

わからぬこと  
「サンケイ新聞」一月二一日夕刊  随筆(

わが青春(7) ─恋愛小説のとりこ  
「静岡新聞」一月二二日朝刊  随筆(文中の西田天香は明治五年滋賀県長浜の商家に生まれ、二十歳にして小作百姓を率いて北海道に渡り開拓事業。利害の対立争いに直面し、開拓事業を他に委ね、争いの無い生き方を求めて求道の日々を重ねる。そして無一物・路頭を原点としての懺悔・下座の奉仕、許されて生きる托鉢の生活を覚悟。大正一〇年『懺悔の生活』を出版、多くの人が天香のもとに集まる。その後生活の中からの平和を願って六万行願〔お便所の掃除の祈り〕をはじめる。大正から昭和にかけて国内各地及び海外で下座の路頭托鉢を実行。現在京都山科の一燈園「光泉林」に受け継がれている。昭和四三年死去。三浦隆夫著『一燈園 西田天香の生涯』平成二〇年春秋社がある )

わが青春(8) ─故郷で意気消沈の春  
「静岡新聞」一月二三日朝刊  随筆(当時の東海道線のことがある。昭和九年に丹那トンネルが開通するまでは、東海道線は現在の御殿場線を経由していた。急な勾配が多く下りは国府津〔こうづ〕駅で、上りは沼津でいったん停止し登り坂専用の補助機関車を連結した。丹那トンネルは熱海と函南を結ぶ総延長七八〇四メートル。この旧東海道線については「尾崎一雄氏との初対面」昭和三二年、「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年でふれている)

わが青春(9) ─八高に一番で入学(最終回)  
「静岡新聞」一月二四日朝刊  随筆(「カの字のつく格言というのは何だろう」と呟くと「カッタイのカサウラミ」と女給が叫んで藤枝静男を失望させる。「阿井さん」昭和三三年で阿井さんと昔の恋人が同じやりとりをしている。差別的言辞であり、今からみれば問題がある。なお八高で親友となる北川静男も予備校中野塾に在籍していた。なお藤枝が受験した年ではないが、第八高等学校の昭和五年度の選抜試験の結果が同年発行の『第八高等学校一覧』にある。文科志願者四六七名、合格者一〇一名。理科志願者八二三名、合格者一五二名。なかなかの倍率であったことがわかる)

江崎武男個展推薦文 (無題)  
江崎武男個展(一月二五日〜三〇日、浜松市美術館   単行本未収録)

古都わが青春   
『文学の旅 奈良』(二月一日、千趣会刊)  随筆(単行本未収録)

杉浦明平著『小説渡辺華山』 ─正確周到に尽くされた描写  
「群像」二月号  書評( ・『明平さんのいる風景』平成一一年風媒社刊)

トルストイ著『クロイツェル・ソナタ』   
「浜松百撰」三月号(谷島屋広告頁)  書評(単行本未収録) 
     
気楽なことを   
『現代の文学27江藤淳』(三月一六日、講談社刊)月報8  随筆(  書評『一族再会』昭和四八年の項参照)     

老人病再発   
「中日新聞」三月一六日近況欄  随筆(単行本未収録)

学者まかせ  
 「群像」五月号  随筆(   里見?『怡吾庵酔語〔いごあんすいご〕』は「志賀直哉紀行」昭和四九年にも出てくる。引用されている唐詩「南ノカタ碣石館ニ登リ」は陳子昴の「薊丘覧古」と題するもの、 「此地燕丹ニ別ル」は駱賓王の「易水送別」で『筑摩現代文学大系 埴谷雄高・藤枝静男』昭和五三年の作者筆跡で書いている)

白柘榴  
「朝日新聞」六月一〇日夕刊  随筆(

筆まかせ   
「波」七月号  随筆(  「文学者というものは元来生臭いもので、運命的に枯淡の境地など訪れるはずもないのだから、もし心底から日々是好日の大調和の境涯に達したらその人は立派な人間であってももはや文学者ではない」と書いている。このことでは遠藤周作の言葉を思い出す。「田紳有楽」が谷崎潤一郎賞を受賞したとき、選者のひとりとして遠藤はつぎのように書いている。授賞には「まったく異存はないが」「ここまで悟りきった(?)地点(特に最後の部分)にくると、今後、藤枝氏と小説の関係はどうなるのかと多少、不安になるのである。他の芸術と違って小説というものは、ここまで悟り切れるのか、という疑問がやはり起きるのである。もしこの最後の部分を書いていいのなら、若い私がたとえば自分の仕事で苦労してきた問題も何だか意味がなかったような気にさえ、させられたのである」。このことに関して編者に「諸説田紳有楽」藤枝文学舎ニュース第二七号がある。藤枝は小川国夫との対談「わが風土わが文学」昭和五二年のなかで「大変ほめてくれるからありがたいんですけどね。だけど、今後どういうふうに、ああいうものを書くかというふうに言えばね、いま書く気がしなくなっているわけだ」と語っている。「田紳有楽」は一瞬の自在境から生まれた、藤枝静男にとっても一度かぎりの作品であったと思う。/「このあいだ上京したおり小島信夫氏から色々小説に関する話をうかがって教えられるところが多かった」とある。「三田文学」昭和四九年一一月号のインタビュー「現代文学のフロンティア?」で小島信夫と喫茶店で会って話したと語っている。このときのことか。またさらに「みな生きものみな死にもの」昭和五四年で主人公が「五年前のことだったか、六年前のことだったか、思い出せない或る日、私は用事があって上京して講談社に行き」「近くの」「喫茶店で」小島信夫と会う場面がある。大分時間的に間があるが、同じときのことを題材にして書いたように思われる。/棟方志功のことがある。紙の裏側から彩色するのを「裏彩色」という。薄手の紙を使い裏から色をさし表に色を沁み出させる技法である。従って版としては一版摺りである)

古山氏のこと   
新鋭作家叢書『古山高麗雄集』(七月二五日、河出書房新社刊)月報  随筆(  藤枝に古山高麗雄『プレオー8の夜明け』書評昭和四五年がある。また「韓国の日々」昭和五三年で古山のことを書いている。なお本文中、吉田知子に古伊万里の壷を「謹呈」の話がある。このことを、「The骨董」第3集昭和五〇年に壷の写真とともに吉田が書いている)

愛国者たち   
「群像」八月号  小説(「兇徒津田三蔵」昭和三六年から一一年後の執筆である。「東京日日新聞」明治二四年一〇月二日の記事がある。「無頼の凶漢津田三蔵は病死せり 内務大臣は昨日を以って次の電報〔十月一日午前八時北海道庁発〕に接せり。 無期徒刑津田三蔵は、本日廿七日より肺炎症に罹り危篤の処、本日午前零時三十分病死せり。 内務大臣宛 北海道長官」。/畠山勇子は「ヘルンとモラエスの筆により日本女性の鑑として外国に紹介された」とある。それはラフカディオ・ハーン〔小泉八雲〕著『東の国から』の巻末「勇子─追憶記」と同『仏の畠の落穂』のなかの「京都紀行」であり、モラエスの雑誌「セロンイス」における記述である。/車中の西郷隆盛とプラットフォームの児島惟謙がやりあう場面は児島惟謙著『大津事件手記』〔藤枝に書評昭和四四年がある〕では次のように記述されている。「一 西郷大臣乗車シ窓ヨリ余ト問答左ノ如シ 一 西郷云児島サン耳アリマス乎ト、再三ニ及フ 一 余黙シ兼云 西郷サン目アリマス乎聞タ事ヲ忘レヌ耳カ付テ居リマス一 西郷云 最早裁判官ノ顔ヲ見ルモ厭テアリマス。是迄踏出シテ負ケテ帰リタル事アリマセン。今度ハ負ケテ帰リマス。コノ結果ヲコランナサイ 一 余云 裁判官ヲ見ルト否トハ御勝手ナリ。又法律ノ戦ハ彼ノ猪狩ノ如キ腕力ヤ権力ニテ勝利ヲ得ラルルモノニ非ス。又結果ヲ見ヨトハ何タル事カ、場所柄ヲモ顧ミス実ニ国務大臣ノ云フヘキ事ニ非スト、少シク言辞ヲ憤ラシ西郷ノ窓ニ押掛ル、西郷ハ黙シテ車中ニ引込ミタリ)
 

時評─江藤淳「毎日新聞」七月二七日夕刊(『文学1973』昭和四八年講談社・『全文芸時評(下)』平成元年新潮社)・佐伯彰一「読売新聞」七月二八日夕刊(『文学1973』・『日本の小説を索めて─文芸時評 69 〜 72 』)・秋山駿「東京新聞」七月二九日夕刊(『文学1973』・『秋山駿文芸時評─現代文学への架橋 1970.6 〜 1973.12 』)・磯田光一「サンケイ新聞」七月三一日夕刊(『文学1973』)・森川達也「神奈川新聞」七月二八日朝刊(『文学1973』)・中野孝次「週間読書人」八月七日号(『文学1973』)・入江隆則「日本読書新聞」八月一四日号(『文学1973』)・佐藤静夫「赤旗」七月三一日号

合評─寺田透・丸谷才一・田久保英夫「群像」九月号

収録─創作集『愛国者たち』・日本文芸家協会編『文学1973』(昭和四八年講談社)・『藤枝静男著作集第三卷』・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』・講談社文庫『凶徒津田三蔵』

  家の外のこと   
「風景」八月号  随筆(  文中の建築家谷口吉郎は、青山葬祭場で行われた無宗教による志賀直哉の葬儀の斎場設計を担当している。 / 「デューラーとドイツ・ルネッサンス展」は 4.29 〜 6.18 国立西洋美術館は編者も見ている。藤枝がもっとも打たれたという「休息のキリスト」は展覧会図録によれば作者はブロイヤー、一五〇〇年頃の作。全身傷に覆われて岩に一人腰を下ろしている。像高一一六センチ。その他の作品についての藤枝の感想に、編者もおおよそ賛同する。「ボストン美術館名宝展」は「ボストン美術館東洋美術名品展」 4.28 〜 5.28 東京国立博物館のことか思われる。「青春愚談」昭和四六年に「ロダンの『考える人』の写真をはりつけている本多には、古本屋で買ってきたドイツ版の『デューラー画集』で対抗し」とある)

トルストイの墓上の土   
『トルストイ全集第四巻』(八月一〇日、河出書房新社刊)月報  随筆(『文芸読本トルストイ』昭和五〇年河出書房新社。「黒い石」昭和五七年で「トルストイの墓の土饅頭から盗んできた土とガンジー墓上から拾ってきた花を」自分の墓に入れてほしいと書いている)

武井衛生二等兵の証言   
「文藝」九月号  小説(創作集『異床同夢』のあとがきに「『武井衛生二等兵の証言』『異床同夢』は浜松の友人竹下利夫氏からうかがった経験談が材料になっている。事実そのままでないことは勿論である。記して謝意を表する」とある。また「風景小説」昭和四八年のなかで「T氏については、私はその満州脱走記を小説にして書いたことがある」と書いている。竹下利夫がモデルの人物は藤枝静男の作品に度々登場する。随筆では「横好き」昭和四二年、「正月早々」「美濃の窯跡」「日野市大谷古墳出土蔵骨器」「道具屋の親爺」昭和四九年、「焼きものを求めて進む」昭和五〇年、「昨日今日」昭和五一年、「八百キロドライブ」昭和五三年、 小説では「天女御座」昭和四三年、「風景小説」昭和四八年、「在らざるにあらず」昭和五一年、「ハムスターの仔」昭和五八年などのTA氏あるいはT氏そして竹下氏は竹下利夫がモデルである。編者は平成一一年四月竹下宅を訪問、骨董がたくさん並べられた部屋で竹下利夫氏とお会いする事が出来た。しかしあまり話を聴くことができなかった。/「『ベキラの岸に風騒ぎ』という軍歌」とある。正しくは「青年日本の歌」である。のち五・一五の首謀者となる海軍少尉三上卓が昭和五年二四歳のときに作詞作曲したもの。屈原の故事に託して三上の考える祖国愛を歌ったもの。五・一五、二・二六に連座した青年将校などが歌い継いだ。歌詞は十番まである。一番のみ引用する─汨羅〔ベキラ〕の淵〔フチ〕に波騒ぎ 巫山〔フザン〕の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れたてば 義憤に燃えて血潮湧く」。なお五・一五では犬養首相が殺されるなどしたが、実行犯たちには軽い判決が下された。以後軍部が力を強める。三上は戦後右翼として活動、昭和四五年死去。/「師団長があの陸軍特攻隊生みの親富永中将だったのか」とある。陸軍航空特別攻撃隊戦死者一三三二名のうち二七六名を出した比島方面第四航空軍の司令官が富永恭次中将である。富永は「自らも最後の一機に搭乗して敵艦に体当たりする」と約束し特攻隊員を送り出した。しかし昭和二〇年一月、大本営の許可も得ず「戦力再建」を名目に参謀長や高級副官のみを帯同して比島から台湾に脱出した。敵前逃亡といわざるを得ない。多くの部下が比島に残された。陸軍刑法では敵前逃亡は銃殺である。しかし予備役編入という軽い処分であった。そして昭和二十年七月「根こそぎ動員」で急造された〔「私」は「昭和二十年七月十八日に現地召集」を受ける〕師団のひとつ第百三十九師団の師団長となる。シベリア抑留を経て帰国。畳の上で大往生した。付記すれば六八七名の特攻戦死者を出した沖縄方面第六航空軍司令官の菅原道太中将も「死ぬばかりが責任を果たすことにはならない」として自らの出撃を拒否し、同じく戦後畳の上で大往生した)
 

時評─秋山駿「東京新聞」八月三一日夕刊(『秋山駿文芸時評─現代文学への架橋 1970.6 〜 1973.12 』)・佐伯彰一「読売新聞」八月三一日夕刊(『日本の小説を索めて─文芸時評 69 〜 72 』)・磯田光一「サンケイ新聞」八月二八日夕刊・川村二郎「神奈川新聞」八月二九日朝刊・森川達也「中国新聞」八月二六日朝刊・入江隆則「日本読書新聞」九月一日号

収録─創作集『異床同夢』(昭和五〇年河出書房新社)・『藤枝静男著作集第四卷』

  随筆集『寓目愚談』あとがき   
『寓目愚談』(九月二四日、講談社刊)  自著あとがき(

山川草木   
「群像」一一月号  小説(冒頭の「斎田捨川という愚な批評家を不愉快にするためである」について阿部昭は『藤枝静男著作集第一巻』月報1で「斎田捨川」は「サイデンステッカー」のことだろうと書いている「寺沢の自動車」昭和四一年の項でサイデンステッカーについてまとめておいた。。同じような例が「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年にあり、「椎野駄石みたいな洋医から」の「椎野駄石」は藤枝が平岡篤頼との対談のなかで「無闇にいばっている」とした篠田一士のもじりである。片や「川に捨て」、片や「駄目な石」というわけである。/文中の山住神社の二本の杉は樹齢推定一三〇〇年、それぞれ幹周りは九・二米、七・〇米、樹高四一・〇米、四〇米、所在地は静岡県磐田郡水窪町山住二二〇山住神社。山住神社は「今ここ」昭和六〇年でも。/知るはずもない姉の名「ナッちゃん」を夢うつつに弟が呼ぶ場面がある。このことでは「一家団欒」で章とナツの会話がある。/飽波神社は仁徳天皇六年〔三一六年〕の創建と伝えられ、志太平野最古の社。瀬戸川の水害から人々を護る神として敬われ、湧波神社、川関〔かわせぎ〕神社とも呼ばれていた。宇嶺(うとうげ)の滝は別名「お君の滝」。伝説がある─昔、蔵田にお君という娘がいて一九歳になっても月のものがなかった。娘仲間はみな小屋〔月小屋〕に行くのに、お君だけはいつまでたっても小屋へ行けなかった。お君は悩みを深めていった。周囲の人々の眼も気になり、思いつめる日が続いた。ついにお君は宇嶺の滝に身を投げたのだった。このことがあってから、人々はこの滝をお君の滝と呼ぶようになった─『藤枝辞典』より。滝は瀬戸川源流近くにあり高さ約七〇米。高根山登り口の杉は通称鼻崎の大杉、樹齢不詳、幹周り八・〇米、樹高二七・五米、所在地は静岡県藤枝市鼻崎一〇〇二六。なお本書の樹についての情報は『静岡県の巨樹・名木』静岡新聞社による。/最後に「私」は真言宗「育王山慈眼寺」の大日如来を訪ねて井川ダム近くまで行く。同名の寺はあったが、訪ねる大日如来はない。その寺の住職から「大日なら鵜沼の慈眼寺ですよ」と云われる。そしてその鵜沼なら、「金谷からバスで二十分たらずの旧街道の部落である」と書いている。この鵜沼も慈眼寺〔じげんじ〕も、そのモデルが実際あるのか編者には今のところ不明である。金谷周辺もしくは静岡県内で鵜沼の地名をまだ見つけていない。あるのは岐阜県各務原市の鵜沼である。またネットで検索すると全国で二一カ所の慈眼寺がある。しかし山号が育王山の寺はない。静岡県では藤枝に慈眼寺があるが、曹洞宗で西了山であり大日如来もない。ネットに出ない寺も勿論あろうが、本作の「育王山慈眼寺」は藤枝の創作ではないか。各務原〔かがみはら〕市は平野謙の実家法蔵寺のある町である。そして鵜沼は旧街道中山道の宿場町である。鵜沼の地名は平野との縁から思いついたかも知れない。井川ダム近くの「育王山慈眼寺」というのも不明。なお「正月早々」昭和四九年に「浜松市内大蒲町の光禅寺に安置されている大日如来を拝みに行ってきた」「一一〇センチの堂々たる勇姿を現している。昭和三十五年市文化財彫刻第一号指定の藤原前期座像で市内唯一の貴重なものである」とある。この大日如来が作品構想の材料の一つであったかも知れない。藤枝静男は浜松市文化財審議委員を昭和四九年から昭和六三年まで勤めている。育王山〔いおうざん〕で補足すれば、平家物語巻三の「金渡」の説話に平重盛が他国善根を企てて中国明州の育王山に三千両寄進する話がある。/本作のラスト、夢のなかで四十余年まえに死んだ友人が「ヤソ曰く,神は罰なり」と叫ぶ。この親友は北川静男だろうか。「私々小説」昭和四八年のラストでは「『神は与え、神は奪いたもう』─何を?」。このことでは「遠望軽談」昭和四九年で「私にはキリスト教の知識もなく宗教的経験も何もないが、いつも私の頭に浮かぶ神は、人を虫ケラのようにあつかって平気でいる残忍非情の怪物である」「自分に忠節をちかったものだけを助けてあとのやつは火責め水責めの皆殺しという仕業を何回となく繰返し、選ばれたる人か何かは知らぬがヒーヒー云うまで痛めつけておいて、褒美にくれるものは物質である。一家皆殺しの挙句一人だけ助けられて百四十まで生かされ子供を十人さずかって財産を二倍にしてもらったと云うが、殺された子供はどうなるのだ」と書いている。また「呆けて来た」昭和三九年では次のように書いてもいる。「カトリック精神というのもわからない。『この国の農民の心のすみずみまで浸透しているカトリック精神を理解することなしに、この小説を理解することは不可能である』などと頭から云われると途方にくれる。ヨーロッパの近代絵画などを見ていてそう云われたりすると殆どイヤになる。いったい十数世紀にわたって愚民に教えこまれたカトリック教と、日本の地獄極楽思想と大根のところでどうちがうのか。何故一方が高級で他方が低級なのか、よくわからない。バチカンへ行って最後の審判の画を仰いで法王の汚い足に接吻して涙を流す人と、本願寺へお詣りして地獄の画をおがんで法王の数珠で頭を撫でられて合掌する百姓と、あまり格好が似ているので迷ってしまう」)
 

時評─佐伯彰一「読売新聞」一〇月三一日夕刊(『日本の小説を索めて─文芸時評 69 〜 72 』)・森川達也「神奈川新聞」一〇月二五日朝刊

収録─創作集『愛国者たち』・『藤枝静男著作集第二卷』

 

杉浦明平著『華山探索』 ─影絵のような人間の運命明かす  
「文芸」一一月号  書評(

小林美代子著『繭となった女』 ─読み終えて深い感慨と畏敬  
「中日新聞」一一月一一日朝刊・「東京新聞」同日夕刊  書評(  小林美代子/大正六年〜昭和四八年。四年間の精神病院生活に取材した「髪の花」で群像新人文学賞。「繭となった女」は自伝的作品。睡眠薬自殺を遂げ半年後に発見される─『日本近代文学大辞典』より)

年譜   
現代日本文學大系第四八巻『瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集』(一二月五日、筑摩書房刊)。文末に「藤枝静男作成」とある。なお本年譜は加筆されて講談社文庫『空気頭・欣求浄土』、さらに加筆されて『藤枝静男作品集』に転載。自筆年譜は年を経ての追加はあるが、過去に遡っての訂正はない。編者ならいろいろ手直ししたくなるのだが)


随筆集『寓目愚談』  
昭和四七年九月二四日  講談社刊
口  絵 平野謙が藤枝を写生したもの(一九六六)・藤枝静男が平野を写生したもの(昭和三年)
収録作品 
1(少年時代のこと/青春愚談)
2(果たし合い/小豆島文学散歩/西国三カ所/救世主K先生/明治村行き)
3(利己主義の小説/私小説家の不平/作品の背景/勝手な読書/宇布見山崎/原稿料にについてのアンケート/今昔物語集/わたしの敬愛する文章)
4(法隆寺と私/ある姿勢/似たようなこと/他称大家/ボッシュ画集/庭の皮はぎ/弥生式小壷/孫びき二つ/ボッシュ/わからぬこと/学者まかせ)
5(季節/田沢の自動車/戦後ということ/歳末/食物のこと/金庫の始末/若い小説家たち/感あり/旧街道/「眼は心の窓か」/日記/ドック入り/髭をはやしたがすぐ剃った/わが家の夕めし(写真にそえて)/晴着/筆一本/隠居の弁/昔の道/養老/廃業正月/筆まかせ/家の外のこと)
6(添田紀三郎のこと/志賀さんのこと/志賀さん一面/埴谷氏のこと/リッチ/白柘榴/気楽なことを/古山氏のこと)
7(遁走─安岡章太郎/長い谷間─椎名麟三/三好十郎著作集 第三十四巻/ 青梅雨 その他 ─永井龍男/懐胎─耕治人/島尾敏雄作品集第五卷/アポロンの島─小川国夫/海からの光─小川国夫/大津事件手記─児島惟謙/和解─志賀直哉/一條の光─耕治人/新・東海道五十三次─武田泰淳/灰皿抄─永井龍男・冬眠居閑談─尾崎一雄/発掘─伊藤整/虚実─中村光夫/プレオー8の夜明け─古山高麗雄/ 随筆集 はじめとおわり─平野謙/遠山の雪─網野菊/一人の男上・下─武者小路実篤/原民喜のこと/瑠璃庵雑記─谷口健/小説渡辺華山─杉浦明平)
8(ヨーロッパ寓目/あれもロシアこれもロシア/ちょっと感じたこと/ヤスナヤ・ポリャーナへ/ウラジミールの壷) 注/巻末の発表誌一覧で「ヨーロッパ寓目」が昭和四五年一月群像となっているが、正しくは昭和四六年一月群像。
あとがき 藤枝静男 

『寓目愚談』書評 
浅見淵「サンケイ新聞」一一月六日号・小川国夫「東京新聞」一〇月二八日夕刊(『雲間の星座』昭和五〇年冬樹社・『藤枝静男と私』)・城山二郎×井上ひさし「毎日新聞」一〇月二九日朝刊〔対談時評〕・宇田敏彦「山形新聞」一一月一九日号・川村二郎「群像」一一月号・鶴岡冬一「図書新聞」一二月二日号・進藤純孝「今週の日本」一二月二四日号・匿名「四国新聞」一一月二二日朝刊・匿名「日本読書新聞」一一月二七日号・匿名「潮」一二月号



現代日本文學大系第四八巻『瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集』
昭和四七年一二月五日  筑摩書房刊
巻頭写真 撮影・金井塚一男
筆  蹟 藤枝静男「山川草木」 
月  報 本多秋五「藤枝静男のこと」
付  録 平野謙「藤枝静男のこと」・小川国夫「藤枝静男覚書」
年  譜 藤枝静男自筆
収録作品 空気頭/イペリット眼/ヤゴの分際/壜の中の水
なお『現代日本文學大系』全九七巻は筑摩書房創業六〇周年特別企画として復刊された(第四八巻は初版第一四刷として平成一二年一月三〇日に発行。月報も含めて全く同体裁である)




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