昭和三三年(一九五八年)
五〇歳

「気頭術」を『医家芸術』二月号に、「阿井さん」を『新日本文学』三月号に発表。四月、小川国夫が丹羽正とともに初めて藤枝静男を訪れる。六月、八高創立五〇周年記念祭に参加。「明るい場所」を『群像』八月号に発表。九月、「阿井さん」が『昭和三三年度前期創作代表選集』(講談社)に収録される。

  小説の神様の休日 ─れんさいその2
「浜松百撰」一月号  随筆(後に「静男巷談」の第二回とする。 )

安岡章太郎『遁走』 ─貫く五分の魂  
「日本読書新聞」一月二七日号書評(

気頭術 ─ 多田の二つの発明について   
「医家芸術」二月号  小説(文末に「一九五七・四改作」とある。昭和二七年の「空気頭(初稿)」と夕焼けの場面の描写が共通しており、「空気頭(初稿)」を改作したということであろう。「空気頭(初稿)」と後出の「空気頭」(「群像」昭和四二年八月号)と比べたとき、女性に対する男性の劣性としての「遺残細胞X1とX2」の存在と、この遺残細胞の存在を主人公が確認するに至るマニラでの戦場体験の記述が特異といえる。長さは「空気頭(初稿)」の約半分であり、「空気頭(初稿)」と「空気頭」をつなぐ作品というより、こうも書いてみたといった作品といえようか。/大学時代の作品についてと同様、藤枝静男にこの「気頭術」にふれた発言記述はない。ともあれ昭和二六年の「空気人形」にはじまり「空気頭(初稿)」とこの「気頭術」をへて昭和四二年の「空気頭」に至るのが「空気頭」の創作経緯である。/「医家芸術」二月号は名和哲夫氏よりコピーをいただいた。「空気頭」昭和四二年の項参照。 単行本未収録。なお「医家芸術」一月号に座談会「医学と文学と社会をめぐる」出席者/加藤周一・安部公房・藤枝静男・河村敬吉・三浦隆蔵・所賀尚雄がある )

摩訶耶寺の赤い鼻緒の下駄   
静男巷談・連載1「浜松百撰」二月号  随筆  ( 「浜松百撰」昭和三七年一二月号の「六十一回目の雑文」から「小説の神様の休日」、「小説の神様の休日─れんさい・その2」も連載の数に入れた回数とした。『今ここ』もこの「摩訶耶寺の赤い鼻緒の下駄」を第三回としている。本書では発表時のままの回数とする。以下同様。浜納豆では「三好十郎と浜納豆」昭和三四年がある。摩訶耶寺については何度も藤枝静男は書いている。 

阿井さん    
「新日本文学」三月号  小説(「三田文学」に昭和二三年に発表した「二つの短篇」の一つ「Tさん」がもとになっている。「阿井さん」のモデルについては「二つの短篇」の項参照。/冒頭の「高等学校紀念祭三年理乙飾物」については、『光美眞』〔昭和五年の項参照〕で何人かが北川静男がその制作の中心人物であったことを語っている。同書に不鮮明だが飾物の写真もある。阿井さんの恋人の歌手のモデルは不明だが、「悲しき恋よ花うばら」は題名ではなく「花園の恋」の歌詞の一部である。「花園の恋」は北原白秋作詞・中山晋平作曲。大正八年東京有楽座で上演された「カルメン」の劇中歌。花うばらは野茨の花。鬼熊事件のことは「青春愚談」昭和四六年で書いている。「Tさん」には登場しなかった阿井夫人の姪に「私」は恋するが、「或る年の冬 或る年の夏」の三枝子と同じ人物がモデルである。そこでは姪ではなく従妹となっている。「みんな泡」昭和五六年の「Hの従姉妹」も同様。阿井さんが「カの字が頭の諺」というと昔の恋人が「カッタイのかさ怨み」と答える場面がある。このやりとりを「少年時代のこと」昭和四七年では高校浪人中の喫茶店で藤枝静男と女給とのこととして書いている。差別的言辞であり、今からみれば問題があるが。鏡に馬乗りになって自分の肛門を見る場面は「一日」昭和二三年にある)
 
時評─平野謙「毎日新聞」二月一九日朝刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第十巻』)・瀬沼茂樹「図書新聞」三月八日号(『戦後文壇ノート(上)』昭和五〇年河出書房新社)

合評─寺田透・花田清輝・平野謙「群像」四月号

収録─創作集『凶徒津田三蔵』(昭和三六年講談社)・日本文藝家協会編『昭和三三年前期創作代表選集 22 』 (昭和三三年講談社)・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第一巻』
  あなたは狙われている   
静男巷談・連載2「浜松百撰」三月号  随筆(  文末に括弧して「以上は筆者が友人Kから聞いた話である。」「Kは今なお眼を光らせて浜松市を横行している。めぼしい古美術品をお持ちの方々に警告します。『あなたは狙われている』」。このKは勝見次郎、すなわち藤枝静男本人であろう)

繰りの糸(牛込亭)  
静男巷談・連載3「浜松百撰」四月号  随筆(  本文中でも「操り」ではなく「繰り」。誤植かと思われるがここではそのままとする。『今ここ』では「操りの糸」。「浜松百撰」昭和四〇年二月号「特集=藤枝静男という人」に転載、『この三〇年 浜松百撰一九五七一九八八』(昭和六三年浜松百撰)に収録。なお叔母の夫武蔵川谷右ェ門をモデルに「硝酸銀」四一年、「武蔵川谷右ェ門・ユーカリ・等々」昭和五九年がある)

私の活動見物   
静男巷談・連載4「浜松百撰」五月号  随筆(  藤枝静男は浜松市よい映画をすすめる会委員を昭和三七年から同四三年までつとめた)

作る人・味わう人   
静男巷談・連載5「浜松百撰」六月号  随筆(  文中のU氏は『硝子繪』の著作もある内田六郎であろう。本稿を改稿して「実作者と鑑賞家」昭和三五年。実作者の感性については「勘違い芸術論」昭和四一年もある)

室生寺の新緑   
静男巷談・連載6「浜松百撰」七月号  随筆(

古本屋ケメトス   
静男巷談・連載7「浜松百撰 > 八月号  随筆(同誌昭和四〇年二月号「特集=藤枝静男という人」、同誌平成五年六月号「追悼・作家藤枝静男」に転載。なお藤枝静男が参加した「創立記念祭」の記録として『八高五十年誌』〔一二月七日刊・非売〕がある。その相撲部顛末記に北川静男の名があるなど八高の様子を知るにはよい資料である。

明るい場所   
「群像」八月号  小説(昭和二二年のところで書いたが、藤枝静男は本多秋五に短篇四作〔あるいは七作〕を送り、そのうちの「路」が『近代文学』に、「Tさん」が『三田文学』に発表された。残りの二作が本多の手紙〔昭和二二年六月四日付け〕から「鼠」「赤鬼」という題名の作品であったことがわかっている。しかしこの二作については定かではない。「鼠」について本多は書いている。「『鼠』はどうも反対だ。あの戦争中、戦争の性質は馬鹿らしかったかもしれないが、皆んな死ぬほどの苦労をしたので、ああいふ特等席にゐて、その事に対する反省の足らないのは読者の反感を買ふ。発表せぬ方が得策だと思ふ」。この「鼠」の本多評と「明るい場所」とを比べたとき内容的に近いものを感ずる。「明るい場所」には「藤岡と、背の低い細君と、痩せた娘とが、荷物をかかえて防空壕を出たり入ったりしていた。替り番こに首を出し、かたわらのリヤカーに運び、また急いで穴の中に入って行った。『鼠』と私は思った」〔この状況を「空気頭」でも書いている〕という個所もある。本多の批評を受け「鼠」に手を入れて、題名を他者を風刺する「鼠」から、主人公が自省しての「明るい場所」にかえたのが本作のように編者には思われる。/文中で「私の居たのは明るい場所だったろうか。反省してやはりそうだったと思う」と書いている。「ヤゴの分際」昭和三七年では「結局俺は特等席に居たし、彼等は三等席に居たのだ。このことは俺にとっても彼等にとっても何でもないことではなかったのだ」と書いている。また「空気頭」昭和四二年でも「何の傷も受けはしなかった。私は海軍病院という特等席に座って戦争をくぐり抜けた」と書く。「特等席」の言葉は、本多の評言と重なる。/本作に対する平野謙の時評がある。「一人の軍医の目をとおして書かれたこの敗戦日録は、八月号に間に合うように執筆されたものだ。そのことを作者から聞いた。『群像』編集部を律儀ものとみなすユエンである。また、八月号に間に合わせた作者も律儀ものといってよかろう」。この証言は「鼠」に手をいれたことを否定するものではなかろう。むしろ頼まれて、未発表の旧作に手を入れる気になったと考えることもできる。/蛭を使った実験のことがあるが「みんな泡」昭和五六年、「ハムスターの仔」昭和五八年でも書いている。蛭を購入した漢方薬の店については「手児奈の眉ずみ」昭和三四年がある。/昭和二〇年七月一七日の平塚大空襲は市域の約八割を焼失させ死者二三七名と悲惨を極めた。終戦の一ヶ月前であった。本作では五月〇日のこととして描かれている。/また「私」が教授に提出してあった論文が空襲で灰になってしまう。このことでは「私々小説」昭和四八年に、教授に提出してあった「弟」の学位論文が空襲で焼失してしまったことを書いている。「私」は美津子を妊娠させる。このことでは「みんな泡」昭和五六年で「『自慢にはならぬが』とことわっておくが、私は七十四歳の今日まで亡くなった妻以外の女と接吻したことは一度もない。小説には一、二回そんなことも書いたが、あれはみんな拵えごとだ」とある。人間魚雷隊員の強姦事件について「眼は心の窓か」昭和四四年でも書いている。/人間魚雷をはじめとする特攻兵器について島尾敏雄『震洋発進』昭和六二年は次のように記している。「連合艦隊が形を成さなくなり、最後の本土決戦を敷くに当たって、飛行機の他の海上戦力としては、特攻兵器に頼らざるを得なくなった」「それらの特攻兵器とは、特殊潜航艇の甲標的や海龍、人間魚雷の回天〔部内ではマルロクと名づけられていた〕、それに震洋であった」。島尾敏雄は奄美の加計呂間島で震洋隊長であった。いま震洋隊基地跡に島尾敏雄文学碑が建てられている。編者は加計呂間島に移住した妹夫婦を訪ねたおり文学碑に立ち寄った。平成一八年のことである。私たち以外に人影はなかった。碑には円が穿たれている。暗い格納庫から出撃しようとして、外界を眺めやった隊員たちが眼にしたであろう光景を想わせた)
 
時評─平野謙「毎日新聞」七月一七日朝刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第十巻』)・小田切秀雄「中日新聞」七月一九日朝刊・西田勝「アカハタ」七月三一日号

合評─小田切秀雄・江藤淳・十返肇「群像」九月号

収録─創作集『凶徒津田三蔵』・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第四卷』

 

芥川・直木賞の授賞式   
静男巷談・連載8「浜松百撰九月号  随筆(  このときの受賞作は、芥川賞が大江健三郎「死者の奢り」、直木賞が山崎豊子「花のれん」と榛葉英治「赤い雪」)

落第坊主   
静男巷談・連載9「浜松百撰」一〇月  随筆(同誌平成五年六月号に転載。三回目の該当者なしのときの作品は「犬の血」である。 

美女と外人と疑獄   
静男巷談・連載 10 「浜松百撰」一一月号  随筆(アトローパ・ベラドンナはナス科の多年草。日本では明治に薬用植物として渡来帰化、高山植物として自生。抽出された成分は副交感神経末梢に麻酔的に作用する。散瞳、眼圧亢進、気管支筋弛緩、腸のぜん動促進などの効果。古くからベラドンナは「悪魔の草」と呼ばれ毒性は強い。中世ヨーロッパでは人の意識を失わせ、略奪、誘拐などのために使われた。ハシリドコロ、チョウセンアサガオにも同じ成分が含まれている。/なおシーボルトを訪ねた土生玄碩のことがある。このことでは玄碩の曾孫の土生敦が「空気頭」昭和四二年に出てくる。「空気頭」の項参照。また「またもや近火」昭和五七年に「商売用の麻薬パピナール・アトロピンの注射を自身に常用」して麻薬中毒になってしまった女医が出てくる 

浜松の二人の俳人   
静男巷談・連載 「浜松百撰」一二月号  随筆(「二人の俳人」と改題して同誌昭和四二年一一月号に転載。羽公は百合山羽公〔ゆりやまうこう〕 1904 〜 1991 高浜虚子に入門、のち水原秋桜子に従う。瓜人と「海坂」を主催。句集『寒雁』により蛇笏賞受賞。瓜人は相生垣瓜人〔あいおいがきかじん〕 1898 〜 1985 羽公と同様「ホトトギス」に投句をはじめたが、のち水原秋桜子に従う。句集『明治草』で蛇笏賞受賞。 


昭和三四年(一九五九年)
五一歳
「うじ虫」を『文學界』三月号に発表。一二月二〇日、狛江に新築した家に平野謙、荒正人、山室静、本多秋五、高杉一郎を招き新居開きと荒の全快祝いを兼ねて忘年会を開く。

  三万円の自動車の話   
静男巷談・連載 12 「浜松百撰」一月号  随筆(

ポン先生とビワ先生  
静男巷談84・連載 13 「浜松百撰」二月号 随筆(改稿して「風報」昭和三五年三月号。ポ ンソンビについては、静男巷談 「紋付き」でも書いている。「わが先生のひとり」昭和三九年の項参照。またビワトリスについては「日々是ポンコツ」昭和五五年でもふれている。鈴木大拙夫人であるビワトリスは昭和一四年歿。遺稿集に『青連仏教小観』『 IMPRESSION OF MAHAYARA BUDDHISM 』がある。ともに鈴木大拙編集昭和一五年刊。「ノーティー・ボーイ」は naughy boy  いたずら小僧、悪い子。)

三好十郎と浜納豆   
静男巷談・連載 14 「浜松百撰」三月号  随筆(  浜納豆は浜名湖畔、三ヶ日町の大福寺で製出された納豆。蒸し大豆に麦こがしをまぶし、麹を加えて発酵させ、塩水に漬けて熟成させたのち、香辛料を加えて乾し上げたもの。浜名納豆、浜松納豆、大福寺納豆とも〔広辞苑〕。 三好十郎については、本随筆を下敷きにした「三好氏と私」昭和三七年『三好十郎著作集第一七巻』会報と大武正人『小説・私の三好十郎伝』昭和四三年の帯文がある)

うじ虫    
「文學界」三月号  小説(『藤枝静男著作集』収録について「異物」の項参照。文末に「この一篇は 三輪清三教授の談から暗示されて書いたものである」とある。三輪は当時千葉大学第一内科主任教授)
 
時評─平野謙「毎日新聞」二月二三日朝刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第十巻』)・臼井吉見「朝日新聞」二月一八日朝刊・安岡章太郎「東京新聞」二月二三日夕刊 

収録─『藤枝静男著作集第四卷』

 

選評   
「浜松市民文芸」第四集 ( 三月三〇日 )   選評(この第四集から筆名藤枝静男・単行本未収録)

手児奈の眉ずみ   
静男巷談・連載 15 「浜松百撰」四月号  随筆(真菰についての部分は「春の水」昭和三七年に殆どそのまま使われている。実験用の蛭を買うため日曜日毎、上野の漢方薬の店を訪れたとある。この蛭を使った実験のことは「明るい場所」昭和三三年、「みんな泡」昭和五六年、「ハムスターの仔」昭和五八年で書いている。手児奈〔てこな〕神社〔手児奈霊神堂〕の所在地は千葉県市川市真間〔まま〕四─五─二一。伝説上の美女手児奈を祀る。引用されているのは山部赤人の歌。上田秋成の「雨月物語」の浅茅が宿は手児奈の伝説をベースにしているという。千葉大学時代、藤枝は神社を訪れたことがあったのだろうか。 

三つの結婚   
「東京新聞」四月五日号  随筆(『本多秋五全集別巻一』に収録。 平野については「平野謙を偲ぶ」昭和五四年の年譜の昭和九年の項に「泉充の妹・たづ子としりあい、後に結婚する」とあり、その年月ははっきりしない。藤枝静男の結婚は昭和一三年四月、本多秋五の結婚は同年一二月である。昭和一三年の項参照)

結婚三例   
静男巷談・連載 16 「浜松百撰」五月号  随筆(少し手直しがあるが「三つの結婚」と同文。

新市長   
静男巷談・連載 17 「浜松百撰」六月号  随筆(  浜松市を愛する会発行「新浜松」創刊号〔昭和三四年三月一五日〕がある。会長が内田六郎、事務局長が市長候補の平山博三。「浜松市を愛する会総会は八日午後一時から東田町の労働会館で開かれた。折悪しく朝からの雨で来会者の出足をそぐのではないかと心配されたが、定刻には会場は立錐の余地ない超満員の盛況となった」とある。会長が内田、会場が藤枝静男の町内である。文中に「入会しなかった」とあるが、総会には顔を出したかもしれない。)

酋長の娘   
『伊東弥恵治先生』六月二七日伊東弥恵治先生記念出版編集委員会   追悼(筆名勝見次郎 単行本未収録 本書には伊東の素晴らしい水彩作品が多数収録されている。伊東は画家をめざそうと思った時期もあったということだが十分に頷ける。石井柏亭による伊東四八歳の肖像画が巻頭にある。多数の追悼文と遺稿として「千葉医科大学東洋医学研究所設置趣意書」。伊東については、この後の「先生」の項参照。/「酋長の娘」とは追悼になじまないタイトルだが、伊東先生が「酋長の娘」の歌を口ずさみながら写生していた思い出からのタイトル。/なお本追悼文の存在を平成二〇年三月本書を入手して編者は初めて知った。/文中に、千葉大学内の静岡県人会「静修会」のことがある。「停学になったからと云って急にオベッカを使って先生主催の県人会に顔を出して」「こういう卑劣な男を殴らなければ、他に殴るやつは見つからないであろう」と自らを書いている。学校に残ることは父の切なる願いであり、藤枝も懸命であったと云えようか。実は本書に勝見次郎作詩・鈴木宣民作曲の「静修会の歌」が楽譜付きで掲載されている。追悼文の一つ千葉保次「先生と静修会」で「ある日の例会の席上、今の勝見次郎博士が選ばれて静修会の歌詞をつくり」とある。昭和九年前後のことか、未詳。歌詞は次の通り。「一、雲飛ぶ空に 燦たりみ富士 潮鳴り荒らき 遠州の灘 山河は清し 我等が故国 我等相より 進まん 二、真日照〔まひて〕る丘に 熟れたりみかん 茶摘みの歌の ほのけき平野 みのりは豊か 我等が郷里 我等相より 助けん 三、霧晴る川に ま白し川瀬 伊豆路に匂ふ 温泉〔いでゆ〕の煙り 心情〔こころ〕は厚し 我等が郷人 我等相より 学ばん」。こうした詞を書いたこともあったのである)

しるこ武勇談   
静男巷談・連載 18 「浜松百撰」七月号  随筆( ) 

先生   
静男巷談・連載 19 「浜松百撰」八月号  随筆(藤枝静男〔勝見次郎〕の論文に指導教官として「千葉醫大眼科教室 主任伊東教授」と記されている。伊東先生に世話になった有様は「泡のように」昭和五三年でも書いている。「痩我慢の説」にI先生とあるのは、伊東先生を念頭においてのことであろう。伊東先生とは伊東彌恵治である。千葉大の資料によれば本随筆にあるように逸材の誉れ高く、大正八年二八歳で教授に就任。二度にわたる海外留学。緑内障に対する画期的イオン療法や藤枝が在学中の昭和一〇年前後のパーキンソン病の眼症状の研究は高く評価されている。日本眼科学会会長。医学史研究から東洋医学にも関心が向かう。アーユルヴェーダ医学を学ぶ者にとってのバイブル『ススルタ大医典』を戦火の過酷な事情の中で英訳本から邦訳。伊東が大正末期から昭和二〇年に掛けて収集した古医書一四〇六点、四〇八六册は、現在千葉大学の医学古書コレクションの中心を成す。昭和二六年脳出血で倒れ全快せず昭和二九年休職、翌年退官。名誉教授。昭和三三年六月死去。/「田紳有楽」に「一週間ばかりまえに兜卒天から届いたススルータ医学大事典の新版」とある。また「空気頭」のなかに「私の先生というのが」「多少当時の時勢に乗るという気味もあったかも知れませんが、皇漢医学の研究を始める一方、その方の小講座を大学に設けて資料の収集に身を入れて居りましたので、その手伝い」の一節がある。/『千葉大学東洋医学研究会五十年史』平成二年に卒業生寄稿として高柳欽一「邦訳『ススルタ大医典』出版始末記」があり、昭和四六年の伊東先生墓前の出版報告会のところで、浜名湖の共楽荘に一泊し交歓、藤枝静男の伊東教授を偲ぶ話に花が咲いたとある。付記すれば千葉大学東洋医学研究会の卒業生名簿に富安徹太郎〔筆名福岡徹、「空気頭」の項参照〕の名がある。この前の「酋長の娘」及び「兄の病気」昭和九年、「空気頭」昭和四二年の項参照。  ・及び教育読本『教師の現在』昭和五八年河出書房新社に収録。/平成二〇年七月に『教師の現在』の存在を知った。こうしたことでいつも思うのは、この「発見」が藤枝静男文学の鑑賞にも評価にも関係はないということである。ただ、「教育」の本に藤枝作品が収録されていることはなんとなく面白い。編者だけかも知れないがその感覚を味わえたということである。もっとも藤枝には「「気になる傾向」昭和四一年で早期才能教育を批判し「高等学校までは『読み書き算盤』だけを誠実に教えればよい」と教育に対する発言がある。それにまた編者にとっては、本書冒頭の斎藤喜博「教育とははかないものだ」を読む機会を得たということがある。かって教育界で斎藤の名は轟いていたが、その為もあって斎藤の書いたものを編者は読まなかった。「教師の仕事は、だいたいにおいてのろわれるものだし、のろわれているものだ。自分にのろわれ、子どもにのろわれ、親たちにのろわれるものだ。もともと教師の仕事は、仕事をすればするほどあやまちをおかし、罪を重ねていくようなものである」という斎藤の言葉は、その思いに浅い深いの違いはあろうが、教師であった編者の思いでもあった) 

ブラ公の試験勉強   
静男巷談・連載 20 「浜松百撰」九月号  随筆(  文中の「眼にて見 手にて書き 耳にて聴き 而して暗記すべし 楷書で四行に墨書してある」の話は「春の水」昭和三七年にそっくり使われている。この「ブラ公の試験勉強」の「ブラ公」は六年かかって高校を卒業、内科医になっている。一方『光美眞』〔昭和五年の項参照〕の追悼文の一つに「高千穂のブラ公よ」がある。高千穂中学で北川静男と一緒であった宗像郁三の追悼文で、北川の中学時代の様子が語られている。本随筆とほぼ同じ内容で北川が「ブラ公」と呼ばれたとある。違うのは『ブラ下がってみせる』から「ブラ公」と呼ばれたのではなく、「『ブラウン名探偵は』と叫びながら柱から柱へ飛び廻ってゐた」からであった。藤枝静男は静男巷談 18 回「ブラ公─ほか」でも「ブラ公」について書いている。やはりブラさがるから「ブラ公」になったとしているが、この「ブラ公─ほか」の「ブラ公」は北川静男がそうであったように腸チフスで死んでしまう。ともあれ「ブラ公」が何人もいたとは考えられず、本随筆「ブラ公の試験勉強」は、北川静男とほかの人物とを「コラージュ」して書いたのではないか)

追悼   
「谷口広君追悼 千葉医大昭士会報特別号」九月一〇日  追悼(星野重雄『生き永らえて』平成一一年岩波ブックサービスセンターに収録。「藤枝文学舎ニュース」第四二号平成一四年に転載。なお星野は藤枝静男と千葉医大同級、郷里の沼津で内科医院を開業)

年齢   
静男巷談・連載 21 「浜松百撰」一〇月号  随筆(

落第坊主   
「風報」一一月号  随筆(「浜松百撰」昭和三三年一〇月「落第坊主」の改稿    昭和五年七月発行の『第八高等学校一覧』に卒業者名簿「成績順」がある。第二〇回卒業理科乙類三八名は一四のグループに分けられていて、勝見次郎〔藤枝静男〕は一二番目である。「聖ヨハネ教会堂」のモデル室田紀三郎、『幕がおりるとき』を書いた毛利孝一は九番目、一三番目には「春の水」に出てくる支那からの留学生王と李の名がある。落第については本随筆の他に「落第仲間」昭和四一年、「三度目の勝負」昭和四八年があり共に『藤枝静男著作集第三巻』に収録されている)

石仏たち   
静男巷談・連載 22 「浜松百撰」一一月号  随筆 ( 同誌昭和四八年一月号に転載。  文中の頭塔の森石仏の拓本は作品集『今ここ』の装幀に使われている。余談ながら、編者も平成一九年末『今ここ』のものとは異なるが頭塔の森石仏の拓本を入手し軸装、母の喪の正月玄関に掛けた )ボツになったコント ─「古本屋ケメトス」の思い出    「中部日本新聞」一一月一八日朝刊  随筆(「浜松百撰」昭和三三年八月号「古本屋ケメトス」の改稿 「古本屋ケメトス」として

年々歳々  
静男巷談・連載 23 「浜松百撰」一二月号  随筆(  これも余談ながら、編者の手元に藤枝静男の色紙「年々歳々花相似 歳々年々人不同」がある)


昭和三五年(一九六〇年) 五二歳

匿名で年間五万円を近代文学社に提供することを申し出る。近代文学社はそれを基金として「近代文学賞」を設定し副賞とした。「近代文学賞」は、『近代文学』の終刊によって昭和三九年の第五回をもって終了。第一回受賞者は吉本隆明。六月二二日の授賞式、懇親会に出席。以後毎回出席する。なお第二回受賞者は立原正秋と草部和子、第三回受賞者は清水信、第四回受賞者は辻邦生、第五回受賞者は中田耕治と龍野咲人(近代文学賞については「『近代文学賞』のこと他」昭和五二年が埴谷雄高の銓衡経緯の紹介も含めて詳しい)。なおこの年五月、新安保条約案が衆議院で強行採決、六月参議院での議決がないまま条約案は自然成立。アイゼンハワー大統領訪日中止、岸内閣総辞職。



年頭苦言   
静男巷談・連載 24 「浜松百撰」一月号  随筆(

羽衣   
静男巷談・連載 25 「浜松百撰」二月号  随筆(謡曲羽衣破の舞「あずま遊びのかずかずに。あずま遊びのかずかずに。その名も月の。色人は。三五夜中の空にまた。満願真如の影となり。御願円満国土成就。七宝充満の宝をふらし。…」。この「七宝充満の宝を降らし」では、「家族歴」昭二四年が思い浮かぶ。「私」の父は「わしが死んだら必ず天から花が降り音楽が聞こえる」と云っていたが、死んでも花は降らず、音楽も聞こえなかった。「しかし葬式の時、僧達が経文を誦しつつ、造花の蓮弁を振り撒きつつ、遺骨の前を回り歩いた際、私は父の予言は実現された」と「私」は得心する。

忘友   
静男巷談・連載 26 「浜松百撰」三月号  随筆(  「静岡新聞」平成八年一一月七日日曜版「食考・浜名湖の恵み」で山本気太郎のこと)

ポン先生とビワ先生   
「風報」三月号  随筆(「浜松百撰」同題の改稿。単行本未収録 )

二つの結婚式   
静男巷談・連載 27 「浜松百撰」四月号  随筆(小説「鷹のいる村」昭和三九年につながるもの。 ) 

よう来やはったな   
静男巷談・連載 28 「浜松百撰」五月号  随筆(  「私は平生ほとんど旅に出るということがない」「人生に於ける大なる楽しみのひとつを味わうことなしに私は死んでしまうのかも知れぬ」と書いているが、昭和三八年の平野謙・本多秋五との馬籠旅行以後、旅行の数は決して少なくない。以下判っている藤枝の旅行を列記する。〔 〕内は同行者。「 」はその旅行について書いた随筆。昭和三九年に四国九州旅行〔平野・本多〕─「四国・九州行き」、昭和四一年に奈良飛鳥旅行─「日記」、昭和四二年に北海道旅行〔平野・本多〕、昭和四三年に小豆島旅行〔平野・本多・次女夫妻〕─「小豆島文学散歩」、昭和四四年に京都神戸旅行〔本多〕及び紀州旅行〔平野・中島和夫〕─「西国三カ所」、昭和四五年にソ連ヨーロッパ旅行〔城山三郎・江藤淳〕─「あれもロシアこれもロシア」「ヨーロッパ寓目」、昭和四六年に出雲大山松江旅行〔平野・本多〕、昭和四七年に尾道倉敷奈良旅行〔平野・本多〕─「志賀直哉文学紀行」、昭和四九年に北欧旅行〔友人三人〕─「また接吻された」「北欧の風物など」「フランクフルトのルクレツィア」及びインド・ネパール旅行─「インド瞥見」「ガンジス河・ヒマラヤ」「インドの弥生壷」、昭和五〇年に湖東旅行〔妻智世子〕─「琵琶湖東岸の寺」及び能登半島旅行〔平野・本多〕─「能登の旅」、昭和五一年に法師温泉旅行〔旧「犀」同人〕─「美女入浴」、昭和五二年に倉敷熊本旅行〔本多〕─「妻の遺骨」及び二度の韓国旅行〔大庭みな子・岡松和夫〕─「韓国の日々」と奈良旅行、昭和五四年に中国旅行─「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」、昭和五五年に奈良旅行、昭和五八年にヨーロッパ旅行〔次女親子〕─「行って帰った、女スリを撃退した」、昭和五九年にバリ島ポロブドゥール旅行〔浜松の友人と大庭みな子夫妻〕─大庭が「バリ島紀行」平成一二年でこのときのことを書いている)

巡査三蔵  
静男巷談・連載 29 「浜松百撰」六月号  随筆(ロシア皇太子を襲う場面をほぼ小説に近い内容で書いている。「浜松百撰」平成五年六月号「追悼・作家藤枝静男」に転載。

あやまる   
静男巷談・連載 30 「浜松百撰」七月号  随筆(  河村は「疎遠の友」昭和四八年のモデル河村直である。「疎遠の友」の項参照)

終戦前後   
静男巷談.連載 31 「浜松百撰」八月号  随筆(

わが家の犬   
静男巷談・連載 32 「浜松百撰」九月号  随筆(「娘の犬」昭和二八年と同じモティーフ。本誌平成五年六月号に転載。  なお本号に藤枝静男の診療中のスナップ写真)

実作者と鑑賞家   
「城砦」第七号(九月二〇日)  随筆(  文中のU氏とは内田六郎のことである。内田六郎に『硝子繪』昭和一七年双林社の著書がある。内田のガラス絵のコレクションは浜松市美術館に収蔵されている。また『内田コレクション ガラス絵』昭和五一年静岡新聞社がある。静男巷談「作る人・味わう人」昭和三三年の改稿。実作者の感性については「勘違い芸術論」昭和四一年もある)

自衛隊と女たち ─ひっかけて逃げるのだけは止してくれ  
「文藝春秋」九月号  随筆(単行本未収録)

疎開温泉   
「温泉」一〇月号  随筆(単行本未収録 U先生の疎開談。本誌は日本温泉協会発行。この随筆のコピーを堀場博氏よりいただき、はじめて存在を知る)

娘の交通事故   
「風報」一〇月号  随筆(

磐田往復三万円也   
静男巷談・連載 33 「浜松百撰」一〇月号  随筆( ) 

皇居拝観   
静男巷談・連載 34 「浜松百撰」一一月号  随筆(   本随筆で「人間以下にあつかわれて大人しくしている必要は絶対ない」と書いた藤枝静男は、昭和五〇年「文芸時評」のなかで「天皇の生まれてはじめての記者会見」に対し「あれでは人間であるとは言えぬ」と怒りの声を発している。この「天皇=人間」をめぐって付け加えれば、藤枝の「文芸時評」に共感した伊藤成彦が「春秋」昭和五一年二、三月号で「三島由紀夫は天皇に対して、なぜ人間になったかと恨み、藤枝静男は、お前はそれでも人間か、と怒っているのだから、天皇としては立つ瀬がなさそうだが、そこに『人間天皇』というものの本質的な背理が両側面からみごとに照らしだされている」と書いている)  

買いものぎらい   
静男巷談・連載 35 「浜松百撰」一二月号  随筆(


昭和三六年(一九六一年) 五三歳

一月、瀧井孝作来浜(このときのことを静男巷談「電気バリカン」)。「凶徒津田三蔵」を『群像』二月号に発表。五月、創作集『凶徒津田三蔵』を講談社より刊行。『近代文学』六・七月号で座談会「本多秋五─その仕事と人間」。六月一八日、荒正人の新築の書斎で本多、平野、埴谷、山室、佐々木が出席して荒の新居披露と『凶徒津田三蔵』出版祝い。平野の中国旅行の歓送会も兼ねる。一一月、本多を伴い志賀直哉訪問。本多が志賀と会うのは約一六年ぶり。一二月、妻智世子千葉医科大学外科に入院、気管支鏡検査。なおこの年、清水信が『近代文学』一〇月号に「藤枝静男論─当世文人気質 」を書いている。清水はこの連載で昭和三七年に第三回近代文学賞を受賞。

  プラタナスの木は残った ─屠蘇苦言  
静男巷談・連載 36 「浜松百撰」一月号  随筆(同誌昭和四九年一月号に転載。

凶徒津田三蔵  
「群像」二月号  小説(小川国夫は講演「藤枝静男とわが藤枝」平成一八年で、「藤枝さんは手がかりとしてこの藤枝市を使ったのです。大津という町は藤枝より少し大きいかもしれませんが、東海道五十三次の一つです。当時の宿場町というのは相似形の部分もあるわけで、藤枝という町をうまく使っているのです。藤枝がうまく書ければそこで小説としてのリアリティ、現実感というものは担保できる。藤枝さんはそこを考えたと思いますが、藤枝が実にうまく書けている」と語っている〔藤枝文学舎ニュース〕第五七号〕。/創作の経緯については作者自身の「『凶徒津田三蔵』のこと」昭和三七年がある。/三蔵たちを引率の隊長が穢多について語るところがあるが、「みんな泡」昭和五六年で「差別のことは書いておく方がよいと思う」として藤枝は自らの見聞について記述している。。/なお編者の手元に『シナリオ・アンデパンダン』第三八号〔昭和四九年シナリオ・アンデパンダン編集部・非売〕がある。東宝助監督会の手になるもので、その中に山下賢章「藤枝静男原作『凶徒津田三蔵』より─凶徒」がある。助監督会の研究誌であり映画化されることはなかったが、藤枝の作品を映画シナリオの対象に取り上げた例は他にないだろう。この貴重な資料を編者にもたらしてくれたのは、札幌の故斉藤洋一氏である。記して謝意を表したい。なお斉藤氏の手紙によれば、山下賢章は昭和一九年生まれ、「ゴジラスペースゴジラ」を監督している)
 
時評─平野謙「毎日新聞」二月一日朝刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第十巻』)・河上徹太郎「読売新聞」一月二七日夕刊(『文藝時評』昭和四〇年垂水書房・『河上徹太郎全集第八巻』昭和四七年勁草書房)・本多秋五「信濃毎日新聞」一月二七日朝刊(『本多秋五全集第八巻』平成七年菁柿堂)・山本健吉「中 日新聞」二月一日朝刊(『文藝時評』昭和四四年河出書房新社)・江藤淳「朝日新聞」一月二一日朝刊 (『文芸時評』昭和三八年新潮社・『全文芸時評(上)』平成元年新潮社)・村松剛「東京新聞」一月三 〇日夕刊・丸谷才一「岐阜日日新聞」一月二二日朝刊・奥野健男「週刊読書人」一月三〇日号・佐伯彰一「文學界」三月号・荒正人×埴谷雄高×佐々木基一「近代文学」三月号〔鼎談・文芸時評〕

合評─花田清輝・江藤淳・寺田透「群像」三月号

収録─創作集『凶徒津田三蔵』・日本文藝家協会編『昭和三十七年度文學選集 27 』(昭和三七年講談社)・現 代文学秀作シリーズ『凶徒津田三蔵』・『藤枝静男著作集第三卷』(昭和五一年講談社)・講談社文庫『凶徒津田三蔵』(昭和五四年講談社) 
  このドライブ日和   
静男巷談・連載 37 「浜松百撰」二月号  随筆(

電気バリカン   
静男巷談・連載 38 「浜松百撰」三月号  随筆(「海坂」昭和三九年四月号に転載。

平野謙と本多秋五   
「近代文学」三月号  随筆(   冒頭、藤枝静男より本名の勝見次郎のほうが余程いいと人から云われたとある。編者も勝見次郎のほうがカラッとして男らしいと思うときがある。しかし藤枝静男に慣れ親しんだせいもあろう、藤枝静男はふくらみがあっていい。平野の高校時代の写真のことが出てくるが、『平野謙全集第六巻』の口絵にある。なお本号文芸時評で「兇徒津田三蔵」)

平野断片   
「平野謙と本多秋五」の改稿(『落第免状』に昭和三六年三月未発表として収録)  随筆(文中の平野謙の写真は『平野謙全集第六卷』昭和四九年新潮社の口絵にある。平野謙が「あッ、お父チャンだ」と駆け寄っていった平野の父は平野柏蔭〔明治四年〜昭和一九年〕である。平野は父の遺稿集『平野柏蔭遺稿集』を死の前年の昭和五二年に刊行している。藤枝はこの刊行について「故平野謙との青春の日々」昭和五三年で、また柏蔭について「貰ったもの失ったもの」同年で触れている。「 

異郷の友   
静男巷談・連載 39 「浜松百撰」四月号  随筆(「海坂」昭和三九年一月号に転載。改稿〔本初出では岸田泰政と書いていたのをNとする〕して「南北」昭和四一年一〇月号・ 。  は本初出のまま。このときの藤枝の岸田宛の手紙及び「親愛なるソ同盟の読者の皆さん」と題した挨拶文がある。高額なため実物を入手できず。日付は昭和三二年一二月一四日。取り上げている作品は「イペリット眼」である。/「日本のカレンダー」昭和五四年でカレンダーをソ連の友人たちに送ることを書いている。岸田に『レニングラード便り』昭和五二年泰流社がある。奥付の頁の岸田の略歴はつぎの通り。「一九二二年山口県に生まれる。関西大学国文科に在学中農民文学に熱中する。工業学校その他の講師。ソ連高等教育省の招待でソ連国立レニングラード大学に赴き、日本語・日本文学を講述。ソ連アカデミー機関誌等に日本文学の評論、詩、短歌、俳句の翻訳を掲載する」。なお同書中で感銘した作品のひとつに、藤枝の「欣求浄土」をあげている。なお「ヨーロッパ寓目」昭和四六年に岸田の教え子ミーシャが登場する)

嫌な顔   
静男巷談・連載 40 「浜松百撰」五月号  随筆(「海坂」昭和四〇年五月号に転載。  登場する室田は「或る年の冬 或る年の夏」の竹井、「聖ヨハネ教会堂」室井のモデル添田〔室田〕紀三郎である。追悼「添田紀三郎のこと」昭和四六年がある。/文中の土田麦僊〔つちだばくせん〕は日本画家、国画創作協会〔国画会の前身〕を村上華岳らと結成し画壇に新風を吹き込んだ。明治二〇年生れ、昭和一一年歿)

創作集『凶徒津田三蔵』あとがき   
『凶徒津田三蔵』五月一〇日  自著あとがき(  「ただ私はできる限りものごとをハッキリと描写しているつもりである。また、或るリズムをもって音読できないような文章は小説ではないと思っているから、そういうものは書かなかったつもりである」とある。このことでは「或る年の冬 或る年の夏」のなかで、寺沢と三浦が志賀直哉の「リズム論」をめぐって意見をかわす場面がある。志賀の「リズム論」は「読売新聞」昭和六年一月一三日、一四日と発表された。その内容は意見をかわす場面で要約されているが、志賀の文を、その冒頭部分を長いが引用する。「偉れた人間の仕事─する事、いふ事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものが何処かにある。それを目覚まされる。精神がひきしまる。かうしてはゐられないと思ふ。仕事に対する意志を自身はっきり(或ひは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずさういふ作用を人に起す。一体何が響いて來るのだろう。/芸術上で内容とか形式とかいふ事がよく論ぜられるが、その響いてくるものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思ふ。響くといふ聯想でいふわけではないがリズムだと思ふ。/此リズムが弱いものは幾ら『うまく』出来てゐても、幾ら偉らさうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしてゐる時の精神のリズムの強弱─問題はそれだけだ」)

当麻   
静男巷談・連載 41 「浜松百撰」六月号  随筆(  当麻=たいま)

椎名麟三『長い谷間』 ─呻きのなかの救い  
「日本読書新聞」六月二六日号  書評(

おかしな連想   
静男巷談・連載 42 「浜松百撰」七月号  随筆( )  

泥棒女中   
「群像」八月号  随筆( ・人生読本『友だち』昭和五四年河出書房新社)

昭和十九年   
静男巷談・連載 43 「浜松百撰」八月号  随筆(同誌平成五年六月号に転載。  『今ここ』では「昭和十七年から」であるところを「昭和七年から」と誤植。小説とは「イペリット眼」昭和二四年のこと)

鴎外と浜松   
「風報」九月号  随筆(  冒頭の夢の話はつぎの「日記」にそのまま使っている。森鴎外といえば「雉鳩帰る」昭和五三年に鴎外全集の翻訳短篇集にある「冬の王」が出てくる。勝又浩はその論を「冬の王の歴史─藤枝静男論」昭和五七年と題した。)

日記   
静男巷談・連載 44 「浜松百撰」九月号  随筆(  夫人との会話の場面は「これでもいい」昭和三二年を連想する。「一年半ばかりして子供がうまれた。実家に帰って産をしたので、僕は電報を受取ると急いで出発 しようとした。しかし何か妻を喜ばせ慰めるような優しいものをやりたかった。しかし僕には女に何をやったらいいのか、まるで見当がつかなかった。セザンヌの原色版の多い立派な画集が四階の書籍部の陳列棚にあって人眼を索かれたが、流石にやめた。結局僕は入り口に近い化粧品売場のケースの上にゴタゴタと並べられた特売の香水を二瓶買った。香水など買ったのは生まれて初めてだった。香をかぐと非常にいい香がした。僕はそれを赤ん坊と寝ている妻の顔の横に出して『一つ五十銭だ。随分易いだろう』と云った。妻は『有難う』と云った」。/この「日記」では「罪滅ぼしのつもりで妻を支那料理に連れ出して炒飯を食べた」とある。随分安い罪滅ぼしである。炒飯は藤枝の定番で「四年間」昭和五年で炒飯との出会い、「食物のこと」昭和四三年で平野に冷やかされている)   

果し合い   
静男巷談・連載 45 「浜松百撰」一〇月  随筆(改稿して 、初出のままで   長楽寺清兵衛は明治初年、清水次郎長と盃を交わし兄貴分となる。荒神山の決闘では手打ち式を浜松五社神社で行わせ東海道にその名を知らしめた。晩年は、蓮生寺の門前に立っていた火の見櫓の下に子供を集め、青池の決闘を繰り返し語っていたという。大正一〇年歿。葬儀の列は長蛇をなした。洞雲寺に墓がある─『ふるさとの想い出写真集・藤枝』昭和五五年より。同書に資料写真)

鳳来寺登山記   
静男巷談・連載 46 「浜松百撰」一一月号  随筆(

暗いクリスマス   
静男巷談・連載 47 「浜松百撰」一二月号  随筆 ( 同誌昭和四〇年二月号に転載。  昭和五七年「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が出された。藤枝静男はその声明に名を連ね、「すばる」編集部のアンケートに答えている。「私は一対一の殺しあいでも人殺しは絶対反対ですから、核装備など論外で留保の余地はありません」 )



創作集『凶徒津田三蔵』  
昭和三六年五月一〇日  講談社刊
装  幀 亀田マユミ
帯  文 平野 謙
収録作品 凶徒津田三蔵/阿井さん/明るい場所
あとがき 藤枝静男

『凶徒津田三蔵』書評
佐々木基一「日本読書新聞」六月一五日号・荒正人「週刊読売」六月四日号小沼丹「図書新聞」六月三日号・久保田正文「週刊読書人」六月一二日号(『作家論』昭和五七年永田書房)・白石凡「週刊朝日」六月二日号・匿「浜松民報」六月三日号



昭和三七年(一九六二年) 五四歳

二月、妻智世子胸郭整形手術で肋骨五本切除、三月退院。「春の水」を < 群像 > 四月号に発表。八月、藤枝の土地の裏庭に母ぬいと妹きくのための家を新築、表通りに面した土地は売却。九月、「凶徒津田三蔵」が『昭和三七年版文學選集』 ( 講談社 ) に収録される。「ヤゴの分際」を『群像』一二月号に発表。一二月、藤枝市立病院に入院中の小川国夫を見舞う。小川は、平成一一年の講演でこのときのことを語っている。藤枝は「酒をやめることはない。治ったらまた飲めばいい。そしてまた、小説を書けばいい」と小川を励ました。なおこの年、ピカソ・ゲルニカ展を見る。

  紋付き   
静男巷談・連載 48 「浜松百撰」一月号  随筆(「海坂」昭和三九年三月号及び「浜松百撰」昭和四〇年二月号に転載。  本随筆は『本尊美翁追憶録』昭和一三年九月本尊美翁追憶録編輯刊行會にある佐藤芳二郎「先生の日常生活の回顧」の内容に準じて書かれている。ポンソンビに関する二つの文献を入手したことが、小説「わが先生のひとり」誕生のきっかけになったかと思われる。「わが先生のひとり」昭和三九年の項参照)

素朴ということ   
静男巷談・連載 49 「浜松百撰」二月号  随筆(  文中のU翁は百合山羽公〔ゆりやまうこう〕であろう。「浜松の二人の俳人」昭和三三年の項参照)

凶徒津田三蔵 ─ 書けなかった畠山勇子   
「朝日新聞」二月二三日朝刊・連載企画「わが小説」   随筆(「 『凶徒津田三蔵』のこと 」として

岡目八目   
『浜松医師会中央病院記念誌』(昭和四九年六月一一日発行)で「医師会マンスリー」昭和三七年二月からの引用となっている。この初出誌未見。筆名は勝見次郎。    随筆

火事・泥棒   
静男巷談・連載 50 「浜松百撰」三月号  随筆(「火事と泥棒」と改題し ・原題で 今  ずっと後日になるが「虚懐」「またもや近火」昭和五七年で火事について書いている。また泥棒では「今朝の泥棒」「泥棒三題」昭和三一年がある。火事と泥棒に縁のある藤枝静男である。)

読後感   
「浜松市民文芸」第七集(三月三〇日 )  選評(単行本未収録  このときの応募作の一つが吉田知子「膨張」) 

三好氏と私   
『三好十郎著作集第一七卷』会報 三月三一日    随筆 ( 本書は会報共々ガリ版刷り、限定二一 〇部 「三好十郎氏のこと」として  三好十郎については、本随筆の下敷きともいえる静男巷談「三好十郎と浜納豆」昭和三四年と大武正人『小説・私の三好十郎伝』昭和四三年の帯文がある。三好は明治三五年〜昭和三三年、享年五六歳。小説家、劇作家。昭和二六年、劇団民芸滝沢修主演のゴッホの生涯を描いた三好作「炎の人」は爆発的な評判を得た。三好自身も絵を描いた)

春の水   
「群像」四月号  小説(文中の寺沢は藤枝静男自身、中島は平野謙、三浦は本多秋五がモデルであろう。葉山は「疎遠の友」昭和四八年の仕手と同じ人物、河村直をモデルにしている。河村については平野謙が「旧友の死」昭和四二年に書き、本多が「八高時代の平野謙」昭和三五年に書いている。また『藤枝静男著作集第五卷』月報5に不鮮明ではあるが、八高時代の藤枝、本多、平野、河村直の集合写真がある。北川静男遺稿集『光美眞』昭和五年に河村は小説二篇を寄せてもいる。/なお葉山の下宿の壁にとめてある張り紙の話は、静男巷談「ブラ公の試験勉強」昭和三四年で書いている。/平野、本多に話を戻せば、「或る年の冬 或る年の夏」の「群像」初出では平野、本多のモデルをZ、Sで記述、単行本収録に際し、この「春の水」同様それぞれ中島、三浦としている。「三田文学」昭和二三年六月号に発表した「一日」が、この「春の水」のもとになっている。/なお作中人物のモデルについての本書の考えを記しておきたい。藤枝静男は「小説の嘘」昭和三九年で「小説というものは伝記でもなければドキュメントでもない」と書き、また同じ年の「一得」でも本多の合評会での発言に対し「小説の主人公のシチュエイションと作者のそれとの違い」「こういう作品自體に無關係な詮索」と怒っている。このことはまったくその通りだと編者も考える。しかし本書ではそうした詮索を大いに行っている。それは藤枝の云う通りだとしても、作品の背景、あるいは作品の創作過程を探るためには〔創作の一端に携わる編者としてはそこを知りたい〕そうした詮索も許されるだろうと考えるからだ。モデルは料理に例えれば食材で、その食材をどう料理しているか。そこを知るには、もともとの食材を確認しなければなるまい。従って本書では人物に限らず、例えば「雄飛号来る」の雄飛号の実際はどうであったか、「空気頭」にある「瓜茄」という雑誌の実際はどうであったか、「木と虫と山」の「昭和新山生成日記」の実際はどうであったか等々、枝葉末節煩雑を承知で詮索している。なお随筆も作品である。随筆で書いていることも、事実そのものとは云えまい。そのこともまた承知しておく必要がある。/三浦が土手を下り一本の真菰を引き抜く。そして真菰について寺沢に説明する。この部分は、静男巷談「手児奈の眉ずみ」昭和三四年の真菰に関する部分をほとんどそのまま使っている。「手児奈の眉ずみ」では「何年か前の二月頃発酵の研究をやっているNという友人」のこととなっている。「春の水」とは時期もまったく異なり、Nと本多とは別人であろう)
 
時評─平野謙「毎日新聞」三月三〇日夕刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第十一巻』昭和五〇年)・本多秋五「東京新聞」三月三〇日夕刊(『本多秋五全集第八巻』平成七年)・江藤淳「朝日新聞」三月二朝刊(『文芸時評』・『全文芸時評(上)』)・山室静「神奈川新聞」三月二六日朝刊(『山室静全集3』昭和四七年冬樹社)・進藤純孝「週刊読書人」三月二六日号・中田耕治「図書新聞」三月二四日号

収録─創作集『ヤゴの分際』・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第五巻』(昭和五二年講談社)・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』・あんそろじい旧制高校編集委員会『あんそろじい旧制高校第四卷─芸文の花咲き乱れ─文芸と旧制高校』(平成三年図書刊行会)
  住まいのいましめ   
静男巷談・連載 51 「浜松百撰」四月号  随筆(  清水真は「清水信」が正しい。結核で入院中の遠藤周作を見舞っているが、藤枝静男は「遠望軽談」昭和四九年で遠藤の書にふれている。一方遠藤は谷崎潤一郎賞選考委員として、『田紳有楽』の選評・「中央公論」昭和五一年一一月号を書いている)

殊勲の本塁打   
静男巷談・連載 52 「浜松百撰」五月号  随筆(文中の応援団長金子房次郎は『第八高等学校一覧』の卒業生名簿によれば、第十七回理科甲類卒、東大農学部進学、本籍地大阪。同じく榎本久馬太は同理科乙類卒、愛知医科大学進学、本籍地兵庫。同じく山本正は同理科甲類卒、京大医学部進学、本籍地愛知。榎本については「故榎本君の思い出」昭和五六年がある。

プロ野球見物   
静男巷談・連載 53 「浜松百撰」六月号  随筆(

夢の買物   
静男巷談・連載 54 「浜松百撰」七月号  随筆(  夢の買物とは自動車に乗って悠々と古道具屋を廻ることだが、「壜のなかの水」昭和四〇年の「私」は、背中に荒縄で大壷を括りつけ両手に壷を持ちヘトヘトになってバスに乗り込む。そして宍戸から「あんたは欲張りだ」と揶揄される)

お化けのトリック   
静男巷談・連載 55 「浜松百撰」八月号  随筆(

そっけない面白さ ─紙上浜松美術館?曾宮一念「風景」 
「浜松百撰」八月号  随筆(単行本未収録 「同じ構図の三〇号ほどの作品」は『曾宮一念の画業展』図録昭和四九年に不鮮明な白黒図版で、『静岡の美I・曾宮一念展』図録昭和六二年にカラーで掲載されている「三角岩」かと思われる。「浜松百撰」の図版が不鮮明なため比較はむずかしいが、それでも「僕の方がいいと思います」の言に賛同したい)

白樺派断想   
静男巷談・連載 56 「浜松百撰」九月号  随筆(

方寸会とは何ぞや   
静男巷談・連載 57 「浜松百撰」一〇月号  随筆(「方寸会」については文中のN老青年であろう永井治雄の筆になる小冊子『方寸会の歩み』〔あかね屋主人平松哲司氏よりコピーをいただく〕が詳しい。約半数が医師で、ほかに画廊主、彫刻家、工芸家といったメンバーであった。なお文中のH老は平野多賀治、産科医U老は藤枝静男の随筆によく登場する内田六郎であろう。

日曜小説家   
静男巷談・連載 58 「浜松百撰」一一月号  随筆(

日曜小説家   
「自由」一一月号  随筆(「浜松百撰」と同様曾宮一念『日曜随筆家』(昭和三七年四月創文社・限定一〇〇部及び普及版)に触発されての随筆だが別文。  本随筆について、「大波小波」東京新聞十月一六日が「作家の覚悟」として取り上げている。/なお曾宮については静男巷談「摩訶耶寺の赤い鼻緒の下駄」、同「作る人・味わう人」昭和三三年、「そっけない面白さ」昭和三八年、「曾宮氏のこと」「『曾宮一念の画業展』を見る」昭和四九年、『日本近代文学大事典』解説昭和五二年、「虹」昭和五三年がある。また曾宮のデッサンを随筆集『落第免状』昭和四三年見返し装画に使い、「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年の最後に曾宮の詩「火葬小屋」を引用している) 

六十一回目の雑文   
静男巷談・連載 61 「浜松百撰」一二月号  随筆(昭和三二年一二月号の「小説の神様の休日」、昭和三三年一月の「小説の神様の休日─れんさい2」を本号より静男巷談の第一回、第二回とし、「連載 59 」ではなく「連載 61 」とした。作品集『今ここ』でははこれに従い「小説の神様の休日」を第一回とし以下順送りで表記している。本書では初出の表記に従ってきた。

ヤゴの分際   
「群像」一二月号  小説(妻が入院している療養所に通うところは「路」昭和二二年と、大学時代検挙留置されるところは「怠惰な男」〔「或る年の冬 或る年の夏」〕昭和四六年とモティーフが重なる。検挙留置のことは「痩我慢の説」昭和三〇年、「硝酸銀」昭和四一年でも書いている。主人公寺沢は藤枝静男自身がモデルだが、寺沢に息子喬がいることなど藤枝静男そのものでは勿論ない。妻の実家も「静岡県東部」としている。また冒頭「妻が肺葉切除術を受けた」「母校の外科に入院させて」とあるが、妻智世子の肺葉切除手術の行われたのは昭和三八年二月であり病院も浜松の聖隷病院である。妻が入院手術する前に、藤枝は「寺沢の妻が肺葉切除術を受けた」と書きその有様を作品にしたのであった。/「群像」昭和三九年八月号特集「最も印象に残った批評」に藤枝は「一得」なる一文を寄稿している。そのなかで次のように書いている。「ただ本多に對しては一度だけ怒り心頭に發したことがある。『ヤゴ』の合評でいきなり『作者は宏壮と云ってもいい邸宅に住み、内科醫ではなくて眼科醫で、息子はなくて娘が二人ある』と、小説の主人公のシチュエイションと作者のそれとの違いを暴露して見せたのである。こういう作品自體に無關係な詮索を冒頭に發言することは平生の本多に似合わしからぬことで、實に癪にさわった。いわゆるトサカに來たから、すぐ葉書を書いて抗議した。これは別に悪評を加えられたというのではないが、ひどく怒ったので記憶に残っている」。モデルについての本書の立場は、「春の水」の項に書いた。/満員電車に乗って妻の実家を訪ねる場面がある。このことでは「終戦前後」昭和三五年がある。/子供が病棟に近づくことは禁止されていたとある。このことで長女章子さんが随筆に、病室の入り口で立って歌ったことを書いている。/息子喬は薬局の引き出しから金を盗む。寺沢の脳裏に自分も店の銭函から金を盗んだときのことが蘇る。このことは「硝酸銀」昭和四一年にもある。 Geschlechtsleben ゲシュレヒツ・レーベン=性生活。/学位論文に熱中して家を空け、泥棒にはいられたことは「落第坊主」昭和三四年で書いている。検挙拘留のことは、「或る年の冬 或る年の夏」などにある。海軍工廠病院のことでは「イペリット眼」昭和二四年他がある。)
 
時評─平野謙「毎日新聞」一一月三〇日夕刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第十一巻』)・山本健吉「東京新聞」一二月一日夕刊(『文藝時評』)・江藤淳「朝日新聞」一二月七日朝刊(『文芸時評 i 』・『全文芸 時評(上)』)・山室静「神奈川新聞」一一月二六日朝刊(『山室静全集3』)・十返肇「週間読書人」一一月二六日号(『十返肇著作集(上)』昭和四四年講談社)・和田芳恵「図書新聞」一一月二四日号

合評─伊藤整・本多秋五・山本健吉「群像」昭和三八年一月号

収録─創作集『ヤゴの分際』・『日本短篇文学全集 19 志賀直哉・網野菊・藤枝静男』・『現代日本文学大系 48瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集』・『藤枝静男作品集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』・『藤枝静男著作集第一巻』・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』 なお「母と生活」昭和三八年一二月号に「ヤゴの分際」のダイジェスト(文・川井堯、絵・田代喬之)


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