昭和二三年(一九四八年) | 四〇歳 | ||||||
『三田文学』六月号に「二つの短篇((Tさん・一日─昭和三年─))を発表。本号の編集は原民喜であった。編集後記を原が書いている。このときの事情を藤枝静男は「原民喜のこと」昭和四七年で書き、『三田文学』昭和四九年一一月号のインタビューで語っている。なおこの年一月、志賀直哉熱海市稲村大洞台〔おおほらだい〕に移る。六月、太宰治入水自殺。同月「夜の会」発足(花田清輝・岡本太郎・野間宏・椎名麟三・埴谷雄高・梅崎春生・小野十三郎・中野秀人ら)。宮内淳子は平成二〇年の講演で、「近代文学」と「夜の会」の交錯が藤枝静男の私小説観に影響していないだろうかと指摘している。
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昭和二四年(一九四九年) | 四一歳 | ||||||
『近代文学』三月号に「イペリット眼」、同一二月号に「家族歴」を発表。「イペリット眼」が第二一回 ( 昭和二四年度上半期 ) 芥川賞候補となる。このときの受賞作は小谷剛「確證」、由起しげ子「本の話」(『文藝春秋』九月号に選評。 選者が激しくやり合っていて面白い)。
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昭和二五年(一九五〇年) | 四二歳 | ||||||
四月、浜名郡積志村の妻の実家を出て、浜松市東田町二〇六番地に眼科医院を開業する(妻の実家菅原眼科の名跡を継ぐ)。「やっぱり駄目」昭和五五年に「敗戦後身を寄せていた妻の父親の病院から木造二階建ての病室一棟をゆずり受け、隣接する中都市の焼けあとの空地に移築して独立の眼科開業医となった」と書いている。「龍の昇天と河童の墜落」を『みづうみ』四月号に発表、本多秋五が認めて『近代文学』八月号に転載。六月、朝鮮戦争勃発。なおこの年、曾宮一念「虹」を描く。丸木位里・丸木俊「原爆の図」を発表、絵物語『ピカドン』は発売禁止処分となる。
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昭和二六年(一九五一年) | 四三歳 | ||||||
「空気頭」の先駆的作品「空気人形」を『みづうみ』二月号から七月号にかけて連載。七月、瀧井孝作来浜、気多 川、天竜川に案内する。九月、サンフランシスコ講話条約。一一月、八王子の瀧井孝作を訪問、瀧井宅で初めて原勝四郎の絵を見て感銘を受ける(瀧井所蔵の原勝四郎作品の図版が『瀧井孝作展図録』昭和五〇年八王子市にある。ただし図録には昭和三〇年代制作とありこのとき藤枝が見た作品ではないかも知れない)。なお「近代文学」第四六号(一月発行)より編集が本多秋五から埴谷雄高にかわる。この年三月原民喜鉄道自殺、佐々木基一宅にて告別式。
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昭和二七年(一九五二年) | 四四歳 | ||||||
「空気頭(初稿)」を『近代文学』三月号に発表。五月、「血のメーデー事件」。一一月、尾崎一雄を訪ねる(このときのことを「尾崎一雄氏との初対面」昭和三二年で書いている)。
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