平成26年(2014年)
註)本年度よりレイアウトを変更し、年月日の表記もアラビア数字とする。
●=単行本 ○=雑誌 ◇=その他 ゴシック=作品収録

 3月
◇藤枝文学舎ブログ「藤枝文学舎ニュース」開設。
●蜂飼耳『おいしそうな草』(岩波書店)発行(藤枝静男「一家団欒」にふれた「最終の空気」<図書>2012.11月号収録)。
●豊崎由美『まるでダメな男じゃん!「トホホ男」で読む、百年ちょっとの名作23選』(筑摩書房)で「空気頭」。
○<WIREDワイアード>Vol.11「21世紀の教科書─新しい世界を考える42冊」で『田紳有楽・空気頭』。
●秋山駿・勝亦浩監修/私小説研究会編『私小説ハンドブック』(勉誠出版)の作家案内で梅沢亜由美「藤枝静男」。
 4月
○<季刊文科>第62号の徳島高義「小川国夫『彼の故郷』のころ」で藤枝静男のこと。

 6月
○<火涼>68号で「清水信宛来簡集1−藤枝静男」─藤枝静男からの書簡六通を紹介。本誌を目にする機会はあまりないかと思われるので、その中の昭和36年11月10日荒正人気付け清水宛の藤枝の書簡を以下引用する。

  「拝啓/御目にかかった事はございませんが/御連載の作家論(註・<近代文学>連載の作家論シリーズ) は毎号面白く拝見/して居ります。今度私が出て来まし/たので吃驚しました。しかし大変嬉し/く感じま した。それは貴方の他には/そういう人は絶後だろうと思ったから/です。今までロクなものは書かず、又 /これからどれだけの数が書けるか、大概/自分でわかって居ります上に、まるで一般向き/でないのですから当然です。第一私には/公平に見て、貴方が私を取り上げられた/のが不思議に思われます。何か気候の加減か/と思う位です。しかし、とにかく私の書いたもの/を驚く程親切に読んで下さって居るの/は確かですし、それは普通の態度では/出来ないことですから、それがエコヒイキ/にしろ、私は分不相応な一人の愛読者/を持って居ることは確実で、こんな事は/私にとっては実に望外のことです。それと/光栄に思い感謝致します。私は貴方が/どこの方か存じませんので、それだけ一層/そう感ずるのです。/私は今半年ばかり前からかかっている/短篇を三十枚ほど書いて居りますが(註・「春の水」か)、/そのうち出来上がりましたら何かに出して貰い/ますから、御読みいただきたいものだと考/えて居ります。それはしかしやはり窮屈/なものですが。しかし真面目に書く事/は確かです。/大変嬉しく思いましたので御礼を/申し上げました。御健康を祈り上げます。/敬具」。

●浅野麗他編『大学生のための文学トレーニング 現代編』(三省堂)「『私』という虚構」の章で「空気頭」抄録。

 9月
●蓮實重彦『「私小説」を読む』講談社文芸文庫(『「私小説」を読む』中央公論社1985の文庫版/<海>昭和49年5、6月号「藤枝静男論」収録)発行。文庫版にあたっての「著者から読者へ」で、蓮實は「この書物の著者が、志賀直哉、藤枝静男、安岡章太郎という三人の作家の作品を分析の対象としたのは、そのいずれもが滅法面白いものだからであり、それ以外にいかなる理由も存在しておりません」と述べる(なお「蓮見重彦氏が偏愛する本」なるリストが2008年にあり藤枝の『田紳有楽/空気頭』『悲しいだけ/欣求浄土』が含まれている)。

 10月
<群像>10月号 変愛小説集/温故知新編で「出てこい」収録。他四篇─川端康成「片腕」、芥川龍之介「好色」、尾崎翠「山村氏の鼻」、泉鏡花「外科室」)。<変愛小説>偏愛座談─岸本佐和子×川上弘美×村田沙耶香×本谷有希子─「出てこい」などについて。
吉行淳之介編『最後の酔っぱらい読本』講談社文芸文庫(「北欧の風物など」収録)発行。
◇まつもと演劇祭(松本市/Mウィング)でアートひかり「新・一家団欒」(原作・藤枝静男/脚本演出・仲田恭子)上演。

 11月
富岡幸一郎選『妻を失う/離別作品集』講談社文芸文庫(「悲しいだけ」収録)発行。
●中村明『名表現辞典』(岩波書店)発行(藤枝静男「雛祭り」からの引用)
◇26日浜松文芸館の講座で、長女安達章子さんが父藤枝静男を語る(みらいネット浜松主催)─特別収蔵展「ポスターで見る浜松文芸館の歩み」11/18〜2015.3/3。

 12月
◇笙野頼子が「未闘病記」で野間文芸賞を受賞。
日本文藝家協会編『現代小説クロニクル1980-1984』講談社文芸文庫(「みな生きもの みな死にもの」収録)発行─解説(川村湊)で「政治的なイデオロギーの目立つ戦後派作家のなかでは、独自の死生観、自然観を持ち、幻想(夢)と現実の世界が混淆する、“藤枝ワールド”を創造した」。
●笙野頼子『猫キャンバス荒神』(河出書房新社)の「講義形式の後書きって何よあんたなんか、にわか教授の癖に」で「藤枝静男さんの身辺小説の方がずーっとリゾームだし、内在平面なのさ」。

 本年編者が知ったことに下記がある。
図書刊行会編集部編『仏教の名随筆2』(図書刊行会/平成18年7月)で「掌中果─ある黄檗僧の話」収録─「本作は小説だが、随筆としても読むことができるので本書に収録した」とある。
●小谷野敦『私小説のすすめ』平凡社新書(2009.7)で藤枝静男。
●堀江敏幸『余りの風』(みすず書房2012.12)─「不合理な逆遠近法」(『藤枝静男随筆集』解説)、「もう悲しいという言葉を口にすることはできない」(初出「モンキービジネス」2011Fall vol.11)収録。
<モンキービジネス>2011 Fall vol.11で「悲しいだけ」収録。
●梅澤亜由美『私小説の技法─「私」語りの百年史』勉誠出版(2012.12)の第四部「創られた私」で「藤枝静男『空気頭』─<尾のない輪のようなもの>として」。
○<季刊メタポゾン>第10号2013.11で劇画「妻の遺骨」(原作・藤枝静男/漫画・川勝徳重)─岡和田晃「劇画版『妻の遺骨』につて」
◇大阪教育大学付属図書館のコレクションに灰谷健次郎旧蔵書約250点があり、『藤枝静男著作集』全6巻が含まれている。

「出てこい」収録

「北欧の風物など」収録

「悲しいだけ」収録 「みな生きもの みな死にもの」収録

平成27年(2015年)

 1月
<ゐのはな静岡>第23号(千葉大学医学部同窓会静岡県支部)に随筆「酋長の娘」収録─追悼文集『伊東弥恵治先生』昭和34年に筆名勝見次郎で掲載のもの。また本号に青木鐵夫「藤枝静男をつくりあげたもの」。
◇講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』第24刷発行、1990年の初版以来1年に1刷の割合である。

 2月
◇Web有名書店員がオススメする「とっておきの本」で北田博充が藤枝静男『田紳有楽』(烏有書林)。
●浜松文芸館編『裾野の「虹」が結んだ交誼/曾宮一念、藤枝静男宛書簡』(曾宮一念書簡302通)発行。なお残念ながら曾宮宛の藤枝の書簡は一通も残っていない。曾宮の息女夕見さんの証言がある─「ある日突然、父から言いつけられて、庭で大量の手紙類を焼いた。その中に藤枝先生のものもあったような気がする」。
◇文学鑑賞講座「曾宮一念と藤枝静男」講師・和久田雅之/掛川中央図書館(2月19日)。
●小池昌代・芳川泰久・中村邦生著『小説への誘い─日本と世界の名作120』(大修館書店)発行。「奇想のたのしみ」の章で藤枝静男『欣求浄土』。

 3月
◇Web「小説家になりたいと思った人が最初に読むに相応しい本たち」で三枝亮介が『田紳有楽 空気頭』(講談社文芸文庫)。

 4月
◇浜松文芸館が「クリエート浜松」内にリニューアル・オープン。

 5月
◇阪口正太郎写真展「tsukumo gami」(リコーイメージングスクエア新宿)─伊藤若冲「付喪神図」と藤枝静男「田紳有楽」に触発されての写真展。

 6月
◇<すそののくも>第22号(夕雲会)に増淵邦夫「『裾野の「虹」が結んだ交誼/曾宮一念、藤枝静男宛書簡』の発刊を振り返って」
○<奏>第30号に勝呂奏「藤枝静男の父」。
◇朗読ピアノ「一家団欒 藤枝静男」Ocaco(オカコ)/6.28池袋FIELDライブ(You Tube 9.11公開)。

  8月
◇「曾宮一念と山本丘人」展(佐野美術館/11月浜松市美術館)で藤枝静男所蔵の曾宮の油彩「虹」と藤枝宛曾宮の葉書(浜松文芸館所蔵)などが展示される(図録掲載)。
◇<藤枝文学舎ニュース>第89号特集「郷土の作家が見つめた戦争」で青木鐵夫「藤枝静男と戦争」、美濃和哥「『イペリット眼』を読む」、鈴木貞子「犬の血」、澤本行央「藤枝静男と戦争文学」。

 11月
◇<静岡新聞>11/10夕刊/佐野聖子「藤枝静男が愛した虹」(浜松市美術館「曽宮一念と山本丘人」展)。

  12月
●埴谷雄高『人物随筆集 酒と戦後派』(講談社文芸文庫)に「純粋日本人 藤枝静男」(初出『藤枝静男著作集 第二巻』月報/昭和51年9月)収録。
○<季刊文科>67号に徳島高義/懐かしい作家たち第7回「藤枝静男『一家団欒』のころ」

 本年編者が知ったことに下記がある。
●群ようこ『本棚から猫じゃらし』(新潮社/1994.2)で「前世が知りたい─藤枝静男『田紳有楽』」。
●岡崎武志・山本善行『古本屋めぐりが楽しくなる 新・文學入門』(工作舎/2008.6)で架空企画「気まぐれ日本文學全集」全六〇巻構想があり、その第46巻として川上弘美編『藤枝静男』。
秋山駿・富岡幸一郎編『私小説の生き方』(アーツアンドクラフツ/2009.6)に「私々小説」収録。
●塩田勉『作品論の散歩道』(書肆アルス/2012.9)に「藤枝静男『田紳有楽』─<イカモノ汎神論>の地平─」(初出“Waseda Global Forum”No.4早稲田大学国際教養学部2008.3)。
●『NO BOOK NO LIFE』(雷鳥社/2014.9)「本当は売りたかった、私が自信を持ってすすめる本」の第3位として『田紳有楽 空気頭』(講談社文芸文庫)。

◇当時の薬のちらしが見つかり、藤枝静男の実家勝見薬局の開業時の名前が「日光堂薬舖」であり、名義人が藤枝静男の父鎮吉ではなく鎮吉の養父勝見常吉であることがわかった。

 
 勝見薬局(日光堂薬舗)ちらし
 
 

なお本年譜に下記の(注)を追加し、また訂正したい。
■明治41年(注)
「16歳」は実際の満年齢。父鎮吉の実際は「新吉」明治6年生まれだが、役場が「鎮吉」明治5年生まれと誤記した(藤枝静男が「親父と私」1979.2.,7NHK第一放送で語っている)ため、戸籍上薬剤師試験(明治22年)を受けたとき数え歳18歳であった。
■「田紳有楽」(注)
講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』63頁「人間は美味いとみえるね。孔子も食っていた」は、魯迅の「狂人日記」を踏まえてのことかと思われる。
「おれは歴史をひっくり返してしらべてみた。この歴史には年代がなくて、どのページにも『仁義道徳』などの字がくねくね書いてある。おれは、どうせ睡れないから、夜半までかかって丹念にしらべた。そうすると字と字の間からやっと字が出てきた。本には一面に『食人』の二文字が書いてあった」(竹内好訳/岩波書店『魯迅選集』第1巻17頁)。
竹内は同書解説で「中国の古い社会制度、とくに家族制度と、その精神的支えでもある儒教倫理の虚偽を<中略>人間が人間を食うことへの恐怖感という感性的な形でとらえ」と書いている。       
■昭和51年(訂正)
同上82頁「釈迦は前世が兎で大人しくて困る」に関して、<昭和51年>「田紳有楽(終説)」のところで「釈迦の前世が兎という本生譚を編者はまだ眼にしていない。藤枝の創作か」と書いたが、これは編者の不見識。「今昔物語集」の「月の兎」の話も、釈迦の前世が兎という本生譚を元にしている。

平成28年(2016年)

 1月
◇<藤枝文学舎ニュース>90号/大石朋晴「『記憶』という資料」(元<群像>編集長徳島高義の来藤、藤枝からもらった陶印「高義」の印影−もらった経緯は<季刊文科>67号に詳しい)。なお陶印では藤枝静男に随筆「判彫り正月」(昭和49年1月)及び<浜松百選>昭和51年1月号に写真を添えた取材記事「刻む」がある。
◇ブログ「作家と不思議なカレー」の話1/20「藤枝静男先生に『骨董好きの浜松野菜丼カレ—』はいかがでしょう」。  

 2月
●清水良典『デビュー小説論』(講談社)第4章笙野頼子『極楽』で藤枝静男の選評「『極楽』を推す」からの引用。藤枝は群像新人文学賞の選考委員として、笙野の「極楽」を強く推した。
●斎藤美奈子『名作うしろ読みプレミアム』(中央公論新社)第6章「現代の奇譚」で藤枝静男「空気頭」。

 3月
●奥泉光・群像編集部編『戦後文学を読む』(講談社文芸文庫)第七章・藤枝静男を読む「田紳有楽」「悲しいだけ」合評/奥泉光×堀江敏幸×桜庭一樹(初出<群像>2011.12月号)収録。

   5月
講談社文芸文庫編『「現代の文学」月報集』(講談社文芸文庫)藤枝静男「気楽なことを」(初出『現代の文学27』月報8/1972年3月)、小川国夫「地熱─藤枝静男」収録。
「作家医師をとりまく世界—藤枝静男『一家団欒』から50年」展(藤枝市文学館5/14~7/10)、大学時代の論文や小川国夫の弔辞原稿など展示。会期中に講演会/徳島高義「『一家団欒』『彼の故郷』と私」7/9。

 7月
◇IAMAS図書館長による「大人のためのブックトーク」第2回(岐阜県図書館)で『藤枝静男著作集』全6巻(IAMASは情報科学芸術大学院大学の略称。館長は小林昌廣)。

 8月
○<季刊文科>69号/佐藤洋二郎−「私小説」を歩く第4回−「桃李もの言わざれど下自ら蹊を成す」(藤枝市文学館訪問と藤枝静男のこと)・青木鐵夫「必然」(作品「老友」をめぐって)。

 9月
<群像>10月号(創刊70周年記念号「群像短編名作選」)「悲しいだけ」収録/座談会「群像短編名作を読む」辻村登・三浦雅士・河村湊・中条省平・堀江敏幸/評論「『群像』70年の轍」清水良典/評論「『群像』で辿る<追悼>の文学史」坪内祐三。

   
藤枝静男作成陶印「高義」

 

「気楽なことを」収録 「作家医師をとりまく世界」展 「悲しいだけ」収録

 本年編者が知ったことに下記がある。『素描 埴谷雄高を語る』は昨年見落とした。
<濱松民報>昭和34年2月16日 藤枝静男「曽宮一念氏個展」—この記事の存在は浜松文芸館編集『曽宮一念、藤枝静男宛書簡』平成27年刊で知る。浜松市中央図書館のマイクロフィルムで確認。以下全文転載する。
 「二月十七日から二十二日にかけて静岡市の県民会館で曽宮氏の個展が開かれる。県内に日本一流の画家が何人か住んでいて好い仕事を次々と進めていることは誰でも知っているのに、これらの人々の仕事を見る為には東京へ行かなければならない、ということはよく考えてみると甚だ奇妙なことであった。今度県民会館文化部と県美術家協会がそれに気づいてこれ等の画家達の展覧会を継続的に開催し、われわれ地元の県民に彼等の作品をまとめて落ちついて鑑賞する機会をつくってくれたということは遅まきではあっても感謝されていいことである。そのうえ第一回として曽宮氏を取り上げたという点は、氏の作品を最も多く、多分数十点も所蔵しているわが浜松市の市民の一人として大いに嬉しいし又誇っていいことがらであろう。今度の個展にも浜松から数点が出品されたが、これ等の作品以上の或いは同等の美しさを持った氏の作品はこの浜松市の中に充満しているのである。曽宮氏のひた向きな画境その色彩の若々しい美しさについては既に定評があるので何もつけ加える必要はない。私は私達の近くに見られない氏の比較的古い時代の作品をこの展覧会で眺めることのできる幸福をのがさないようにしたいと思っている。私はそこで何年かにわたって変化し進歩してきた氏の業績を追うことができるだろうと期待し楽しみにしているのである」。
 なお、同じ紙面に「市民会館ギャラリー問題 勝見氏ら当局と話合い」の記事。建設予定の市民会館にギャラリーを設けるよう勝見次郎(藤枝静男)、中村良七郎の二人が総務部長に面会を求め要望した経緯を紹介。市に自前の施設がなく、市展も松菱百貨店を借用して開催している現状を憂えてのことである。藤枝静男に実社会への強い関心があった一例である。関連して「静男巷談」に「年頭苦言」昭和35年1月がある。
高井有一『時のながめ』(新潮社2015.10)「晴れた日の展墓」収録(初出<赤旗>1994.1.11)
<日本文学>日本文学協会2002年11月号(VOL.51)特集/絵画・写真・映像—像と文学の近代—で宮内淳子「遠近法の壊し方—藤枝静男の場合—」
<昭和文学研究>昭和文学会第46集2003.3.1/宮内淳子「研究動向/藤枝静男」。
◇「天女御座」に出てくる御座の松の画像に下記がある。ただし不鮮明である。松は枯死していまは跡形もない。
  御手洗清著『静岡県西部のおもしろい伝説』(遠州伝説研究協会/昭和50年)197頁
  花沢且太郎・川原崎次郎監修『写真集 島田・榛原いまむかし』(静岡郷土出版社・昭和63年)157頁
<医家芸術>昭和45年6月号(14巻6号)に座談会「文学の中の性」。出席者/藤枝静男・椿八郎・高橋功・白木良夫─自分とはどういう者か知りたい、そうでないと上手く死ねない。自分という者を書いて行けばわかるかも知れない、そんな希望があって書いている。そうすると私の場合、比重を占めるのがセックスである。セックスに苦しめられたとか憎悪とか。「老人と性」ということではない─といった趣旨の発言を藤枝はしている。
<東京グラフィティ>2015年8月号 特集/ヴィレッジヴァンガード店員による「本当におもしろい本148連発」で『田紳有楽・空気頭』(講談社文芸文庫)。
『素描 埴谷雄高を語る』講談社文芸文庫2015.3)「埴谷氏のこと」(初出『埴谷雄高作品集』月報4)収録。
「埴谷氏のこと」収録

訂正 
■昭和42年「空気頭」の項
「ロークス・ミノーリス」(講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』p.191)について 「藤枝の造語と思われる」と書いたが、『大学生の文学トレーニング 現代編』(三省堂)の注に「locus minoris はラテン語の医学用語で、抵抗減弱部、個体の弱点のことで、病原に対して最初に反応を見せる部位」とある。 「空気頭」文中に「個体の弱点ーロークス・ミノーリスと云うのです」とある通りで、この注に従いたい。

 
平成29年(2017年)

 2月
アンソロジーしずおか編集委員会『アンソロジーしずおか 純文学編』(静岡新聞社)に「一家団欒」収録。
清水信が7日心筋梗塞で死去。享年96歳。清水は藤枝静男を最初に取り上げた評論家である。<近代文学>昭和36年10月号に「当世文人気質13/藤枝静男論」を書き(このとき藤枝が清水に当てた手紙は本年譜平成26年で紹介)、また編集発行者として<同人雑誌>昭和39年7月号及び10月号(同人雑誌センター発行)に「藤枝静男研究」(若手の藤枝静男論など)を掲載した(この間の事情については、本年譜昭和41年の「序文」に詳しい)。清水は鈴鹿市に居をかまえ中学校教師をしながら評論活動、中部地方の文芸活動に長年にわたって貢献した。編者は平成26年11月にお会いすることができた。
                 
3月
◇<藤枝文学舎ニュース>94号に藤枝静男の父鎮吉の実家「魚安楼」の見取り図及び藤枝静男の生家「勝見薬局」とその周辺の見取り図。

5月
●大庭みな子研究会『大庭みな子 響きあう言葉』(めるくまーる)に宮内淳子「藤枝静男と大庭みな子─浜松を背景に」及び大庭みな子・藤枝静男往復書簡収録(大庭みな子の藤枝宛て書簡は浜松文芸館に収蔵のもの)。

6月
〇<奏>第34号に勝呂奏「評伝藤枝静男(第一回)序章・第一章〜第四章」・同「藤枝静男『家族歴』ノート」。

10月
○<ユリイカ>10月臨時増刊号「蓮實重彦」のブックガイドで『反=日本語論』−紹介文で「藤枝静男の作品の『美しさ』に対する率直な賛辞」。

11月
◇<朝日新聞>11/24静岡版「魅力発信60年『浜松百選』」で「静男巷談」のこと。

12月
○<奏>第35号に勝呂奏「評伝藤枝静男(第二回)第五章〜第六章」。

◇特別収蔵展生誕110年 藤枝静男展〜私小説を超えた「私」の求道者〜(浜松文芸館12/18〜平成30年4/16)、年譜(勝呂奏作成)・写真・日記・自筆原稿・勝見家子供日記・成蹊実務学校入学許可証・同成績表・陶印・李朝民画・藤枝宛て書簡・遺言・藤枝手作りの額に入った智世子夫人の油絵・埴谷雄高及び小川国夫の弔辞など展示。

「一家団欒」収録 藤枝静男の書簡収録 生誕110年 藤枝静男展

本年編者が知ったことに下記がある。
訂正
平塚市第二海軍火薬廠海軍共済組合病院眼科部長の就任が昭和17年9月ではなく7月。「生誕110年 藤枝静男展」(浜松文芸館)展示資料「共済組合病院就任挨拶」状で判明。これまでの藤枝静男年譜が9月としてきたのは、「藤枝静男自筆年譜」による。
○<別冊宝島40 センス・パワー>(昭和55年10月)でポップ・アヴァンギャルド文学カタログに『田紳有楽』。
大塚節子編『華子追憶帖』(昭和58年)の巻頭に「本多の姉さんのこと」(文学界1981年7月号からの転載)。本書は本多秋五の姉小堀華子の三周忌にあたり、華子の娘節子が編集。華子の遺句集『ねはん』贈呈への礼状を中心にまとめたもの。埴谷雄高、山室静などと共に藤枝静男の礼状─「拝啓、俳句集『ねはん』を只今頂戴しました。ていねいにゆっくり拝読のつもりで居ります。/随分厄介をかけ恩をこうむり、この事は生涯の思い出でございます。/本多秋五には、電話でこのことをいうつもりです。急ぎ御礼のみ申し上げます。敬具」
●小嶋知善編『久保田正文著作選』(大正大学出版会2009/7)」に以下が収録。「自然と人間」<教育>1968.5─「欣求浄土」と「木と虫と山」について/「藤枝静男と埴谷雄高」<教育>1970.12─作品集『欣求浄土』と「接吻」について、/「ボロボロになった駝鳥」<教育>1976.1─天皇の初めての記者会見に対する藤枝の発言について/「浜名湖の集まり」<毎日新聞>1972.7.10夕─浜名湖会について(注2)/「一本の路」本多秋五全集第8巻月報1995.10─浜名湖会について。
●坪内祐三『文庫本宝船』(本の雑誌社2016/8)で『志賀直哉・天皇・中野重治』講談社文芸文庫。
●金子遊『異境の文学』(アーツアンドクラフツ2016/9)で「水系の想像力—藤枝静男の天竜川・大井川」。
○<週刊新潮>2016年9月8日号の“あげるべき作品に受賞”—必読の「谷崎賞」作たち(豊崎由美)で「田紳有楽」。
◇Web/吉村萬壱さんの本棚(おすすめの10冊)で『田紳有楽・空気頭』講談社文芸文庫。同/本から感じる・作家の地元愛・内沼晋太朗<NOMIMONO>で『田紳有楽・空気頭』。同/1981年に坂本龍一が選んだ140冊の本に『藤枝静男著作集』。同/上村聡が好きな本に『田紳有楽』。
藤枝静男葉書(久保田正文宛)
 <昭和47年4月21日>                             
 「拝啓『石川達三論』を有難うございました。この御仕事があることは知りませんでしたので興味があり御礼申上げます。二月から頚椎老化で左肩腕の激痛がはじまり革製首吊器で一日中首をくくって、やっと今は平常に戻り外出できるようになりました(注1)。今年は貴兄の還暦で楽しみやら同情やらで、また御来浜を待って居ります(注2)。ソ連だけでも早く行ってらっしゃい(注3) 早々」
 <昭和48年4月17日>
 「拝啓『冬のランプ』有難く頂戴いたしました。大変ハイカラで清楚な出来で感服しました。昭和二十二年頃の近代文学に書かれた『しづかな甍』それから少し長い『山峡』(記憶故もし字が違っていたらお許しください)ああいう僕をインスパイアし勇気を与えてくれた小説が含まれていないのは残念ですが、その代わり皆はじめてのものですから早速拝読いたします。これが今夜の楽しみです。『あとがき』で還暦という文字を見ると、今年の弁天島遊びが頭に浮かびます(注2)。六月終わり頃ですから日をあけて置いてください。もう皆齢だから楽な道を車でまわるくらいのところに計画をちぢめて行かなければなりませんが、淋しいようでもあります。二十日文芸家協会には次手がありますので出るつもりです。御礼まで」
 <昭和54年8月28日>
 「拝啓、中野さん告別の二日(注4)は御苦労さまでさぞ御疲れになったことと存じます。僕は蒸暑さその他で疲れ切って夜帰宅し、本多とは東京駅で別れましたが浜松駅の階段を降りる途中でカカトをすべらせて顛倒寸前で踏止まり脚か腕を折るところでした。翌午前に『子規』をいただき今1/3のところを拝読していますが実に素晴らしい本でお礼申上げます。僕も子規を読みはじめたのはあの部厚い全集の出る何年か前で中学四年くらいでしたが、その時のわかり方が現在のそれとたいして変わりない事を不思議にも思い、しかしその精髄は、他の場合と同様あの時キチンと受け取るべきものの核心は受取っていたという感もして居ります。このことが今度の御本を読んで居ると自然に想い出されて甚だ気持よく、この同感に僕の識らなかった様々なことが加わって僕には特別の利益があります。御健康を祈ります。御礼まで」
 <昭和54年9月1日>
 「拝啓『正岡子規・その文学』を有難くいただき早速拝読をはじめたところ無類に面白く、高等学校時分にアルスの全集を読みふけった時の興味が再燃した観がありまだ半分くらいですが一寸終わりが惜しい気持があります。中野さんの小文に子規が馬廻り役の倅というがそれがどの程度の地位(経済的)か云々ということを知りたいという文があったことを想出して貴方が何か教えてあげたかどうかななど思いました。急ぎ御礼申上げます。告別式(注3)には出席します。草々」
 <昭和55年3月6日>
 「拝啓『近代短歌の条件』を頂きました。少しづつ拝見いたすつもりですが、実際には作歌した経験がなく歌集を買って読む事もなかったのでどの程度理解できるかはわかりません。大正十年か十一年ころ前田夕暮が毎月来て口語の和歌をつくらされ、○をくれたり直したりしてくれた紙を持っていましたが、どこかへしまってあるはずです(注5)。お礼のみ。草々」


(1)随筆「老人病再発」<中日新聞>昭和47年3月16日(単行本未収録)がある。
(2)藤枝静男が主宰し浜名湖弁天島で毎年開催された近代文学グループの集まりでは、メンバーの還暦祝いを恒例とした。藤枝に随筆「弁天島会同」(『今ここ』収録)がある。久保田正文の「浜名湖の集まり」はこのときのことを書いている。
(3)「ソ連だけでも早く行ってらっしゃい」としか読めないが、管見にして意味不明。
(4)「中野さん」とは中野重治。「二日」とは25日通夜、26日密葬をさす。告別式は9月8日。
(5)成蹊実務学校時代 、藤枝静男は短歌部に所属していた。
 
◇映画「性の放浪」(若松プロダクション製作1967パートカラー・ワイド78分)スチール写真。
 監督/若松孝二 出演/山谷初男・新久美子・水城リカ・小水一男ほか
「欣求浄土」の主人公は、若い友人から勧められてこのピンク映画を見る。「性の放浪」の内容をことこまかに延々と記述したあと「真面目な映画だ、と章は思った」と結ぶ。 
入手した右の写真にはトリミングを指示した印があり、指示に従えば左の写真のようになる。入手したものはスチール写真の原稿であったか。遠景に撮影の様子が垣間見えて興味深い。

(トリミング後) スチール写真


◇随筆「ボッシュ」(初出<芸術生活>昭和46年5月号では「わが内なるボッシュ」)に出てくる本「Die Teuflische und Grotesken in der Kunst」を前々から実見したかったが、ドイツの古書店から入手することができた。
著者はWilhelm Michel.。ハードカバー。発行は1911年でミュンヘンの出版社。 なお「Die」ではなく「Das」。随筆では 「薄っぺらな本」とあるが、その通りで129ページ。図版数は93。北斎、ドーミエ、クレー、カロ、ゴヤ、クービン、ムンク、ブリューゲル、バルラッハ、ロップス、アンソールなどの作品が取り上げられている。

Das Teuflische und Grotesken in der Kunst??


 
平成30年(2018年)

1月
◇<ゐのはな静岡>第26号/静岡ゐのはな会(千葉大学医学部ゐのはな静岡県支部)に天野弘尊「曽宮一念と藤枝
静男」。
◇3日、藤枝静男と縁の深かった<浜松百選>の元編集長安池澄江さん死去。安池さんからは藤枝静男の原稿「生き生きとした文章を」(日本近代文学館へ寄贈)をいただいたこともあった。編者葬儀に参列。
『文学者が綴った藤枝の風景』展(藤枝市文学館1/6~2/12)。
                
4月
講談社文芸文庫『群像短編名作選1970〜1999』に藤枝静男「悲しいだけ」収録。

5月
●青木鐵夫『いろいろ田紳有楽・あれこれ藤枝静男・藤枝静男のこと』(<藤枝文学舎ニュース>に54回連載したもの。ニュース紙面を縮小コピー製本5部)。
○<群系>第40号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説作家の日常(一)はじめに 一、藤枝という町・生家」

6月
○<奏>第36号/勝呂奏「評伝藤枝静男(第三回)第七章〜第八章」
『藤枝静男文学展〜欣求浄土の世界〜』展(藤枝市文学館6/16〜7/29)。
「欣求浄土」「一家団欒」原稿(浜松文芸館所蔵)や昭和新山を背景にした写真など、ゆかりの資料で藤枝静男の作品世界を紹介。展示資料に色紙「離而強即」があり、その裏面に書かれた文言が紹介されている。
         「キク用」と記して──即(つ)カズ離レズの反対。『離レテ(シカモ)強ク即ク』。志賀直哉氏ガ描写ノ心得
         トシテ予ニ教エラレタモノナリ。
妹きくにこの文言を送り、かつ丁寧に説明しているところが面白い。藤枝はこのとき78歳。この前年発表した「今ここ」<群像>昭和60年9月号以後作品を発表していない。

「昭和六十一年元旦 為菊子 藤枝静男 印」

7月
◇特別館蔵展『浜松文芸館30年の歩み─ココロとことば』(浜松文芸館7/9〜10/7)。開催してきた藤枝静男展のポスターと新聞記事、「浜松市民文芸」第一集からのバックナンバーと藤枝静男の選評、「悲しいだけ」原稿などを展示。
◇青木鐵夫が日本近代文学館に藤枝静男資料を寄贈。本コレクションは、藤枝静男の著書のほか志賀直哉編『座右寶』特製版(大正15年)をはじめ藤枝静男が見た展覧会の図録など藤枝静男に関連した美術資料が多数含まれているのを特色とする。館報<日本近代文学館>No.285に「青木鐵夫氏より原稿2点、色紙4点及び著書・関連書籍等約600点をいただいた」とある(11月、コレクション名が「青木鐵夫収集藤枝静男コレクション」と決まる)。

9月
●川勝徳重『電話・睡眠・音楽』(リイド社)/劇画「妻の遺骨」(初出<季刊メタポゾン>第14号2013.11)収録。

10月
小川国夫展はじめに言葉/光ありき』(日本近代文学館10/13〜12/1)第5部「文学者との交流」で小川国夫『藤枝静男と私』(小沢書店)、小川国夫「藤枝静男覚書」(<文芸静岡>1968.10)原稿展示。
●『「私」から考える文学史―私小説という視座―』(勉誠出版)で大木志門「幻想の系譜―藤枝静男の『私小説』を中心に」ほか。

11月
◇Web<選書往還>悲しみをどう整理するのか「つれあいを亡くした作家たちの鎮魂」本11/4で『悲しいだけ』(講談社文芸文庫)、他に城山三郎『そうか、もう君はいないのか』など。
◇館報<日本近代文学館>No.286/坂上弘「駒場ノート44/小川国夫没後十年展」で藤枝静男のこと及び青木鐵夫「藤枝静男コレクションと私」。
◇<静岡新聞>11/24「大自在」欄で「藤枝静男コレクション」寄贈のこと。

12月
◇<藤枝文学舎ニュース>第99号/100号をもってニュースを終刊、「藤枝文学舎」も解散するにあたり関係者の寄稿を掲載。藤枝静男に触れているものに下記がある(藤枝文学舎ニュース創刊は1991年8月1日)。
   大槻明三「二人の作家」・青木鐵夫「教訓」・村瀬隆彦「次郎先生に診てもらえ」・八木愛子「100号発刊ですか!」・澤本行央「創刊から25号まで」・鈴木貞子「文学舎との出会い」など。
◇テレビ番組「世界ふしぎ発見!」(12/8放映)でノルウエー・スバルバル諸島のスピッツベルゲン島(「田紳有楽前
書き(二)」群像1975/4月号で登場。しかしこの部分は単行本『田紳有楽』としてまとめられる際カットされた。随
筆に「北欧の風物など」がある)。 
○<季刊文科>76号/「文科」欄に青木鐵夫「美術と藤枝静男─藤枝静男コレクション」。
<奏>第37号/勝呂奏「評伝藤枝静男(第4回)第九章〜第十章」及び「藤枝静男資料『滝井さんと原勝四郎氏』について」─評伝では小説「凶徒津田三蔵」関連で内田六郎「大津事件を追想して」の紹介など。資料では編者がこれまで未見として来た<南苑集>第5号(昭和28年1月)の随筆「滝井さんと原勝四郎氏」の全文紹介。この第5号は神奈川近代文学館の「尾崎一雄文庫」で見つけたとある。
○<群系>41号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説家の日常(二) 二、学生時代の挫折」


本年開催の文学展ポスター及び作品収録本の書影

文学者が綴った藤枝の風景展

「悲しいだけ」収録

藤枝静男文学展/欣求浄土の世界

浜松文芸館30年の歩み


本年編者が知ったことに下記がある。
◇雄飛号の絵葉書(「雄飛号来たる」関連)日本近代文学館へ寄贈
雄飛号要項 

雄飛号機関部及座乗席

 
日本橋々上を飛行中の雄飛号  

◇葬儀に使用した藤枝静男のポートレイト(本HPトップページ参照)は昭和59年5月(76歳)に撮影されたことを撮影者の藤井氏より確認。「今回の寄贈資料の中に、藤枝静男の葬儀で使われた写真がある。撮影は私が所属している美術団体『国画会』の写真部会員藤井満生。藤枝静男のポートレイトとしては、『犬の血』の口絵写真と双璧をなすだろう」(青木鐵夫「藤枝静男コレクションと私」)。
◇<文藝春秋>昭和46年8月号/連載「同級生交歓」─旧制八高/平野謙・藤枝静男・本多秋五。

このとき使用された写真は、編者の手元に随分前からあったが、なにに使われたものか不明であった。最近になって文春新書『同級生交歓』平成18年7月刊を知り、上記<文藝春秋>連載のものだとわかった(左より本多、藤枝、平野)。
平野が小文を寄せている。
「私どもは大正十五年に名古屋の旧制八高に入学した仲間である。藤枝と私とは寮の同室者であり、本多と私とはクラスの同級生である。マジメな本多だけが順調に大学卒業まですすみ、藤枝と私とは高校でも大学でも留年を重ねた。よく藤枝は医者になれたと人にいわれ、よく私は大学を卒業できたと人にいわれた。私ども三人を四十五年のながきにわたって結びつけたのはもっぱら、性わる女みたいな文学という存在にほかならない。ところが、昨年、藤枝は『欣求浄土』、本多は『遠望近思』という老年らしい境地の著書を刊行したが、私ひとり埃っぽい住民運動の塵にまみれ、おのずと文学上の距離ができてしまった」。
(注)平野がいう住民運動とは区画整理反対運動のことで、平野の随筆集『はじめとおわり』に詳しい。平野は、喜多見町区画整理対策協議会の会長を務めた。
 
2019年(平成31年・令和1年)

2月
●『県民文芸』第58集(ふじのくに芸術祭作品集)/嶋田峰子「同窓会の写真から」─藤枝静男と小学校で同級生だった大伯父のこと。

3月
◇青木鐵夫が藤枝市文学館に藤枝静男関連資料(評論類)約170点を寄贈する(秋山駿、上田三四二、江藤淳、奥野健男、桶谷秀昭、小田切秀雄、川西政明、川村二郎、久保田正文、高橋英夫、中島和夫、埴谷雄高、平野謙、本多秋五、安岡章太郎の評論集など)。
◇<藤枝文学舎ニュース>100号(終刊号)3/25発行—創刊号〜99号総目次(執筆者および表題)。執筆者は350人を数える。
○<季刊文科>第77号/名和哲夫「藤枝静男というテクスト」。

4月
◇4月7日、「藤枝文学舎」(旧名「藤枝文学舎を育てる会」)報告総会。この総会をもって「藤枝文学舎」解散。
○<群像>5月号/新連載 笙野頼子「会いに行って静流藤娘紀行─1これから
私の師匠説を書く 2師匠にお手紙を書く

5月
◇<朝日新聞>5/2で金井美恵子「平成は終わる うやうやしく―『慶祝』ムード はしゃぐメディア」で(昭和)天皇の初めての記者会見に対して藤枝静男が発した言葉「実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた」(「文芸時評」昭和50年12月/『藤枝静男著作集第4巻』に収録)を引用、皇室賛美に一石を投じている。
●七北数人『泥酔文学読本』(春陽堂書店)で「田紳有楽」と「龍の昇天と河童の墜落」。

6月
○<群系>42号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説家の日常(三)二、学生時代の挫折(続)」
○<群像>7月号/笙野頼子「会いに行って─静流藤娘紀行(第二回)─3志賀直哉・天皇・中野重治・共産党・師匠・金井美恵子・朝吹真理子・吉田知子・海亀の母・キティ・宮内淳子・私……?
○<奏>第38号/勝呂奏「評伝藤枝静男(第五回)」第十一章(藤枝静男の『當用日記』─三島由紀夫の割腹自殺事件への反応など)〜第十二章。

7月
◇「この講談社文芸文庫がすごい総選挙」on Twitterで藤枝静男『田紳有楽・空気頭』が、大江健三郎『万延元年のフットボール』などをおさえて第一位。

8月
○<群像>9月号/笙野頼子「会いに行って─静流藤娘紀行」(第三回)─4師匠、師匠何故に? かのやふに長き論考を残し賜ひしや?  5「暗夜行路雑談」・「五勺の酒」、という中黒丸で「冷静に」つなぐ後日談  6特権階級意識の潜在と天皇への親愛感

10月
○<群像>11月号/笙野頼子「会いに行って─静流藤娘紀行(第四回)─7このまま真っ直ぐ行けばよいのか?……『暗夜行路』・『田紳有楽』・超えられない壁>>>>「二百回忌」  8「夢、夢、埒もない夢」、「エーケル、エーケル」と、……師匠はこだわりなく作中に書いている。とはいうものの『田紳有楽』は常に、自覚的に書かれている故に成功したのであると私は言いたい……。  9さあここで国語の試験問題です。これを書いている僕はどんな人か?  10池は魂、水は欲望の通路、茶碗は割って沈めた自我、水棲生物は過去の記憶 え? そんなのあらすじ紹介の横にきちんと纏めとけだって、しかしそんな事をしたらあのめくるめく錯綜がぶつぶつに切れてしまう。ていうか既に支離滅裂寸前だし。なので引用もどんどん、後ろに纏めます、

11月
○<群像>12月号/笙野頼子「会いに行って─静流藤娘紀行」(第五回)最終回─11最終回に仕残したもの? しかしすべて日本も、とうとう、最終回なのかも? ─やめろ一億焼け野原! 審議拒否しろ(後述)日米FTA#   12というわけでニッポン合掌 ニッポン馬鹿野郎、首相と一緒にラクビー見ていた? 何も知らずに? ニッポン、終末  13「犬の血」と「イペリット眼」、私小説における、医者的報道的自我について  14「硝酸銀」はフィクション、『空気頭』は「真実」、「冬の虹」は遠景記録物、そして師匠にとっての、戦争とは?  15『空気頭』の一行開きについて引用する  16妻の遺骨、『悲しいだけ』、「庭の生きもの」「雛祭り」 17彼の化けた骨董  【主要参考資料】
○<季刊文科>第79号(秋季号)/「文科」欄に青木鐵夫「時」で「田紳有楽」。

12月
○<奏>第39号/勝呂奏「評伝藤枝静男(第六回)」第十三章(藤枝静男の「遺言」など)〜第十四章および「藤枝静男『一家団欒』ノート」
○<群系>43号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説作家の日常( 四)」二、学生時代の挫折(三) 三、結婚と小説(兄秋雄への藤枝静男の手紙など)。








 
笙野頼子「会いに行って─静流藤娘紀行」(第一回)〜(第五回了)掲載

本年編者が知ったことに下記がある。
●斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書2018.11.20)の「再発見されたポストモダンな作家たち」の章で藤枝静男。
◇某古書店より下記文面の藤枝静男の色紙が出品されていた(Web日本の古本屋)。
「胡茄怨兮将送君 秦山遥望隴山雲 邊城夜夜多愁夢 向月胡茄誰喜聞 録岑参胡茄歌送顔眞卿使赴河隴」
岩波文庫『中国名詩選(中)』に解説がある。唐代の岑参(しんじん)の詩。顔眞卿が監察御使として河西隴右の赴くのを送る席での作。藤枝静男は『筑摩現代文学大系74 埴谷雄高・藤枝静男』昭和53年では、唐詩「易水送別」を作者筆跡で取り上げている。藤枝静男は別離の詩に惹かれるようである。
藤枝静男書簡2通(十返肇宛)、ペン書。古書店より編者入手、昭和37年12月27日付(200字詰め自家用箋5枚)と昭和38年1月9日付(同上3枚)。内容は浜松市教育委員会主催の講演会の講師依頼。言葉の端々にらしさが窺えるが文面省略。日本近代文学館へ寄贈。
藤枝静男のハガキ3通(文芸事務所三友社 北村卓三宛)、ペン書き。古書店より編者入手、新発見といえる。雑誌「三友」からの依頼に応じたもの。日本近代文学館へ寄贈。
昭和39年6月5日付 「三友」49号(昭和39年6月)に掲載
「一年中で新緑の頃が最も好きですから、此頃は日曜ごとに見物に出かけます。この間は信濃との国境に近い大嵐(オオズリ)という山奥に行きました。天竜川をのぼり水窪川という支流のそのまた支流について林道をさかのぼると、渓谷に落ち込む無数の滝があり、花と若葉をつけた朴の木が美しく揺れていました。新緑のつづきのせいか、梅雨時も人のいやがるほど嫌いではありません。─殺生の水生臭き梅雨鯰 羽公─こういう趣きも好きです。」
昭和39年12月12日付 「三友」51号(昭和39年12月)に掲載(近況と耐寒法)
「中学のころ裸で寒中に座るとか氷の張った池に飛びこむとかいうスパルタ教育を受けた反動で、非常な寒がりとなり現在に至りました。暖房の完備した家に住みたいのですが経済が許しませんのでもっぱら電気ゴタツに頼っています。外出の時なりふり構わず着ぶくれること、これが唯一の耐寒法です」
昭和40年3月11日付 「三友」53号(昭和40年4月)に掲載
「拝復。世界中の政治家は一人残らず軍縮を願い、原爆を怖れ、世界の平和を祈念してその実現のために邁進している。日本の政治家も、国民の幸福のために、日本の自主独立、生産性の向上、物價の安定に向かって日夜心をくだいている。従って私はすべてに満足している。合掌 馬鹿野郎。」(笙野頼子「会いに行って」第五回で引用)



(注)「文芸事務所三友社」発行のA4八ページの雑誌「三友(さんゆう)」に「三友消息」欄があり、各号20名前後の作家、評論家、研究者のアンケート回答や近況報告が掲載されている。「消息」には藤枝静男のほか北杜夫、遠藤周作、飯沢匡、楠本憲吉、江藤淳、壺井繁治、江藤淳、十返千鶴子、国分一太郎など多数。
○昭和39年6月5日付にある大嵐は「オオゾレ」であろう。「羽公」は百合山羽公(1904〜1991)、俳人。藤枝静男と親交があった。句集『寒雁』ほかで蛇笏賞。○昭和39年12月12日付にある「スパルタ教育」については、藤枝の随筆「少年時代のこと」に詳しい。また藤枝も寄稿している卒業生たちの文集『成蹊実務学校教育の思い出』がある。掲載誌の確認については、日本近代文学館のMさんにお力添えいただいた。

◇前記ハガキの掲載誌の確認のなかで「三友」47号、「三友」61号にも藤枝静男が投稿していることが判明した。これも新発見である。
「三友」47号(昭和39年3月)近況と十返肇氏の思い出
「白馬村の山腹に小屋をたてます。それが楽しみです。しかし自分が行けるかどうかはわかりません。自分で藤原期の古い窯跡を訪ねて回るつもりです。田原を中心とした渥美半島一帯です。/小説は二つ書く予定で下書をして居ます。/十返氏には生前一回だけ御目にかかっただけですが、印象は強く残っています。昨年二月二十七日私の住居する浜松市主催で講演を御願した際『映画と文学』という話をしていただきました。当日は寒かった上に雨が降っていましたが、若い聴衆が沢山集まり、氏は機嫌よく熱演され、最近何とかいう映画に出演したから見て下さいなどと云って皆を笑わせていました。/その夜浜名湖湖畔の宿に一泊されましたが、ウィスキー一本を見る間に平らげ、三十分くらいで意識を失い、皆にかつがれて寝つかれました。/何となく気の弱い人のような印象をうけました」

「三友」61号(昭和43年1月)コワイものを四つとお正月のプラン
「暮から正月を飛鳥地方で過ごします。お寺は正月でも開かれていますから、寒さを我慢すれば気楽にお詣りできます。今年は小説を少なくとも二つ書きたいと思います」 

(注)○ 47号にある十返肇が出演した映画は「やぶにらみニッポン」監督/鈴木英(東宝)1963年。十返は売れっ子作家役。高度経済成長期の日本を風刺した映画のようである。○ 61号では「コワイもの」には答えていない。なお昭和43年に発表した小説は「欣求浄土」「木と虫と山」「天女御座」「沼と洞穴」。藤枝静男60歳。
●堀江敏幸『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社2018.11.1)「鼻紙にくるんで、胸ポケットにしまった骨」(『悲しいだけ』書評)収録(初出/日本経済新聞朝刊2017.3.4〜2018.2.24)。

 
2020年(令和2年)
3月
特別収蔵展「今、再び 藤枝静男の文学と人」(浜松文芸館3/1〜6/21)。新型コロナ・ウィルス感染拡大防止のため4/22〜5/17臨時休館。編者は浜松行きを自粛した。静岡新聞3月2日の記事によれば、昨夏遺族から寄贈された日記や手紙を含む約190点を展示。4冊の日記や遺言、自筆原稿や井上靖
ら文人からの手紙が含まれている。日記には志賀直哉や母の死のことなど。なおチラシの絵は、孫安達万里子の「電話ヲカケル祖父次郎」(1986作)。藤枝静男の言葉−「或ル人曰ク、手ニ持ッテイルノハ、人ノ前腕ノ骨カ、君ハ医者ダカラト、コレニハ驚イタ」が添えられている。

6月
○<奏>第40号/勝呂奏「評伝藤枝静男( 最終回)」第十五章〜第十六章/始めの一頁だけ使いかけてそのままの、藤枝静男のノート(表紙に『No.1』とのみ)の文章を紹介。─「いよいよおれにも死ぬ時が来た」と思った。四月半ばの静かな明け方、ごく自然にサメてきた頭に静かな雨音がはいってきて百メ―トルばかり先の、国道一号線を二十四時間不断に行きかよっている大小の車─勝呂は次のように書き添えている。「正確にいつ書かれたものかは知り難いがこ、の創作を思わせる書き出しで藤枝は<死ぬ時が来た>という思いを<四月半ば>のことにしている。それは実際の訃報の日時と、不思議なことに一致して、何か予感するものがあったのかと思わせられる。ただ、その場所は国道一号線に近い浜松の自宅ではなく、横須賀の療養先になったのである」。
表紙絵・勝呂浩美

●笙野頼子『会いに行って—静流藤娘紀行』(講談社)
装画/青木鐵夫「ベンチ」(部分) 表紙はがき/日本近代文学館蔵 
装幀/ミルキィ・イソベ+安倍晴美[ステュディオ・パラボリカ] 
収録/会いに行って—静琉藤娘紀行 資料/会いに行った—藤枝静男((群像1993年7月号)/二十六年前に会った「神様」(朝日新聞2007年2月25日)。/なお表紙に使った「はがき」は本年譜2019年で紹介した昭和40年3月11日付の藤枝静男の葉書(本作11章で取り上げている)。

○<本>7月号(通巻528号)笙野頼子「『会いに行って』書いた」。
◇東京新聞・中日新聞(6月25日夕)大波小波欄/「師匠説」なる私小説。
◇好きな物語と出逢えるサイトTREE/「装幀のあとがき」第3回ミルキィ・イソベ『会いに行って』。

7月
◇Kindle版/講談社文芸文庫『愛国者たち』及び『藤枝静男随筆集』7/3。同『或る年の冬 或る年の夏』7/24。
これまで藤枝静男のKindle版に次がある。講談社文芸文庫『田紳有楽 空気頭』/同『悲しいだけ・欣求浄土』2013.11/同『凶徒津田三蔵』2018.11/同『志賀直哉・天皇・中野重治』2019.1/講談社文庫『空気頭・欣求浄土』2019.2。
○<浜松百撰>8月号/街ネタ情報局『会いに行って─静琉藤娘紀行』紹介。
●荻原魚雷『中年の本棚』(紀伊国屋書店))「日曜○○家」で藤枝静男。

8月
○<群像>9月号/吉田知子<書評>『会いに行って−静流藤娘紀行』。
◇BOOKウォッチ8/23笙野頼子さんが藤枝静男に捧げた「師匠説」にして私小説─『会いに行って』。
◇<赤旗>8/30/生沼義明<書評>荻原魚雷『中年の本棚』で藤枝静男。

10月
◇曽宮一念展(駿府博物館10/24〜12/20)。図録年譜の1952(昭和27年)に「藤枝静男(眼科医・勝見次郎)が自宅を訪ね作品を請う」とある。藤枝静男に随筆「曽宮氏のこと」「曽宮一念の画業展を見る」(昭和49年)、「虹」(昭和53年)がある。また笙野頼子『会いに行って』で、「曽宮画伯」が出てくる。
◇<静岡新聞>10/29朝刊「大自在]で笙野頼子『会いに行って』と曽宮一念展のこと。

11月
●勝呂奏『評伝 藤枝静男 或る私小説家の流儀』(桜美林大学出版会)収録/序章 第一章〜第十六章 後記 人名索引 作品索引。後記で藤枝静男十六歳のときの小文「祖父の死(母から聞た話し)」紹介。小文末尾に「一九二四、四月二十四日記」。勝呂は書いている。「藤枝は十六歳で、成蹊中学を四年修了で第八高等学校と愛知医科大学予科の受験に失敗し、故郷の藤枝に戻った時期で
ある。その時に母のぬいから<聞た話し>がこれで、祖父は母方の左車(現・藤枝市本町)の井出駒蔵のことである。(中略)第八高等学校時代の日記やノート、『校友會雑誌』に通じて行くものがある。藤枝の私小説の淵源をここに求めたくなるような、方言を印象的に写した手堅い写実的な筆致が現れている」。小文の実際については、本書にあたっていただきたい。

12月
○<群系>第45号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説家の日常(五)」。


本年編者が知ったことに下記がある。
◇小林勇宛て書簡(9月10日)。小林勇(岩波書店元会長)宛て献呈署名のある『異床同夢』(昭和50年8月29日発行)と共に古書店より編者入手。内容から献呈本の添え状と思われる。日本近代文学館に寄贈。
「拝啓、昨日はわざわざ御電話をいただきまして恐れ入りました。そのとき私の随筆を半分くらい見て面白かったとおっしゃいましたので 今度出してもらった小説をお暇な折見ていただこうと思いました。/はじめの二つは聞き書きですからつまりませんのであとの短い方を 御覧願い上げます。私はリューマチの方は今更で 時々指がはれる程度ですから この前御教示にあづかったやり方でプレドニンを少し飲んで納めています。医者がこういうと妙な気もしますが これが実情で感謝して居ります。とにかくちょくちょくやることにしています。他に沢山ありますが それもちょいちょい人に聞いて好い加減にして居ります。/いつか芸術新潮で紹介された世に識られていなかった人の南画の写真の大変いい記憶がございますが、いつか機会がありましたら 本物を拝見したいと希って居ります。それからこの間里見さん米寿のときの岸田劉生はまだいろいろありそうで 伺いたいものです。この印は私がこしらえた陶印で それもいつか批評してください。/ご自愛を祈りあげます 敬具/九月十日 藤枝静男/小林様」。

注)「はじめの二つ」とあるのは「武井衛生二等兵の証言」と書名にもなっている「異床同夢」である。つまらないかは諸賢のご判断に待ちたい。/里見怩フ米寿の会は、小谷野敦作成の年譜によれば、川口松太郎、小林秀雄、沢村三木男を発起人として昭和50年7月にひらかれた。出席者に立原正秋の名もある。陶印については藤枝に随筆「判彫り正月」(昭和49年1月)がある。

●福岡寿一編『最後の人−本多鋼治回想−』(東海タイムス社/昭和40年12月)藤枝静男「三兄弟」(<群像>昭和39年10月号に発表した随筆「本多秋五」から抜粋し「三兄弟」と題)収録。古書店より編者入手、日本近代文学館に寄贈。本多鋼治は秋五の長兄。文中で藤枝は、鋼治の風貌を次のように描写している。
「本多(秋五)にくらべてすべてに大柄で茫漠としている。長い三日月がたの顔の眉骨と鼻先と顎先が突出していて軽度の末端肥大症の趣がある。中国元代の禅月大師筆十六羅漢図(御物)に見られるような異相を呈している」。  藤枝が言うのは迦諾迦跋釐堕闍尊者図を指すかと思われる。両者を対比する。その適切であるかをご判断いただきたい。
 なお禅月大師は「空気頭」(講談社文芸文庫p.248)に出てくる。異形な羅漢が並ぶ禅月様十六羅漢図は、ボッシュや李朝民画に通ずるものがあるかも知れない(本年譜1967<昭和42年>「空気頭」の項参照)。「禅月様十六羅漢図」(御物)全十六図を<三彩>1963年4月号が掲載している。

 
    本多鋼治 1893〜1964
 
2021年(令和3年)

1月
◇<帝塚山学院大学研究紀要第1号>福島理子・宮内淳子「藤枝静男『半僧坊』論」。
◇NOVEL DAYS×tree 2000字書評コンテスト入賞/ふじみみのり『行ったり来たり−藤枝静男の「白柘榴」』。

2月
◇青木鐵夫が藤枝静男資料(雑誌)約490点を藤枝市立図書館に寄贈。

3月
◇<日本近代文学館年誌 資料探索16>宮内淳子「藤枝静男の葉書を中心に/一九七〇年代・作家たちの交流の一面」。
─丸谷才一、小川国夫、佐多稲子、岡田宗叡(未央堂)宛の藤枝静男の葉書(本論について<日本近代文学館>No.301/2021.5.15で須田喜代次「日本近代文学館年誌16号─『現場』を照らす『モノ』としての資料」)。

4月
◇サイト静岡経済新聞4.11/日本近代文学館への寄贈─藤枝静男の書額「冷ややかに」と写真─に関わる記事「芸術家・藤枝静男を知ってもらうために」(日本近代文学館No.302受け入れ報告)。

7月
○<群系>第46号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説家の日常(六)」。

9月
◇安曇野アカデミー(安曇野市教育委員会)の関連企画として、藤枝静男の葉書9葉を含む20名ほどの臼井吉見宛の書簡を展示(9/29〜10/17安曇野市穂高交流学習センター「みらい」)。

12月
<群系>第47号/名和哲夫「藤枝静男評伝 私小説家の日常(七)」。

本年編者が知ったことに下記がある。
藤枝静男の岸田泰政宛1974年(昭和49年)賀状を編者が古書店より入手(日本近代文学館に寄贈)─文面「賀正 元旦  御無沙汰して居ります ソ連旅行の楽しい想出は少しも減弱しません 藤枝静男」
藤枝静男の随筆「ヨーロッパ寓目」に次の一節がある。
「私はレニングラード大学日本語科の助教授である岸田という人と偶然のことから文通が続いたことを随筆にしことがあった。そして私は出発の一週間前に彼がすでに日本に帰っていることを知り、ナホトカへの出航前日にはじめて彼の声だけを電話で聞いたのであったが、この通訳ミーシャはそこの大学三年生で彼の最後の弟子の一人であった」。
ここでいう随筆は「異郷の友」(昭和36年)で、その文中では岸田は「N」となっている。岸田に歌集『レニングラード』、『レニングラード便り』がある。「ヨーロッパ寓目」の題材になった旅行は1970年(昭和45年)のソ蓮・ヨーロッパ旅行である。同行は江藤淳と城山三郎。 
藤枝静男の伊藤貴和子宛1975年(昭和50年)6月9日葉書を編者が古書店より入手(日本近代文学館に寄贈)─ 
文面「拝復、ただ今写真を沢山頂戴し有難うございました。大変よくうつっていました。先日は長くお引止めしました。対談はどうも不出来で申しわけありません。どうか立原君と相談の上具合良くまとめて下さるよう御願いいたします。私は見ないでいいですから。雑誌出たら別刷りを下さい。取急ぎ御礼まで 草々」 
 伊藤貴和子は新潮社出版部員。この時の対談は<波>7月号に「対談『悟りと断念の世界』藤枝静男・立原正秋」として掲載された(立原の死後刊行の立原正秋対談集『日本の美を求めて−風土と伝統』角川書店s58.1に収録)。 

岸田泰政宛 伊藤貴和子宛 参考 <波>1975年7月号


青木正美『肉筆で読む作家の手紙』(2016/3本の雑誌社)
1957年12月に藤枝静男が岸田泰政(前出)へ送った原稿「親愛なるソ同盟の読者の皆さん」(見開きで筆跡)と同封の手紙を紹介。原稿は、岸田がソ同盟の雑誌に「イペリット眼」を翻訳紹介するにあたり依頼した作者の言葉。同封の手紙は甚だ愉快で、本書を手にしてほしい。なおこのときのことを藤枝は「異郷の友」でふれている。
○<週刊文春>2020年9月10日号文春図書館/斎藤美奈子「『会いに行って 静流藤娘紀行』笙野頼子」—藤枝静男は、どんな作家とも似ていない天才作家である。せっかく人に生まれて日本語が読めるのに、藤枝静男の『空気頭』も『田紳有楽』も読まずに死ぬのは人生の損失である、と私はひそかに思ってきた。(以下略) 
セレクション戦争と文学5 日中戦争』(集英社文庫2019/11)「犬の血」収録(2011年『コレクション戦争と文学7 日中戦争』として刊行されたもの)。
金井雄二『短編小説をひらく喜び』(港の人2019/2)死者たちの会話─藤枝静男「一家団欒」。  

 
2022年(令和4年)

4月
◇藤枝の文学者三人展〜村越化石・藤枝静男・小川国夫〜(藤枝市文学館4/2〜5/29)。藤枝静男については出版から50年の『愛国者たち』を取り上げている。
小説「凶徒津田三蔵」原稿(浜松文芸館所蔵)、『愛国者たち』の書名について編集担当者小孫靖の藤枝静男宛書簡、小川国夫の「凶徒津田三蔵」の解説「個の存在証明」原稿(以上藤枝市文学館所蔵)、併せて藤枝静男の油絵「蓮華寺池」、勝見薬局の看板、勝見家の表札(勝見ぬい・菊子)、葬儀の際の小川国夫弔辞コピーなどを展示。
 小孫の書簡の一部を紹介する。
「『愛国者たち』から『私々小説』までの作品集の件でございますが、部内の意見としては『愛国者たち』を支持する人が多く、その他のことも種々考えてみまして、やはりご異存ございませんようなら『愛国者たち』で進めたいと考えております。私一個としては『私々小説』への偏愛みたいな気持ちが依然残っておりますが、『愛国者たち』の方が書名として作品集の構成上無難なように思えますので。/新たなお考えがありましたら、お知らせください。/七月十六日」。なお小孫は『愛国者たち』の装幀を担当している。『愛国者たち』あとがで、そのことへの藤枝の謝辞がある(『愛国者たち』書影は本年譜昭和48年の項)。

5月
●青木鐵夫編『藤枝静男─高校・大学時代の作品』(私家版)─収録作品/「長郷君のこと」「金子君」「考へる事」「奈良行き」「よくある事」「冬の朝」「後記」「思ひ出」「編輯後記」「兄の病気」「酋長の娘」。

8月
◇嶋田みね子が、<藤枝文学舎ニュース>の欠号補充30点を日本近代文学館に寄贈。これで創刊号から終刊号(100号)まで揃う。これを手がかりに「藤枝文学舎を育てる会」の活動を多くの方に知っていただき評価されることを編者は期待する。

9月
◇藤枝文学館開館15周年記念展示「藤枝静男関連雑誌」(藤枝市駅南図書館9/27〜10/30)。

藤枝の文学者三人展
(藤枝市文学館)
藤枝静男関連雑誌展示(藤枝市駅南図書館) 新収蔵資料展
(日本近代文学館)


11月
◇<収蔵展>浜松文芸館の宝物(浜松文芸館11/1〜2023年2/12)。藤枝静男に関して下記の資料が展示される。
 藤枝静男の愛用品(メガネ・硯箱・灰皿・朱肉)、喜寿の祝いに志賀直哉と武者小路実篤から贈られた扇子と「武者氏蘭図」「志賀直哉氏喜一字」と藤枝が箱書きした箱、「田紳有楽」原稿、谷崎潤一郎賞牌、知人からの書簡(吉田知子・木下順二・吉行淳之介)など。なお硯箱は、妻智世子の父菅原龍次郎の形見。

12月
◇新収蔵資料展(日本近代文学館12/3〜2023年3/25)。青木鐵夫収集藤枝静男コレクションから下記の資料が展示される。
 藤枝静男著『空気頭』(藤枝静男の署名と献辞入り)・雑誌「大學文化」17号・「松図」(志賀直哉編『座右寶』特製版所収)・「Stadelsches Kunstinstitut」(シュテーデル美術館図録)・藤枝静男宛大原富枝書簡(昭和59年2月14日)。
○<奏>第45号/勝呂奏「藤枝静男『悲しいだけ』ノート」。

追記
◇青木鐵夫がこの年「青木鐵夫収集藤枝静男コレクション」追加として、原稿2点、書籍109点及び絵葉書2点を日本近代文学館に寄贈。
原稿は滝井孝作「二人の異色作家」(東京新聞/昭和32年3月9日)、平野謙「雑誌の話」(毎日新聞/昭和46年11月24日)。書籍の主なものに<校友会雑誌>51号(昭和2年)、同57号(昭和3年)、<変態・資料>欠号補充12冊(昭和2年〜3年)、北川冬彦詩集『いやらしい神』(昭和11年)、『法隆寺大鏡』60冊(大正2年〜8年)、松村みね子訳『シング戯曲全集』(大正13年)など。
異色作家二人とは、藤枝静男と島村利正。<校友会雑誌>51号には勝見二郎(藤枝静男)「考へる事」・平野謙「晩秋挿話」・本多秋五「死と藝術」掲載。<校友会雑誌>57号には勝見二郎「冬の朝」「兄の病気」・平野謙「死」「小さな追憶」・本多秋五「幼年」掲載。
 <変態・資料>に関しては「青春愚談」に次の一節がある。
 ─反撃しないということでは平野も同様であったけれど、彼の方は私が「江戸時代文藝資料」という学者用の稀少本を古本屋で掘り出してきて、なかに集められている疑問つきの西鶴や種彦の好色本をひけらかすと、どこかのルートをたぐって梅原北明編集で宮武外骨などが一冊受け持ったりしている「変態・資料」という叢書を手に入れたうえ、同じルートから「ファンニー・ヒル」とか「蚤の話」とか云った正真正銘の猥本を取り寄せて来て対抗するような負けず嫌いなところがあった(『藤枝静男著作集』第5巻298頁)。「蚤の話」とあるのは佐藤紅霞訳『蚤の自叙伝』かと思われる。
  北川冬彦については「追憶」、法隆寺については「法隆寺と私」、『シング戯曲全集』については「日々是ポンコツ」
でそれぞれ藤枝静男は書いている。

絵葉書/旧制第八高等学校正門 

平野謙「雑誌の話」


◇藤枝静男は「田紳有楽」執筆にあたって、『秘境西域八年の潜行』を参考にした。その著者西川一三についてとり上げたノンフィクション沢木耕太郎著『天路の旅人』(新潮社10/25)が出版された。西川一三の旅の綿密な追跡と帰国後の消息を記述している。藤枝は書いている。「『秘境西域八年の潜行』上下二巻を読んで利用したことがあった。そしてその許しを願うために発行所に電話して著者の住所を尋ねたのだが、発行所の上法という人はほとんど姿を見せることがなく、また著者の西川氏も住所は一応岩手県になっているが今は連絡が絶たれている。『いくらでも使ってください。どうぞどうぞ』というのが電話に出た人の話であった」(泡のように)。「連絡が絶たれている」とは不可解だが、藤枝は「田紳有楽」の末尾に『秘境西域八年の潜行』を参考にしたことを明記している。
なお編者の私事であるが、この『秘境西域八年の潜行』と「田紳有楽」との対比を試みたことが、いまにつながる藤枝静男についてあれこれ調べる発端であった。

訂正
◇昭和2年、3年で<校友会雑誌>の発行を「第八高等学校校友会雑誌部」としているが、「第八高等学校校友会」が正しい。

本年編者が知った藤枝静男が書いたものに下記がある。
●志都一人(しずかずと)著『私小説』(我取書屋 昭和54年11月)序にかえて/藤枝静男─以下全文紹介する。
 「年末から一昨日までインド・ネパールの方に旅行していましたので御返事おくれました。/『此の世にて』は今読みました。/冒頭の三行詩には大変打たれました。/『故も知らで』と言うのが非常に効いていて唯一無二の表現と思いました。小説は、小説というよりは詩で、その意味では気持ちがよく表れていて充分と思いました。/死の前後の描写、高知での女との関り、こういうところは事実の持つのっぴきならぬ強さがあって敬服しました。今旅行の疲れで新聞も読まず、貴君の作を読んだだけです。/『無限抱擁』御読みらしいのであれをよく読み返されることを勧めます」。
(註)「一昨日までインド・ネパールの方に旅行」とあるので、昭和50年1月の手紙である。「此の世にて」掲載の同人誌を受け取っての返書であろう。著者あとがきに「この小さな書物の、序にかえて、年来書物の上の師とし密かに私淑する藤枝静男先生の御詞を置かせていただけたこと、また、無名の一ローカル作家の作業を遠くより見守り励まして下さった井上ひさし先生ご夫妻に黙々深謝したい」とある。
○<さび>61〜63号合併号「古織と陶器」(昭和44年12月1日)「古織と陶器を読んで」/藤枝静男─以下全文紹介する(本書は加藤唐九郎が昭和44年2月22日、名古屋ABC クラブでの美術の会で行った講演記録とその感想集。古織=古田織部)。
「拝啓『古織と陶器』を大変興味深く拝見しました。織部が個性の強い芸術家であったことと、どうしても自己を顕示しないでは居られないアクの強い男であったことを指摘されたのは流石で敬服しました。唐九郎氏が同感して居られることは、その作品からハッキリわかります。私は、唐九郎氏の場合、氏の意力の源泉になっているのは野党精神というのか、とにかく極端なくらい一切の権力や体制みたいなものに反抗する気分のような気がして居ります。お話のなかで、それまで茶色であった茶を緑に発色させるようにし味が落ちるのを構わなかったということは私には初耳で、実に織部らしい個性の強さを語る挿話と思いました。非常に面白く、お礼申し上げます」。
(注)藤枝静男の書いたものに「美濃の窯」(『探訪日本の陶芸』昭和55年/『石心桃夭』収録)があり、そのなか
に「小堀遠州か誰だったかを『織部の注文のせいで肝心の茶の味が不味くなった』と嘆かせたという話をどこ
かで読んだことがある」の記述。また加藤唐九郎について随筆「勘違い芸術論」がある。

 

2023年(令和5年)

 本Webサイトの名称「藤枝静男─年譜・著作年表」に副題「肉体精神運動録」をつける。「肉体精神運動」は、「木と虫と山」の次の一節からである。漢字ばかりでいささか硬いが、題名に四字熟語の多い藤枝静男である。似つかわしいのではないか。
 「ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう恰好でやったか、やらなかったか、または病苦や肉親の死や飢えをどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである」

1月
◇新収蔵資料展(日本近代文学館〜3/25)で、青木鐵夫収集藤枝静男コレクションより5点展示される。
「当コレクションは、版画家青木鐵夫氏よりご寄贈いただいた藤枝静男(1907-1993)関連資料から成る。(中略)藤枝は生涯美術を愛し、著作には美術館や展覧会がしばしば登場する。またその美意識は、藤枝静男が私淑した志賀直哉(1883-1971)の影響によるところが大きい。当コレクションは、藤枝の著作以外の資料も充実している。そこには藤枝が『手にし眼にした』ものを、青木氏も『手にし眼にした』いという思いが映し出されている。青木氏による調査の成果は『藤枝静男−年譜・著作年表・参考文献』などにまとめられ、自身webサイトでも 発信されている」(「新収蔵資料展」キャプションより)。
◇笠間直穂子/連載・山影の町から28「庭の水」(出版社インスクリプトWeb1/31)で藤枝静男の作品「田紳有楽」「土中の庭」「ヤゴの分際」にふれている。

2月
<季刊文科>91号(春季号)「特集・大人のための童話」名作再見で藤枝静男「龍の昇天と河童の墜落」。他に夏目漱石「一夜」、中島敦「狐憑」、円地文子「花食い姥」、和田芳恵「雪女」、大庭みな子「どんぐり」、富岡多恵子「幼友達」、川上弘美「神様」。

3月
○<群系>第49号/名和哲夫「藤枝静男評伝─私小説家の日常(九)」。
◇特別収蔵展「原田濱人とその思いを受け継ぐ浜松の俳人たち」(浜松文芸館3/1〜6/18)。俳誌<みづうみ>を創刊した原田濱人とその後継者たちの足跡の紹介。藤枝静男と<みづうみ>の縁は深い。<みづうみ>昭和25年4月号に「龍の昇天と河童の墜落」、同昭和26年2月号から7月号に「空気人形」を発表した。今回藤枝静男に直接関係する展示はない。
◇坂本龍一3/28死去。坂本は「坂本龍一が選んだ140冊」1981年で『藤枝静男著作集第六巻』をあげていた。
○詩誌<ミて>ー詩と批評―第162号/阿部日奈子「不在のさきにあるもの—書評」で藤枝静男の「悲しいだけ」を取りあげ、妻の臨終場面を引用。

4月
◇没後15年文学館企画展/小川国夫の日々―随筆からたどる文学者の日常―(藤枝市文学館4/8〜6/28)。藤枝静男の著書展示。

6月
◇<週間朝日>6月2日号/「次世代に残したい一冊」で『愛国者たち』(藤枝静男 講談社文芸文庫)選者・清水良典。清水のコメントを引用させていただく。
「藤枝静男の小説はどの作品でも、なぜか頁の活字が鑿で彫られたようにくっきりと美しく見える。一冊選ぶなら『空気頭』か『欣求浄土』を推すべきだが、明治24年に起きたロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)を描いた表題作を含む本書は、傍流と見倣されがちであるゆえに敢えて挙げた。凶徒津田三蔵のドズ黒い妄念、事件への国民感情のヒステリックな過剰反応ぶりを、傷口を切り刻むように描く筆致は、稀有な異才の紛れもない真骨頂だ」。
なお創刊から101年の<週刊朝日>は、6月9日号をもって休刊した。

7月
◇没後三十年 藤枝静男が遺したもの(浜松文芸館7/1〜10/15)。藤枝静男の葬儀での小川国夫・埴谷雄高の弔辞、藤枝の遺書、原稿、「田紳有楽」の舞台になった池の写真、八高時代の写真、藤枝が診療の際使用した椅子、妻智世子
の描いた油絵など多彩な資料を詳しい年譜とともに展示。8/6講演/和久田雅之「藤枝静男邸を訪れた作家たち」。

9月
○<版画芸術>No.201(2023秋号)/「版画家ヒストリー・青木鐵夫」・松山龍雄「人間はただ立っている」で藤枝静男のこと。
○<群系>50号/名和哲夫「藤枝静男評伝—私小説家の日常(十)」完結。

10月
◇原勝四郎展−南海の光を描く(和歌山県立近代美術館・田辺市立美術館共同開催10/7〜12/3)。藤枝静男が手に入れた原の作品が展示される(図録76頁「海岸風景」第6回二紀展出品1952)。藤枝に随筆「原勝四郎氏のこと」「わが誇り・原勝四郎小品展」がある。またNHK日曜美術館「潮騒の画譜・原勝四郎」1992年に藤枝は出演している。

11月
<季刊文科>94号(冬季号)小特集・藤枝静男没後30年/名作再見「一家団欒」収録。笙野頼子「会いに来てくれた」、青木鐵夫「いま藤枝静男」、山本恵一郎「藤枝静男さんと小川国夫さんのこと」、勝又浩「見ることと潜ること─藤枝静男」。
◇静岡県文学連盟創立60周年記念展(静岡市/ギャラリーえざき11/25〜11/27)。

1993年4月16日藤枝静男死去。その報が丁度安倍川上流の静岡市口坂本のしろいさわ荘での「浜名湖会」にもたらされ、そのまま藤枝静男を偲ぶ会になった。その時の出席者の寄せ書きの色紙(竹内凱子氏所蔵)が展示される。

12月
◇藤枝静男没後三十年特別展 曽宮一念と藤枝静男−静岡を代表する2人の芸術家の邂逅−(藤枝市郷土博物館・文学館12/9〜2024.1/28)。
藤枝静男コーナーでは勝見家アルバム、勝見薬局看板、芸術選奨授賞式座席表、高校時代の油絵、スナップ写真、原稿(「空気頭」「悲しいだけ」「落第坊主」「志賀氏来浜」「原勝四郎氏のこと」ほか)、書「観玄」、著書、藤枝静男宛書簡(志賀直哉、滝井孝作、上司海雲、埴谷雄高、小津安二郎ほか)などを展示。曽宮一念コーナーでは藤枝静男宛の曽宮一念の書簡多数と、藤枝静男所蔵の曽宮一念作品「虹」「三角岩」をはじめとして初期から絶筆に至る曽宮一念の作品を約60点展示。なお藤枝静男に随筆「日曜小説家」「曽宮氏のこと」がある。藤枝静男は曽宮の眼の主治医でもあった。/記念講演会・江崎晴城「曽宮一念の魅力 取材を通して」2023.1.8(文学館講座学習室)。

没後30年
「藤枝静男が遺したもの」
(浜松文芸館) 
<季刊文科>94号 
小特集・藤枝静男没後30年
「曽宮一念と藤枝静男」
(藤枝市博物館・文学館文学館)














追記
◇青木鐵夫がこの年「青木鐵夫収集藤枝静男コレクション」の追加として原稿1点、書簡12点,その他10点を日本近代文学館に寄贈。
 原稿は本多秋五「中野重治『眺め』書評」。書簡は藤枝静男書簡(阿川弘之、田中澄江宛)及び藤枝静男宛書簡(大庭みな子・城山三郎・加賀乙彦・阿部昭・木下順二)。その他「ヨコタ南方美術館」図録、「AOKI Tetsuo」図録(文/小川国夫、松永伍一)など。
 ヨコタ南方民族美術館については「大赤字美術館長」(『石心桃夭』収録)、「大赤字美術館長その後」(『今ここ』収録)で藤枝静男は書いている。

ヨコタ南方民族美術館 

本多秋五「中野重治著『眺め』書評」

本年、編者の個展に中野行準氏が来場。氏からいろいろな情報。笠間菜穂子の随筆(1月)のほかにも、下記があることを教えていただいた。
●岩阪恵子『鳩の時間』(思潮社2019.7)「水中楽座」の章で、藤枝静男「田紳有楽」からとして「『柿の蔕』という茶碗や、丹波焼の自称『空飛ぶ円盤』という丼にならえば、空だって飛べる」。
○<ナイトランド・クォータリーvol.25>メメント・モリ〜病疾に蠢く死の舞踏2021.6/岡和田晃「死の舞踏」と恐怖をめぐる解釈学―ペトラルカから「ウィアード・テールズ」、T・Fポウィスと藤枝静男の照応まで。
(注)岡和田は本論でポウイスの作品「海草と郭公時計」と「田紳有楽」(金魚とぐい呑み)との関係を論じているが、
『ポイス(ポウイス)短篇選集』の刊行(昭和10年)と藤枝静男及び「田紳有楽」とは時間的ズレと乖離があり、岡和田も言うように藤枝がポウイスにふれた事実も確認できない。またポウイスが「海草と郭公時計」に託したテーマと藤枝が「金魚とぐい呑み」に託したテーマとは全く異なる。類似性の指摘は一考に値するが、ポウイスと藤枝静男を創作過程で関係づけるには無理があろう。
●角川文庫/辺見庸『1★9★3★7』(下)2016.11で、藤枝静男の「文芸時評」(1975.11.28東京新聞夕刊)を引用。「これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。」と書き出す藤枝のこの文芸時評を、辺見は「藤枝のいきどおりは直截であり、文学的贅言もレトリックも遠慮もない。ヒロヒトを指さして『天皇個人への怒りを感じた』『あれは人間であるとは言えぬ』─と、このクニのどまんなかで述べたてることの、いわくいいがたい危険、内面の“堰”が怒りのあまりたまらずやぶられた、そのしゅんかんに書かれた文章であろう」と書き記す。このことに関しては、本Webサイト付録「あれこれ藤枝静男」にある編者の「怒り」に眼を通していただければ幸いです。

 


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