(「藤枝静男のこと・7」藤枝文学舎ニュース第 53 号/ 2005 年7月)


 庄司肇は「日本キャラバン」第十三集(昭和四十年一月)に藤枝静男論「静かにあげん盃を」を書いた。

「近代文学」昭和三十六年十月号の清水信「藤枝静男論」および昭和三十九年七月発行の「同人雑誌」第2号「藤枝静男論特集」とならんで藤枝静男論の先駆けである。

   庄司はその論を次のように締めくくる。

 「機会はありながらお会いできなかったことを口惜しく思わないと痩我慢できるのも、この写真があればこそという気がする。すばらしい作品に出会ったときは、『読みましたよ』と心の中だけで言って、静かにこの写真と正対するだけでいいんだと言う気がする。男と男、だまっていてもわかってもらえるという気がする。作品を読み終わったあとでは、やはりお酒を、静かに盃にみたして、乾杯など浮ついた言葉をもらさず、ただ目の高さまで盃をあげ、静かに飲みほしたほうがいいという気がする」。

 この写真とは藤枝静男の第一作品集『犬の血』(昭和三十二年六月刊)の口絵写真のことである。そして庄司肇の言葉は私の言葉でもある。

 私もまた藤枝静男と会うことがなかった。そのことをよかったのだと思っている。『犬の血』や『著作集』の数枚の口絵写真そして藤枝静男が書き残した作品から、藤枝静男という人をむしろ夾雑物なしに思い描くことができる。

 先に引用した文章のまえに庄司肇はこうも書いている。

 「時々私は、いまもそうだが、作品集『犬の血』の扉と目次の間にはさみこまれた藤枝さんの写真を眺める。『同人雑誌』の中の『断片・藤枝静男論』を書いた横山洋平氏も、評論の前後でこの写真についてふれておられるが、全く同感にて、こんな素晴らしい、印象的なポートレイトはなかなかない」。

 そしてこの藤枝静男のポートレイトい対抗できるのは、部屋いっぱいに散らかった紙くずの中の坂口安吾の写真、オーバーの裾を寒風にまきあげられながら都会の谷間を歩いている石川淳の写真、この二枚くらいだと書く。

 庄司肇が同感だという横山洋平「断片・藤枝静男論」(<同人雑誌>第2号の藤枝静男論の一つ)、その『犬の血』口絵写真についてのくだりを紹介したい。

 「『藤枝は全く下半分、氷山で云えば氷面下の重い暗い部分を見つめることで日本の人間を見つめ続けてきた作家である』(清水信「藤枝静男論」)を読んで、またしても私は、作者の写真を思い出した。氷面下の重い暗い部分とは反対に、僅かに顔を出している氷山が、写真で見た作者の頭部に似ていることを。氷山と云えども、それは常に暖かいものに違いなく、そして暖かいくせに、ちっとも溶けず、頑固であろうことも。写真を見てこれを書いたことを、いま、私は少しも悔いていない」。

 「悔いていない」とは、清水信「藤枝静男論」に「人を写真だけで判断する愚は止めねばならぬ」と書いていることに対してである。横山は愚でもかまわないと思うのである。それだけの力が、たしかにこのポートレイトにはある。

 庄司にせよ横山にせよこれら先駆け的藤枝静男論を読んで思うのだが、そしてずっとあとの蓮見重彦の藤枝論もそうなのだが、その口調はなぜか熱い。藤枝静男がそうした作家であるというしかない。誰にでもということではないが、惚れられてしまうのである。

 二〇〇一年、藤枝文学舎を育てる会は「藤枝宿から文学の風」文学展・フェスティバルを開催した。そのチラシに、この『犬の血』の口絵写真を使った。四十九歳の写真である。それを見て、藤枝さんらしくないと云う人がいたが無理もない。いま藤枝静男を識る人たちに思い浮かぶのは、年輪を重ねた白い口髭の藤枝静男だろう。

 旧制第八高等学校時代、本多秋五は藤枝を「烏みたいな男」と形容した。藤枝静男も「のど仏の飛び出したやせ首を黒い制服の襟からのばして、ほっつき歩いて」(青春愚談)いたと、当時の自分を描いている。『犬の血』の口絵写真にはそのなごりがある。

 七十一歳のとき藤枝静男は中国を旅行する。その旅行記で、愛想のよい『ツァイチェン爺さん』として自らを描いてみせた。しかし、ツァイチェン爺さんも皮一枚めくれば『犬の血』の顔がたちまち現れる。年輪を重ね口髭をたくわえても、皮一枚内には『犬の血』の顔がいつもあって眼を光らせていた。それが藤枝静男なんだと思う。私には藤枝静男がいわゆる職業作家とは異なり、ウブとも云える高校生のような気質を終生持ち続けていたように思われる。評論家上田三四二は「精一杯意地を張って生きてきた。それが藤枝静男の私小説だ」と言い、桶谷秀昭は「現在の状況の中で、非常に少ない、“志の文学”だ」と書く。

 私も庄司肇にならい、『犬の血』の口絵写真に向かい静かに盃をかかげたい。




↑TOP