「結婚してもう十八年になる」と書き出す藤枝静男の随筆「これでもいい」は、雑誌「風報」昭和三十二年三月号にある。結婚間もない頃の、三つの出来事が語られる。もともと短いので要約しようがない。著作集や随筆集にも収録されていないので、以下全文紹介する。

 「結婚してもう十八年になる。/僕は卒業後研究室に残っていたので、結婚の行事が一通り終わると、妻を連れて大学のある街に帰って来た。丁度春から夏に移る季節だったから、僕は停車場から家への帰途で行きつけの質屋の前に車を停め、妻を中に待たせて置いて店に入った。そして何時もの習慣通り、奥の一部屋で次の季節の洋服と着替え、脱いだ服を入質し、差額と利子を払って車に戻った。妻は友人の下宿に寄って着替えたと思っていたので、『質屋だ.入れ替えてきた。こうしておくと虫がつかなくていいんだ』と云うと非常に驚いた顔をした。/その頃の或る日曜日、妻を連れて銀座を歩いた。話題はなにもないが離れて歩くのも変だったので、僕は時々友人とするように『向こうから来る女の採点をしよう』と云って、『今度は乙』『あれは甲』と云うようなことを云った。妻は口を出して合わせていたが、そのうち無口になり、やがて黙ってしまった。/一年半ばかりして子供が生まれた。実家に帰って産をしたので、僕は電報を受取ると急いで出発しようとした。しかし何か妻を喜ばせ慰めるような優しいものをやりたかった。しかし僕には女に何をやったらいいのか、まるで見当がつかなかった。セザンヌの原色版の多い立派な画集が四階の書籍部の陳列棚にあって人眼を索かれたが、流石にためた。結局僕は入り口に近い化粧品売場の上にゴタゴタと並べられた特売の香水を二瓶買った。香水など買ったのは生まれて初めてだった。香をかぐと非常にいい香がした。/僕はそれを赤坊と寝ている妻の顔の横に出して『一つ五十銭だ。随分安いだろう』と云った。妻は『有難う』と云った。/右に書いた三つの出来事は、実は僕自身の記憶にほとんどなかった。ただそれから今まで、時にふれて妻から怨まれる種になっているので書くことができるのである。/今時こんな頓馬な夫は一人もないだろう。僕も自分がいい事をしたなどと思っていやしない。しかしわざわざ書くからには、内心『これでもいい』と思っているからにちがいない」。

 「妻は『有難う』と云った」と云うところで、私は笑ってしまう。幾分の脚色はあるかも知れないが、藤枝静男はかくあったろうと思うのである。

 この「これでもいい」は、実は「風報」の四年以上も前に殆ど同文で発表されていた。昭和二十七年十一月二十日発行の「南苑集」第三号、B6四頁の小パンフである。新発見であった。浜松の古本屋の一束二千円のガラクタの中にあった。偶然といっていい出会いではあったが、実は「南苑集」を別の筋から追っていたのである。

 藤枝静男は昭和二十九年二月、「原勝四郎小品展」を浜松市立図書館のギャラリーで仲間と開催する。原勝四郎とはあまり聞き慣れない名前かと思うが、和歌山県田辺市に居を定めて独自の画境を展開した洋画家である。昭和三十九年、七十八歳で歿している。藤枝静男は瀧井孝作宅で原の作品を初めて見て感心する。藤枝が「小品展」開催にまで至る経緯は、昭和四十九年に神奈川県立美術館で開催された「原勝四郎展」の図録に「わが誇り.原勝四郎小品展」と題して書いている。この二月、原の一人娘の陽子さんと電話でお話する機会があった。神奈川県立美術館の「原勝四郎展」開会式で 藤枝静男の簡潔で心のこもったスピーチに感激したとのお話が聞けた。なお昭和五十四年、NHK日曜美術館「私と原勝四郎」に藤枝静男は出演している。このときの藤枝の発言に二カ所ほど事実と違っているところがあると、陽子さんの夫君池田諒氏から手紙と電話で指摘があった。これらのことについては、別の機会に詳しくふれたいと思う。

 さてこうして原勝四郎について述べてきたのは、私が「南苑集」を追うきっかけが原勝四郎にあったからである。それは「原勝四郎展」図録にある目良湛一郎「原先生とその周辺」で、「南苑集」第五号(昭和二十八年一月)に藤枝が「瀧井さんと原勝四郎」なる一文を載せているとあったからである。書誌的に是非とも、「南苑集」の現物に当たる必要があった。しかし見つからなかった。「南苑集」の発行者、浜松の医師平野多賀治は既に死去していて、遺族の方に尋ねても不明であった。浜松市立中央図書館にもなく、浜松文芸館にもなかった。こうして捜しまわっていて、古本屋で<南苑集>にぶつかったのである。

 ただ一号から四号まではあったが、肝心の五号がない。ガラクタのなかを何回も見直したがなかった。かわりに「南苑集」第三号の「これでもいい」を発見したのであった。藤枝静男は「これでもいい」をまず「南苑集」に書き、それを改稿して「風報」に載せたことになる。

 藤枝静男はこの「これでもいい」を著作集にも随筆集にも収録しなかった。その理由について今は知る術がない。また<南苑集>第五号についても、諦めるしかなさそうである。それでもいいか。


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