(「季刊文科」69号/2016年8月)


 美術に関わってきた者として、藤枝静男の短編「老友」は私に切実である。

 医者の大村は、ヨーロッパ旅行でパリに何泊かする。パリで画家をしている老友の半井を思い出し、宿泊しているホテルに呼び出す。
 半井は不器用に貧乏暮らしを続けている。昔のままの手つきで煙草をくわえる半井を眺め、長い開業生活で人間関係への嫌悪に取り憑かれている大村は魅力を覚える。

 私といえば、美術に関わってきたと言っても、教師との二足のわらじであったことに思いが行く。 

 二十数年前、ある詩人から教師は上半身は裸になれても真っ裸にはなれないと言われた。そんな中途半端な生活からは、本物は生まれないと引導をわたされたわけである。
 しかし私は教師を辞めなかった。画業に懸命でなかったわけだが、中途半端でもいいから、作り続けて行こうとだけは思った。

 大村の等身大のモデルである藤枝静男はどうだったか。処女作「路」を発表したのが三十九歳、そして医者を引退したのが六十二歳。二十余年間、二足のわらじ生活であったといえる。寡作ではあったが、粒揃いの作品を生み出した。ちなみに「老友」は、引退した翌年の発表である。五十四歳の藤枝静男に、随筆「日曜小説家」がある。
 「全生活をかけて居る作家に対する内心のヒケメはどうすることもできない」としながら「僕は活計のために書く必要はないのだから、真面目な小説だけを書く。書く義務がある」「どうせ趣味でやっているのだから、せめて態度だけは真面目に、内心の要求に従った小説を書く」と記す。
 これを読んで日曜画家である私は励まされもしたが、これは大変だと思った。
 藤枝静男が平野謙と本多秋五にすすめられて小説を書き始めたころの手紙がある。本多に宛てた手紙である。
 「僕なんか日常生活オンリーの観がある故、こんな時参って了ふ。(妻の)喀血、ヒステリー、これが全部僕にかぶさって来る。老人達は正倉院見物に奈良あたりへ出かけて了ふ。一人で患者を見、会計をし、客を応対し、子供の宿題、お伽話、薬の調合等々」「家政婦は頻々かはる。その度に長距離電話で交渉する」「僕は何時の間にこうなったんだろう」。

 藤枝静男も人である。親友相手に泣き言を書き連ねる。私にも覚えがある。しかしこうして日常生活にもみくちゃにされるなかで、作家藤枝静男が練り上げられていった側面もあるのではないか。
 医者になったこと、結婚したこと、妻の病気で苦痛を味わったこと、これらが自分を進歩させたと思うーこれは『田紳有楽』で、谷崎賞を受賞した時の藤枝静男の言葉である。
 さて私が、藤枝静男のような感慨を述べることができるだろうか。ただ忙しさにかまけて、未熟な作品をつくり続けたに過ぎなかった。また未熟はいいとして、藤枝がいうような「内心の要求に従った」作品であったかどうか。

 小説「老友」はこのことにもふれてくる。
 大村は半井の案内で画廊を見て回る。大村には、ほとんどがくだらない作品に思えた。
 「必然性がないよ」という大村に、半井が言い返す。
 「そんなこと云ったって、必然性か他動的か、偶然か、画描きの方は描いてみなければわかりませんよ。思いつきが必然のはじまりになることだってある。そっちの方が多いくらいですよ。自分でどうなるか、わかるくらいなら苦しみやしない」。

 私は落穂拾いのように、つまらぬラフスケッチも破り捨てるのを我慢し残してきた。いつかそれが、作品として具体化することもあろう。才能に乏しい者は、瑣末なものも貯め込んで行くしかない。半井がいうように「描いてみなければわか」らないのだ。

 私は墨色と木版画の表現力を拠りどころに、人間を取り上げて作品をつくってきた。ここ三十年変わらぬスタイルだ。振り返って必然かどうかわからない。内心の要求に従っているかもわからない。結果としてこうなった。わからぬことで悩むのは止める。

 半井は自分のアトリエに大村を案内して、いま取り掛かっている作品を見せる。大村にとって、それらは美しくは思えず見る者を拒絶していた。
 「見たくないやつにも結局は見させたいんだ。妥協したら駄目だ。どうしたらいいだろうね」
 「おれに聞かれたって困るよ」、大村はそう答えるしかない。

 いま星の数ほど次々と作品がつくられ、画廊や美術館にあふれている。それら殆どは粗大ゴミと化す。壮大な徒労に似て、思えば不思議な光景である。それもいいか。




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