(「 CABIN 」第 11 号/ 2009 年3月)


 藤枝静男は明治41年、富士正晴は大正2年生まれである。5歳違いの二人の年譜を、戦前に限って少し眺めてみた。富士は4歳のとき一家で朝鮮の平壌に移住、4年ほど外地で暮らしている。藤枝は田舎から上京し成蹊実務学校で特異な寮生活を送るが、外地暮らしはない。藤枝は高校受験に二回失敗、入学した第八高等学校では一年落第、そして大学受験に二回また失敗。富士は高校と医学部予科の受験に失敗し、入学した第三高等学校では病気で休学、復学し同人雑誌を創刊、理科から文科に入り直し、落第し退学している。20歳の藤枝は昭和3年に、18歳の富士は昭和6年に奈良の志賀直哉を訪問。ともに高校在学中のことである。退学した富士は大阪府庁の雇い、家庭教師、編集者などをやりながら詩をつくり絵を描き版画を彫り、師竹内勝太郎の遺稿出版に奔走する。モップル活動へのカンパで検挙拘留、停学処分をうけた藤枝は、親の切望もあり四ヶ月遅れであったがなんとか千葉医科大学を卒業、学位を取得、平塚の海軍病院の眼科部長、予備海軍軍医少尉に任じられて敗戦を迎える。一方富士は結婚まもなく軍需工場に徴用され、さらに召集されて中国大陸に出兵、江西省で日本の降伏を知る。藤枝が本多秋五、平野謙と連絡がつき彼らの「近代文学」創刊に昂奮していた昭和20年の暮れ、上等兵富士正晴は武装解除しないまま未だ中国大陸にいた。富士の復員は昭和21年5月である。妻は富士の生死不明により、実家からの申し出で話し合い離婚していた。

 二人が青春時代と戦争をどうくぐり抜けたか、似たところもあり、違いもあるように思われる。このことが二人のその後にどう繋がっているのか。こうした分析は私の手に負えない。ただ事実を並べてみた。

 富士正晴と藤枝静男の最初の出会いがいつであったか、気になる。私が知ることのできる二人の最初の接点は、処女作品集『犬の血』を出したばかりの藤枝による富士正晴の第二作品集『游魂』の書評(「日本読書新聞」昭和32年8月12日号)である。このとき藤枝49歳、富士44歳。藤枝の書評は「戦後をきざむ短篇集」と題して、『游魂』・阿川弘之『夜の波音』・島尾敏雄『島の果て』の三冊を取り上げている。『游魂』について眺めると、「描写もハッキリと自信をもって書かれ、作者の内心の道義感に裏打ちされ、気持のいい作品になっている」として「絶望」と「敗走」をあげる。一方「一夜の宿」については、主人公の「強烈な精神が納得できるように説明され描写されていないのがもどかしいのである。或は話の筋と構成に無理があり弱いところがあるのかも知れない。最後の女を救う部分はマイナスの働きをしている」と評している。

 富士正晴と藤枝静男の対談「実作者と文芸時評」(「文學界」昭和51年2月号)は二人の面目が躍如としているが、そのなかで「悪口雑言やというような批評があるでしょう。ぼくはそのほうがかえって好きやねン。だから賞められると、なんか気持がわるい」と語る富士である。この書評をどう受け止めたか。

 富士正晴から藤枝へのものとしては、昭和39年かと思われる雑誌「文炎」のアンケートがあり、そのときの富士の回答が最初か。質問一「あなたは、藤枝作品の何を愛読なさいましたか」─回答「このごろ余り本を読まず、そのうえ忘れること激しく、題名を思い出せません」。質問二「藤枝静男の文学から若い文学者の学べきところはなんでしょうか」─回答「ごつんと雄勁なところと思いますが、文学世渡りするつもりの人なら学んだら損をするでしょう。いやな世の中です」。

 続いて富士に藤枝静男『空気頭』書評(「日本読書新聞」昭和42年11月20日号)がある。「とりわけ人をびっくりさせたらしい強精術の研究みたいな部分も、わたしは面白かっただけでぎょっともしなかった。むしろその後の部分、何でもない日記みたいな部分の方が印象深くて、ああやってるなという気がした。ちかごろわたしは小説を解体するような作業に気が向いてそんなことばかりしており、これは老年というものの一種の傾向かもしれないぞと疑っているので、この人の『空気頭』にも、また別の老年というものの一種傾向を感じるのだろう」と書く。このとき富士は54歳である。藤枝静男も「壜の中の水」(昭和40年)の書き出しで、「年は満五十七であるから、もう断じて青年ではない。このごろ私は老人ぶることに決めた」と主人公に語らせている。こうした老年感覚も、二人が同時代人であることを示してもいよう。

 このあとの二人の交わりは、昭和50年の「東京新聞」文芸時評にとぶ。富士が1月から6月を、藤枝が7月から12月の文芸時評を担当した。富士は藤枝の「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」を、藤枝は富士の「日和下駄がやってきた」「榊原敬吉郎のこと」を取り上げている。これを受けての前述の「文學界」の対談であったが、つまらない小説も読まねばならず、読めば腹も立ち気分も悪くなる、二度と文芸時評はやらないというのが、対談での二人の統一見解であった。この対談は二人にとって、面と向かった初めての会話だったかも知れない。書簡のやりとりがこの対談のあと始まっている。

 二人の間に交わされた書簡として、浜松文芸館に藤枝宛の富士の葉書3通、富士正晴記念館に富士宛の藤枝の葉書・手紙が11通ある。昭和51年6月4日付の『田紳有楽』恵贈への富士の礼状が最初であり、対談のあった年である。富士の書簡が少ないように思えるが、富士は藤枝に著書『どうなとなれ』『怪談伽

婢子・狗張子』『聖者の行進』『高浜虚子』『書中のつきあい』『帝国陸軍に於ける学習・序』『せいてはならん』『御伽草子』『乱世人間案内』を送っており、藤枝の11通のうち9通はこのことへの礼状である。富士正晴が次々と藤枝に著書を送ったことは、藤枝静男を通ずる一人として認めていた証左といえよう。

 藤枝からの葉書に間髪を入れず富士が応じた例がある。藤枝の葉書は『どうなとなれ』への礼状である。

『どうなとなれ』を一気に読み終えたことを記したあと、高浜虚子の小説を取り上げ富士が「俳句」に連載していた「虚子雑感」に強い共感の言葉を送る。

 「『俳句』連載の方も毎号大共感を以て拝見して居ります。まったく若い人たちはああいう読方をしなければ駄目なところ、今は何を楽しみに読むのか、いくら云ってもまるきりわからず、乱読は罪悪みたいな気で、何だか知りませんが目的を以て小説を読んでいるようです。本当は字があったから読んだというのが享受のすべての基礎なのに、今は読んだら何か感想がなければ悪いと思い込んでいるような気配があって甚気の毒にも感じます。あの小説をああいうふうに読めることはわれわれで終るひとつの幸福だろうと思います。このごろ御作の書方、題名には失敬ながら最期のひとはねみたいなところがあり大変愉快に感じております」。

 この藤枝の葉書は昭和52年6月28日付だが、富士正晴は昭和52年6月30日付で直ちに応じる。

 「お葉書大へん興味深くまた大へん有難く拝読いたしました。こちらの正体は全く完膚なきまでにひんまくられていて痛快です。このごろの若い人のよみ方は余り面白くもありません。まるで役人みたいな読み方みたいで。何かでよみました倉敷の件も役人気質の人は無風流だと感じました。小生の女房も人工透析で目下入院中で半年位顔を見ませんが、その内自宅へかへって来そうです。『最期のひとはね』には手を打って大笑したいところです」。

 藤枝静男が「われわれ」と書いたことに、富士はなんの抵抗もなかったろう。そして「虚子雑感」に藤枝が大共感したように、富士正晴は「最期のひとはね」の一語に我が意を得たりと手を打つ。藤枝静男もまたこのとき、「在らざるにあらず」「出てこい」と一跳ねの気合いで書いていた。なお倉敷の件とは、藤枝が婦人の遺骨小片を思い出の倉敷美術館の庭に埋めようとして美術館から拒否された事件をさす。

 「虚子雑感」が単行本『高浜虚子』として刊行されたのは昭和53年10月だが、その9月に大阪で開催された曾宮一念展会場を二人は揃って訪れている。藤枝愛蔵の曾宮の油絵「虹」が出展されていた。

 藤枝の最後の手紙は『乱世人間案内』恵贈への礼状である。日付は昭和59年9月28日。「あなたの挿絵には一寸驚き敬服しました。大変好い感じがいたしました。いや味なところが全くないのに驚きました。全部が好いので驚きました」「ああいう画は愛嬌が出ると、ある点ではマイナスであぶないけれど、巧く止まっているのに敬服しました」。長いので引用を端折ったが、挿絵への賛辞を延々と述べ「書き落としましたが、文章もハッキリしていて敬服しました」と終わりに一言。ともあれ大絶賛で、富士は気持ちがわるくならなかったか。しかし藤枝静男である。口直しを用意している。「ただ見開きのところに貼付けられた『藤枝静男様 富士正晴』という紙の字はない方が好いと思います。あそこだけ力んでいてまずいのは残念です」。

 この『乱世人間案内』に藤枝静男の最後の作品集『虚懐』の書評(「中央公論」昭和58年6月号)が収録されている。

 「藤枝のトッチャンの小説について、文学評論家的にああのこうの言ってみてもはじまらんなあと思う。昔からその気があったが、近頃ますますその気が露骨に出て来て、気持ちが良い。露骨とは、今ふと思ったがなかなか良い言葉である。藤枝静男は露骨そのものだ」「退屈なところは退屈しつつ全部余すところなく鑑賞して、あいかわらず強情じゃのうと感心感服して、すぐに忘れ、印象深い事物や、言葉には新鮮なショックを受け、今度ここを読む時ここは忘れず読もうと思った。こういうのをほんまの小説読みというかも知れず、もう少し絞れば、不埒な藤枝静男読みというのかも知れない」。

 藤枝静男は、よき読み手を持っていたのであった。この書評の四年後、富士は急性心不全で死去、74歳。79歳の藤枝はもう書くのを止めていた。




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