(「いろいろ田紳有楽・5」藤枝文学舎ニュース第 23 号/ 1998 年1月)


 主人磯碌億山は、弥勒菩薩の化身である。この弥勒こそ五十六億七千万年後の世に現れて迷える民を救済するという天文学的巨視的世界の体現者であるが、その化身である磯碌は、掻痒症に日夜悩む老人という日常的微視的世界にへばりついて生きる者である。この一身に無限有限を兼ね備える傑出したキャラクター磯碌億山を、藤枝静男はいつ思いついたのだろうか。はじめからではない、と思う理由を以下書いてみたい。

 「田紳有楽」は四回にわたって「群像」に発表され、それを推敲して一册にまとめたのが現在われわれが手にする『田紳有楽』である。昭和四十九年「群像」一月号に、短篇創作特集の一篇として「田紳有楽」原稿用紙十枚が発表される。続いて同年七月号に「田紳有楽前書き」同三十三枚。年を越した昭和五十年四月号に「田紳有楽前書き(二)」同五十四枚。そしてさらに翌年の昭和五十一年二月号の「田紳有楽終節」同百十枚である。単行本『田紳有楽』が同年五月に発刊され、九月にこの『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞を受賞する。藤枝静男六十八歳。

 藤枝静男は単行本のあとがきで、最初の十枚に「あっち見たりこっち見たりしながら」書き足していったと述べている。このことはきっとそうであったと思う。書き進めながらイメージを発展させていく方法を、この「田紳有楽」で藤枝は採用したと思われる。「スタティックなものは始めから嫌であった」ともあとがきで書いている。この半ば投げやりで動的なやり方が、細胞が分裂し次々と増殖していくように魅力的な器物妖怪、志野、柿の蔕、丹波たちを生み出し、その極みに磯碌億山の出現をみるのである。

 「群像」の初出「田紳有楽」と単行本『田紳有楽』とを対照してみると、「私は池の底に住む一個の志野筒型グイ呑みである」に始まる「田紳有楽前書き」と、「私は池底の最古参者、丹波焼き、空飛ぶ円盤、直径二十センチの丼鉢で、本名は滓見白である」で始まる「田紳有楽前書き(二)」の部分が、最初の十枚と「田紳有楽終節」にくらべて書き換えが多い。最初の十枚は「田紳有楽」の発端であり核であり、作者にとっても後で手が出せない完結生の高いものであったといえよう。そして「田紳有楽終節」は、後述するように磯碌億山の構想を得て、「田紳有楽」の決着が見えたなかで書かれたということであろう。「田紳有楽前書き」と「同(二)」はそうではなくて、作者にも先行き不透明なままに「あっち見たりこっち見たり」しながら書き連ねていった部分といえよう。それだけにあとで手を入れる必要もあったわけだが、この過程のなかから磯碌億山が浮かびあがってくるのである。

 磯碌億山の登場を見てみよう。講談社文芸文庫でいえばその六十九頁「私は永生の運命を担ってこの世に出生し、釈迦の遺命によって兜率天に住し、五十六億七千万年後に末法の日本国に下向して竜華樹のもとで成道したのち、如来となって衆生に説法すべき役目を負った慈氏弥勒菩薩の化身─通称磯碌億山という者である」と口上が述べられる。主人が実は弥勒の化身であることがここで初めて明かされる。この「磯碌億山」の名前は弥勒下生の「五十六(イソロク)億年」からであり、つまりは弥勒の化身だからこそ「億山」である。

 ところでこの口上のまえに、「磯碌億山」とフルネームではないが「億山」はすでに登場している。講談社文芸文庫三十頁の「私は億山のところに出入りするイカモノ師や商売人をいやというほど見てきた」である。実はこの個所、「群像」の初出「田紳有楽前書き」では「私は万山のところに出入りする」となっている。即ち主人に買い取られる前の「万山」のところでの見聞ということになっている。また同三十八頁の「主人の億山に買い取られて」にしても「群像」の初出「田紳有楽前書き(二)」では「主人の万山に買い取られて」となっている。これは前とのつながりを考えれば可笑しいのだが、「前書き(二)」単独で読めばそれでも通る。そして初出で初めて「億山」が登場するのは、「群像」昭和五十一年二月号の「田紳有楽終節」である。すなわち先に引用した口上において、フルネーム「磯碌億山」としてである。

 つまりは「田紳有楽終節」を書くまで、藤枝静男に主人=弥勒菩薩とする考えはなかったということになろう。ではいつ藤枝に、主人=弥勒菩薩とするアイディアが浮かんだか。それは「田紳有楽前書き(二)」を書き終える時点ではなかったか。「前書き(二)」の終わりに近く、弥勒説法の座をめぐり丹波が柿の蔕の機先を制すべくその決意を述べる個所がある。この個所を書き進めながら、主人の「正体」に「そうだ!」と藤枝は気付いたのではないか。「主人こそ弥勒である」と藤枝静男は気付いたのである。そして主人こそは、もともと藤枝静男の分身でもあった。

 弥勒=磯碌=藤枝静男という三位一体の発見!最初の十枚から書き進めてきてようやく達したのである。弥勒であり磯碌であり藤枝静男であるという「なんでもあり」の発見が、藤枝静男自身に大変化ともいうべき「自在境」をもたらす。フリーハンドを得て、「田紳有楽」の融通無碍はレベルアップする。磯碌が自由気ままに語り始め、登場(人)物たちは躍動交歓して時空は拡大する。最後は妙見大黒も登場してヒマラヤ山中にとび、ププーデンデン、ペイーッ。

 「田紳有楽終節」(磯碌の口上以降)百十枚は、一気に書き進められたのではないか。単行本発刊にあたっても、初出原稿に手を入れるのに迷いはなかったに違いない。書き換え個所を列記し対比するのをここでは省略するが、初出にくらべ単行本の方が総じてボルテージが上がり威勢がいい。気持ちよく自在に筆を入れていった様子がうかがえる。

 しかしこうした藤枝の昂揚的「変化」状態は、『田紳有楽』のあと続かない。『田紳有楽』は藤枝静男にとって、それ以前にもそれ以後にもない作品なのである。

 小川国夫との対談で藤枝は「『田紳有楽』はいろいろな人がいろいろなふうに見てくれて、大変ほめてくれるからありがたいんですけどね。だけど今後どういうふうに、ああいうものを書くかというふうにいえばね、いま書く気がしなくなっているわけだ」と語っている。

 山室静は『田紳有楽』を評して「龍と化して時間も善悪もない自在境に飛びたった趣がある」(『藤枝静男著作集』月報)と書いているが、ことはそう簡単ではない。龍と化して天空を泳ぎ続けるにしては、藤枝静男はあまりに重いものをぶらさげていたというべきか。

 もともと「自在境」など、一瞬の錯覚かも知れない。それでもいいのである。束の間にせよ藤枝静男は自在境に変化して『田紳有楽』を生み落とした。私たちはその僥倖に感謝し、『田紳有楽』に遊ぶのである。




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