(「藤枝静男のこと・ 17 」藤枝文学舎ニュース第 63 号/ 2008 年1月)


  『夏目漱石全集』を棚から取り出して、そのなかの一篇「思ひ出す事など」を読み返すことがあった。夏目は明治四十三年、胃潰瘍の転地治療を伊豆修善寺温泉で試みる。これが逆効果となり大吐血、危篤におちいった。いわゆる「修善寺の大患」である。幸いこのときは一命をとりとめる。しかし以後毎年のように再発。大正五年、胃潰瘍の発作で大内出血し死去。享年五十歳。「思ひ出す事など」は、この「修善寺の大患」の経緯と心身の変化を叙述したものである。

 「思ひ出す事など」の二十二につぎの一文がある。

 「犬の眠りと云ふ英語を知ったのは何時の昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云ふ意味を實地に経験したのは此頃が始めてであった。余は犬の眠りのために夜毎悩まされた。漸く寐付いて有難いと思ふ間もなく、すぐ眼が開いて、まだ空は白まないだろうかと、幾度も暁を待ち侘びた。床に縛り付けられた人の、しんしんとした夜半に、獨り生きてゐる長さは存外な長さである」。

 入院経験者には、この夏目漱石の思いは切実にわかる。「犬の眠り」という語句を面白いと思った。巻末の注解に「 dogsleep のこと。目覚めやすい眠り」とある。英和辞典を引いてみたが、手持ちのものには載っていなかった。かわりに dog の項の例文に、次の一文を見つけた。

 「 A living dog is better than a dead lion. 生きている犬は死んだライオンにまさる<伝道の書9:4」

 ここで『田紳有楽』に出会うとは思わなかった。というのも『田紳有楽』に、池底の丹波焼本名滓見白の頭上に紙が舞い落ちる場面がある。

 「池に浮かんだ紙屑を裏から見上げると、サヴナローラという坊さんの話が印刷されている。この坊さんが『人間の一生はすべて如何に良き死に方をするかということのためにある』と説教したら、法王が『拙者は「生きた犬は死んだ獅子に勝る」という古いユダヤ人の言葉が気に入っている』と評したと。あれが感傷、これが真理である」。

 この法王の話は塩野七生著『神の代理人』からの引用であろうと、以前推測したことがある。この推測に間違いないと思うが、この話そのものは塩野の創作かと思われる。ともあれこの法王の言葉が聖書からであることがわかった。

 早速『聖書』をひもといてみた。新共同訳『聖書』では、「伝道の書」ではなく「コヘレトの言葉」。その9:4にある。

 「命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだライオンよりましだ」。

 これを機に私は「コヘレトの言葉」の章を初めて読んだ。そして、その聖書らしからぬニヒルな調子に魅力を覚えた。もっともこれは不信心者の受け止めかたであろう。「(コヘレトの著者の)懐疑主義は宗教的なもので」「神がすべてを治めておられるという自覚は失わなかった」と『新共同訳聖書事典』の解説にはある。「コヘレトの言葉」からもう一つ。

 「熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」。

 この言葉はまた『田紳有楽』の一場面を思わせる。知識で腹がはち切れそうになった婆羅門が、その腹を牛の角に貫通され腹から黒汁をほとばしらせる。あとにはひとつくねの黒いビニール合羽のような婆羅門の遺骸。

 法王に話を戻そう。この法王はアレッサンドロ六世(在位 1492 〜 1503 )である。歴代の法王のなかでとりわけ悪名が高い。法王庁の堕落を攻撃し続けたサヴナローラを絞首した上火刑に処し、人妻との間に四人の子供をつくり、自らのボルジア家繁栄のために手段を選ばなかった。子供四人のうちの二人が、かのチェーザレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジアである。『君主論』のマキャヴェッリはチェーザレを評価しているが、チェーザレが冷酷残虐な男であったことは間違いなかろう(当時の多くの権力者がそうであったように)。そして淫婦、毒殺魔といわれるルクレツィア、「それほどの悪女ではなかった」と澁澤龍彦はその著書で弁護しているけれど。このルクレツィア・ボルジアの肖像画に擬せられた絵画作品をめぐって、埴谷雄高と藤枝静男が随筆に書いていることは別にふれた。

 さて藤枝静男の最後の作品集『虚懐』である。<週刊読書人>昭和五十八年六月十三日号のインタビュー「『私小説』概念の破壊作業」で藤枝は答えている。この『虚懐』というタイトルは、夏目漱石が死の十数日前につくった七言律詩「無題」からとったのであった。この詩の最後の二行は、夏目自身の死の予言となった。

   眞蹤( しんしょう )は寂寞( せきばく )として杳( はる )かに尋ね難く

   虚懐( きょかい )を抱いて古今に歩まんと欲す

   碧水碧山( へきすいへきざん )何んぞ我れ有らん

   蓋天蓋地( がいてんがいち )是れ無心 

   依稀( いき )たる暮色 月は草を離れ

   錯落( さくらく )たる秋声 風は林に在り

   眼耳( がんじ )双( ふた )つながら忘れて身も亦た失い

   空中に独り唱う白雲の吟

            (註)眞蹤=ほんとうの道 虚懐=私のない心 依稀=おぼろなる 

 藤枝静男は語る。

 「つまり懐がからっぽということだよ。この詩が昔から好きで、いつか使おうと思っていたんだ。実際この通りでねえ。本当にからっぽの感じだよ。このごろはどうもみんなむちゃくちゃになっちゃてね、何もわかんないんだから、もうしょうがねえやというところでウダウダ書いてますということだな。できるだけ切りつめちゃってね。いろいろ考えていわゆる小説のかたちにしようという手続きがもう面倒くさい。ただズカズカ書いてそれで全部読んだ時に、何か読者が少しでも感じてくれればいいという気があるんだよ」。

 夏目漱石に始まって夏目漱石に戻ったところで、この小文もおしまいにする。




↑TOP