(「藤枝静男のこと・ 12 」/藤枝文学舎ニュース第 58 号/ 2006 年 10 月)


  資料の収集を少し経験すればわかることだが、雑誌類の収集が難しい。雑誌は名の通り雑に扱われ破棄されてしまうことが多い。また利巾が少ないためか、雑誌を扱う古書店もあまりない。逆に雑誌を扱う店では、店主がその価値を承知しており雑誌としては高額である。それでも欲しいものが出てくれば万々歳だ。送られてくる古書目録を見ても、私の手元にある雑誌を今では殆ど目にすることがない。時機というもがあるようだ。その時代の方が亡くなり、遺族が処分するという事情からだろう。失礼な言い方だが、そうした方々が亡くなりきってしまうともう出てこないのだ。次の時機は、物好きな収集家(筆者もその一人ということになろうか)が死んだときになるだろう。

 その点、豪華本の類は大事にされ古本屋も扱い待っていれば出てくる。豪華本もそれはそれとして面白い。だが資料的にはどうであろう。出来立ての湯気がたっている初出誌こそ、研究者にとって第一資料というべきだろう。

 前置きが長くなってしまった。というのも、雑誌が貴重であることの認識がまだまだ低いと思うのである。高額な豪華本を、高額故に重んじている文学館がなければ幸いである。

 「群像」昭和四十九年一月号がある。短編創作集として二十人の作家が名を連ねている。目次に並んだ作家の名前を見渡しただけで、文壇のその時代の空気が伝わってくる。これも雑誌ならではだろう。藤枝静男の「田紳有楽」がその一篇としてある。藤枝静男はこの「田紳有楽」の後、時を置いて「田紳有楽前書き」、「田紳有楽前書き(二)」、「田紳有楽終節」と発表していく。それらに手を入れ一冊にまとめたのが、藤枝静男の代表作『田紳有楽』である。

 さてこの最初の「田紳有楽」はカットを含めてもわずか四頁。圧倒的な短さで際立つ。蓮實重彦が「日本経済新聞」に、うなされたような文芸時評を書いているので紹介したい。

 「『批評』とは、仮死の意識がそこで祭典として新たな生を享受することにほかならないが、そんな経験を強いる『作品』はわれわれの周囲に存在しているのか。ある。存在しているのだ。藤枝静男の『田紳有楽』は月刊文芸誌(とは、だが何か?)の四ページにもみたないその異様な短さで人目をまどわし、まるで無数の『作品』群の一隅にうがたれた負の嵌没点のように気掛かりな言葉をかたちづくっている。」「ここでは『欣求浄土』や『空気頭』でさえが、まだ無償の饒舌の支配下にあったことをみずから厳しく責めたてるごとき寡黙さで、読む意識にその失語感覚を共有せよとそそのかしているのだ」。

 「群像」昭和四十九年一月号にもどる。本号で藤枝静男『愛国者たち』を高橋英夫が、小川国夫『或る聖書』を饗庭孝雄が書評している。本号ではまた特集「批評家三十三氏による戦後文学十選」がある。当時どんな作品が評価されていたかがわかる。藤枝静男の作品では『空気頭』『欣求浄土』『愛国者たち』を、小川国夫の作品では『或る聖書』『試みの岸』を何人かがあげている。

 本号にはまた、特集2として座談会「戦後文学を再検討する」がある。その最後のほうで、司会の上田三四二はつぎのように語る。

 「藤枝静男のことです。それをつけ加えますと、あの人の持っている私小説というのは、ぼくらが考えている私小説とは違う。そういう意味で、ぼくには衝撃的なんですね。ぼくらの考えている外界というもの、いまそれを自然というふうに言いかえると、それは弥生式な自然です。ところが、藤枝静男が対面している自然は、縄文的な自然なんですね」「藤枝静男の私小説というのは、抵抗型の私小説とでも呼ぶべきもので、彼にとって自然というものは実に過酷なわけですね。全く甘えの許されない、そういう自然を社会に移せば、社会もまた実に過酷な社会だ。そういうものに対して精一ぱい意地を張って生きてきた。それが藤枝静男の私小説だと思うのです」。

 本号にはまた「侃々諤々」欄がある。雑誌「文芸」のアンケート「一九七三年の成果」にふれ、トルコ嬢の語り口で「とてもイかったのは藤枝静男センセ。森敦『月山』と小川国夫『或る聖書』をお読みになって『長大息をもらした』ですって。川上二郎『銀河と地獄』を読んで『ともかく腹から出ていて信用できる』ですって。あたし、藤枝センセのファンなの。だから『ともかく腹から出ている』なんてお言葉、藤枝センセのお作とまぶしい姿をじっと心に浮かべて読ませていただくと、ステキ。ほんとセンセらしい、おっしゃり方」。

 本号にはまた小島信夫「別れる理由」の連載がある。「別れる理由」は「群像」昭和四十三年十月号から昭和五十六年三月号まで延々百五十回連載されたが、その第六十四回。この小説、百二十六回に至って「あんた、ねえ前田永造くん」と呼びかけながら「藤枝静男」なる人物が登場する。本号ではまだその気配はないが。藤枝静男は「別れる理由」の愛読者であった。藤枝の昭和五十四年の作品「みな生きもの みな死にもの」に、主人公が「小島信夫」なる人物と会う場面がある。

 主人公は「小島」に「あなたの長編連載小説『別れる理由』は、毎号拝見している。と云うよりむしろ愛読しています。あなたは自分では何と思っているか知りませんが、僕は勝手にあれは『個小説』と呼ぶが好いと思って愛読しています」。そして「別れる理由」の自分本位ぶり、その不可解さを当人に説明したあと「けれども僕にはそこが面白くてたまらんのです」と挨拶する。

 以上が「群像」昭和四十九年一月号とそれをめぐるあらましだが、作家藤枝静男の周辺を、その一端をうかがうことができる。

 絶海の孤島では作品も生まれにくかろう。人の営み全般がそうであるように、ものごと総てが相関するなかで作品もつくられていくように思われる。雑誌はその重要な証拠物件である。




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