昭和六三年(一九八八年)
八〇歳

一月、『書を語る1』(二玄社刊)に「趣味としての篆刻」が収録される。八月、藤枝市・ギャラリー沙画亜留で「藤枝静男文学展」を開催。九月、ちくま文庫『犯罪百話』に「泥棒三題」「今朝の泥棒」が収録される。同月、浜名湖会。この浜名湖会で本多秋五が「藤枝静男招待によるこの会は今年限りで打ち切りとしたい」と発言。一二月、講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』を刊行。同解説で川西政明が「『悲劇』の原型」を書いている。なおこの年、「文芸静岡」第五六号に勝呂奏「藤枝静男小論─『私』の探索」。

  著者から読者へ ─「あとがき」に代えて    
講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』  「『欣求浄土』『悲しいだけ』それぞれの単行本の刊行の際に『あとがき』を書いたので、それで、この欄の責をふさぎたい」として『欣求浄土』(昭和四五年刊)と『悲しいだけ』(昭和五四年刊)の「あとがき」を引用。文末に「昭和六三年九月」と付記がある)

講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』  
昭和六三年一二月一〇日  講談社刊
収録作品 欣求浄土─欣求浄土・土中の庭・沼と洞穴・木と虫と山・天女御座・厭離穢土・一家団欒/悲しいだけ─瀧とビンズル・在らざるにあらず・出てこい・雛祭り・悲しいだけ・庭の生きものたち/雉鳩帰る/半僧坊
著者から読者へ 藤枝静男
解  説 川西政明「悲劇の原型」
作家案内 保昌正夫(『 13 人の作家』帖面舎〈平成二年〉に収録)
著書目録 高柳克也作成


昭和六四年・平成元年(一九八九年)
八一歳
一月から五月にかけて浜松文芸館で「藤枝静男展─文学と人生展」が開催される。五〇余篇の生原稿、知人からの手紙などと共に、藤枝静男が意匠した額縁に縁どられて智世子夫人の静物画も飾られた。会場を見て回る藤枝静男と小川国夫の写真が新聞に掲載される。開会式のあと、本多秋五・小川国夫による「藤枝静男を語る会」。七月、『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』を小学館から刊行。


『昭和文學全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』    
平成元年七月一日  小学館刊
収録作品 空気頭/一家団欒/私々小説/田紳有楽/悲しいだけ/庭の生きものたち/虚懐
作家アルバム(昭和四六年七月・野上透撮影 『藤枝静男著作集第三卷』口絵写真と同じフィルムだが構図が異なる)   
解  説 饗場孝男「藤枝静男・人と作品」
年  譜 川西政明編(「この年譜は『藤枝静男作品集』での著者自筆年譜を底本として安達章子氏の協力を得て作成した」とある)


平成二年(一九九〇年) 八二歳

三月、「虚懐」が『老年文学傑作選』(筑摩書房)に、四月、『日本名随筆 90 道』(作品社)に「昔の道」が収録される。同月、「本多秋五さんの『志賀直哉』の完成を祝う会」が開かれたが参加者に藤枝静男の名はない。六月、講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』刊行。同解説で川西政明が「離れて、しかも強く即く」を書いている。九月、藤枝静男欠席のまま、小川国夫の幹事で「浜名湖会」。会場は掛川市倉真温泉(このときのことを埴谷雄高が『未来』一一月・一二月号「雨台風と浜名湖会」に書いている)。

講談社文芸文庫『 田紳有楽 ( でんしんゆうらく ) ・ 空気頭 ( くうきあたま ) 』  
平成二年六月一〇日  講談社刊 
収録作品 田紳有楽/空気頭
解  説 川西政明「離れて、しかも強く即く」
作家案内 勝又 浩
著書目録 高柳克也作成 



平成三年(一九九一年)  八三歳

五月、「春の水」が『あんそろじい旧制高校第四巻』(図書刊行会)に、一一月、『日本名随筆・別巻9骨董』 ( 作品社 ) に「偽仏真仏」が、一二月、『群像日本の作家9志賀直哉』(小学館)に「仕事中」「志賀さんのこと」が収録される。なお『現代思想』八月号で小林昌廣が「臓器民俗学序説─藤枝静男と内蔵イメージ」を発表している。またこの年、「藤枝静男書誌」掲載の高柳克也「風信」第二号(八月)が発行される。


平成四年 ( 一九九二年 ) 八四歳
二月、「古本屋ケメトス」が『日本名随筆・別巻 12 古書』(作品社刊)に、一一月、「西国三カ所」が『日本名随筆・別巻 21 巡礼』(作品社刊)に収録される。

平成五年(一九九三年) 八五 歳

四月一六日午前五時三五分、肺炎のため神奈川県横須賀の入院先で死去、享年八五歳。くしくも当日「浜名湖会」が安倍川上流の静岡市口坂本で予定されていて、そのまま藤枝静男を偲ぶ会となった。この「偲ぶ会」のことを加賀乙彦が書いている(心と医と文7「藤枝静男をしのぶ会」SCOPE七月号)。新聞各紙が訃報、追悼文を掲載。四月一八日、藤枝市岳叟寺で葬儀。戒名藤翁静誉居士。弔辞を本多秋五、埴谷雄高、小川国夫。後年長女章子さんは「父の遺言が『葬式不要』で困惑している時、小川さんのおかげで告別式を行うことができた。父も本当は喜んでいると思う」と語っている(平成二〇年六月「小川国夫先生を偲ぶ会」)。『浜松百撰』六月号で「追悼・藤枝静男」。同月、「郷土が生んだ作家 藤枝静男・小川国夫文学展」を藤枝市文化センターで開催。七月、『群像』・『新潮』・『文學界』が藤枝静男追悼号。一一月、講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』刊行。同月、小川国夫『藤枝静男と私』が小沢書店から刊行される、小川国夫の藤枝静男論集成。一二月から平成六年三月まで浜松文芸館で「郷土の生んだ作家・藤枝静男展」を開催。一二月、小川、埴谷、本多、大庭による「追悼公開座談会・藤枝静男先生の思い出を語る」が浜松で開催される。なお川西政明が講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』の解説で「藤枝静男の死ののちに」を書いている(「文學界」昭和六〇年五月号のインタビュー「『極北』の私小説」のときのことにふれている)。葬儀のときのことを桶谷秀昭が「燃えつきた藤枝静男」(「別冊文藝春秋」一〇月秋号・ベスト・エッセイ集『母の写真』文藝春秋社収録)に書いている。またこの年、北川静男の追悼集『光美眞』が北川の遺族の手で復刻刊行(六月)され、「藤枝静男書誌第二回」掲載の高柳克也「風信」第三号(三月)が発行される。

講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』  
平成五年一一月一〇日  講談社刊
収録作品 或る年の冬 或る年の夏
解  説 川西政明「藤枝静男の死ののちに」
作家案内 小笠原 克
著書目録 高柳克也作






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