昭和六〇年(一九八五年)   七七歳

「老いたる私小説家の私倍増小説」を『文學界』五月号に発表。同号で特別インタビュー「『極北』の私小説 藤枝静男」。このインタビューで、志賀直哉の言葉「離而強即」について語っている。六月、浜名湖会。このとき本多秋五は藤枝静男が八高時代に書いた色紙(藤枝自作の漢詩)を持参、藤枝はたちまち二詩を諳んじてみせた(『静岡新聞』六月二九日朝刊)。一詩紹介する。「想人─春光停雲を射る 南枝紅芽(こうが)を現す 昨夜黒眸(こくぼう)を夢む 今日壷花に対す」。「今ここ」を『群像』九月号に発表、最後の作品となった。九月、書斎整理中に転倒して肋骨四本骨折。

 

瀧井さんのこと   
「文學界」一月号  追悼(  本追悼文では「私が瀧井さんを知ったのは昭和三年いまから五〇年余り前の八月で」とある。「瀧井さん網野さん尾崎さんのこと」昭和四一年では「瀧井さんにはじめてお目にかかったのが奈良の志賀氏のお宅であったことに間違いないが、それが幸町の旧宅であったか上高畑の新しいお宅であったかということについては記憶がもうろうとしている。とにかく昭和三年か四年か、瀧井さんが三十五、六歳の頃であることは確かである」とある。昭和四八年の自筆年譜では「昭和三年八月二日、奈良市幸町にはじめて志賀直哉を訪ね、その紹介で瀧井孝作と小林秀雄を識った」とある。『藤枝静男著作集』年譜では「昭和三年八月二日、奈良市幸町にはじめて志賀直哉を訪ねる。その紹介で、この日志賀邸を訪ねていた小林秀雄を識り、後、瀧井孝作を識る」とある。『志賀直哉全集』の年譜によれば「昭和三年八月二日、勝見次郎〔藤枝静男〕はじめて来宅。瀧井孝作、小林秀雄来訪中」とある。本書ではこの志賀直哉年譜に従いたい。藤枝は志賀直哉訪問についていくつか随筆を残しているが、小林についてはあっても瀧井については書いていない。なお志賀が上高畑に移ったのは昭和四年四月。また『瀧井孝作全集』の年譜によれば瀧井は大正一四年八月に京都から奈良に転居。昭和五年二月、八王子に移るまで奈良に在住)

瀧井さんのこと   
「群像」一月号  追悼( 。浜松文芸館にある藤枝静男による切り抜きでは「のこと」が「追悼」に訂正されるなど何カ所か書き込みがある。『今ここ』には本誌初出のまま収録。瀧井については他に「瀧井孝作氏のこと」昭和二九年、「瀧井さん、網野さん、尾崎さんのこと」昭和四一年、「瀧井孝作著『父』」昭和四七年、創作合評「初めての女」昭和四八年、「瀧井孝作著『俳人仲間』」昭和四八年、「瀧井孝作著『志賀さんの生活など』」昭和四九年、「瀧井さん」昭和五三年がある)

尋常高等小学校同窓会   
「文學界」二月号  随筆(   「父の教育方針で当時東京の池袋にあった全寮制自炊制の中等学校成蹊学園に入れられて」とあるが、正しくは成蹊実務学校である。三年に進級する際、中学部に籍を移した。文末に「年々歳々…」とある。編者の手元に、藤枝静男の色紙「年々歳々花相似 歳々年々人不同」がある)

俳人相生垣瓜人さんの思い出   
「静岡新聞」二月一三日夕刊  追悼(単行本未収録。「浜松の二人の俳人」昭和三三年の項参照)

老いたる私小説家の私倍増小説   
「文學界」五月号  小説(一段組みで掲載された。誕生日のことが冒頭にある。書いてあるように本当は明治四〇年一二月二〇日生まれである。満年齢と違って、数え年は生まれた年を一歳とし以後正月になると一歳を加えて数える年齢である。従って藤枝静男は明治四一年一月一日にはもう二歳で、入学した大正三年は本当なら数えの八歳であった。誕生日を明治四一年一月一日にしたことで「七ツあがり」となった。/「私鉄単線電車」とは遠州鉄道である。「この電車で北へ三十分ほどの田舎」とは、妻智世子の実家のあった浜名郡積志村西ケ崎〔現浜松市東区西ケ崎町〕である。ユーカリや庭については「田紳有楽」でも、「武蔵川谷右エ門・ユーカリ・等々」昭和五九年でも書いている。/文中「『ダス・エーケル』(嫌悪)」そして「エーケルヘフティッヒ」とある。「厭離穢土」昭和四四年の項参照。「エーケルヘフティッヒ」は ekelhaft のことか。/「同じことを何回も書いて」とある。このことでは「みんな泡」昭和五六年の項参照。「今の私はこんなものだ。精神的にも肉体的にも半ば死んで、つまり何もしないで石の観音様を可愛がっている老いたる私小説家だ。実にイヤだ」と結ぶ。/埴谷雄高はこれをうけて、随筆「老害」新潮八月号を次のように結んでいる。「私はまだまだうんざりするほど長くつづいて『死の到来』まで絶対に書き終わらない長編を、富士山の大沢崩れ以上の凄まじい音をたてて砕ける脳細胞の大崩壊と取り戻しがたいボケの極上の進行のさなかで、なお書き続けなければならないのである。そこには、事物の隠れた秘密の核心の探索どころか、あまりにも明らさまな頭蓋のボケの核心の表示のみがあることは必然である。藤枝静男以上に、私は慄然としていわねばならない。─実にイヤだ」。/藤枝静男の死後、桶谷秀昭が随筆「燃えつきた藤枝静男」を書いている。昭和六三年の浜名湖会のときのこととして、もう書かなくなっていた藤枝を埴谷雄高が「君は小説家なんだから、書けなかったら、書けないということを書いたらいいんだ。とにかく書かなきゃだめだ」と繰り返し口説いた。そのとき藤枝静男がどんな様子であったか、埴谷はなにも云わなかったという。「水月観音」については「虚懐」昭和五七年の項参照。/なお「文学界」本号で特別インタビュー「『極北』の私小説 藤枝静男」。藤枝文学を語るうえで必読のインタビューである。/同じく本号のあとがきに「三月初め、川西政明氏とともに、浜松の藤枝静男氏をお訪ねしました。浜名湖のほとりの宿に泊り、深夜におよぶまで含蓄深い話をうかがいました。翌日、藤枝氏の永年の友人である竹下氏の車に同乗させていただき、半日ドライヴを楽しみました。巨大な将軍杉、盛りを少し過ぎた梅の花など見てまわる藤枝氏の風貌に、前夜の『信頼すべきものとして自然はある』という氏の言葉を思い出しました。藤枝先生のいっそうのご健勝を切に念じ上げます」とある。/なお講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』解説〔川西政明〕で、「文學界」のインタビューの席上「私倍増小説」というタイトルを藤枝が思いついたと書いている。しかし藤枝静男は、「20枚の私私小説」昭和四八年で既に「私倍増」という言葉を使っている)

 

 

時評─奥野健男「未詳」四月三〇日未詳(『奥野健男文芸時評 1976 〜 1992 (下)』平成五年河出書房新社)・中田浩二「読売新聞」四月二四日夕刊

収録─作品集『今ここ』

 

野間さんのこと  
『追悼 野間省一』(八月一〇日講談社)非売品  追悼(「野間さん」とは講談社名誉会長野間省一。野間〔旧姓高木〕は明治四四年静岡市に生まれ。静岡高校、東京大学を経て、南満州鉄道入社。野間登喜子と結婚し改姓、大日本雄弁会講談社取締役、のち社長。出版文化事業を中心に多方面にわたって指導的役割をはたした。昭和五九年歿、享年七三歳。なお藤枝は「賞とわたし」昭和五五年でも野間について書いている。単行本未収録)

今ここ    
「群像」九月号   小説(文中の五言絶句は、唐詩選にある太上隠者〔たいじょういんじゃ〕の「答人〔人に答うる〕」と題する詩である。太上隠者は姓名・事跡とも不明。この一首しか伝わっていない。隠者と云うことでは、「厭離穢土」昭和四四年の主人公章は友人から「隠逸伝」を借りて読む。/なお「今ここ」はその約三分の一を平野謙の愛唱詩の記述にあてている。この詩についてわかったことを以下記す。この詩の作者は生田長江である。編者がそのことを確認したのは『現代日本文学集第二八篇』〔昭和五年刊〕である。全文ひらがなでタイトルは「ひややかに」である。「ひややかにみづをたたへて かくあればひとはしらじな ひをふきしやまのあととも」。その後生田長江・赤松月船共著『新作詩入門』〔昭和三年刊〕で、作例としての「ひややかに」を確認した。「今ここ」では大正七、八年ころ出た『詩の作り方』という本に載っているかも知れないと推測している。なお編者の手元にある平野の色紙は「ひややかに水をたたへて かくあれば人はしらじな 火をふきし山のあととも」と漢字まじりである。『本多秋五全集別巻一』年譜の昭和四二年の項に、藤枝も同行の北海道旅行で平野がこの詩を色紙に書くのを初めて見るとある。「欣求浄土」昭和四三年の項参照。藤枝静男は追悼「平野謙一面」昭和五三年でこの詩を引用し、秋山庄太郎写真集『作家の風貌一五九人』〔昭和五三年美術出版社・作家の写真と書を見開き二頁〕にこの詩を書き〔書の日付は昭和四九年とあるから平野生前のことである〕、また編者の手元にある創作集『空気頭』に識語としてこの詩を書いてもいる〔「亡友平野謙愛唱詩」とあるから勿論『空気頭』が発刊された昭和四二年に書かれたものではなく平野歿後のことになる〕同文面で「昭和五十八年六月末」と記された色紙もある。藤枝にとってこの詩が格別なものであったと言えよう。編者は「藤枝文学舎ニュース」四八号に藤枝静男のこと(2)として「ひややかに」を書いた。/市役所ロビーで「私」は妻の闘病を思い「あの頃は苦しかった」と考える。このことでは『路』昭和五六年のあと書きに「今度読み返して感ずるのは、やはり自分としては当時の苦痛の想い出しかない」と書いている。/「このあいだ、朝はやくからTさん運転 車に乗せてもらって天竜川北部の山中に入り、次手に足を伸ばして秋葉ダムから修験道の神を祭る遠州秋葉大権現三尺坊まで行って帰ってきた」とあって、すこし間をおいてまた「このあいだの朝は、数年前からの私の習慣で、天竜川上流の地理にくわしいTさんが小型車で迎えにきてくれたので私は助手席に乗せてもらい、行く先は途中で決めることとしてとにかく天竜川秋葉ダムから更に急流について遡行し、結局は秋葉大権現三尺坊まで登って帰ってきた」と繰り返されている。生前単行本に収録される機会があればきっと手直しされたであろう。没後刊行された『今ここ』には初出のまま収録。/三尺坊の宮司の息子河村直が出てくる。藤枝静男はこの河村をモデルにいくつか作品を書いている。小説に「春の水」昭和三七年・「疎遠の友」昭和四八年、随筆に「あやまる」昭和三五年である。「山住神社については「山川草木」昭和四七年の項参照。/遠州灘で青年たちがラジコン飛行機を飛ばしている場面がある。「田紳有楽」でも天竜川河口で男たちがラジコン飛行機を飛ばしているのを私、磯碌億山が飽きずに眺める場面があった。/「老いたる私小説家の私倍増小説」は「実にイヤだ」と結んだ。この最後の小説「今ここ」では、「どうでもいいようなものだが自分自身にしてみれば一種の苦痛感がある。馬鹿げた話だ」と結ぶ。/浜松文芸館に「今ここ」の原稿がある。アチコチ真っ黒に塗りつぶされ、さながら抽象絵画のようである。「田紳有楽」で婆羅門が牛角に腹を突き抜かれ黒液を一面にほとばしらせる場面を、編者は連想した。平成二〇年に開催された「藤枝静男展」では、この「今ここ」の原稿のコピーが大きなパネルで展示された)

 

時評─奥野健男「未詳」八月二七日未詳(『奥野健男文芸時評 1976 〜 1992 (下)』)

合評─日野啓三・坂上弘・青野聡「群像」一〇月号     

収録─作品集『今ここ』

 

藤小創立百周年に寄せて   
『藤枝小学校・百年の歩み』(一一月一〇日、藤枝市立藤枝小学校百周年記念実行委員会編)  随筆(単行本未収録 筆名は勝見次郎。 編者の手元に、書かれた時期は不明だが藤枝静男の色紙「年々歳々花相似 歳々年々人不同」がある)



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