故榎本君の想い出
『石心桃夭』の掲載誌(紙)一覧で「浜松医師会ウィークリー」三月となっているが未見。榎本については静男巷談「殊勲の本塁打」昭和三七年の項参照)
愛らしさ─南京博物院展に期待する
「中日新聞」三月一七日朝刊 随筆(「愛らしさ(南京博物院展への期待)」として 石 「中華人民共和国南京博物院展」名古屋展 1981.3.20 〜 5.10 名古屋市博物館)
雑誌「近代文学」のこと
「『近代文学』復刻版・解説・細目・執筆者索引」(三月二〇日、日本近代文学館発行) 随筆(単行本未収録。本復刻版は藤枝静男所蔵の「近代文学」が元となった。埴谷雄高は「『近代文学』の復刻」〔「新潮」昭和五五年一一月号〕で書いている。「『近代文学』の最高最大の擁護者である藤枝静男は創刊号から終刊号にいたるまでのすべてをきちんと揃えて、表具師に頼んで特別につくらせた八巻の帙におさめ、その上に自ら『近代文学』と大書し、藤枝家におけるルオーをはじめとする多くの絵画や藤原末期鎌倉初期の寄木の見事な仏像や古い壷に劣らぬ『貴重品』として保管していることを、毎年藤枝家を訪れている私達はすでに見知っていたのである。極度に気を配られて『大事』に保管されているその『近代文学』は表紙の色も褪せていないので、一冊ずつばらばらにできる唯一の原本として、この『藤枝本』もまた近代文学館に貸し出されることになったのであった」。雑誌類は図書館などで合册製本されることが多い。保管上止む終えないかも知れないが、一冊ずつ手に取ってこそ当時の趣を実感できる)
わが巨木崇敬癖
「潮」四月号 随筆(幻の茶の巨木のことは昭和四三年「天女御座」で書いている。 石 )
書をめぐる個人的回想
『書の本3 書の楽しみ』(四月三〇日筑摩書房) 随筆( 石 文中の「巡洋艦駆逐艦潜水艇給炭船」は『尋常小學書キ方 手本第六學年用上甲種 』にある。/書者の日高秩父については、「雄飛号来たる」で船長が日高大尉というのを連想する。随筆「少年時代のこと」でも「日高大尉」と書いているので単なる記憶違いか。当時の新聞記事によれば雄飛号の船長は益田少佐である。/なお沖六鵬『三人の母』昭和三九年講学館は雑誌「芙蓉」に連載したもの。テレビ映画化。沖については「沖六鵬と藤枝」平成元年藤枝市郷土博物館がある。/老子の「道ハ一ヲ生ズ 一ハ二ヲ生ズ 二ハ三ヲ生ズ」では「「二ハ二」昭和五六年がある。/初山独堪禅師は静岡県引佐郡細江町にある初山宝林寺の創建者で中国からの渡来僧。宝林寺については「壜の中の水」昭和四〇年の項参照。/駱?王「此地燕丹ニ別ル…」は『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男』昭和五三年の著者筆跡に書いている)
「極楽」を推す
「群像」六月号 選評( 石 このときの選考委員は藤枝のほか川村二郎、木下順二、瀬戸内晴美、田久保英夫。小説当選作・笙野頼子「極楽」、評論当選作・小林広一「斉藤緑雨論」。/笙野は授賞式のときのことを二六年後に書いている。「ホテルのロビーで、彼に会った。昔風の紺の背広、同色のうんと細いネクタイ。真っ白な髪と前屈みの姿勢。座っている現代的なロビーの椅子が、なぜか壁をくり抜いたもののように見えた。気後れする私に、『まだ若いんだから』と彼は言った。愚かな若者は軽薄な受け答えをした。彼はほんの少し目を開いた。」「すぐ周囲に人が集まってきた。この人は『ここ』の『神様』なのだと判った。『ほかになかったから』と選考結果に、私の傷だらけの作品に彼は触れた。振り返って思う。もし先に『田紳有楽』を読んでいたら、私は雷に打たれて死んでしまっただろうと」朝日新聞平成一九年二月二五日。なお「極楽」はその後なかなか活字化されることなく、平成六年になってようやく『笙野頼子初期作品集?』河出書房新社に収録された)
『路』あとがき
『路』(六月二一日成瀬書房)限定二〇〇部 あとがき(「今度読み返して感ずるのは、やはり自分としては当時の苦痛の想い出でしかない」とある。最後の自著あとがきとなった。単行本未収録 藤枝静男の限定本はこれ一冊である。「風信」の高柳克也氏に、義理のある人を介してであったので仕方なく藤枝はこの企画に応じたと聞いたことがある)
本多の姉さんのこと
「文學界」七月号( 石 ・『本多秋五全集別巻一』に収録。文中の室田についてはは「聖ヨハネ教会堂」昭和四九年の項参照)
中沢けい『野ぶどうを摘む』 ─神経のよく通った描法
「群像」八月号 書評( 石 )
志賀さんの油絵
「志賀直哉展─歿後十年」(九月一二日〜二八日・西武美術館)図録 随筆(藤枝静男は本展の編集副委員長。委員長は尾崎一雄。藤枝所蔵の「座右宝」も展示された。『藤枝静男著作集第一巻』収録の「油絵を貰う」と「志賀直哉の油絵」の二つをあわせて改稿。なお本文は「近代文学館館報」六三号に転載。単行本未収録)
志賀直哉歿後十年
「新潮」一〇月号 随筆( 今 『座右宝』についての部分は、「『座右宝』のことなど」昭和四九年の改稿)
前号「志賀直哉歿後十年」への訂正その他
「新潮」一一月号 随筆( 今 冒頭松原敏夫の作り話を信じてしまったことを詫び前号の訂正をしている。この前後の事情を尾崎一雄が「思ひこみ・早とちり ─藤枝静男君のこと─ 」文學界昭和五七年一月号で書いている。/なお文中で「新聞紙をかぶせて印だけ見えるようにしてもらいたかった」という藤枝静男の墨書による由来文は次の通り。「コノ座右宝特製本ハ余ガ永年仰望シテ而モ半バ入手ヲ諦メテ居タトコロ昭和四十四年七月畏友本多秋五ガ鎌倉ノ古書店ニ於テ発見シ余ノ為ニ購求シテクレタ貴重ナ品デアル 下ノ印ハ八月三十一日渋谷ノ邸ニ於テ志賀直哉氏ガ所持セラルゝ中ヨリ選デ手ヅカラ捺サレタモノデアル 昭和四十四年九月一日 藤枝静男記ス」。/また『座右宝』の二七番が欠けていることに吃驚する場面があるが、実は「『座右宝』のことなど」昭和四九年で藤枝静男はそのことは確認済みである。欠番は印刷ミスであろう。『座右宝』は二七番が欠けていて完本である。最後に中国人留学生のことがでてくる。このあとの「みんな泡」の項参照)
二週間だけの中国 ─「新潮古代美術館・鬼神と人間の中国」に寄せて
「波」一一月号 随筆(単行本未収録。 中国旅行については「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」昭和五四年の項参照。取り上げているのは『新潮古代美術館』全一四巻の内の一冊)
みんな泡
「群像」一二月号 小説(差別のことにふれている。このことでは「兇徒津田三蔵」昭和三六年で、穢多解放令をめぐっての会話がある。/支那留学生については、寄せ書きの扁額が藤枝市文学館にある。唐凱の書が左下隅にあるのは事実だが、「惜別」ではない。文中の黄郛の書もあり「東海因縁」とある。この黄郛については「人の噂」昭和八年〔?〕六月号で安田保一郎〔小野庵保蔵〕が「日支外交の大立者─黄郛留学当時の戀物語」なる一文を書いていて、明治四五年のこととしている。寄せ書きに「己酉秋」とあり明治四二年と思われるが。いずれにせよ藤枝静男の小学校入学前のことである。黄郛が入館を拒否した遊就館は靖国神社内の軍事博物館である。なおモデルについての本書の立場は「春の水」昭和三七年の項に書いた。/「父」の養蜂について頁をさいているが、「硝酸銀」昭和四一年に「章の父」と養蜂のことがある。なお父鎮吉の宣宛の昭和九年の手紙に「当方一同元気、秋夫ハ蜂ヲ専門ニ世話シテ居リマス 第一回ノ蜂蜜ヲ採取シマシタ」とある。ハムスターについてはこのあと「ハムスターの仔」昭和五八年がある。/「親友Hの恋人」が出てくる。Hのモデルは北川静男であり、「恋人」は「阿井さん」昭和三三年の阿井夫人の姪、「或る年の冬 或る年の夏」の三枝子とモデルが同じ。/「私」は襖一枚隔てて三日過ごしながら、また相手の誘いを感じながら、その恋人と何事もなくおわる。そして「とにかくやっぱりそれは相手の弱みにつけこむことであるし、おれの劣情に屈する事だし、おれの無責任を許すことになるのだから。それはどうしても嫌だ。卑怯でも何でも、したくてもしないのだ。第一不自然だから…」と書く。このことでは「今ここ」昭和六〇年の平野謙で「彼の肉体的に知っていた女は奥さんだけだったと思う。このこと、、或はこういうことは、彼の『臆病』に依るものであろうが、そういう臆病は、善いにせよ悪いにせよ若者には属性として存在する、或は、私の若かったころには存在した」と書き、平野の愛誦歌「ひややかに…」「という古風で感傷的な詩を非常に好む」と結んでいる。/蛭を使った実験のことは「明るい場所」昭和三三年、「ハムスターの仔」でも書いている。北陸の小都市のことは、昭和一二年、長岡市の眼科医院の留守を預かったときの体験をモチーフにしている。/「老いたる私小説家の私倍増小説」昭和六〇年で「ここ数年来の私は、これまで同じことを何回も書いて雑誌編集者からカラカワれてきた」と書いている。蛭の実験もそうだが、その傾向はたしかにある。本作にある瀧井孝作と蝦蟇合戦を見物に行ったこと、鬼の面をつけた自分を鏡にうつし怖えたことは、「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年で書いている。同じく漢文の老教師の「桃の夭々たる その葉蓁々たり」は「二ハ二」にもある。同じく三方原の開拓農家への往診のことは「昭和五十年」で書いた。本作以外では、瀧井孝作に漢魏の法帳を見せられたことを「ゼンマイ人間」と「虚懐」の両方で書いても いる。云ってみれば老人の繰り言だが、編者もまたすでにその傾向がある。それはそれで必然性があると、これは編者の自己弁護か。/三田誠広評から引用する。「その脈絡のなさが」「支離滅裂な文章を書き綴っている老作家の生きて在ること、そして喘ぎつつ書くことのリアリティを、くっきりと浮き立たせている。崩れれば崩れるだけ、逆にそのリアリティは強固になる。実に不思議な仕掛けだ」。この三田評から連想するのは「ハムスターの仔」のつぎの言葉である。「数え七十六になった意気地なしが、娘夫婦に養われながらこの期に及んでなお耄碌を看板にしたような見苦しい私小説ばかり書いて世間に甘えているのである。夜半寝そびれた床のなかでそのことに心が動いて行くと『われ徒に生きながらえて何をか為せし』という感傷で呻き声をあげたくなることだってあるのである。われながら馬鹿げた話だ」) |