受賞のことば
「群像」一月号 創作集『悲しいだけ』で昭和五四年度(第三二回)野間賞受賞(このときの審査員は中村光夫・佐多稲子・石坂洋次郎・川口松太郎・丹羽文雄・安岡章太郎・井上靖。なお水上勉「金閣炎上」が最後まで有力候補として残った。 石 )
金素雲氏の新著を喜ぶ
「波」一月号 随筆(新著とは『近く遥かな国から』。金素雲は同書の後記に「この一冊のために陰で心を砕かれた藤枝静男氏や岡松和夫・立原正秋両兄に厚くお礼申し上げる」と書く。藤枝は韓国旅行で金と席が隣になる。そのときのことを「韓国の日々」昭和五三年で書いている。/本文中、岩波文庫で読んだ『朝鮮詩集』とあるのは昭和二九年一一月の刊行。この『朝鮮詩集』には変遷がある。素雲は同文庫で「文庫版に添えて」として「昭和十五年以来形を變えて幾度か版を重ねた『朝鮮詩集』が、岩波文庫に加えられることで最後の落ち着き場所を得たという感じです」と書く。昭和十五年以来とは、『譯詩集・乳色の雲』(高村光太郎口絵、島崎藤村・佐藤春夫序文・昭和一五年河出書房)、『朝鮮詩集(前期)』藤島武二口絵、『朝鮮詩集(中期)』棟方志功口絵〔昭和一八年興風館・後期は出版されず〕の仕事を指す。/なお金素雲のこの訳業について林容澤『金素雲「朝鮮詩集」の世界』中公新書は批判している。林はまた素雲が「山本五十六元帥国葬の日に」と題する追悼詩を書いていることにもふれ、韓国にその日本追従姿勢に対する批判があることを指摘している。素雲の訳業に対して、金時鐘著『再訳 朝鮮詩集』 が岩波書店から平成一九年に刊行もされた。そうしたあれこれはあろうが、編者の考えは藤枝文学舎ニュース第五二号「藤枝静男のこと(6)金素雲」平成一一年に書いた。金素雲に「鉄甚平」のペンネーム〔偽名〕で書かれた戦中の著書が何冊かある。「名前の金を失ってもはなはだ平らかである」と読めようか。時の日本は、韓国民に対して小学校での韓国語使用禁止、創氏改名という暴挙を行った。「鉄甚平」をそのことへの受容とみるか、反抗とみるか、それは読者のみなさんの判断におまかせする。/金素雲の仕事の一つに岩波少年文庫『ネギをうえた人』がある。編者には素雲がネギをうえた一人であったと思うのである。「それがネギだということは、だれも知りません。知らないながらも、みんなは、その青い草をたべました。すると、たべた人だけは、人間がちゃんと人間に見えました。それからは、みんなが、ネギをたべるようになりました。もう、むかしのように、牛と人間を、まちがえるようなことも、なくなりました。ネギをうえた人は、だれからも礼をいわれません。そのうえ、みんなにたべられてしまいました。けれども、その人のま心は、いつまでも生きていて、大ぜいの人をしあわせにしました」。/なお藤枝の文中「共通の時代を共通の東京で過ごした」とある。これは藤枝静男が成蹊実務学校で学んでいたとき、一二歳で単身石炭船に便乗して渡日した素雲もまた、新聞の立ち売りなど職を転々としながら東京開成中学夜間に通っていたことを指す。素雲は藤枝と同年の明治四一年生まれである。素雲は昭和二七年ベネチア国際芸術家会議への途中の日本での発言のため時の韓国政府から旅券を没収され帰国を拒否される。その後やむなく一三年間滞日することになるが、岩波文庫の刊行はその間のことである。昭和五六年、釜山の自宅にて死去、享年七三歳。藤枝に「金素雲さんの死を悼む」昭和五七年がある。 石 )
偽信楽壷
「読売新聞」一月五日夕刊 随筆(単行本未収録)
城山さんのこと
『城山三郎全集第一巻』(一月二五日新潮社)月報1 随筆( 石 城山とは昭和四五年のソ連・ヨーロッパ旅行で同行。なお城山に『田紳有楽』評「滓見さん江」〔「野生時代」昭和五一年一〇月号〕がある)
鬼のうわ皮がとれて本来の心の暖かさと明るさが
中上健次『風媒花』(一月二五日作品社)帯文( 石 中上健次とは対談「新しい文学と私小説」昭和五一年がある)
性の悩み解決求め乱読
「朝日新聞」二月三日朝刊 随筆(『私の読書術』昭和五九年かのう書房刊に収録。 「 私の読書 」として 石 トルストイ「クロイツェル・ソナタ」末尾の性交否定論については「青春愚談」昭和四六年でもふれている)
大赤字美術館長
「日本経済新聞」二月一〇日朝刊 随筆( 石 「群像」昭和五九年三月号に「大赤字美術館長その後」。なお「小さな蕾」昭和五六年七月号が「ヨコタ南方民族美術館」取材記。大赤字美術館長である横田正臣に遺著『生きがい─たった一人で創った博物館』平成一五年モデラートがある)
美濃の窯
『探訪日本の陶芸第九巻 美濃・中部篇』(二月一五日小学館) 随筆( 石 文中「私は生来お茶に冷淡だった」とあるが、「これが初めの終わり」という二〇何年か前のお茶の体験を「初めてお茶に呼ばれた」昭和五三年に書いている。紙数をさいている塚本快示は明治四五年生まれ、平成二年没。昭和五八年に人間国宝に認定される。快示の開いた快山窯は長男の塚本満が継いでいる)
賞とわたし
「新刊ニュース」三月号 随筆( 石 文中の牛込亭については「操りの糸(牛込亭)」昭和三三年の項、野間については「野間さんのこと」昭和六〇年の項参照)
初期伊万里系「草花文釉裏紅皿」
「静岡新聞」三月二八日夕刊「九州陶磁名宝展から(5)」 随筆(「九州陶磁名品展」静岡展 3.27 〜 4.1 静岡松坂屋 本稿を喫茶店で書き上げたときの様子を「藤枝文学舎ニュース」第六四号平成二〇年四月で寺田行健「藤枝さんの『判彫り正月』のこと、その他」。 石 )
コップ一杯のウイスキー
「中日新聞」四月四日夕刊「サントリー・リザーブ」広告 広告文(「つけたし」を付け足して 石 「空気頭」昭和四二年に次のような個所がある。「寝る前にウイスキーを角罎四分の一ほどラッパ飲みすることもある。しかしそれで眠りを呼ぼうとするわけではなくて、一度に沢山酒をあおるという、その動作自体が何となく芝居染みて華やかな気分がするせいである」)
両方偽物
「別冊小説新潮」四月春号 随筆( 石 )
滑稽な思い ─連載1
「群像」五月号(連載「外国文学と私」) 随筆(「一車の古本」とあわせ「 外国文学と私 」として 石 『人肉の市』については「青春愚談」昭和四六年の項参照)
梅干し
日清製粉─八〇周年記念『四季八十彩日本人の衣食住』五月 随筆( 石 本書に小川国夫「うなぎ」)
一車の古本 ─連載2
「群像」六月号(連載「外国文学と私」) 随筆( 石 文中の『室生犀星詩集』は改造文庫第二部第九四篇 昭和四年発行。引用されている詩「永久に」の全文は以下の通り。「『永久にさうして行きませう! 一生涯手をとりあって行きませう!』 カラマゾフ兄弟の終りのコーリャの此の言葉をよみ進んだとき自分はほんとに涙を感じた たとへ悪い人間になっても 善い人間に生長しても おたがひ恁うして遊んだ少年時代を忘れないで たったこれだけを忘れないで居ようと みんな少年等が誓ふ合ふところで 自分は何も彼も忘れて泣き出した ああ『永久にさうして行きませう! 一生涯手をとり合って行きませう!』」)
睡蓮の葉に虫 退治法を知りたい
「静岡新聞」六月二日朝刊 随筆( 石 )
日々是ポンコツ
「海」七月号 随筆( 石 ・『日本の名随筆 老』昭和六〇年作品社刊に収録。文中「『群像』の編集部あたりから洩れている」とあるが、「在らざるにあらず」昭和五一年で「群像」との約束時間を間違える場面がある。また老人性皮膚乾燥掻痒症では、「田紳有楽」の磯碌億山もまた老人性掻痒症である。「これを種にして」「短文を書こうとしていた」とあるのは、前出の「外国文学と私」であろう。鈴木大拙夫人ビアトリスについては「ポン先生とビワ先生」昭和三四年、「わが先生のひとり」昭和三九年でもモチーフにしている。なお野口米次郎は彫刻家イサム・ノグチの父である。編者は平成二〇年一月、高松のイサム・ノグチ庭園美術館でその仕事にあらためて感銘した。なお本随筆の原稿を古書目録で見つけたが高額であった。ふさわしいところに収まればと願っている)
鷹野次弥のこと「平沢計七・鷹野つぎのこと」補遺
「群像」八月号 随筆( 石 文中のパンフレットの表題は「東京大学教養学部学生課長─鷹野次彌氏を悼む─遺稿と追憶 第一集」。口絵写真と本文・年譜四二頁。藤枝が「六号活字二段組み十五ページ」というのは長尾龍一「評伝 ある学生課長の生涯」の部分で、きっとこの部分のコピーだけをもらったのであろう。パンフレットはこの評伝の他に鷹野次彌の遺文抄と九人の追悼文〔内一篇はあとがきを兼ねる〕がある。奥付など発行日はないが、鷹野次彌の死は昭和四五年三月二一日であり、「評伝」文末に「一九七〇・四・一七」とある。またあとがき末尾に「東京大学教養学部第一研究室」とある。)
立原正秋のこと ─ きっぱり生きた男
「静岡新聞」八月一五日朝刊 追悼(本紙では「談」となっている。『藤枝静男著作集』完結祝賀会のときの写真。藤枝の左手には幹事役の立原正秋、右手には加賀乙彦。「きっぱり生きた男」として 石 立原に『田紳有楽』及び『悲しいだけ』書評がある。また立原が藤枝静男のことを書いた随筆に「蛙とすっぽんと海鼠」昭和四四年、「吉田知子さんのこと」昭和四五年、「頑固な長老」昭和四八年、「藤枝長老の盃と印授」「落款と陶器と酒」昭和四九年、「法師温泉行」昭和五一年、「平野さんとの距離」昭和五三年などがある)
むかしむかしの藤枝町
「母と生活」九月号 随筆( 石 音楽学校を出た男先生のことは「先生─一高」昭和五〇年にある。洋装の女の子のことは「少年時代のこと」昭和四七年にある。呉服屋の主人笹野大尉のことは「雄飛号来たる」昭和三二年に山井大尉としてある。本誌を平成一七年竹内凱子氏よりいただく。こうした資料は古書店から出ることはまずない)
立原正秋君のこと
「群像」一〇月号 追悼( 石 立原の「早稲田文学」編集長ということでは、編集長対談「『落第免状』余聞」昭和四四年七月号がある。なお藤枝は立原正秋の葬儀委員長をつとめたが、そのときのことを高井有一が『立原正秋』で書いている。高井たちが葬儀委員長を藤枝に頼むと、「大役だな。しかし僕は何でもする」と打って返すように藤枝は引き受ける)
いろいろのこと
『壷法師海雲』(一〇月一五日・上司海雲追悼記刊行会)限定五〇〇部〔本書に「海雲七回忌供養版」昭和五六年がある。五〇〇部限定版に印譜を追加〕 随筆(単行本未収録 編者の手元に藤枝の手で「上司海雲様霊前」と為書きされた『小感軽談』がある。そして目次の「阿弥陀如来下向す」「偽仏真仏」「上司海雲氏のこと」に赤くレ点をつけて「一寸お目を御通し願上ます」との手紙が添えられている。上司は昭和五〇年一月死去。『小感軽談』の刊行は同年七月。手紙の日付は同年一〇月三〇日。遺族に宛てたものであろう。藤枝静男は「観玄?」の書を何枚も書き残しているが、その言葉は上司との縁からであった。「庭の生きものたち」昭和五二年、「志賀直哉文学紀行」昭和四九年の項参照)
やっぱり駄目
「群像」一一月号 小説(藤枝静男が家を新築したのは昭和四三年のことである。金庫のことについては、随筆「金庫の始末」昭和四四年で書いている。/「製材小屋では昼となく夜となくモーターが唸り声をあげていた」とある。編者も生まれてより高校三年二学期に引越すまで、隣の製材所の音と共に製材所の借家で育ち過ごした。バラック建ての台所は、風のままに右へ左へと傾いだ。/沙魚=ハゼ。浜松朝鮮初中級学校は平成六年に静岡市駿河区中島にある静岡朝鮮初中級学校に統合。/「小公園の向こうがわ」の「巾十五メートルばかりの川」は馬込川である。現在天竜川とは合流していない。「滝とビンズル」昭和五一年で「この滝を水源とする川」〔滝は水源ではなかったが〕はこの馬込川のことであろう。/Tさんのモデルはこれまで何回も登場の竹下氏。将軍杉は「木と虫と山」昭和四三年の項参照。/終わりに近く「父から昔の偉いお公卿さんがつくったというイロハ四十八文字」とある。これは正しくは明治三六年万朝報が新しいイロハ歌を募集し一位になったもの。作者は坂本百次郎。漢字で書くと「鳥啼く声す夢覚ませ 見よ明け渡る東を 空色栄えて沖つ辺に 帆船群れゐぬ靄の中」。/釈尊の前世物語では、法隆寺に伝わる玉虫厨子に捨身飼虎図、施身聞偈図が描かれている)
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