『悲しいだけ』あとがき
創作集『悲しいだけ』(二月一五日講談社) 自著あとがき(「自分が囲りを細かい泡みたいなものに閉鎖された状態で半透明に濁った水の底に漂っているような気がして不愉快になることがある。こういう歪んだような光景を、そのときそのときに何かの形でつかまえて写すことで、そこから逃げ出したい気持から書いた」とある。講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』に収録)
劉生の小説その他 『岸田劉生全集第一巻』(三月二三日岩波書店)月報1 随筆( 石 文中に出てくる「浮世絵新聞」は昭和五年一月発行の第六・七号合併号であり「岸田劉生追悼座談会」が掲載されている。/八高時代読んだという『初期肉筆浮世絵』は大正一五年岩波書店、『図画教育論』は同年改造社。「麗子微笑」像は大正一〇年岸田劉生個人展覧会で発表された。その後展覧会歴は昭和三〇年の「歿後二五年記念劉生展」銀座松坂屋までない。同展図録表紙に「麗子微笑」、また「麗子像が出来た頃」と題して岸田麗子が書いている。「そんな時には、私は眉一つ動かさぬ気で大いに誇りを感じて緊張していたものです。自分の気持ちでは、私は父と一緒に制作している気でいたのです」。「麗子微笑」は 45.5 × 38.0 東京国立博物館蔵、重要文化財。劉生の代表作が浜松の古本屋にあったとは驚きである。/岸田劉生は昭和四年、山口県徳山で肝臓病を発して客死、享年三九歳。/なお藤枝静男が昭和三七年に母と妹のために建てた家から、平成一三年多数の勝見薬局の看板が見つかった。痛みが激しいが「ビットル」「司命丸」「鎮咳丸」「快腸丸」「即治膏」「一方水」「精龍丹」である。文中にある「精?水」はなかった。/劉生については「劉生と潤一郎」「内なる美」昭和五一年がある。また「ゼンマイ人間」昭和五五年で岸田劉生展について書いている)
浜松近辺
「藝術新潮」六月号(「ローカルガイド?遠州・浜松」欄) 随筆( 石 冒頭「浜松は楽器製造の街ではあるが音楽の街ではない」と云ったのは実は「他ならぬ私であった」とある。「音楽ならぬごう音」昭和四一年に「浜松は楽器をつくっている町ではあろうが、楽器の鳴っている町では少しもない」とある。また「二十年の浜松生活から」昭和四四年にも同趣旨の記述がある。現在の浜松ならなんと云うだろうか。/立原正秋とスッポンのことが出てくるが、立原に「蛙とスッポンと海鼠」随筆集『秘すれば花』収録がある)
節句前後
「四季の味」夏号〔日々これ好日〕欄(六月七日発行) 随筆(「日々これ好日(節句前後) 」として 石 昭和五五年に「日々是好日」ならぬ「日々是ポンコツ」がある)
ツァイチェン爺さん
「東京新聞」六月一二日夕刊・「中日新聞」六月一六日夕刊 随筆( 石 )
北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京
「群像」七月号 随筆( 石 文中の書籍は木下杢太郎・木村荘八共著『大同石佛寺』大正一一年九月日本美術學院〔これとは別に木下杢太郎著『大同石佛寺』昭和一三年座右寶刊行會がある〕、小川晴暘著『写真集 雲岡の石窟』昭和五三年二月新潮社。小川晴暘の生涯を島村利正が小説『奈良飛鳥園』昭和五五年新潮社にしている。藤枝は「横好き」昭和四二年で小川晴暘の撮影に同行したときのことを書いている。なお同行の辻村は昭和四九年から五〇年のインド旅行に同行し、そのあと藤枝の著書の大半を装幀した辻村益朗である)
ルオー大回顧展によせて
「静岡新聞」七月七日朝刊 随筆(「ルオー展への勧め 」として 石 「ルオー展」浜松市美術館・昭和五四年七月五日〜八月五日 なお藤枝が見たという「フランス絵画コレクション展」は、「美術」昭和九年二月号に広告のある「福島コレクション展」昭和九年二月二日〜二月一一日・日本劇場五階大ホール/主催・国画会であると思われる。同誌には同展出品作の図版と、藤枝が問い合わせたという伊藤廉の一文「福島さんとそのコレクションに就いて」が掲載されている。なお出品作は広告によればマチス五点、ドラン一三点、ピカソ四点、ルオー一〇点、ユトリロ二点、スーチン一点、モヂリアニ一点、ブラック一点である。/藤枝静男はルオーの小品を二点入手するが、そのことを「ゼンマイ人間」昭和五五年で書いている)
荒さんのこと
「海」八月号 追悼( 石 荒については「芥川・直木賞の授賞式」昭和三三年でも書いている。なお「犬の血」出版記念会を荒の新築書庫披露と併せて行ったとあるが、『本多秋五全集』の本多年譜には昭和三六年に「荒正人の新築の書庫兼書斎で藤枝静男の『凶徒津田三蔵』の出版祝いと新築披露を兼ねた会合」とある。『犬の血』の出版祝いも昭和三二年に荒宅で行っているので混同したか。/また「近代文学」同人たちの佐久間ダム工事見学は本多年譜によれば昭和二九年七月である。佐久間ダムは昭和二八年四月から昭和三一年八月にかけて、三六〇億円の工費と三五〇万人の労務者を動員して完成された。また年月は不明だが、天竜市・佐久間町文化財現地研究会参加者名簿を佐久間ダムのパンフレットと一緒に古書店で見つけた。参加者二〇名の中に藤枝静男、内田六郎、平松実らの名がある。)
やきものとの出会い
『心のふるさとを求めて・日本発見3─やきものの里』(八月一〇日暁教育図書) 随筆( 石 『石心桃夭』の初出誌一覧には「やきものの里」とあるだけで、同名の本が他にあったりもしてこの初出誌を見つけるのに編者はいささか苦労した。文中の河村については「疎遠の友」昭和四八年の項参照)
挨拶
平野謙を偲ぶ会記録集『平野謙を偲ぶ』(八月三一日、平野田鶴子・平野謙を偲ぶ会発起人一同刊非売。五月三一日新橋第一ホテルでひらかれた「偲ぶ会」の記録であり、そのときの藤枝静男の挨拶。開会の辞は本多秋五、献杯の言葉は中野重治、挨拶は藤枝のほか山本健吉、中村光夫、大江健三郎、尾崎一雄、佐田稲子、中村真一郎、井上光晴、本多秋五。閉会の辞は埴谷雄高。単行本未収録。この偲ぶ会の席上、井上光晴は平野が恩賜賞を受けたことを批判する爆弾発言。これに対し本多秋五は、平野受賞当時の自分の立場について「井上君の言うことは、理論的には非常に正しい。しかし、僕の立場は、いま病んでいる平野を泣かせることはできぬ。よくても悪くても、平野のすることは支持する。そういう立場でした」と発言。次に立った藤枝は「いま本多がああいうことを言ったので、非常に感動しました。ぼくもそうです。それを先に言っておきます」と続けた。本書には「文学界」八月号に発表した本多秋五「芸術院賞恩賜賞のこと」も転載されている。「跋文」昭和五二年の項参照)
美術展への不満
「小説新潮」九月号 随筆( 石 文中の「書跡の大展観」とは昭和五三年一〇月開催の「特別展・日本の書」東京国立博物館と思われる。また「五島美術館でのお光さま名宝展」は「救世熱海美術館名宝展」昭和五三年三月)
語学力ゼロ、方向オンチ
「昭士会報」九月号 随筆(「昭士会」は千葉医大同窓会。単行本未収録)
平沢計七・鷹野つぎのこと
「群像」一〇月号 随筆( 石 ・平沢の部分を菅原五十一著『郷土のデモクラシー・文学管見』昭和六三年菅沼文庫が収録。同書は関東大震災の混乱のなかで憲兵に虐殺された平沢計七の生涯をくわしく記述している。平沢計七については『評伝平澤計七』平成八年恒文社、鷹野つぎについては『鷹野つぎ著作集全四巻』昭和五四年谷島屋書店、『鷹野つぎ─人と文学』昭和五八年銀河書房、『鷹野つぎ─人と文学』昭和五六年浜松市立高校同窓会などがある。また鷹野つぎの次男次弥のことを、藤枝静男は「鷹野次弥のこと」昭和五五年で書いている。/藤村については「平野謙のこと─歴史一巡の文学的体験」昭和五〇年の項参照)
眠りをさます東海の名園 ─摩訶耶寺庭園
『探訪日本の庭第九巻 東海・北陸』(一〇月一日小学館) 随筆(本随筆に出てくる書籍『摩訶耶寺庭園学術調査報告書』〔限定五〇〇部〕、『濱名史論』上・下は共に非売である。『調査報告書』の序は云う。「発見当初、庭は雑木雑草に覆われ、石組の識別さえまったく困難な有様であったが、筆者〔吉河功〕はあらゆる角度から検討を加えた結果、この庭が鎌倉期を降らぬ稀に見る名園であることを確信し発表したのであった。日本庭園研究会ではさらに本庭を詳しく調査するために本格的学術調査の準備を進め、昭和四十三年八月三日よりこの調査に着手し、同月九日無事全調査を終了することが出来たのである」。日本庭園史上の一大発見を、『調査報告書』は多数の写真と精密な平面図とともに伝えている。/文中の大福寺については「三好十郎と浜納豆」昭和三四年の項参照。/なお「眠りをさます東海の名園」の一節を、小島信夫は「別れる理由」第一三八回「群像」昭和五五年三月号で引用している。 石 )
高麗人形のことなど
「群像」一一月号 追悼( 石 中野重治愛蔵の「高麗人形」については「『高麗人形』ほか」昭和五一年の項参照)
他になし ─文章の要諦
『現代文章宝鑑』(一一月二一日柏書房)帯 ( 石 帯には藤枝の他に、丸谷才一、百目鬼恭三郎らのコメント。本書の帯には、コメントのない別デザインのものあり。『石心桃夭』の初出一覧では宣伝パンフレットとなっているが未見。本書には藤枝静男の次の作品の一部が集録されている。「天宮神社のナギ」「瀧井孝作の文体」「眼は心の窓か」「イペリット眼」「犬の血」)
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