昭和五四年(一九七九年) 七一歳

「みな生きもの みな死にもの」を『群像』二月号に発表。二月、創作集『悲しいだけ』を講談社から刊行。同月、NHK第一放送で「親父と私」。『群像』創作合評を四月号から六月号まで磯田光一・岡松和夫と担当。四月、講談社文庫『凶徒津田三蔵』を刊行。同月、中国旅行。五月、平野謙を偲ぶ会。六月、荒正人脳血栓のため死去。八月、中野重治胆のう癌で死去。荒も中野も平野謙を偲ぶ会の発起人であり出席していた。一〇月、藤枝静男が購入したルオーの画を見に、本多、埴谷、山室、杉浦明平来浜。一一月、NHK教育テレビ日曜美術館「私と原勝四郎」に出演。同月、創作集『悲しいだけ』で第三二回野間文芸賞を受賞。浜名湖会は開催されなかった。この年、ルオー展、岸田劉生展を見る。なお、松本徹が『文藝』七月号に「怒りと無常─藤枝静男論」、桑原敬治が「主潮」第七号に「藤枝静男論(三)」を書いている。

 

日本のカレンダー   
『石心桃夭』の掲載誌(紙)一覧で「昭和五四年一月、浜松ロータリークラブ週報」となっているが未見)  随筆(  日本のカレンダーをソ連の知人に送ることは「異郷の友」昭和三六年に書いている。それから続けていたとすれば、随分長いことになる。「友人たち」とあるので、「異郷の友」のN氏を通じて送る相手が増えたということであろうか)

悪口   
「中日新聞」一月五日夕刊・「東京新聞」二月一三日に転載  随筆(  批評家については、志賀直哉の「批評家無用の長物」論を「仕事中」昭和三二年で紹介している。石庭では、特製版『座右宝』にある二つ折り大判コロタイプ写真による白砂抜き竜安寺石庭の光景はたしかに気持ちがよい。いったいいつから白砂など入れるようになったのか。「晴着」昭和四六年では「雪の降った翌日の竜安寺石庭」の様子を書いている。余談だが編者のおすすめは洛北の円通寺庭園)

富士正晴著『高浜虚子』について   
「俳句」二月号  書評(  「一九七七年の成果」の項参照。富士正晴とは対談「ちかごろの文学─実作者と文芸時評」昭和五一年が、また富士の『虚懐』書評などがある。藤枝が虚子について書いたものに「虚子のレコード」昭和四九年がある)   

みな生きもの みな死にもの   
「群像」二月号  小説(「孫の手」と中国の王様云々がある。関係はないだろうが、内田百?の作品に「王様の背中」。「私」が「小島信夫」と対面する場面がある。「私」は小島の連載小説「別れる理由」を「僕は勝手にあれは『個小説』と呼ぶが好いがと思って」いると告げる。また「私」は「ヘルンあたりから形が同じようになってきて呆気にとられていますが、これにもまた魅せられます」と、小島が「『潮』に連載中の長編作家評伝」のことを話題にする。その評伝をまとめたものに、新潮選書『私の作家評伝1』『同2』がある。残念ながらヘルンについて書いたものは収録されていない。この小島信夫の作家評伝については「文芸時評」昭和五〇年六月でも「小島信夫の『潮』連載の作家評伝がますますユニークで得るところが多い」とある。/小島は長編小説「別れる理由」を「群像」に昭和四三年一〇月号から延々と連載していた。「別れる理由」に「藤枝静男」なる人物が初登場するのは、「みな生きもの みな死にもの」の翌月、「群像」三月号の「別れる理由」一二六回である。そしてこの「藤枝静男」なる人物は、この後「別れる理由」に登場を続ける。「藤枝」初登場の次号「群像」四月号「別れる理由」一二七回で小島は、「前田永造」に「『みな生きもの みな死にもの』というのはいいじゃありませんか。『みな生きもの』というと、そばにいた小学生の孫が『みんな死にものだ』と鸚鵡返しに云った、というのもいいじゃないですか。それでこの題をつけた、というソッケなさも宜しいじゃありませんか」としゃべらせている。しかし藤枝静男は、創作集『虚懐』収録に際してこの部分は削除した。小島信夫『別れる理由』全三巻昭和五七年講談社がある。「藤枝静男」なる人物の登場部分は第三巻に収録。/なお小島信夫と喫茶店で会い話したことを「三田文学」昭和四九年一一月号「現代文学のフロンティア5」のインタビューで藤枝は語っているので、会ったのはそれ以前のことになる。「筆まかせ」昭和四七年には「このあいだ上京したおり小島信夫」と会ったとあるのでこのときのことか。/『虚懐』収録に際し削除した個所がもう一つある。本初出では妻が「横顔を、レースのカーテンで漉かされた弱い光線のなかに浮かばせていたのである」のあとに道元の遺喝を引用し「これを読んだとき私はひどく感銘し、これが理想だと思った。しかし実際には、私はこの黄泉という無の世界を、何とはなしに妻の去った彼の世という実在の場所として感じているのである」と書いている。『虚懐』収録に際し道元の遺喝を全面的に削除し「私は神も仏も信じてはいないし、従って来世など考えたこともないが、不思議にも妻の去って行った彼の世という観念は、やっぱりもやもやとして消し難いのである」と変える。「生と死というふうに」以下同じ。このことは、次年の作「ゼンマイ人間」でも同じ道元の遺喝を引用しているためであったかも知れない。『文学1980』には削除せず初出のまま収録。/宗教的感情については、阿部昭との対談「作家の姿勢」昭和四九年での藤枝の発言がある。/また文中「フーフェランド医典」なるものが出てくるが、毛利孝一著『幕のおりるとき』書評昭和五三年の項参照。/また「椎野駄石みたいな洋医」とあるがこれは評論家篠田一士のもじりであろう。対談「嘘とまことの美感」昭和五五年で「批評家の篠田一士なんて無闇にいばっているからね」と藤枝静男は語っている。/また「二年ばかりまえ正直な誰かさんが『眠気を催した』と白状した」とある「誰かさん」は江藤淳である。「文學界」昭和五〇年一〇月号対談「政治と文学」のなかで、江藤は埴谷雄高「『死霊』第五章『夢魔の世界』」について「ところが五ページくらい読むと、猛然と?夢魔?ではなくて?睡魔?に襲われてどうしようもなかった」と語っている。藤枝は「東京新聞」文芸時評昭和五〇年で反論している。付け加えれば、江藤淳は昭和四五年のソ連・ヨーロッパ旅行の際の同行者であり、藤枝静男は江藤の著書の書評もしてもいる。/「牛のような頭を持った沼の主」ということでは、「土中の庭」昭和四五年に章が化け鰻と対峙する場面がある。/鬼の面をつけた自分を鏡にうつし怖えたことは、「みんな泡」昭和五六年でまた書いている。/「私」とTさんは遠州の大尾山〔おびざん〕に出かける。大尾山は標高六六一メートル。「私」たちは登らなかったが山頂直下に顕光寺〔真言宗〕掛川市居尻四八二がある。遠州一三番札所、掛川城主御祈願所であった。山頂本堂前に高さ三〇M、目通し七Mの二本の杉、鳥居杉がある。/晩年の藤枝静男作品には小動物が毎回のように登場する。以下列記する。本作では蟻地獄、真鯉、鮒、金魚、食用蛙、青大将、蟇、鳩、子犬、鯰、鳶、油蝉。「ゼンマイ人間」では雉鳩、鵯〔ひよどり〕、蓑虫、雀、ゴールデン・ハムスター、ジャンガリアン・ハムスター、ヘキ鳥、ヤマカガシ、青大将、大烏貝、田螺、石亀、ミミズ、赤蜻蛉。「やっぱり駄目」では鵯、蝉、雀、百足、アフリカ爪蛙、青大将、ヤモリ、ヤマカガシ。「二ハ二」ではアフリカ爪蛙。「みんな泡」では蜜蜂、大スズメ蜂、大オタマジャクシ、蝦蟇、食用蛙、鵯、雉鳩、ハムスター、ヘキ鳥、雀、ヤマカガシ、蛭、泥鰌。「人間抜き」では雉鳩。「虚懐」では雀、鵯、柴犬、ハムスター、ヘキ鳥、アフリカ爪蛙、蝉,蟇、青大将。「ハムスターの仔」ではゴールデン・ハムスター、雉鳩。「武蔵川谷右エ門・ユーカリ・等々」では雉鳩、鵯、雀。「老いたる私小説家の私倍増小説」では雉鳩、鵯。「今ここ」では雉鳩)

 

 

時評─秋山駿「読売新聞」一月二五日夕刊(『文学1980』昭和五五年講談社・『生の磁場─文芸時評 1977 〜 1881 』)・奥野健男「サンケイ新聞」一月二九日夕刊(『文学1980』・『奥野健男文芸時評 1976 〜 1992 (上)』)・桶谷秀昭「中日新聞・新聞三社連合」一月三〇日夕刊(『文学1980』・[回想と予感─文芸時評 1979 〜 1981 ]昭和五七年小沢書店)・菅野昭正「共同通信」一月二九日(『文学1980』)・川村二郎「文芸」三月号(『文芸時評』)

合評─川村二郎・高橋健三郎・高橋たか子「群像」三月号

収録─日本文芸家協会編『文学1980』(昭和五四年四月講談社)、創作集『虚懐』(昭和五八年二月講談社)

 

『悲しいだけ』あとがき   
創作集『悲しいだけ』(二月一五日講談社)  自著あとがき(「自分が囲りを細かい泡みたいなものに閉鎖された状態で半透明に濁った水の底に漂っているような気がして不愉快になることがある。こういう歪んだような光景を、そのときそのときに何かの形でつかまえて写すことで、そこから逃げ出したい気持から書いた」とある。講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』に収録)

劉生の小説その他    『岸田劉生全集第一巻』(三月二三日岩波書店)月報1  随筆(  文中に出てくる「浮世絵新聞」は昭和五年一月発行の第六・七号合併号であり「岸田劉生追悼座談会」が掲載されている。/八高時代読んだという『初期肉筆浮世絵』は大正一五年岩波書店、『図画教育論』は同年改造社。「麗子微笑」像は大正一〇年岸田劉生個人展覧会で発表された。その後展覧会歴は昭和三〇年の「歿後二五年記念劉生展」銀座松坂屋までない。同展図録表紙に「麗子微笑」、また「麗子像が出来た頃」と題して岸田麗子が書いている。「そんな時には、私は眉一つ動かさぬ気で大いに誇りを感じて緊張していたものです。自分の気持ちでは、私は父と一緒に制作している気でいたのです」。「麗子微笑」は 45.5 × 38.0 東京国立博物館蔵、重要文化財。劉生の代表作が浜松の古本屋にあったとは驚きである。/岸田劉生は昭和四年、山口県徳山で肝臓病を発して客死、享年三九歳。/なお藤枝静男が昭和三七年に母と妹のために建てた家から、平成一三年多数の勝見薬局の看板が見つかった。痛みが激しいが「ビットル」「司命丸」「鎮咳丸」「快腸丸」「即治膏」「一方水」「精龍丹」である。文中にある「精?水」はなかった。/劉生については「劉生と潤一郎」「内なる美」昭和五一年がある。また「ゼンマイ人間」昭和五五年で岸田劉生展について書いている)

浜松近辺   
「藝術新潮」六月号(「ローカルガイド?遠州・浜松」欄)   随筆(  冒頭「浜松は楽器製造の街ではあるが音楽の街ではない」と云ったのは実は「他ならぬ私であった」とある。「音楽ならぬごう音」昭和四一年に「浜松は楽器をつくっている町ではあろうが、楽器の鳴っている町では少しもない」とある。また「二十年の浜松生活から」昭和四四年にも同趣旨の記述がある。現在の浜松ならなんと云うだろうか。/立原正秋とスッポンのことが出てくるが、立原に「蛙とスッポンと海鼠」随筆集『秘すれば花』収録がある)

節句前後  
「四季の味」夏号〔日々これ好日〕欄(六月七日発行)  随筆(「日々これ好日(節句前後) 」として   昭和五五年に「日々是好日」ならぬ「日々是ポンコツ」がある)

ツァイチェン爺さん   
「東京新聞」六月一二日夕刊・「中日新聞」六月一六日夕刊  随筆(

北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京   
「群像」七月号  随筆(  文中の書籍は木下杢太郎・木村荘八共著『大同石佛寺』大正一一年九月日本美術學院〔これとは別に木下杢太郎著『大同石佛寺』昭和一三年座右寶刊行會がある〕、小川晴暘著『写真集 雲岡の石窟』昭和五三年二月新潮社。小川晴暘の生涯を島村利正が小説『奈良飛鳥園』昭和五五年新潮社にしている。藤枝は「横好き」昭和四二年で小川晴暘の撮影に同行したときのことを書いている。なお同行の辻村は昭和四九年から五〇年のインド旅行に同行し、そのあと藤枝の著書の大半を装幀した辻村益朗である)

ルオー大回顧展によせて   
「静岡新聞」七月七日朝刊  随筆(「ルオー展への勧め 」として  「ルオー展」浜松市美術館・昭和五四年七月五日〜八月五日 なお藤枝が見たという「フランス絵画コレクション展」は、「美術」昭和九年二月号に広告のある「福島コレクション展」昭和九年二月二日〜二月一一日・日本劇場五階大ホール/主催・国画会であると思われる。同誌には同展出品作の図版と、藤枝が問い合わせたという伊藤廉の一文「福島さんとそのコレクションに就いて」が掲載されている。なお出品作は広告によればマチス五点、ドラン一三点、ピカソ四点、ルオー一〇点、ユトリロ二点、スーチン一点、モヂリアニ一点、ブラック一点である。/藤枝静男はルオーの小品を二点入手するが、そのことを「ゼンマイ人間」昭和五五年で書いている) 

荒さんのこと   
「海」八月号  追悼(  荒については「芥川・直木賞の授賞式」昭和三三年でも書いている。なお「犬の血」出版記念会を荒の新築書庫披露と併せて行ったとあるが、『本多秋五全集』の本多年譜には昭和三六年に「荒正人の新築の書庫兼書斎で藤枝静男の『凶徒津田三蔵』の出版祝いと新築披露を兼ねた会合」とある。『犬の血』の出版祝いも昭和三二年に荒宅で行っているので混同したか。/また「近代文学」同人たちの佐久間ダム工事見学は本多年譜によれば昭和二九年七月である。佐久間ダムは昭和二八年四月から昭和三一年八月にかけて、三六〇億円の工費と三五〇万人の労務者を動員して完成された。また年月は不明だが、天竜市・佐久間町文化財現地研究会参加者名簿を佐久間ダムのパンフレットと一緒に古書店で見つけた。参加者二〇名の中に藤枝静男、内田六郎、平松実らの名がある。)

やきものとの出会い   
『心のふるさとを求めて・日本発見3─やきものの里』(八月一〇日暁教育図書) 随筆(  『石心桃夭』の初出誌一覧には「やきものの里」とあるだけで、同名の本が他にあったりもしてこの初出誌を見つけるのに編者はいささか苦労した。文中の河村については「疎遠の友」昭和四八年の項参照)

挨拶   
平野謙を偲ぶ会記録集『平野謙を偲ぶ』(八月三一日、平野田鶴子・平野謙を偲ぶ会発起人一同刊非売。五月三一日新橋第一ホテルでひらかれた「偲ぶ会」の記録であり、そのときの藤枝静男の挨拶。開会の辞は本多秋五、献杯の言葉は中野重治、挨拶は藤枝のほか山本健吉、中村光夫、大江健三郎、尾崎一雄、佐田稲子、中村真一郎、井上光晴、本多秋五。閉会の辞は埴谷雄高。単行本未収録。この偲ぶ会の席上、井上光晴は平野が恩賜賞を受けたことを批判する爆弾発言。これに対し本多秋五は、平野受賞当時の自分の立場について「井上君の言うことは、理論的には非常に正しい。しかし、僕の立場は、いま病んでいる平野を泣かせることはできぬ。よくても悪くても、平野のすることは支持する。そういう立場でした」と発言。次に立った藤枝は「いま本多がああいうことを言ったので、非常に感動しました。ぼくもそうです。それを先に言っておきます」と続けた。本書には「文学界」八月号に発表した本多秋五「芸術院賞恩賜賞のこと」も転載されている。「跋文」昭和五二年の項参照)

美術展への不満   
「小説新潮」九月号  随筆(  文中の「書跡の大展観」とは昭和五三年一〇月開催の「特別展・日本の書」東京国立博物館と思われる。また「五島美術館でのお光さま名宝展」は「救世熱海美術館名宝展」昭和五三年三月)

語学力ゼロ、方向オンチ   
「昭士会報」九月号  随筆(「昭士会」は千葉医大同窓会。単行本未収録)

平沢計七・鷹野つぎのこと   
「群像」一〇月号  随筆( ・平沢の部分を菅原五十一著『郷土のデモクラシー・文学管見』昭和六三年菅沼文庫が収録。同書は関東大震災の混乱のなかで憲兵に虐殺された平沢計七の生涯をくわしく記述している。平沢計七については『評伝平澤計七』平成八年恒文社、鷹野つぎについては『鷹野つぎ著作集全四巻』昭和五四年谷島屋書店、『鷹野つぎ─人と文学』昭和五八年銀河書房、『鷹野つぎ─人と文学』昭和五六年浜松市立高校同窓会などがある。また鷹野つぎの次男次弥のことを、藤枝静男は「鷹野次弥のこと」昭和五五年で書いている。/藤村については「平野謙のこと─歴史一巡の文学的体験」昭和五〇年の項参照)

眠りをさます東海の名園 ─摩訶耶寺庭園 
『探訪日本の庭第九巻 東海・北陸』(一〇月一日小学館)  随筆(本随筆に出てくる書籍『摩訶耶寺庭園学術調査報告書』〔限定五〇〇部〕、『濱名史論』上・下は共に非売である。『調査報告書』の序は云う。「発見当初、庭は雑木雑草に覆われ、石組の識別さえまったく困難な有様であったが、筆者〔吉河功〕はあらゆる角度から検討を加えた結果、この庭が鎌倉期を降らぬ稀に見る名園であることを確信し発表したのであった。日本庭園研究会ではさらに本庭を詳しく調査するために本格的学術調査の準備を進め、昭和四十三年八月三日よりこの調査に着手し、同月九日無事全調査を終了することが出来たのである」。日本庭園史上の一大発見を、『調査報告書』は多数の写真と精密な平面図とともに伝えている。/文中の大福寺については「三好十郎と浜納豆」昭和三四年の項参照。/なお「眠りをさます東海の名園」の一節を、小島信夫は「別れる理由」第一三八回「群像」昭和五五年三月号で引用している。

高麗人形のことなど   
「群像」一一月号  追悼(  中野重治愛蔵の「高麗人形」については「『高麗人形』ほか」昭和五一年の項参照)

他になし ─文章の要諦  
『現代文章宝鑑』(一一月二一日柏書房)帯  (  帯には藤枝の他に、丸谷才一、百目鬼恭三郎らのコメント。本書の帯には、コメントのない別デザインのものあり。『石心桃夭』の初出一覧では宣伝パンフレットとなっているが未見。本書には藤枝静男の次の作品の一部が集録されている。「天宮神社のナギ」「瀧井孝作の文体」「眼は心の窓か」「イペリット眼」「犬の血」)

創作集『悲しいだけ』  
昭和五四年二月一五日  講談社刊
装  幀 辻村益朗
収録作品 滝とビンズル/在らざるにあらず/出てこい/雛祭り/悲しいだけ/庭の生きものたち/雉鳩帰る/半僧坊
あとがき 藤枝静男
本書で第三二回野間文芸賞を受賞。なおこれまで『空気頭』『欣求浄土』『或る年の冬 或る年の夏』が野間文芸賞候補作品であった。 

『悲しいだけ』書評
立原正秋「朝日ジャーナル」四月六日号(『冬の花』昭和五五年新潮社・『立原正秋全集第二十二巻』)・大江健三郎「朝日新聞」三月二六日夕刊(『方法を読む』昭和五五年講談社)・中野孝次「群像」四月号・桶谷秀昭「日本読書新聞」四月一六日号・進藤純孝「婦人公論」三月号・高橋英夫「サンデー毎日」四月八日号(『小説は玻璃の輝き』)・匿名「読売新聞」三月五日朝刊・匿名「朝日新聞」三月一一日朝刊・匿名「静岡新聞」三月一九日朝刊


講談社文庫『凶徒津田三蔵』  
昭和五四年四月一五日  講談社刊
カバー装画 辻村益朗
収録作品 凶徒津田三蔵  「凶徒津田三蔵」のこと /愛国者たち  孫引き一つ─二人の愛国無関係者─大津事件手記─児島惟謙
解  説 桶谷秀昭 





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