昭和五一年(一九七六年)   六八歳

『文藝』一月号で坂上弘と対談「文学と社会倫理」。同月、旧「犀」同人が中心になって「文芸時評」慰労会。「田紳有楽終節」を『群像』二月号に発表。『文學界』二月号で富士正晴と対談「ちかごろの文学─実作者と文芸時評」。三月、妻智世子乳癌再発手術、五月末退院。四月、平野謙が癌研に入院、五月食道癌の手術。「滝とビンズル」を『文藝』五月号に発表。五月、『田紳有楽』を講談社から刊行。同月、旧「犀」同人の旅行(法師温泉)に同行、「一枚の油絵」が『文学一九七六』(講談社)に収録される。七月、智世子欧州旅行。同月、『藤枝静男著作集第一巻』を講談社から刊行。本著作集は全巻全冊に署名、自刻落款。「在らざるにあらず」を『群像』八月号に発表。同月、妻智世子再発手術、丸山ワクチン使用。九月、『田紳有楽』により第一二回谷崎潤一郎賞を受賞。『朝日新聞』「ひと」欄、『読売新聞』「人間登場」欄などで藤枝静男訪問記。同月、『藤枝静男著作集第二巻』刊行。「出てこい」を『群像』一〇月号に発表。一〇月、智世子退院し谷崎賞授賞式に出席。埴谷雄高、立原正秋らが智世子に付き添った。『日本読書新聞』一一月八日号で中上健次と対談「新しい文学と私小説」。同月、『藤枝静男著作集第三巻』刊行。浜名湖会は開催されなかった。智世子、腹水あるも痛みなく主治医往診を受けながらステロイド、輸血などで越年。この年、岸田劉生とその周辺展、日本国宝展、平安鎌倉の金銅仏展、ドイツ・リアリズム展、中華人民共和国古代青銅器展、ルフィーノ・タマヨ展、出光・白鶴美術館交換展、岸田劉生展、ヴァン・ゴッホ展を見る。なお『藤枝静男著作集』全巻に小川国夫が解説を書いている。また高橋英夫が「元素としての『私』─私小説序論」を「群像」二月号に、藤枝静男の『東京新聞』文芸時評での天皇の記者会見に対する発言に共鳴して、伊藤成彦が「『五勺の酒』と?ボロボロの駝鳥?」を『春秋』二・三月号に書いている。

 

竹絵付け ─「骨董歳時記」連載1  
「小さな蕾」一・二月号  随筆(

誕生日   
「静岡新聞」一月五日夕刊  随筆(  明治四一年の項参照)

「岸田劉生とその周辺」展のこと ─都会人の目の鋭さ  
「静岡新聞」一月二四日朝刊  随筆(「岸田劉生とその周辺展」 1.18 〜 2.15 浜松市美術館    「劉生の小説その他」昭和五四年の項参照)

田紳有楽(終節)    
「群像」二月号  小説(一一〇枚「私は永世の運命を担ってこの世に出生し」文庫六九頁からラストまで。単行本『田紳有楽』収録にあたりこの「終節」の部分は細かな書き換えは多々あるものの、「田紳有楽前書き」「田紳有楽前書き(二)」にくらべて大きな変更はない。/文中出てくる「鋤雲(じょうん)」は幕末から明治にかけて活躍した栗本鋤雲である。中野重治『本とつきあう法』昭和五〇年のなかに『栗本鋤雲遺稿』(島崎藤村序文・昭和一八年鎌倉書房)について書いたものがある。同書は栗本瀬兵衛が父の遺稿『匏庵遺稿』〔匏庵〈ほうあん〉は鋤雲の別号〕をもとに編んだ書である。共にその「獨寐寤言」の冒頭の一文「急流勇退」のなかに「喉中鋸木声」はある。まだネットを始めていなかった編者が、この言葉にたどりついた経緯は藤枝文学舎ニュース第五四号「藤枝静男のこと?鋤雲」平成一七年一〇月に書いた。/また「とこうするうちに痒みは金玉の皮にまで及ぶのである」とある。このことは「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年でも書いている。金玉については静男巷談「外国語」昭和三八年の項を参照。老人性掻痒症については「日々是ポンコツ」昭和五五年にある。また「やっぱり駄目」同年に「僕は寝床に入って暖まると身体じゅう痒くなって七転八倒するから泊るのは嫌だ」のセリフがある。/滓見Aが海揚がりを希塩酸で綺麗にする方法を得意げに喋っているが、「横好き」昭和四二年に、湯呑みを苛性ソーダ液につけて金彩が全部とれて失敗した話がある。海揚がりでは井伏鱒二に短篇「海揚り」があり、海揚がりについての適切な解説になっている。/「厚唇ずんぐり、頭でっかちでも威厳満点の東大寺さん式男姿」とあるが、志賀直哉編集の『座右宝』に収録されている通称「試みの大仏」が念頭にあったか。/骨笛については「チベットの短剣と骨笛」昭和五二年がある。また中上健次との対談「新しい文学と私小説」の冒頭骨笛を話題にしている。/「釈迦は前世が兎のせいで大人しくて困る」とあるが、釈迦の前世が兎という本生潭を編者はまだ眼にしていない。藤枝の創作か。/リモコン模型飛行機を飽きずに眺める場面は、「天竜河口の秋」昭和四八年を使っている。藤枝は繰り返す情景を飽きずに眺める主人公を、よく描く。/御座の松は「天女御座」昭和四三年で書いている。/「木は人間などかまっていやしない」では「木と虫と山」昭和四三年に「人や虫ケラの運命とも関係なしに、勝手に北海道の一部を持ちあげた」がある。/「ふと思いついて一週間ばかりまえに兜卒天から届いたススルータ医学大事典の新版を書斎から」とある。このことでは藤枝の千葉医大時代の恩師伊東教授は『ススルタ大医典』の翻訳者である〔『ススルタ大医典』全三卷、英訳ビスハグラトナ、原訳伊東弥恵治、補訳鈴木正夫昭和四六年〜四九年〕。静男巷談「先生」昭和三四年の項を参照。/磯碌億山はコーラを買って飲んだあと香川県直島近くの海底で一夜を過ごす。編者は平成二〇年、高松港から直島、直  島から宇野港へとフェリーで渡った。船上の編者は、海底にねそべっている億山の姿を想った。直島はいま安藤忠雄設計の地中美術館もあり観光客で賑わっている。/億山は待合室の売店でコーラを飲む。「ゲルニカを見て感あり」昭和三八年で「生まれて始めてコカ・コーラを飲んだ。変わった味でうまかった」とある。また「木と虫と山」昭和四三年でも「章」は粟ケ岳の頂上の茶店でコカ・コーラを飲む。/億山は海底で夢心地で思う。「しかしその哲学もいずれは擦り減って、次に現れる法で滅びるだろう。そしてその法もまた滅びて無常に帰する。すべての法は空であり実体はあり得ない。空転空転」。後述の三枝の著の「舎利弗(2)」の章につぎの言葉がある。「もろもろの法〔もの〕は因縁によって生じる。この法〔教え〕はその因縁を説く。この法〔もの〕は因縁によって尽きる〔ほろびる〕。偉大な師はこのように説かれた」。「空転空転」に続けて「その動力はエーケル エーケル」とある。エーケルは「厭離穢土」にある「 das Ekel 」からであろう。「その動力は嫌悪 嫌悪」というわけである。/また夢に婆羅門提舎〔ティシュヤ〕が出てくる。これは「大智度論」にある話がもとだが、腹に銅板を二重に巻き頭に火を乗せた風体以外、話の展開は藤枝の創作である。「大智度論」では、提舎は死ぬこともなく黒汁をまき散らせることもなく、釈迦の弟子のなかで知恵第一とされる舎利弗〔シャーリプトラ〕の親である。舎利弗すなわち「般若心経」に出てくる舎利子である。しかしその「知恵」こそが、暗愚の源だと藤枝は云いたいのかも知れない。「出てこい」にも雑誌「心」に連載の三枝充悳「大智度論の物語」からとして鬼と死人の話が〔こちらはそのままの内容で〕引用されており、同じ連載を読んでの創作であろう。三枝の連載はレグルス文庫『大智度論の物語(一)』『同(二)』にまとめられている。婆羅門提舎のことは「舎利弗の名前の由来」の章、鬼と死人の話は「鬼」の章、ともに『同(二)』に収録されている。/黒汁ということでは「風景小説」昭和四八年に「つまり私の心は闇汁と同じ」の言葉がある。地蔵菩薩が「無仏五濁の現世」と云う。五濁とは?劫濁〔こうじょく〕─時代のけがれ、天災、戦争などの社会悪、?見濁〔けんじょく〕─思想のけがれ、邪な見解、考え、?煩悩濁〔ぼんのうじょく〕─精神的な悪徳がはびこる、?衆生濁〔しゅじょうじょく〕─身・心が弱まり質的に低下する、?命濁〔めいじょく〕─寿命が短くなる=岩波文庫『浄土三部経』より。釈迦の死後の世界については「私々小説」昭和四八年の項参照。/さて帰宅した億山は眠りに引きこまれつつ「さあ、こんどこそ貴様らをつかまえてやるぞ」と心に叫ぶ。また妙見と合奏しながら「田紳有楽、田紳有楽、捉えよ、捉えよ」と叫ぶ。「出てこい」でも「よくわからぬものに向かって『出てこい、出てこい』と絶叫」する。つかまえようとし、捉えようとし、出てこいと絶叫した相手〔もの〕は何だったのか。「悲しいだけ」昭和五二年のラストに「行くてに大きな山のようなものの姿がある。その姿は、思い浮かべるどころか想像することも不可能である。何だかわからない。しかし自分が少しずつでも進歩して或るところまで来たとき、自分の窮極の行くてにその山は現れてくるだろう、何があるのだろう、わからないと思っているのである。今は悲しいだけである」とある。また「庭の生きものたち」昭和五二年に「ある者に向かって『そのまま眠れ』と心の奥に」呟く。もう出てこなくてもいいということか。「今ここ」昭和六〇年の一節に「『今ここ』とときどき思うが、今ここには何もありはしない。ただ何だか知れぬが頻りにそういうような変な気がするだけだ。中身なんかない」とある。もう何もないのである。/「田螺の大口のすみから仔が生まれて」では「緑の光」昭和四九年で孫が田圃からとってきたタニシが子タニシを生んだことを書いている。「猥褻歓喜の生命に満ち神々」とある。チベット密教に見られる多面多臂の忿怒尊で明妃〔配偶女神〕と交合したヤブユム〔父母神〕をイメージしてのことであろう。/グイ呑みの肌が「白天目の肌」を連想させるとある。藤枝に「私の見たい『秋草文壷』と白天目」昭和五〇年がある。/「ミロク、ミロク」と億山を呼び起こす妙見といえば、「風景小説」昭和四八年に出てくる大陽寺の本尊が妙見菩薩であった。大黒天が最後に登場する。大黒天は古代インドでは暗黒の神、仏教に取り入れられて鬼神を降伏せしめる忿怒神。もともとは三面六臂、正面三目、左右二面の異形の姿で表された。「琵琶湖東岸の寺」昭和五〇年で金剛輪寺の忿怒の大黒天について書いている。/妙見が「十万億土とは黒い洞穴までの道のり、真黒々の暗闇が即ち浄土」と引導をわたす。なにもないということを、了解せよということであろう。「私々小説」昭和四八年では「私の夢のなかでは、母も弟も」「十万億土の闇のなかを釈迦の膝元に向かって歩いて行くのである。儚いというも愚かだ」と書いていた。そこでは儚くて愚かでも、母と弟が釈迦の膝元に辿りつくというイメージを「私」は頭から払いのけることができない。/「田紳有楽」は億山、滓見A、滓見B、妙見、大黒たちの大合奏─ジャラン ジャラン ジャラジャラ ガーン ポラーン 「ペイーッ ペイーッ」「田紳有楽 田紳有楽」─で幕を閉じる。「一家団欒」昭和四一年ではヒヨンドリの太鼓の音─デンデコ、デコデコ。デンデコ、デコデコ─であった。その大々増幅。遠藤周作は谷崎賞の選評でこの最後の場面に疑問を呈している。「筆まかせ」昭和四七年の項参照。/なお「群像」本号に高橋秀夫「元素としての『私』─私小説序論」)
 

 

時評─大岡信「朝日新聞」一月二七日夕刊(『現代文学・地平と内景』昭和五二年朝日新聞社)・川村二郎「読売新聞」一月二八日夕刊(『文学の生理─文芸時評 1973 〜 1976 』)・上田三四二「京都新聞」一月二九日朝刊 

収録─「田紳有楽」に同じ

 

観音寺の大壺   
「藝術新潮」二月号  随筆(  「芸術新潮」平成一〇年一〇月号に、泥棒によってコナゴナに割られそして修復された「観音寺の大壺」の後日談がある)

使用済みの原稿用紙   
「風景」二月号  随筆(  藤枝静男の主な原稿の殆どは、浜松文芸館に藤枝家から寄贈されて同館の収蔵となっている。それらの多くに原稿返却を求める添え書きがある。例えば「悲しいだけ」には「原稿返して下さい」、「今ここ」には「この原稿は用済次第返してください」とある。従って藤枝静男の原稿が古書市場に出ることは皆無といっていい。現在或る古書店の目録に「日々是ポンコツ」の原稿が出ている。こうしたことは極めて珍しい。チャンスだが高額のため編者は手が出せない)  

作品との不思議な出会い   
「月刊美術」二月号  随筆(曾宮一念の作品「虹」については「虹」昭和五三年がある。また文末に、原勝四郎とは「遂に文通だけで一度もその風貌声音に出会うことはできずにしまった」とある。浜松市文芸館に原から藤枝静男に宛てた手紙二通と葉書が二六葉あるが、宛名はすべて「勝見次郎」である。手紙の一つにはパイプを加えた原の写真が二枚添えられている。藤枝静男の原宛ての手紙は残念ながら原家には残っていなかった。訃報を聞いての夫人宛のお悔やみの手紙がある。「個展を開いたことを楽しく想い出します。今拙宅の食堂は八枚の故人の油絵で飾られて居ります」昭和三九年月一八日。原については「わが誇り・原勝四郎小品展」「原勝四郎氏のこと」昭和四八年、NHK日曜美術館「私と原勝四郎」昭和五四年の出演がある。なお文中の山本鼎『油畫の描き方』は大正八年アルス刊。編者の手元にあるものは三〇版で、当時多くの同好者に読まれた本と思われる。

壷三箇桶一箇 ─「骨董歳時記」連載2  
「小さな蕾」三月号  随筆(

堀田善衛氏の「ゴヤ」について   
「波」三月号  書評(  「ゼンマイ人間」昭和五五年に、ゴヤの自画像にある「俺はまだ学ぶぞ」とあるのに感じ「俺は白樺派の残党だなと改めて自覚し、時代おくれの滑稽を認めて後悔のない苦笑をした」とある。また藤枝は「ヨーロッパ寓目」昭和四六年で、プラド美術館のゴヤの作品にふれている)

朝鮮民画 ─「骨董歳時記」連載3 
「小さな蕾」四月号  随筆(  編者は藤枝〔安達〕家で「文房具図」を身近に拝見することが出来た。また平成一〇年には浜松文芸館で「藤枝静男と李朝民画展」が開催され文房具図をはじめ藤枝の所蔵品が展示された。藤枝は文房具図について「異様な魅力があった。なんとなく目をそらさせないような迫力と、一種野蛮な力を感じたのである」と書く。「隠居の弁」昭和四九年でも『田紳有楽』後記でも同様のことを書いている。三次元表現に不整合がありその点で異様ではあるが、編者には全体から受ける印象は野蛮というより穏やかで上品にさえ思えた。編者に「文房具図拝見」藤枝文学舎ニュース第二二号がある。なお朝鮮民画の文献としては『李朝民画上・下』昭和五七年講談社がすぐれている)

日本国宝展によせて   
『茫界偏視』巻末の掲載誌(紙)一覧では「読売新聞」昭和五一年四月九日夕刊となっているが未見(「日本国宝展」 5.1 〜 6.6 京都国立博物館)

運命   
「本」四月号  随筆(昭和五〇年七月三日に開かれた「第一二回浜松豊橋読書交歓会」のときのことを書いている。『空気頭』がテキストであった。資料によれば藤枝静男は「私の文学的立場」と題して講演もしている。交歓会の参加者は豊橋市五二名、浜松市七三名。会場は浜松市立北部公民館。このときのことを、当日の参加者の一人が想い出として書いているものがある─「浜松・豊橋読書交歓会第二十回記念文集」昭和五八年編集発行/浜松市立中央図書館・豊橋市中央図書館。「運命─私の読者」として   なお『藤枝静男著作集』パンフレットの推薦文で中野重治は「どこかで婦人たちから直接こきおろされたと書いていたが、それは彼女たちに、この作家の男らしさが通じなかったせいだったろうと私は思っている」と書いている。富士正晴と藤枝の対談「実作者と文芸批評」昭和五一年がありこの読書交歓会のことを語っている)

滝とビンズル   
「文芸」五月号  小説(満州道路については、「昭和五十年」昭和五〇年で書いている。また「ビンズルは糞尿取り扱い神であったという説もある」の一節があり「空気頭」を連想させる。/「船明は戦争末期に招集された友人の一等兵本多秋五が陣地構築のために駐屯し終戦を迎えた山間の寒村である」とある。『本多秋五全集』の本多年譜昭和二〇年につぎのようにある。「五月一五日、浜松郊外三方原の第五七五部隊に集合、陸軍二等兵〔飛行兵〕として末富小隊に編入される。末富部隊は正式には航空本部名古屋監督班末富部隊というものらしいが、他の小隊も近くになく、中隊長もいない、まったくの独立部隊であった」「八月八日、末富部隊は二俣町の在、船明の小学校に移る。近くの山中に疎開した浜松楽器の工場防衛のため、という」「八月一五日、天皇の放送があるというので」「集合し、体をこちこちにして」「ラジオの音に耳を澄ませたのであったが、ラジオはブーともいわなかった。折悪しく停電したのであった」。/無影灯=外科的手術に用いる照明灯。広い範囲から光を出し、手術野に集まるように設計されており、深部の操作にも影をつくりにくい〔広辞苑〕)

 

 

時評─坂上弘「東京新聞」四月三〇日夕刊(『文学1977』昭和五二年講談社)・川村二郎「読売新聞」四月二三日夕刊(『文学1977』・『文学の生理─文芸時評 1973 〜 1976 』)

収録─日本文芸家協会編『文学1977』(昭和五二年講談社)・創作集『悲しいだけ』(昭和五四年二月講談社)・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』(昭和六三年一二月)

 

相生垣瓜人氏のこと─句集『明治草』にふれて   
「俳句」五月号  随筆(  藤枝は『明治草』昭和五〇年の帯文も書いている。なお相生垣は絵もよくした。滋味あふれる絵で「浜松市民文芸」や「海坂」などの表紙を飾った。「浜松の二人の俳人」昭和三三年の項参照。なお本誌には二人のうちの一人百合山羽公が、「熊野の長藤」三〇句を寄せている。長藤では藤枝に随筆「熊野の長藤」昭和五八年がある)

座右宝   
「日本経済新聞」五月九日朝刊  随筆(「 本との出会い 」として  「座右宝」については「『座右宝』のことなど」昭和四九年で藤枝が書誌的に詳しく書いている。また「志賀直哉歿後十年」「前号『志賀直哉歿後十年』への訂正その他」昭和五六年でも「座右宝」のこと)

『田紳有楽』あとがき   
『田紳有楽』(五月一二日講談社)  自著あとがき(「しかしスタティックなものは始めから嫌であったという事情もある。自分として新しい内容を処理するためには流動的なデタラメも已むを得ぬ必然性を持つという、何となく攻撃的な気分もあった。この考えは「空気頭」以来のものである。とにかく試験だから当てずっぽうではあるが、ある程度の進歩は含まれていると信じている」とある。「文学的近況」昭和五一年でもスタティック。 static =静的。藤枝が形容に横文字を使うことは少ないが、他に江藤淳「一族再会」の書評昭和四八年、「東京新聞」文芸時評の中野孝次「ブリューゲルへの旅」評昭和五〇年七月にパセティックがある。 pathetic =悲壮なさま、悲哀をおこさせるさま。また「空気頭」でフレムトがある。 fremd 〔独〕=見馴れぬ、なじみのない。「当てずっぽう」といえば随筆「当てずっぽう」昭和五〇年があり、中川一政の作品に対して歯に衣着せぬ感想を述べている。/なお「絵の方で〔何と云ったか忘れたが〕」とあるが、それはコラージュ collage のことである。

著者の言葉   
「藤枝静男著作集パンフレット」(六月二八日講談社)  随筆(「私の著作集について」として   本パンフレットの推薦文に尾崎一雄「藤枝静男の作品」、中野重治「男らしい愛嬌」、中村光夫「個性的な台座」。中野の文の一部を「「運命」昭和五一年の項に引用しておいた。「著作集を終えて」昭和五二年で「既存作家の選集的な中身のものが『全集』という名であちこちに広告されているのをみると、反射的に『漱石全集』『直哉全集』を頭に浮かべるから自分の問題とはならなかった。結局のところ自分の身のほどしらずを押さえ、死後は自然に『全集』に移行することを予想して自らの虚栄心に屈したというのが実情である」と書いている。『著作集』としたのはそう云うことであったろう。しかし本パンフレットのキャッチ・フレーズには「小説とエッセイにわたる全著作を初めて集大成し、真に独創的な文学世界の全貌を示す画期的な個人全集」とある。藤枝も眼をつぶったか)

志賀直哉の油絵によせて   
「文學界」七月号  随筆(「文体・文章」として  志賀の油絵については「油絵を貰う」昭和三二年、「志賀直哉の油絵」昭和四九年がある。文体ということでは、「他になし」唱和五四年では「私は文体という気取った言葉が嫌いである。自分の書くのは文章である。つまりそのままハッキリと情景が浮かび心理が伝わることを第一の目的として字を並べて行くのである。これが最初の一歩であり、最終歩である」と書いている。文中「自分が碌な文章も書けぬくせに」とあるが、このことでは「仕事中」昭和三二年で志賀直哉の「批評家無用の長物」論にふれている)

昨日今日 ─古寺を訪ねたり骨董にうつつをぬかす  
「読売新聞」七月八日夕刊  随筆(文中のTさんはしばしば登場する竹下利夫である。トンマク山は「富幕山」、標高五六三メートル。現在の富幕山山頂の様子は次の通り。「広い園地に休憩舎と野外ベンチがあり日時計もある。園地から手をかざすと、眼下に見え隠れする奥浜名湖の、逆光の中に鈍い光を放つ湖水のまばゆさがすべてである。猪鼻湖から舘山寺、はるかに弁天島から遠州灘まで、かすみのなかに浮かんで見え、快晴の日は富士山や南アルプス、さらには知多半島も遠望される」─『静岡県日帰りハイキング』平成一〇年静岡新聞社 

美女入浴 ─作家仲間と清遊、法師温泉で眼福  
「静岡新聞」七月一七日朝刊  随筆(  新潮日本文学アルバム『立原正秋』平成六年に法師温泉旅行一行のスナップ写真。このときのことを立原正秋「法師温泉行」藤枝静男著作集第一巻月報。同じく後藤明生「自己嫌悪と自己浄化」同第二卷月報)

静岡県三ヶ日・千頭ヶ峰城址   
「サンケイ新聞」七月一八日朝刊    随筆(『石積み』昭和五二年光風社、  「千頭ヶ峰城址」として 。『仰ぎ見る富士は永遠(日本随筆紀行 静岡・山梨)』昭和六三年にも収録)

私の中の日本人─中村春二   
「波」八月号・シリーズ「私の中の日本人」欄  随筆(『私の中の日本・続』昭和五二年新潮社刊に収録。「中村春二(私の中の人)」として   なお中村春二関連資料として中村春二著『斯の道の為に』大正一二年成蹊学園出版部・『中村春二選集』大正一五年中村秋一・中村浩著『人間・中村春二伝』昭和四四年岩崎美術社がある。『斯の道の為に』は中村の時折の所感をまとめたもの、その冒頭二つ。「不言の化」─乃木大将夫妻の自殺について論じている。曰く、「世界各国に我日本の一種特色ある国として恐るべきを自覚せしめ我国に一の強みを加へしめしなり」として全面的に肯定し賞賛している。「学級定員を半減せよ」─当時小学校の学級数は一八学級以下で一学級の児童は七〇人以下とされていたが、鉄砲製造を例にあげ、それでは粗製濫造だとして一学級三〇名以下を提言。また「現今教育の欠陥」と題する絵解き図が折り込みである。赤い液の入った水差しを持った教師がいろいろな形のコップにその液をつぎこもうとしている。そして口のせまいコップのような生徒は「学術劣等児として取り扱われ一生を誤る」と警告している。さしずめ藤枝静男は口のせまいコップの一人であったか。/本文によれば中村は「退学は本人のためにならぬ。他の生徒のためにもならぬ」として問題児藤枝の退学を止めた。なお中村は前述のように「我日本の一種特色ある国」としているが、藤枝は本文冒頭「日本人を優秀とも劣等とも考えていないし民族的に顔貌風俗習慣がちがうほかは万国共通の性格をもっていると思う」と書き、「私のなかの日本人」という設問に疑問を呈している。中村については大正一二年の項参照。なお「日本人」ということでは、埴谷雄高に「純粋日本人 藤枝静男」─『藤枝静男著作集第二巻』月報─がある。藤枝は前述のように日本人を特異化させることに疑問を呈しているが、埴谷は藤枝について「恐らく『最後の日本人』かもしれないこの『純粋日本人』には、茶目気もユーモアの感覚もあるのである」と書いている。埴谷と藤枝とで日本人論をたたかわせたらどうなったか。ちなみに編者は藤枝派である)   

在らざるにあらず   
「群像」八月号  小説(冒頭、本多と妻と平野の手術のことがある。本多は一月に胃潰瘍と膵臓癒着と胆石摘出の三つの手術を同時に行っている。妻と平野については年譜参照。/本篇はほぼ藤枝静男の実際の行動に即した記述かと思われるが、そのエネルギッシュなことに驚かされる。「私」は博物館で中国青銅器に見入る。「中国銅器に取憑かれはじめていた本多秋五」とある。/このことでは「本多秋五」昭和三九年で「彼が有史前の美術、アルタミラ、ラスコーの洞窟壁画、殷墟出土の銅器からイラン、インカの壷に至る全世界の遺産に眼をつけつつあることは最も会心な行き方で」とある。本多はその著書『遠望近思』昭和四五年筑摩書房で青銅器について大いに語っている─本多秋五の青銅器への傾倒は、藤枝静男にむしろ勝っていると云えようか。「遠望軽談」昭和四九年の項参照。/「私」は「何年かまえのある午後、東大寺勧進所の秘仏僧形八幡をはじめて」見たときのことを思い出す。このことでは「庭の生きものたち」昭和五二年で娘と再び勧進所の門をくぐる。/「私」はまた高校時代の寮則を思い出す。昭和九年発行『第八高等学校寮史』の冒頭にそれは掲げられている。「寮紀吾人寮生ハ校風発揚ノ中心タランコトヲ期シ言行苟クモセス至誠以テ天地ニ愧チサルヘシ 吾人ハ恥ヲ知レノ一語ヲ掲ケテ標榜トシ卑屈懦弱ヲ斥ケ放肆暴慢ヲ戒メ廉恥ヲ重ンシ操守ヲ固クシ品性ノ向上ヲ企画ス吾人ハ此精神ヲ以テ自彊息マス共同一致シテ寮紀ノ振作ヲ努ムヘシ 明治四十一年十月二十四日」。/「私」は次に湯島天神下の骨董屋未央堂〔びおうどう〕を訪ねる。編者の手元にはその未央堂宛の藤枝の葉書が何葉かある。その一つ昭和四四年四月六日付けの葉書は、未央堂を浜松で歓待したお礼に「朝鮮の絵画」を贈られたことへの感謝の葉書である〔このときのことを「文學界」昭和四六年発表の「隠居の弁」に書いている。なお「泉」昭和四九年発表の同題異文があるので注意〕。文面から、藤枝が朝鮮の絵画と出会ったこれが最初であったようだ。その絵は浜松文芸館で平成一〇年に開催された「藤枝静男と李朝民画展」にも展示された「花鳥図・雉」である。話が横にいくが、「早稲田文学」昭和四四年七月号編集長対談「『落第免状』余聞」がある。このときの編集長は立原正秋であり、高井有一、後藤明生と一緒に藤枝静男宅に押し掛けての対談であった。その記事に対談風景の写真があり、床の間にこの「花鳥図・雉」の軸が掛かっている。このときのことを立原は「蛙とすっぽんと海鼠」に書いている。/本文に戻る。「私」は大塚駅で中学時代のことを思い出し、巣鴨のあたりに若き画家中川一政がいたと書く。中川一政では「当てずっぽう」昭和五〇年、「中川一政氏との初対面」昭和五九年、対談─『画にもかけない』収録がある。/「私」は平野を病院に見舞う。平野は前述のように手術入院中であった。/「私」は次に講談社に向かう。「私」がスッカリ忘れていた写真撮影は『藤枝静男著作集』口絵のための撮影であろう。後日あらためて撮影したわけである。/「私」はまた「T氏〔竹下利夫〕に勧められ」ていた映画「デルス・ウザーラ」を見る。黒沢明が監督した旧ソ連映画である。昭和四六年自殺未遂を起こすなどの不運な時期を経ての復活とも云える作品であった。アカデミー賞外国映画賞、モスクワ映画祭金賞など受賞。原作アルセニエフ『デルス・ウザーラ』〔昭和五〇年河出書房新社・同年角川文庫〕。以上で第一日。/二日目「私」は東京国立近代美術館に向かう。「五十六年前の夏」「私は中学一年生であった」とあるが、「勝見次郎」は成蹊実務学校の一年生であった。「天皇は気違いだそうだ」では大正天皇の有名な「遠眼鏡事件」がある。これは事実と違うという見解もある。学者天皇については「文芸時評」昭和五〇年の項参照。/中村彝の「エロシェンコ氏像」については「キエフの海」昭和四六年、「少年時代のこと」昭和四七年がある。/「私」はつぎに出光美術館に向かう。ルオーについては「ルオー展への勧め」昭和五四年が、またルオーの小品を二点手にいれるがそのことで「ゼンマイ人間」昭和五五年がある。ルオーの油彩小品連作「パッション〔受難〕」五三点は出光美術館が昭和四七年一括入手。岩波書店に素晴らしい画集『ルオー受難パッション』がある。/「私」は出光の休憩室で無料の紅茶を四杯飲んで、二日間の過激なスケジュールを「ひどく疲れて」閉じる。文中の展覧会については次の通り。「中華人民共和国古代青銅器展」 3.30 〜 8.8 東京国立博物館、「ルフィーノ・タマヨ展」 4.10 〜 5.30 東京国立近代美術館、「ドイツ・リアリズム展」 1.24 〜 3.21 東京国立近代美術館、「平安鎌倉の金銅仏展」四月〜奈良国立博物館、「出光・白鶴美術館交換展」〜 5.30 出光美術館)

 

 

時評─田久保英夫「東京新聞」七月三一日夕刊・川村二郎「読売新聞」七月二七日夕刊(『文学の生理─文芸時評 1973 〜 1976 』)・佐伯彰一「サンケイ新聞」七月二七日夕刊・桶谷秀昭「神奈川新聞」七月二五日朝刊・上田三四二「静岡新聞」七月二四日朝刊

合評─佐多稲子・佐伯彰一・上田三四二「群像」九月号

収録─創作集『悲しいだけ』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』

 

劉生と潤一郎   
「サンケイ新聞」九月三日夕刊  随筆(  「劉生の小説その他」昭和五四年の項参照)

鯰坊主?油絵?の写楽の趣   
「中日新聞」九月九日夕刊  随筆(「 内なる美 」として  取り上げている作品「鯰坊主」は四一・〇×三一・八センチ油彩。画面左上に「帝国劇場十一月狂言暫之内沢村宗十郎鯰坊主」)

内田六郎氏のこと   
『内田コレクション「ガラス絵」』(九月二九日静岡新聞社)  随筆(『小感軽談』に収録の「内田六郎さんのこと」に加筆。単行本未収録)

出てこい   
「群像」一〇月  小説(玄関前の池について書いている。この池が「田紳有楽」の舞台である池のモデルであることは云うまでもない。/「上司海雲氏が死に」とある。上司については「壷法師」昭和四八年「志賀直哉氏と上司海雲氏」昭和五〇年、「いろいろのこと」昭和五五年がある。/昭和四一年七月の第一回浜名湖会のことで「沢蟹をたくさん採って帰って、カラ揚げにしてビールを飲んだ」とある。「静岡新聞」平成八年一一月一七日号の「食考・浜名湖の恵み?伊平のサワガニ」がサワガニに関連して「出てこい」を引用している。伊平とは浜松市北区引佐町伊平。『藤枝静男著作集第三巻』月報に第一回浜名湖会の渓谷でのスナップ写真がある。『田紳有楽』で滓見Bが、三代目院敷尊者すなわちサイケン・ラマに蟇が調達できなければ代用に「へえ、さしあたってはミミズ沢蟹のたぐい」といいかける場面がある。/「私はたるんで骨に貼りついたような自分の二の腕の内側の皮膚や、ゆるんだこまかい皺に覆われた脇腹を手拭いでさすりながら岩に腰をおろして半身を冷たい風にさらしていた。身体のどこもかしこも濁って汚れたような黄色を帯びていた」─腑分けの眼と云えようか。醜さに眼を向けるということでは「青春愚談」昭和四六年には「醜くうつった顔しかかけないのは、自分の心が『お前の顔はもっと醜いぞ。うぬぼれるな』と云うからである」がある。/三枝充悳の「大智度論の物語」はまとめられて『大智度論の話(一)』『同(二)』レグルス文庫がある。「田紳有楽(終節)」の婆羅門提舎の話も「大智度論の物語」からだが、内容は大きく改変されている。/「前立腺癌で死んだKという病理学者」のモデルは、緒方知三郎かと思われる。緒方は幕末の蘭学者緒方洪庵の孫。東大医学部教授を経て東京医科大学初代学長。唾液虫から唾液腺ホルモン〔パロチン〕を精製。老人病研究会を創設、老人病理学研究により文化勲章授章。晩年前立腺癌、腸閉塞症になるも人工肛門で二〇年生き九十歳を迎えるまで研究活動。東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ第四代会長。昭和四八年死去。ラストの「出てこい 出てこい」については「田紳有楽(終節)」の項参照)

 

 

収録─創作集『悲しいだけ』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』
 

 

明るく平和な日々 ─ひばりのいる麦畑  
「東京新聞」一〇月二七日朝刊 随筆(「ヴァン・ゴッホ展」 10.30 〜 12.19 国立西美術館  「 ひばりのいる麦畑 」として )    

受賞の言葉「文学的近況」   
「中央公論」一一月号  随筆(第一二回谷崎潤一郎賞受賞に当っての言葉。本号には選後評も掲載。選者丹羽文雄・大岡昇平・大江健三郎・遠藤周作・円地文子。 「文学的近況」として   冒頭「志賀直哉の教え」とあるが、このことでは「寺沢の自動車」昭和四一年の項参照)

「高麗人形」ほか
  『中野重治全集第五卷』(一一月一〇日筑摩書房)月報2  随筆( 文中の『中野重治全集第六卷』〔全一九巻本全集〕は昭和三四年四月。なお中野重治『沓掛筆記』昭和五四年河出書房新社カバー写真に、また中野重治研究会編『文学アルバム』平成元年・『中野重治の画帳』平成七年新潮社に中野のデッサンで「高麗人形」)

薬研・墨壷・匙   
「The・骨董」(一一月二五日)  随筆(「ハムスターの仔」昭和五八年で薬研を使う父の姿を書いている。なお藤枝宅に藤枝静男の手で「勝見家代々家宝 薬研薬匙」と墨書された箱がある。箱の裏には「父鎮吉翁ノ薬研也 吾父ノ辛苦慈愛渾テ此ノ鉄中ニ在リ 昭和三十年五月二十日 次郎謹記  父ノ調剤匙薬袋兄秋雄使用ノ硝子薬匙也而不可失 昭和四十九年五月二十五日 次郎  コノ銀煙管ハ昭和二十一年コロ吾母ぬい太平洋戦敗戦後物資欠乏ノ時吾ヲ憐ミ身辺ノ銀器ヲ溶シ作テ賜リシモノ也」─宮内淳子「藤枝静男遺愛の品々」。箱書きについては「武蔵川谷右エ門・ユーカリ・等々」昭和五九年の項参照。 

 

『田紳有楽』  
昭和五一年五月一二日  講談社刊
装  幀 辻村益朗
収録作品 田紳有楽(「田紳有楽」十枚、「田紳有楽前書き」三三枚、「田紳有楽前書き(二)」五四枚、「田紳有楽(終節)」一一〇枚を改稿)
あとがき 藤枝静男                

本書で第一二回谷崎潤一郎賞を受賞(第三刷以降の帯に大江健三郎の谷崎賞選評の抜粋)

 

『田紳有楽』書評
立原正秋「日本経済新聞」六月二〇日朝刊(『旅のなか』昭和五二年角川書店・『立原正秋全集第二十二巻』昭和五九年角川書店)・坂上弘「サンケイ新聞」六月二一日夕刊・上田三四二「東京新聞」六月一二日夕刊・吉行理恵「波」七月号・大橋健三郎「群像」七月号・金井美恵子「文芸展望」一〇月秋号(『書くことのはじまりにむかって』昭和五三年中央公論社)・磯田光一「海」八月号・種村季弘「週刊ポスト」八月一三日号・平岡篤頼「新刊ニュース」七月号・饗場孝男「日本読書新聞」八月二三日号・吉田知子「週刊読書人」七月一二日号・進藤純孝「婦人公論」九月号・川村二郎「週刊ポスト」昭和五二年一月七日号・匿名「朝日新聞」七月五日朝刊・匿名「読売新聞」七月一四日朝刊

(注)本書は藤枝静男の著書のなかでは売れた方である。参考までに編者の手元にあるものでその再版の経緯を記しておく。第二刷(昭和五一年六月一八日)、第三刷(昭和五一年一〇月一六日)、第五刷(昭和五二年四月八日)、第六刷(昭和五四年二月一二日)。なお群像編集部より第四刷の日付不明、また第七刷はないと返事をいただいた。第六刷は講談社文庫『田紳有楽』の刊行(昭和五三年一一月)後である。




『藤枝静男著作集第一巻』  
昭和五一年七月二〇日  講談社刊
装  幀 辻村益朗
口絵写真(昭和五一年五月東京護国寺付近にて)撮影・野上 透
月  報 本多秋五「昭和六年前後の藤枝静男」/佐々木基一「李朝民画」/立原正秋「法師温泉行」/阿部昭「藤枝さんの調子」
収録作品 
小説(路/家族歴/龍の昇天と河童の墜落/文平と卓と僕/痩我慢の説/雄飛号来たる/ヤゴの分際/鷹のいる村/わが先生のひとり/魁生老人)
随筆1(志賀直哉・小林秀雄両氏との初対面/奈良公園幕営/奈良の夏休み/奈良の野猿/油絵を貰う/志賀直哉の油絵/仕事中/常磐松で/志賀さん来浜/落第免状/志賀さんのこと/志賀さん一面/リッチ/白柘榴/「リッチ」と「留女」のこと/志賀直哉と築山殿のこと/志賀さんと禅のこと/明治四十三年二十七歳/「座右宝」のことなど/志賀直哉全集第一巻/和解/志賀直哉と夢/播磨/志賀直哉紀行/志賀直哉・天皇・中野重治)
随筆2(セザンヌの色彩/ボッシュ/ボッシュ画集/「ゲルニカ」を見て感あり/好きな絵/空な模倣/版画の値段)
解  説  小川国夫「藤枝静男著作集解説1 作家の郷里」 

本著作集は全册に署名及び自刻落款

『藤枝静男著作集第二卷』  
昭和五一年九月一二日  講談社刊 
装  幀 辻村益朗
口絵写真(昭和五一年五月東京護国寺境内にて)撮影・野上 透
月  報 埴谷雄高「純粋日本人、藤枝静男」/荒正人「藤枝静男祝福」/辻邦生「藤枝さんのこと」/後藤明生「自己嫌悪と自己浄化」
収録作品 
小説(壜の中の水/硝酸銀/冬の虹/私々小説/盆切り/一枚の油絵/山川草木/風景小説/接吻/しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機)
随筆1(瀧井孝作氏のこと/尾崎一雄氏との初対面/埴谷氏のこと/小川国夫のこと/アポロンの島/海からの光/気楽なことを/古山氏のこと/プレオー8の夜明け/若い小説家たち/三好十郎氏のこと/三好十郎著作集第三十四巻/上司海雲氏のこと/園池さんのこと/原勝四郎氏のこと/曾宮氏のこと/「曾宮一念の画業展」を見る/内田六郎さんのこと/救世主K先生/先生/三好君に)
随筆2(日野市大谷古墳出土蔵骨器/阿弥陀如来下向す/偽仏真仏/薬師寺東院聖観音/弥生式小壷/法隆寺と私/奈良・飛鳥日記/当麻寺/横好き/ケチな横好き/当てずっぽう/わからぬこと/似たようなこと/他称大家/あやふやな思い出/大正十一年三月八日/孫びき二つ/庭の皮はぎ/火事と泥棒/選挙/明治村/カツギ屋/スッポン/気になる傾向)  
解  説 小川国夫「藤枝静男著作集解説2 肉体とは何か」

『藤枝静男著作集第三卷』  
昭和五一年一一月一二日  講談社刊
装  幀 辻村益朗
口絵写真(昭和四九年東京銀座にて)撮影・野上 透
月  報 山室静「龍と化した藤枝静男」/城山二郎「率直・明快・直截・一徹」/大庭みな子「怪僧」/中野孝次「 The Old Man という存在」
収録作品 
小説(凶徒津田三蔵〔「凶徒津田三蔵」こと〕/愛国者たち〔孫引き一つ─二人の愛国無関係者・大津事件手記─児島惟謙〕/キエフの海/老友/プラハの案内人)
随筆1(ヨーロッパ寓目/あれもロシアこれもロシア/ちょっと感じたこと/ヤスナヤ・ポリャーナへ/ウラジミールの壷/また接吻された/北欧の風物など/ガンジス河・ヒマラヤ/インド瞥見/インドの弥生壷/フランクフルトのルクレツィア)
随筆2(落第仲間/落第坊主/三度目の勝負/同級会/みんな同じ/日記/日曜小説家/隠居の弁/筆一本/廃業正月/隠居の弁/筆まかせ/原稿料についてのアンケート/遠望軽談/憎まれ口/虚子のレコード/旧街道/わが家の夕めし(写真にそえて)/髭をはやしたがすぐ剃った/ドック入り)
随筆3(果たし合い/洋服屋ほか/昭和五十年/歳末/晴着/家の外のこと/季節/養老/緑の光/道具屋の親爺/二人組強盗/泥棒三題/今朝の泥棒/感あり/食物のこと/金庫の始末/判彫り正月/趣味としての篆刻/宇布見山崎/異郷の友/田沢の自動車)   
解  説 小川国夫「藤枝静男著作集解説3 歴史小説」



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