相生垣瓜人氏のこと─句集『明治草』にふれて
「俳句」五月号 随筆( 茫 藤枝は『明治草』昭和五〇年の帯文も書いている。なお相生垣は絵もよくした。滋味あふれる絵で「浜松市民文芸」や「海坂」などの表紙を飾った。「浜松の二人の俳人」昭和三三年の項参照。なお本誌には二人のうちの一人百合山羽公が、「熊野の長藤」三〇句を寄せている。長藤では藤枝に随筆「熊野の長藤」昭和五八年がある)
座右宝
「日本経済新聞」五月九日朝刊 随筆(「 本との出会い 」として 茫 「座右宝」については「『座右宝』のことなど」昭和四九年で藤枝が書誌的に詳しく書いている。また「志賀直哉歿後十年」「前号『志賀直哉歿後十年』への訂正その他」昭和五六年でも「座右宝」のこと)
『田紳有楽』あとがき
『田紳有楽』(五月一二日講談社) 自著あとがき(「しかしスタティックなものは始めから嫌であったという事情もある。自分として新しい内容を処理するためには流動的なデタラメも已むを得ぬ必然性を持つという、何となく攻撃的な気分もあった。この考えは「空気頭」以来のものである。とにかく試験だから当てずっぽうではあるが、ある程度の進歩は含まれていると信じている」とある。「文学的近況」昭和五一年でもスタティック。 static =静的。藤枝が形容に横文字を使うことは少ないが、他に江藤淳「一族再会」の書評昭和四八年、「東京新聞」文芸時評の中野孝次「ブリューゲルへの旅」評昭和五〇年七月にパセティックがある。 pathetic =悲壮なさま、悲哀をおこさせるさま。また「空気頭」でフレムトがある。 fremd 〔独〕=見馴れぬ、なじみのない。「当てずっぽう」といえば随筆「当てずっぽう」昭和五〇年があり、中川一政の作品に対して歯に衣着せぬ感想を述べている。/なお「絵の方で〔何と云ったか忘れたが〕」とあるが、それはコラージュ collage のことである。 6 )
著者の言葉
「藤枝静男著作集パンフレット」(六月二八日講談社) 随筆(「私の著作集について」として 茫 本パンフレットの推薦文に尾崎一雄「藤枝静男の作品」、中野重治「男らしい愛嬌」、中村光夫「個性的な台座」。中野の文の一部を「「運命」昭和五一年の項に引用しておいた。「著作集を終えて」昭和五二年で「既存作家の選集的な中身のものが『全集』という名であちこちに広告されているのをみると、反射的に『漱石全集』『直哉全集』を頭に浮かべるから自分の問題とはならなかった。結局のところ自分の身のほどしらずを押さえ、死後は自然に『全集』に移行することを予想して自らの虚栄心に屈したというのが実情である」と書いている。『著作集』としたのはそう云うことであったろう。しかし本パンフレットのキャッチ・フレーズには「小説とエッセイにわたる全著作を初めて集大成し、真に独創的な文学世界の全貌を示す画期的な個人全集」とある。藤枝も眼をつぶったか)
志賀直哉の油絵によせて
「文學界」七月号 随筆(「文体・文章」として 茫 志賀の油絵については「油絵を貰う」昭和三二年、「志賀直哉の油絵」昭和四九年がある。文体ということでは、「他になし」唱和五四年では「私は文体という気取った言葉が嫌いである。自分の書くのは文章である。つまりそのままハッキリと情景が浮かび心理が伝わることを第一の目的として字を並べて行くのである。これが最初の一歩であり、最終歩である」と書いている。文中「自分が碌な文章も書けぬくせに」とあるが、このことでは「仕事中」昭和三二年で志賀直哉の「批評家無用の長物」論にふれている)
昨日今日 ─古寺を訪ねたり骨董にうつつをぬかす
「読売新聞」七月八日夕刊 随筆(文中のTさんはしばしば登場する竹下利夫である。トンマク山は「富幕山」、標高五六三メートル。現在の富幕山山頂の様子は次の通り。「広い園地に休憩舎と野外ベンチがあり日時計もある。園地から手をかざすと、眼下に見え隠れする奥浜名湖の、逆光の中に鈍い光を放つ湖水のまばゆさがすべてである。猪鼻湖から舘山寺、はるかに弁天島から遠州灘まで、かすみのなかに浮かんで見え、快晴の日は富士山や南アルプス、さらには知多半島も遠望される」─『静岡県日帰りハイキング』平成一〇年静岡新聞社 茫 )
美女入浴 ─作家仲間と清遊、法師温泉で眼福
「静岡新聞」七月一七日朝刊 随筆( 茫 新潮日本文学アルバム『立原正秋』平成六年に法師温泉旅行一行のスナップ写真。このときのことを立原正秋「法師温泉行」藤枝静男著作集第一巻月報。同じく後藤明生「自己嫌悪と自己浄化」同第二卷月報)
静岡県三ヶ日・千頭ヶ峰城址
「サンケイ新聞」七月一八日朝刊 随筆(『石積み』昭和五二年光風社、 「千頭ヶ峰城址」として 茫 。『仰ぎ見る富士は永遠(日本随筆紀行 静岡・山梨)』昭和六三年にも収録)
私の中の日本人─中村春二
「波」八月号・シリーズ「私の中の日本人」欄 随筆(『私の中の日本・続』昭和五二年新潮社刊に収録。「中村春二(私の中の人)」として 石 なお中村春二関連資料として中村春二著『斯の道の為に』大正一二年成蹊学園出版部・『中村春二選集』大正一五年中村秋一・中村浩著『人間・中村春二伝』昭和四四年岩崎美術社がある。『斯の道の為に』は中村の時折の所感をまとめたもの、その冒頭二つ。「不言の化」─乃木大将夫妻の自殺について論じている。曰く、「世界各国に我日本の一種特色ある国として恐るべきを自覚せしめ我国に一の強みを加へしめしなり」として全面的に肯定し賞賛している。「学級定員を半減せよ」─当時小学校の学級数は一八学級以下で一学級の児童は七〇人以下とされていたが、鉄砲製造を例にあげ、それでは粗製濫造だとして一学級三〇名以下を提言。また「現今教育の欠陥」と題する絵解き図が折り込みである。赤い液の入った水差しを持った教師がいろいろな形のコップにその液をつぎこもうとしている。そして口のせまいコップのような生徒は「学術劣等児として取り扱われ一生を誤る」と警告している。さしずめ藤枝静男は口のせまいコップの一人であったか。/本文によれば中村は「退学は本人のためにならぬ。他の生徒のためにもならぬ」として問題児藤枝の退学を止めた。なお中村は前述のように「我日本の一種特色ある国」としているが、藤枝は本文冒頭「日本人を優秀とも劣等とも考えていないし民族的に顔貌風俗習慣がちがうほかは万国共通の性格をもっていると思う」と書き、「私のなかの日本人」という設問に疑問を呈している。中村については大正一二年の項参照。なお「日本人」ということでは、埴谷雄高に「純粋日本人 藤枝静男」─『藤枝静男著作集第二巻』月報─がある。藤枝は前述のように日本人を特異化させることに疑問を呈しているが、埴谷は藤枝について「恐らく『最後の日本人』かもしれないこの『純粋日本人』には、茶目気もユーモアの感覚もあるのである」と書いている。埴谷と藤枝とで日本人論をたたかわせたらどうなったか。ちなみに編者は藤枝派である)
在らざるにあらず
「群像」八月号 小説(冒頭、本多と妻と平野の手術のことがある。本多は一月に胃潰瘍と膵臓癒着と胆石摘出の三つの手術を同時に行っている。妻と平野については年譜参照。/本篇はほぼ藤枝静男の実際の行動に即した記述かと思われるが、そのエネルギッシュなことに驚かされる。「私」は博物館で中国青銅器に見入る。「中国銅器に取憑かれはじめていた本多秋五」とある。/このことでは「本多秋五」昭和三九年で「彼が有史前の美術、アルタミラ、ラスコーの洞窟壁画、殷墟出土の銅器からイラン、インカの壷に至る全世界の遺産に眼をつけつつあることは最も会心な行き方で」とある。本多はその著書『遠望近思』昭和四五年筑摩書房で青銅器について大いに語っている─本多秋五の青銅器への傾倒は、藤枝静男にむしろ勝っていると云えようか。「遠望軽談」昭和四九年の項参照。/「私」は「何年かまえのある午後、東大寺勧進所の秘仏僧形八幡をはじめて」見たときのことを思い出す。このことでは「庭の生きものたち」昭和五二年で娘と再び勧進所の門をくぐる。/「私」はまた高校時代の寮則を思い出す。昭和九年発行『第八高等学校寮史』の冒頭にそれは掲げられている。「寮紀吾人寮生ハ校風発揚ノ中心タランコトヲ期シ言行苟クモセス至誠以テ天地ニ愧チサルヘシ 吾人ハ恥ヲ知レノ一語ヲ掲ケテ標榜トシ卑屈懦弱ヲ斥ケ放肆暴慢ヲ戒メ廉恥ヲ重ンシ操守ヲ固クシ品性ノ向上ヲ企画ス吾人ハ此精神ヲ以テ自彊息マス共同一致シテ寮紀ノ振作ヲ努ムヘシ 明治四十一年十月二十四日」。/「私」は次に湯島天神下の骨董屋未央堂〔びおうどう〕を訪ねる。編者の手元にはその未央堂宛の藤枝の葉書が何葉かある。その一つ昭和四四年四月六日付けの葉書は、未央堂を浜松で歓待したお礼に「朝鮮の絵画」を贈られたことへの感謝の葉書である〔このときのことを「文學界」昭和四六年発表の「隠居の弁」に書いている。なお「泉」昭和四九年発表の同題異文があるので注意〕。文面から、藤枝が朝鮮の絵画と出会ったこれが最初であったようだ。その絵は浜松文芸館で平成一〇年に開催された「藤枝静男と李朝民画展」にも展示された「花鳥図・雉」である。話が横にいくが、「早稲田文学」昭和四四年七月号編集長対談「『落第免状』余聞」がある。このときの編集長は立原正秋であり、高井有一、後藤明生と一緒に藤枝静男宅に押し掛けての対談であった。その記事に対談風景の写真があり、床の間にこの「花鳥図・雉」の軸が掛かっている。このときのことを立原は「蛙とすっぽんと海鼠」に書いている。/本文に戻る。「私」は大塚駅で中学時代のことを思い出し、巣鴨のあたりに若き画家中川一政がいたと書く。中川一政では「当てずっぽう」昭和五〇年、「中川一政氏との初対面」昭和五九年、対談─『画にもかけない』収録がある。/「私」は平野を病院に見舞う。平野は前述のように手術入院中であった。/「私」は次に講談社に向かう。「私」がスッカリ忘れていた写真撮影は『藤枝静男著作集』口絵のための撮影であろう。後日あらためて撮影したわけである。/「私」はまた「T氏〔竹下利夫〕に勧められ」ていた映画「デルス・ウザーラ」を見る。黒沢明が監督した旧ソ連映画である。昭和四六年自殺未遂を起こすなどの不運な時期を経ての復活とも云える作品であった。アカデミー賞外国映画賞、モスクワ映画祭金賞など受賞。原作アルセニエフ『デルス・ウザーラ』〔昭和五〇年河出書房新社・同年角川文庫〕。以上で第一日。/二日目「私」は東京国立近代美術館に向かう。「五十六年前の夏」「私は中学一年生であった」とあるが、「勝見次郎」は成蹊実務学校の一年生であった。「天皇は気違いだそうだ」では大正天皇の有名な「遠眼鏡事件」がある。これは事実と違うという見解もある。学者天皇については「文芸時評」昭和五〇年の項参照。/中村彝の「エロシェンコ氏像」については「キエフの海」昭和四六年、「少年時代のこと」昭和四七年がある。/「私」はつぎに出光美術館に向かう。ルオーについては「ルオー展への勧め」昭和五四年が、またルオーの小品を二点手にいれるがそのことで「ゼンマイ人間」昭和五五年がある。ルオーの油彩小品連作「パッション〔受難〕」五三点は出光美術館が昭和四七年一括入手。岩波書店に素晴らしい画集『ルオー受難パッション』がある。/「私」は出光の休憩室で無料の紅茶を四杯飲んで、二日間の過激なスケジュールを「ひどく疲れて」閉じる。文中の展覧会については次の通り。「中華人民共和国古代青銅器展」 3.30 〜 8.8 東京国立博物館、「ルフィーノ・タマヨ展」 4.10 〜 5.30 東京国立近代美術館、「ドイツ・リアリズム展」 1.24 〜 3.21 東京国立近代美術館、「平安鎌倉の金銅仏展」四月〜奈良国立博物館、「出光・白鶴美術館交換展」〜 5.30 出光美術館) |