昭和四八年(一九七三年) 六五歳

『群像』一月号から三月号の創作合評を平野謙、川村二郎と担当。「風景小説」を『文藝』一月号に発表。二月、講談社文庫『空気頭・欣求浄土』を刊行。三月、志賀直哉青山墓地に葬られる。上司海雲の筆により「志賀直哉之墓」と刻す。五月、本多と奈良で落ち合い、東大寺の上司海雲、奈良博物館の上原昭一、写真家の入江泰吉と会食。六月、「愛国者たち」が『文学一九七三』 ( 講談社 ) に収録される。同月、浜名湖会(弁天島泊。摩訶耶寺、吐月峰柴屋寺、焼津、御前崎を巡る)。「私々小説」を季刊『すばる』六月夏季号に、「盆切り」を『文藝』一〇月号に、「疎遠の友」を『季刊藝術』第二七号に発表。同月、神奈川県立近代美術館で開催の原勝四郎展の開会式に出席、同展図録に寄稿。一一月、創作集『愛国者たち』を講談社より刊行。なおこの年、中野孝次が「早稲田文学」一月号に「仮想された虚無」を、川村二郎が講談社文庫『空気頭・欣求浄土』に解説(川村二郎『銀河と地獄』収録にあたり「陰画の浄土─藤枝静男」)を書いている。


  風景小説    
「文藝」一月号  小説(冒頭瀧井孝作の見解を紹介している。「空気頭」昭和四二年冒頭でやはり瀧井の言を引用している。こうした引用が、瀧井にとって愉快であったかはわからない。なお瀧井の見解に続けて藤枝は書画について述べているが、書は「本来抽象的なるが故に迫真という遊びを絶対に持ち得ない造形物、記録という確固不動の用から絶対に離れられぬままに決まった造形のうちに筆者の本体を圧縮して表現しなければならない美術品」とする見解に編者は大いに共感した。/文中のT氏のモデルは、これまでも書いてきたが竹下利夫である。T氏の満州脱走記を小説にというのは「竹井衛生二等兵の証言」昭和四七年であり、このあとの「異床同夢」昭和四九年も同様。/太陽寺は禅宗・曹洞宗、所在地は三重県多気郡大台町栗谷。本尊の北辰妙見菩薩といえば、「田紳有楽」の終わりに近く登場し磯碌億山に引導をわたす。秩父、小金井にも同名「太陽寺」あり。宮川ダムの所在地は多気郡大台町久豆地内。「今年できたての」とあるが、資料によれば完成は昭和三二年五月。/「私」は「医者である娘から『学生解剖用に大学へ寄付したらどうか』と云われて即座に賛成」したものの、自分の死体が「裸に剥かれて」「二ヶ月間解剖教室台上に曝されたままで全身一寸刻みとなると、心情的にもどうしてもたじろぐ」と書く。「一家団欒」昭和四一年の「章」は「腎臓も、眼球も、骨髄も、それから血液も」「みんな病院に置いて」来る。臓器提供はいいとしても、献体には抵抗がある「私」をここでは描いている。そしてそれは「平生わかったようなことを云っていながら私のなかで精神と肉体が分離して二六時ちゅう監視し虚栄心をかきたてている証明」であり、「つまり私の心は闇汁と同じ」だと書く。編者は臓器提供にも抵抗があり、またいささか臓器移植に異論もある。闇汁ということでは「田紳有楽」で婆羅門の腹からほとばしりでた黒汁が十万世界を覆いつくす。「田紳有楽(終節)」昭和五一年の項参照)
 

 

時評─高橋英夫「神奈川新聞」昭和四七年一二月二六日朝刊・川村二郎「読売新聞」昭和四七年一二月夕刊(『文学の生理文芸時評 1973 〜 1976 』昭和五四年小沢書店)

収録─創作集『愛国者たち』・『藤枝静男著作集第二卷』
  永井龍男著『雀の卵その他』 ─季節感が豊かな叙景  
「中日新聞」一月六日朝刊・「東京新聞」同日夕刊  書評(

広津桃子著『父・広津和郎』 ─自由の人をしみじみ追憶  
「サンデー毎日」三月一八日号  書評(  『父・広津和郎』のカバーに使われている広津の油絵に藤枝はふれている。桃子は書いている。「二十代の青年期に描いたもので、青山付近の当時の風景であるという。林の奥から、木立を通して前方に射す光を、こちら側から、つまり逆光線をとらえて描いているのであるが、色彩がモネーの絵を思わせる青味を帯び、素人離れしたものを感じさせる」。カバーの印刷は不鮮明だがうなずける。なお広津が昭和三三年に亡くなったとき平野謙の追悼文「奇跡派の友情」があり、相馬泰三、葛西善蔵、広津が互いをモデルにし遠慮会釈なく書き合っていたこと、広津がそのことで死の床にあった葛西を詰りにいったことを書いている。藤枝は平野、本多をモデルにして書いているが、そうしたことはなかったのだろうか)

浜松の医師会病院   
季刊「医療と人間と」三月創刊号  随筆(筆名藤枝静男、末尾に〔作家〕。『浜松市医師会中央病院』昭和四九年六月一一日発行の「既刊論文随筆集」欄に収録) 

孫引き一つ─二人の愛国無関係者  
「季刊藝術」四月春季号  随筆(創作集『愛国者たち』・ ・講談社文庫
『凶徒津田三蔵』  昭和四五年に「孫引き二つ」がある)

小原二郎著『木の文化』 ─木彫仏像の製作年代を判別  
「静岡新聞」四月一三日朝刊  書評(  文末にある入手した阿弥陀如来像については、「阿弥陀如来下向す」昭和四九年、「偽仏真仏」昭和五〇年で書いている)

三度目の勝負   
「群像」五月号  随筆(  文中の「二級上で東大一本槍連続落第組」の林と鈴木は、『第八高等学校一覧』名簿の第一八回卒業生の林道之と鈴木重一かと思われる。林については「落第仲間」昭和四一年がある。鈴木重一は「泡のように」昭和五三年の終わりに近く、「八高大学で親しかった」とある。「或る年の冬 或る年の夏」の朝川のモデルかもしれない。着実な男横田については、藤枝が書いている通りの足取りを成蹊会『会員名簿』昭和二三年発行で辿ることができる。名前は横田暢允。成蹊中学を大正一四年卒業、成蹊高校を昭和三年に卒業、千葉医大進学となっている。従って藤枝が受験するときは確かに卒業一歩手前の四年生であったわけである。横田と成蹊中学で一緒だったのはわずか一年間のはずで、それから七、八年も経っている。その間音信があったのであろうか。横田は違うが、第八高等学校時代の仲間を藤枝静男は小説や随筆のモデルにして繰り返し描いている。平野謙、本多秋五、北川静男は云うまでもなく、この林道之、鈴木重一そして室田紀三郎、毛利孝一、川村直、榎本久馬太、金子房次郎、山本正らである。藤枝が特別ということでもないのだろう。当時の学友の親密さは、編者の理解をいささか越えている)

20枚の私私小説   
「朝日新聞」五月一四日朝刊  随筆(「私倍増」という言葉をこのとき既に使っている。昭和六〇年に「老いたる私小説家の私倍増小説」がある  単行本未収録)

明治四十三年二十七歳   『志賀直哉全集第一巻』(五月一八日、岩波書店刊)月報1  随筆( ・『文芸読本志賀直哉』昭和五一年河出書房新社・ なお で初出について無記、 で初出未詳。文末に麻生の志賀邸のことがある。このことは「志賀直哉紀行」で書いてもいる)

ケチな横好き   「中日新聞」五月二二日朝刊  随筆(  昭和四二年に連載随筆「横好き」がある)

志賀直哉全集第一巻 ─文体の完成過程を学ぶ  
「静岡新聞」五月二五日朝刊  書評(  文中に「白樺」のことがあるが「白樺」創刊号の「発刊の言葉」は次のとおり。「白樺は自分達の小なる畑である。/自分達はここに互の許せる範囲で自分勝手なものを植ゑたいと思っている。さうして出来るだけこの畑をうまく利用しやうと思ってゐる。/しかし自分達が今後この畑に如何なるものを植ゑるか、如何にこの畑を利用するかは自分達にもわからない。読者以上の好奇心を持って白樺の未来を見たいと思ってゐる。/だから今は自分達のこの畑を出来るだけ活用しやうと思ってゐることきり公言することは出来ない。さうしてその結果は今後の白樺によって見て戴くより仕方がない。/しかし自分達の腹の底を打ちあけると可なりの自惚がある。『十年後を見よ』と云う気がある。しかしそれは内緒である」。「白樺」は明治四三年創刊、大正一二年終刊。/藤枝は「青春愚談」昭和四六年で、「せっせと『白樺』のバックナンバーを捜し出しては、その写真版の挿絵を切り抜いた。重ねると十センチ近くもためた」と書いている。今から思えば当時の印刷は粗悪である。しかし「『岸田劉生とその周辺』展のこと」昭和五一年で「一七歳で画家を志した劉生が、明治四十四年の雑誌『白樺』に掲載されたルノワールの写真版に感激して後期印象派にのめりこみ」とあるように、当時の人々はその粗悪な印刷物から創造の核心を掴みとり、創作に向かう自らの気持ちをかきたてた)

私々小説    
「すばる」六月夏季号  小説(文中の弟、母の没年月日は、藤枝静男の弟、母の歿年月日通りである。終わりに近くキリスト教について書いている。このことでは「山川草木」昭和四七年の項参照。/また「仏教学者が『釈迦自身は死後の世界があるとは一言も云っていません』というのを聞いたことがある」と書いている。「田紳有楽」でも地蔵に「師匠(注・釈迦)は人が死んだ後どうなるかなんて一度も云ったことはなかった。生まれかわるなんて云ったこともなかったしね。そこへ行くと私なんかこっちへ来て以来極楽とか地獄とか六道の辻とか、賽の河原なんて云われて、弱り果てていますよ」としゃべらせてもいる。釈迦は形而上学的な問いには、どんなに誘導され誹謗されても沈黙し答えなかったという〔無記・捨置答〕。死後の有無もそうした問いの一つであった。釈迦はふと侍者の阿難に語ったという。「無記のものは無記のまま、了解せよ。無記であるのは、目的にかなわず、浄らかな修行の基盤とならず、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、こころの平安、正しいさとり、ニルヴァーナのためにならないからである」。このことで「毒矢の喩え」がある─小学館ライブラリー中村元・三枝充悳著『バウッダ』。/しかしいざとなると「私」の脳裏に浮かぶのは地獄極楽という「淋しく懐かしい絵解き」であり、母と弟が「十万億土の闇のなかを釈迦の膝元に向かって歩いて行く」光景である。このことでは「風景小説」昭和四八年でも書いている。「しかし結局は自分の帰すところが乳幼児以来の高天原と地獄思想だということを自覚している。つまり私の心は闇汁と同じだということになる」。/「田紳有楽」では妙見が引導を渡す。「十万億土とは黒い洞穴までの道のり、真黒々の暗闇が即ち浄土。これがお前さまへのわしの引導じゃア」。釈迦もなにも待っていてはくれないのである。なお宗教的感情について藤枝は阿部昭と対談「作家の姿勢」昭和四九年で語り合っている。/弟をモデルにした作品には「一枚の油絵」昭和五〇年がある。「イペリット眼」昭和二四年でも弟は登場している。また「山川草木」昭和四七年のラストでは、夢に弟が現れる。他に母を書いているものに「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年がある)
 

 

時評─秋山駿「東京新聞」六月二八日夕刊(『文学1974』昭和四九年講談社・『秋山駿文芸時評─現代文学への架橋 1970.6 〜 1973.12 』)・川村二郎「読売新聞」六月二六日夕刊(『文学1974』・『文学の生理─文芸時評 1973 〜 1976 』)・高橋英夫「神奈川新聞」六月二六日朝刊(『文学1974』)

合評─佐多稲子・遠藤周作・高橋英夫「群像」八月号

収録─創作集『愛国者たち』・『現代の文学 10 藤枝静男.秋元松代』・日本文芸家協会編『文学1974』(昭和四九年講談社)・『藤枝静男著作集第二卷』・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』・集英社文庫『私小説名作選』(昭和五五年集英社)・『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』・『新ちくま文学の森6いのちのかたち』(平成七年筑摩書房)
  憎まれ口   
「健康」六月号  随筆(「文芸家協会ニュース」六月号に転載。転載にあたって文末に「この文は雑誌『健康』今年の六月号に出したものだが、陰口は嫌だから転載させていただくことにした」と付記。この付記共々「憎まれ口」の一として   作者の写真については昭和四九年の「憎まれ口」〔「憎まれ口」の二〕でも書いている。文中の「紀行」とは昭和四九年二月発表の「志賀直哉文学紀行」)

江藤淳著『一族再会』 ─亡母への無限の愛慕  
「中日新聞」六月二日朝刊・「東京新聞」同日夕刊  書評(江藤淳『一族再会 < 第一部 > 』の二として ))

江藤淳著『一族再会 < 第一部 > 』 ─パセティックな圧力  
「群像」七月号  書評( pathetic 悲壮なさま、悲哀をおこさせるさま。「気楽なことを」昭和四七年で江藤のことを書いている。「パセティックだった」と云うと江藤が「不服そうな顔をした」とある。またソ連同行旅行で「江藤さんの方も婆さんが好きなのではないか」とキツイ。「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年でも名前は出さないが、埴谷雄高の「死霊」に「「正直な誰かさんが『眠気を催した』と白状した」と江藤はからかわれている。/江藤淳『一族再会 < 第一部 > 』の一として ・「藤枝静男『パセティック』な圧力─『一族再会 < 第一部 > 』」として『群像日本の作家 27 江藤淳』平成九年小学館)

永井龍男著『雑談衣食住』 ─心にしみるエッセイ  
「中日新聞」七月二一日朝刊・「東京新聞」同日夕刊  書評(

石塚友二著『田螺の歌』 ─?世外の人?貫く  
「北海道新聞」七月二二日朝刊  書評(  書名から増田八風〔八高独語教授増田甚治郎〕の俳句を思い出したとあるが、編者は「田紳有楽」に「田螺も十粒ばかり入れてある」とあるのを思い出した)

原稿料について    
「文芸家協会ニュース」八月号  アンケート(単行本未収録) 

江藤淳著『批評家の気儘な散歩』 ─現代に対する危機感と青年への訴え  「波」九月号  書評(

聖ヨハネ教会堂   
「静岡新聞」九月六日夕刊  随筆(単行本未収録  室田は「添田紀三郎のこと」昭和四六年の添田〔旧姓室田〕を本名で。この随筆の小説化である「海」昭和四九年七月号の「聖ヨハネ教会堂」 では室井達三郎〔養子となり坂田〕)  

網野菊著『雪晴れ』(志賀直哉先生の思い出) ─生身の志賀像を語る  「週刊読書人」九月一二日号  書評(

壷法師   
「日本経済新聞」九月二五日朝刊  随筆(「上司海雲氏のこと」の「一 壷法師」として  上司海雲については「志賀直哉氏と上司海雲氏」昭和五〇年、「いろいろのこと」昭和五五年がある。上司ほどではないにせよ藤枝も壷が好きであった。「壷三箇桶一箇」昭和五一年がある)

盆切り   
「文藝」一〇月号  小説(叔母や従妹や従弟のことが語られる。続「硝酸銀」のおもむきがある。/なお「盆切り」については、鈴木棠三著『日本年中行事事典』に「盆義理」とあり「静岡県浜名郡で初盆の家の盆棚を拝み、供物をあげにゆくこと。七月一四日などに行われる。やみがたい義理で行うという意味の命名だろう」とある。「盆切り」という表現は、管見にして文献には見当たらない)
 

 

時評─秋山駿「東京新聞」九月二八日夕刊(『秋山駿文芸時評─現代文学への架橋 1970.6 〜 1973.12 』)・川村二郎「読売新聞」九月二七日夕刊(『文学の生理─文芸時評 1973 〜 1976 』)・高橋英夫「神奈川新聞」九月二八日朝刊

収録─創作集『異床同夢』・『藤枝静男著作集第二卷』・季刊リテレール第一五号「特集・短篇」(平成八年)・車谷長吉撰『文士の意地(下)』平成一七年作品社)
  疎遠の友    
「季刊藝術」一〇月秋季号  小説(「春の水」昭和三七年にでてくる葉山と、この「疎遠の友」の仕手とは同じ人物、河村直をモデルとしている。本多秋五が「徳不徳」昭和四九年でそのことにふれている。河村について平野謙は「旧友の死」昭和四二年で書いている。「私ども四人〔注・藤枝・本多・平野・河村〕は往年の文学少年だったが、河村直だけが文学の道をすてたのである。その間の事情をいま説明している余裕はないが、私たち仲間で、高校時代童貞をすてたのは彼だけだったし、結婚生活にはいってからも、女房をとりかえたのは彼だけだった。作家的といえば、彼がいちばん作家的だったともいえる。最初すぐれた短歌を書き、のちにいい小説も書いた。その男が文学をすてなければならなかったのだから、ついに志を得なかったといっても許されるだろう」。/藤枝静男は静男巷談「あやまる」昭和三五年で河村について書いている。「仕手」は秋葉山の犬居村の宮司の五男とある。また乳呑児のうちに死んだ息子の墓が千葉山にあると云う。「秋葉講」の再建に努めてもいる。このことでは「天女御座」昭和四三年で章の友人Kが、「今ここ」昭和六〇年で河村が秋葉山の宮司の息子であったと書いている。「私」は静岡の三十六連隊で仕手と会う〔実際は三十四連隊。「廃業正月」昭和四七年の項参照〕。河村の著書は正しくは『大発明王の一生 汽罐王田熊常吉伝』昭和一五年婦人界社刊。/また杉田は本多秋五、平松は平野謙、「私」藤井は藤枝静男自身がモデルであろう。モデルについての本書の立場とあわせて「春の水」昭和三七年の項参照。/また「島崎藤村は二年前に若い女弟子と再婚していた」とある。藤村の二番目の妻は加藤静子である。加藤の著書に『落穂─藤村の思い出』昭和四七年明治書院がある。鷹野つぎも藤村の弟子の一人であった。藤枝に「平沢計一・鷹野つぎのこと」昭和五四年があり藤村についてふれている)
 

 

収録─創作集『異床同夢』・『藤枝静男著作集第五巻』
 

わが誇り・原勝四郎小品展   
『原勝四郎展図録』─原勝四郎展一〇月六日〜二八日 神奈川県立近代美術館  随筆(後出の「原勝四郎氏のこと」の後半となる。これ単独では単行本未収録。「作品との不思議な出会い」昭和五一年で原のこと。なお「私と原勝四郎」NHK教育テレビ日曜美術館・昭和五四年一一月四日放送に藤枝は出演し原について語っている。原勝四郎に関する資料としては本図録の他『原勝四郎画集』、原厚子『原勝四郎の思い出』昭和五四年非売、『原勝四郎展図録』平成九年田辺市立美術館がある)

天竜河口の秋   
「旅」一一月号  随筆(単行本未収録 この随筆は「田紳有楽」の「ポチャついた柔肌のホステスと並んで飽きずに」眺める場面につかわれている)

瀧井孝作著『俳人仲間』 ─作家の半世紀の発端明かす文体の重さ、生々しさ
「静岡新聞」一一月九日朝刊 書評(瀧井孝作「俳人仲間」の二として   文中「『事実をありのままに書くことによって自己を発見する』という瀧井氏の創作態度」とある。滝井は、「創作ハ発見也」という言葉を色紙などによく書いた。このことでは「空気頭」昭和四二年冒頭に、「二十代の終わりころ、瀧井孝作氏を訪問すると」「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めずに書けばそれでよい」と言われたことを書いている)

瀧井孝作著『俳人仲間』 ─目のつまった青春回想  
「東京新聞」一一月一〇日夕刊・「中日新聞」一一月一二日朝刊  書評(瀧井孝作「俳人仲間」の一として  「昭和三七年秋に(瀧井から)いただいた葉書」とある。浜松文芸館にその葉書はあり、以下全文紹介したい。「群像の『ヤゴの分際』よみました。題材の宜いうまい小説です。むかし八王子在住時分、君は肌合の清潔なよい人と感じましたが、その肌合からこの小説が描けるのだと思ひました。ほかの人にかけない力があります。少し荒っぽい描写もありますが、今日の感じではこれでもよいのでせう。抽象画に実感のある時世で、落付いたのは、時世おくれかもしれませんから。僕は新潮に出す『俳人仲間』四、五十枚書きましたが、昨日読み直してみてダメで、書直しです。失敗です。心十一月号の『街路樹』読んで下さい。狭い世界に入ってしまった感じですが、古いでせうか。こんなものに一ヶ月かかったのです。皆様によろしく」))

原勝四郎氏のこと   
「ものくろーむ」第七号(一一月一四日、ナカムラ画廊発行 後半は前出の「わが誇り・原勝四郎小品展」と同文。文末に「一九七〇─一〇」とあるが「一九七三」の間違いであろう。また「原勝四郎小品展」の開催を昭和二八年と書いているが、原勝四郎年譜その他から昭和二九年開催が正しい。思い違いであろう。/瀧井孝作がこのとき推薦文を寄せている。平野多賀治『似麓庵雑記』昭和三〇年に瀧井の推薦文が転載されているので、参考までに以下紹介する。「原勝四郎さんは今年六十七歳、二紀会の会員。若い時分、森鴎外の世話で巴里に遊学したと言われるが、ずっと紀州白浜に引蘢り、世間に出ようとしない人です。その絵は愛情のこもった作で、生活の清潔な所が出て、スガスガしい感じで、座右に見馴れても見あきがしません。一人田舎にいて、老年になると共に進歩する画家のようで、私は好きです」。なお「方寸会」については「方寸会とは何ぞや」昭和三七年の項参照。 

創作集『愛国者たち』あとがき   
『愛国者たち』(一一月二四日講談社)  自著あとがき(「鰹のブツ切りに生薑醤油をかけて食ってもいいし、牛の生肉にニンニクと塩とチーズをまぶして食ってもいい。鰹のブツ切りは西洋にないから人間の食物でないという人はバカといわれても仕方がないだろう」とある。

わが町・わが本   
「日本読書新聞」一二月六日号  随筆(

杉浦明平著『田園組曲』 ─腹を立て同情して  「東京新聞」一二月八日夕刊・「中日新聞」一二月一〇日朝刊 書評(


講談社文庫『空気頭・欣求浄土』  
昭和四八年二月一五日  講談社刊
カバー装画 駒井哲郎
解  説 川村二郎(本書では無題。川村二郎『銀河と地獄─幻想文学論』に「陰画の浄土─藤枝静男」のタイトルで収録)
年  譜 藤枝静男自筆(文末に昭和 ・1)
収録作品 空気頭/欣求浄土(欣求浄土/土中の庭/沼と洞穴/木と虫と山/天女御座/厭離穢土一家団欒) 

 

講談社文庫『空気頭・欣求浄土』書評 
吉良任市「静岡新聞」四月六日朝刊





創作集『愛国者たち』  
昭和四八年一一月二四日  講談社刊
装  幀 小孫 靖
収録作品 愛国者たち/孫引き一つ/接吻/山川草木/風景小説/私々小説/キエフの海/老友
あとがき 藤枝静男  本書で第二回平林たい子賞を受賞

 

『愛国者たち』書評
後藤明生「文藝」昭和四九年二月号・高橋英夫「群像」昭和四九年一月号(『昭和作家論一〇三』平成五年小学館)・桶谷秀昭「東京新聞」昭和四九年一月五日朝刊・蓮實重彦「週刊読書人」昭和四九年二月二五日号・古屋健三「日本読書新聞」昭和四九年一月二一日号・八木義徳「新刊ニュース」昭和四九年三月号・秋山駿「週刊朝日」昭和四九年三月二二日号匿名(『本の顔 本の声』昭和五七年福武書店)・高橋英夫「読売新聞」昭和四九年一月一四日朝刊匿名(『小説は玻璃の輝き』平成一一年翰林書房)・匿名「朝日新聞」昭和四九年一月二八日朝刊・匿名「新潟日報」昭和四九年一月七日朝刊




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