昭和四六年(一九七一年) 六三歳

昭和四五年一二月三一日付で保健所に眼科医廃業届を出す。「キエフの海」を『文學界』三月号に発表。六月、浜名湖会(弁天島の共楽荘旅館に泊。佐久間ダム見学)。七月から九月にかけて「青春愚談」を『東京新聞』に連載。七月九日、第八回浜松豊橋読書交歓会で講演「ソ連雑感」(このときの講演記録は『自動車文庫だより』第二三号浜松市図書館発行)。「怠惰な男」を『群像』八月号に発表。九月、『現代文学秀作シリーズ 凶徒津田三蔵』を講談社より刊行。同月、平野、本多と旅行(出雲・大山・松江・志賀直哉旧宅)。「老友」を『群像』一〇月に発表。一〇月、『或る年の冬 或る年の夏』を講談社より刊行。一〇月二一日、師志賀直哉肺炎と全身衰弱のため死去、享年八八歳。叙位叙勲の沙汰あるも辞退。通夜は行わず、二六日無宗教による葬儀。一一月、静岡県金谷町で立原正秋と文芸講演会(『小川国夫全集第五卷』付録で高井有一がこの時のことにふれている)。なおこの年、小川国夫が『現代文学秀作シリーズ 凶徒津田三蔵』の解説として「個の存在証明」を書いている。

  ヨーロッパ寓目   
「群像」一月号  随筆(案内人ミーシャを教えたというレニングラード大学日本語科助教授岸田は、「異郷の友」昭和三六年のN、岸田泰政である。/編者も平成一一年のスペイン旅行で、プラド美術館には大いに満足した。「彼の最大の『悦楽の園』の画面の色調が日本で想像していたより明るく」と藤枝は書いているが、編者にとってもそれまでのボッシュのイメージを超越した美しさであった。可憐にさえ見えた。ボッシュについては「ボッシュ画集」昭和四四年、「ボッシュ」昭和四六年がある。ブリューゲル「死の襲来」とあるのは「死の勝利」とも題される一一七×一六二センチの油彩である。身分を問わずすべての人々を死〔骸骨〕が蹂躙している。藤枝は見つけられなかったが、編者は幸い美術館売店でこの原色版を入手した。なおプラド美術館を埴谷雄高も昭和四三年に訪れており、「悦楽の園」「死の勝利」の「二点がずばぬけてい」ると書いている。ルーベンス、グレコに関する藤枝の感想には同感である。スペイン中央部の都市トレドのサント・トメ教会にある「オルガス伯の埋葬」を編者も眼にすることが出来たが、掛値なしにグレコの傑作である。/藤枝は埴谷雄高「絶讃」の「ルクレツィア・ボルジア」を見るためにフランクフルトに寄り道をする。しかし休館日ではたせなかった。そのことを同行者城山三郎も書いている〔『藤枝静男著作集第三巻』月報〕。藤枝は昭和四九年、友人達との北欧旅行で「ルクレツィア」を見ることができた。「フランクフルトのルクレツィア─半ば冗談に埴谷雄高氏へ」昭和五〇年に書いている。/余談になるが埴谷雄高に『フランドル画家論抄』がある。宇田川嘉彦の筆名で昭和一九年に刊行された。ルーベンスを主に論じた書であるが、出征兵士宇田川嘉彦の残していった著述という体裁をとっている。埴谷の著書のなかで稀書といえよう。戦況厳しい中で、図版一〇三というこのような美術書を出版したこと、できたことが編者には不思議である。出征兵士の著述という体裁も、当時の出版事情を考慮してのことであったろう。/本文に戻る。ルーヴルの「膝に腰かけるような具合に人物が三重に重なっている妙な構図の聖母子」とはレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」である。このレオナルドの最高傑作は、人だかりの「モナリザ」とは対照的に見る人も少なく、これでいいのかと思うほどに無造作に展示されている。近くで静かに見ることが出来て幸いであったが。平成二〇年一二月、この作品の裏側からレオナルドのデッサン三点が発見された。/なお文中パリで出会う友人Nをモデルにして、小説「老友」を書いている。そのなかでも「思わぬ地下のせまい部屋でホルバイン、クラナッハ、デューラーの数個の小品に出あ」う場面がある。ルーヴルにはそうした楽しみがある。   なお「群像」本号に第四五回野間賞の決定─最終選考作品五作の一に『欣求浄土』。ちなみにこの時の受賞作は吉田健一『ヨオロッパの世紀末』、江藤淳『漱石とその時代』)

晴着   
「けんせつたより」新年号  随筆(  文中の旧友Mは添田紀三郎である。「添田紀三郎のこと」昭和四六年の項参照)

禅寺にも似た中学校 ─私の寄宿生時代  
「読売新聞」二月七日朝刊  随筆(

キエフの海    
「文學界」三月号  小説(昭和四五年のソ連・ヨーロッパ旅行の体験を素材にしている。随筆「あれもロシアこれもロシア」昭和四五年、そして小説「老友」昭和四六年、「プラハの案内人」昭和五〇年も同様。カジミーロフについては、随筆「カジミーロフさんのこと」昭和五八年がある。エロシェンコとの出会いのことはこの「キエフの海」のほか「少年時代のこと」昭和四七年、「在らざるにあらず」昭和五一年でも書いている。/エロシェンコの著作の邦訳には高杉一郎訳『エロシェンコ全集1・2・3』昭和三四年みすず書房がある。なお高杉一郎は明治四一年生まれ、平成二〇年一月死去、享年九九歳。シベリア抑留体験をまとめた『極光のかげに』や『征きて還りし兵の記憶』平成八年岩波書店、フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』などの児童文学の翻訳がある。静岡県文学連盟の創設と後進の指導に力をつくした。編者の個人的な思い出を語りたい。六〇年安保のとき、小川五郎〔高杉一郎〕教授は学生集会に顔を見せ「僕はインターナショナルの歌が好きだ」と語った。また当時のソ連首相フルシチョフが現代絵画を「ロバのしっぽで描いたようだ」と云ったのをもじり、「キュー・ド・コション」=豚のしっぽと私たちのグループを命名してくれた。そのときいただいた言葉を一部引用する。ロバのしっぽで描いた作品を展示し評判をとったフランスの評論家の話─フルシチョフの発言は田舎者の発言ではなくこのことをふまえていた─に続けて「ご承知のように、ロバは馬鹿という意味があります。そこで一度は自嘲的に大いに謙虚な態度を見せたわけですが、今度は天をもつく若い画家たちの傲慢な自信をどこかに示して、ザマァ見ろという必要があると思いました。馬鹿なロバにくらべられるのは、一般に馬や犬でしょうが、僕が思い出したのは、ジョージ・オウエルの風刺文学作品『動物農場』でいちばん賢い動物だとされている豚のことでした。こうしてキュー・ド・コションという名が決まりました」。/藤枝静男が旅行した一六年後の昭和六一年、チェルノブイリ原発事故が起こっている。いまキエフ湖はどんな状態であろうか。平成三年、ウクライナをはじめとする各共和国が独立しソ連崩壊。キエフはウクライナの首都)
 

時評─秋山駿「東京新聞」二月二六日夕刊(『秋山駿文芸時評現代文学への架橋 1970.6 〜 1973.12 』)・川村二郎「神奈川新聞」二月二五日朝刊・森川達也「京都新聞」二月二四日朝刊

合評─平野謙・小島信夫・瀬戸内晴美「群像」四月号

収録─創作集『愛国者たち』・『藤枝静男著作集第三卷』

  平野謙著随筆集『はじめとおわり』 ─雑炊の暖かさと根気よさ  
「読売新聞」三月二六日  書評(「筆者自身の苦衷と経済的実情」とあるが、浜松市文芸館にある藤枝宛の平野の書簡はその殆どが借金の依頼である。長々と事細かに実情を書き述べている。『はじめとおわり』初期習作の章にある「回想・北川静男」は、平野が藤枝と編集した北川静男遺稿集『光美眞』に寄せた文である。藤枝も『著作集第五卷』に、本多秋五も『古い記憶の井戸』にそのときの寄稿文を収録している。

筆一本 ─医者を廃業したけれどそこはかとない無力感  
「毎日新聞」三月三一日夕刊  随筆(

紀行・モスクワの少し南 ─「トルストイの墓詣で」「ウラジミールの壷」  
「季刊芸術」四月春季号   随筆(「トルストイの墓詣で」の一部前後を入れ替え「 ヤスヤナ・ポリャーナ 」と改題、「 ウラジミールの壷 」はそのまま「ウラジミールの壷」と独立させ二篇とし  「壷あれこれ」昭和五七年でウラジミールの壷。「壷」の写真も掲載されている。トルストイの「クロイツェル・ソナタ」については、「青春愚談」昭和四六年、「トルストイ著『クロイツェル・ソナタ』」昭和四七年、「私の読書」昭和五五年でも書いている。城山三郎から借りて読んだ『カントの生涯』は角川文庫。晩年のカントの無惨な姿に藤枝は打たれる)

わが内なるボッシュ ─あるいは畸形の真実  
「芸術生活」五月号  随筆(「 ボッシュ 」と改題して  小川国夫が「空気頭」をボッシュを思わせると評したとある。このことでは藤枝が「アポロンの島」昭和四二年で「絵にたとえると、遠近なしで、遠い山も脚下の草むらも同一の強さの光をはねかえしている」と書いているのを思い出す。両者が互いを絵に例えている。「ボッシュ画集」昭和四四年、「ヨーロッパ寓目」の項参照。なお「太陽」平成四年六月号特集・埴谷雄高で、埴谷の部屋にボッシュ「悦楽の園」の複製画が掛けてある写真)    

青春愚談(1) ─八高に入学した"問題児"─寮の同室に稀代の美少年・平野謙氏  
「東京新聞」七月二七日夕刊  随筆(八高時代の藤枝静男の写真。 各回の見出しをはぶき「青春愚談」として 寓 ・ 5 。以下本連載の収録については略。なお昭和九年発行『第八高等学校學寮史』の寮生名簿をみると、大正一五年度の寮生は三年六名、二年三三名、一年一五〇名、計一八九名である。部屋数三一、一部屋五、六名である。三年六名は一部屋にまとめられ、二年が各部屋に一、二名ずつ割り当てられている。二、三年生は、本人の希望もあったかも知れないが寮運営のための残寮であろう。八高の一学年の定員は、二八〇名前後であり、入寮しなかった者が一三〇名ほどいたことになる。大正一五年度の名簿に戻れば、第五室に勝見次郎(藤枝静男)と平野朗(謙)の名があり、第一二室に本多秋五の名がある。北川静男は入寮していない。また藤枝静男は二年になる前の一月に寮を出て、素人下宿に移っている) 

青春愚談(2) ─口説き落とされた角力部へ─なき親友の名をとって筆名に  
「東京新聞」七月二八日夕刊   随筆(『八高五十年史』昭和三三年の「八高の相撲部」の章に「北川(在学中死去)、川瀬(中途退学)」の名がある。北川は北川静男である。なおこの川瀬は成蹊実務学校の川瀬一馬とは別人)

青春愚談(3) ─応援団員がほれた声のよさ─たいがいの遊びがうまかった平野氏  
「東京新聞」七月二九日夕刊  随筆(八高時代の平野謙の写真)

青春愚談(4) ─勝たずば死すとも帰えらじ─まなじりを抉して"敵地"金沢へ  
「東京新聞」七月三一日夕刊  随筆(文中に「『臥竜原頭』という応援歌」とあるが「臥竜原頭」というのは大正一四年度応援歌の出だしである。歌詞の一番を紹介する。作歌は豊川昇「臥竜原頭雲乱れ 義憤の烈火紅蓮燃え一打す兵鼓の轟に 狂瀾怒る今し今 意気の血胸に悶えては 猛き心の踊らずや」『寮歌集』〔八高創立五五年記念事業実行委員会刊〕昭和三八年非売より。榎本のホームランについては静男巷談「殊勲の本塁打」昭和三七年がある)

怠惰な男   
「群像」八月号  小説(平野、本多、北川をモデルにした人物を、「或る年の冬」初出のようにZ、S、Tとせず、はじめから中島、三浦、飯尾としている。また添田紀三郎をモデルにした人物を竹井。また「寺沢の一級上」「ボート部」の朝川のモデルは「三度目の勝負」昭和四八年の鈴木かも知れない。「泡のように」昭和五三年に名があり、『八高五十年史』の漕艇部史の章に舵手として出ている鈴木重一である。『第八高等学校一覧』によれば実際は二級上であるが。/なおここで「或る年の冬」「或る年の夏」「怠惰な男」を、一つの作品「或る年の冬 或る年の夏」にまとめる経緯についてふれたい。細かなことは省く。「或る年の冬」は冒頭から、『藤枝静男著作集第五卷』でいうなら一五一頁の「再び深川のアパート四階のせまい部屋へ戻って行った」までである。この「或る年の冬」に、「或る年の夏」文末に記しているように「或る年の夏」を割り込ませている。すなわち『著作集』七二頁の「寺沢は窓際の机に裸の背をもたせかけ」から同一〇一頁の「しかし漠然とした力をもって感ずるのであった」までが「或る年の夏」の部分である。「或る年の冬」初出では、同七二頁の「三浦(S)にも中島(Z)にも告げないであろう」に同一〇一頁の「夏が過ぎ、やがて秋に入ろうとしていた」をすぐ続けている。なお「怠惰な男」は同一五一頁の「寺沢が赤城山からアパートに戻って」から以降である。/志賀直哉の「リズム論」のことが出てくるが、「読売新聞」昭和六年一月一三日、一四日に発表されたもの。リズムということでは、藤枝は『凶徒津田三蔵』後記昭和三六年で「或るリズムをもって音読できないような文章は小説ではない」と書いている。/なお随筆「眼鏡のツル」昭和五六年で検挙拘留されたときのことが具体的に書かれている。なおモデルについての本書の立場は「春の水」の項に書いた)
 

時評─平野謙「文芸」九月号(『文壇時評(上)』昭和四八年河出書房新社・『平野謙全集第十二巻』昭和五〇年新潮社)・江藤淳「毎日新聞」七月二七日夕刊(『全文芸時評(上)』)・佐伯彰一「読売新聞」七月二七日夕刊(『日本の小説を索めて─文芸時評 69 〜 72 』)・秋山駿「東京新聞」七月三〇日夕刊(『秋山駿文芸時評─現代文学への架橋 1970.6 〜 1973.12 』)・磯田光一「サンケイ新聞」七月二六日夕刊・川村二郎「神奈川新聞」七月二七日朝刊・森川達也「静岡新聞」七月二九日夕刊

合評─佐々木基一・遠藤周作・上田三四二「群像」九月号

収録─「或る年の冬」に同じ。

  原稿料について   
「文芸家協会ニュース」八月号 アンケート(「原稿料についてのアンケート」として 。「文芸家協会ニュース」では、このあと昭和四八年にも同趣旨の企画。そのときも藤枝は回答しているが、そちらは単行本未収録)

青春愚談(5) ─メンチェンを思うこころ─あれでもあり、これでもあった  
「東京新聞」八月三日夕刊  随筆(『八高五十年史』の巻末に昭和三年第二十周年記念祭売出漫画集「八高生のぞ起」の復刻がある。まさに藤枝静男在学中の八高生の生活ぶりが、コメントと二四図で描かれていて面白い。その一つ「真に大地に生きて行かんとする俺達は自然の美を求めて、郊外を散策し松坂屋に発展するのである。自然の美、メーチェンの鑑賞それは詩として、絵としてのそれであって、八高生の純真なことは世界周知のことである」。また自画像のことが出てくるが、藤枝静男が平野謙を昭和三年に、また平野が藤枝を昭和六年に描いたデッサンが『寓目愚談』の口絵としてある。トルストイ「クロイツェル・ソナタ」にある性交否定論については「私の読書」昭和五五年でもふれている)

青春愚談(6) ─申し分ない平野謙の貫一─コンパのだし物『金色夜叉』で  
「東京新聞」八月四日夕刊  随筆(八高時代の集合写真。『第八高等学校一覧』昭和五年の職員一覧に修身科主任・生徒主事兼教授文學士中村寅松〔東京〕の名がある)

青春愚談(7) ─賛美と自嘲に乱れる心─下宿生活に入り一少女と出会う  
「東京新聞」八月五日夕刊  随筆(小林秀雄の写真)

青春愚談(8) ─手当り次第に小説乱読─学業のほうは放ったらかして
「東京新聞」八月七日夕刊  随筆(文中の書籍で、編者の手元にあるものは次の通り。窪田十一『人肉の市』大正一一年一一月初版・大正一二年六月八一〇版大日本雄弁会、嶋田清次郎『地上 第一部地に潜むもの』大正八年六月初版・大正一〇年一〇月五五版新潮社、同『第二部地に叛くもの』昭和九年七月初版・大正一〇年九月二七版、同『第三部静かなる暴風』大正九年一二月初版・大正一〇年九月三〇版。江原小彌太『 創作 舊約』大正一〇年一〇月初版・大正一〇月一一月三〇版〔伏せ字多し〕、同『 創作 新約(上)』大正一〇年四月初版・大正一〇年一〇月六九版、同『 創作 新約(中)』大正一〇年五月初版・大正一〇年八月一六版、同『創作新約(下)』大正一〇年四月初版・大正一〇年一一月八八版。一版が何部か知らないが、二年足らずで八一〇版、半年で八八版など眉につばをつけたくなるが、驚異的に多くの読者を得た本たちであったことは間違いなかろう。なお『人肉の市』には麗々しく連合独逸婦人協会幹事アンナ・パップリッツ女史序、女子売買国際防止国家委員会序なるものがついている)

青春愚談(9) ─本の洪水に襲われて狂奔─レクラムの『ファウスト』と格闘  
「東京新聞」八月一〇日夕刊  随筆(「ロダンの『考える人』の写真をはりつけている本多には、古本屋で買ってきたドイツ版の『デューラー画集』で対抗し」とある。編者が平成二〇年に入手した DR.W.KURTH 著『 ALBRECHT DURER 』一九二八年ベルリン刊(本書は二版)がそれかも知れない。図版は白黒だがよい画集である。なお編者の自慢話をすれば、もう一冊デューラー画集が手元にある。一九一一年〔明治四四年〕ロンドンで発行されたもので、図版の鮮度は抜群である。大学時代に静岡の古本屋で入手した。随分安かった記憶がある。高価なデューラー画集をその後眼にするが、これに比べればものの数ではない。ドイツ語教師桜井天壇は本名桜井政隆。明治一二年生まれ、明治四二年より八高教授。藤枝が卒業してまもなくの昭和八年死去。「思いつくまま」昭和五三年に天壇のこと)

青春愚談( 10 ) ─馬鹿げた生活だったが─議論は『昆虫記』から好色本まで  
「東京新聞」八月一一日夕刊  随筆(文中の書籍で編者の手元にあるものは次の通り。『江戸時代文藝資料第一巻』大正五年非売〔図書刊行會発行。会員制。刊行予告に「本書は洒落本の部にして、四十種の珍本を収めたり。其の二三を示せば、列仙伝、寸南破良意、風俗問答、中洲雀、十八大通手枕、深川新語、吉原楊枝、通人の寝言、舌講油通、うかれ草子、傾城買四十八手、廓の大帳、仲街艶談、品川楊枝等なり」とある〕。「変態・資料」会員募集。「変態・資料」創刊号大正一五年九月。「同」第三号大正一五年一一月〔本号は発売禁止・没収処分を受ける〕。「同」第四号大正一五年一二月。「同」第五号大正一六年一月。「同」第六号昭和二年三月。「同」第七号昭和二年四月。「変態・資料」の奥付を見ると会員制非売となっている。『ファンニー・ヒル』昭和二年一月文藝資料研究会〔限定版・並装版〕。本書も発売禁止・没収処分。「変態・資料」六号冒頭謹告(梅原北明)で「ファンニヒル残本の全部が差し押へられて一部もありません。御不用の方は私に一冊寄贈して下さいませんか」とある。平野謙はどんなルートで入手したか。岸田劉生『初期肉筆浮世絵』は大正一五年岩波書店。室田〔のちに添田〕紀三郎は「聖ヨハネ教会堂」のモデル。北川静男は藤枝静男の筆名の由来となった人物)

青春愚談( 11 ) ─無意識に左翼文学の影響─やっと進級、念願の志賀直哉氏宅へ  
「東京新聞」八月一二日夕刊  随筆(このころの志賀直哉訪問については昭和三年の項参照)

青春愚談( 12 ) ─"めくら蛇"二晩もお世話に─"傷心"の小林秀雄氏と会う  
「東京新聞」八月一三日夕刊  随筆(昭和四年ころの志賀直哉の写真。座談会「志賀さんの話を聴く」昭和三二年で志賀は「ぼくはその時、随分君〔藤枝静男〕は変わった人だと思った。何だかふざけてゐるのか本気なのかわからなかった。いやに人をくった馬鹿にしたことを言ふ人だと思ったよ〔笑〕言ひたいことはズケズケいふし…ほかの人なら遠慮するところを…〔笑〕」と語っている)

青春愚談( 13 ) ─今思い出すと冷や汗もの─志賀氏や小林氏にすっかり甘える  
「東京新聞」八月一四日夕刊  随筆

青春愚談( 14 ) ─テント生活で宿代を節約─平野謙、本多秋五を誘って奈良へ  
「東京新聞」八月一七日夕刊   随筆(本多のこのときの俳句を「本多秋五『奈良での運座』」昭和四三年で取り上げている)

青春愚談( 15 ) ─「気にとめている女が三人」─昔も今も若者に共通の"絶望感"  
「東京新聞」八月一九日夕刊  随筆

青春愚談( 16 ) ─色情的なよからぬ夢も─自己嫌悪、自己否定の交錯する日々  
「東京新聞」八月二一日夕刊  随筆

青春愚談( 17 ) ─マダムと"高級音楽"の魅力─プロレタリア文学に心傾きつつも  
「東京新聞」八月二四日夕刊  随筆(小林多喜二の「蟹工船」を読んだとある。千葉医大生の藤枝が検挙拘留された昭和八年、小林は警察で拷問を受け死亡した。このとき志賀直哉が小林の母に悔やみの手紙を出している。志賀直哉『萬暦赤絵』昭和一一年に、小林宛の二通の手紙とともに一部伏せ字にされているが収録。以下引用。「拜呈 御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家として實に惜しく、又お會ひした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります者で、×××××御死去の様子を考へアンタンたる気持になりました。御面會の折にも同君歸られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話あり、その事など憶い出し一層心中御察し申し上げて居ります。同封のものにて御花お供へ頂きます。 二月二十四日 志賀直哉 小林おせき様」。小林多喜二は昭和六年に志賀宅を訪ね一泊している。なお東大から贈られた寮歌 Es Lautet は八高創立五五周年記念『寮歌集』でみると「大正十一年度東京帝国大学寄贈歌 Es laeutet 」である。それには前文「ある初秋の夕。ある高台にたちて混乱の巷をながめてありし時に思はず口にもれたる句をそのままに並べて若き人々におくるわが友よ。いざ声高らかにうたひて 共にたたかはん」がついている。『寮歌集』をみると寮歌は毎年新しくつくられ、また東大の他に九大、京大からの寄贈歌もある) 

青春愚談( 18 ) ─純粋に正直になった私─志賀直哉氏をしげしげ訪問して  
「東京新聞」八月二五日夕刊  随筆

青春愚談( 19 ) ─貧乏しながら奈良を放浪─原始生活に誘った志賀直哉氏  
「東京新聞」八月二八日夕刊  随筆(志賀直哉が周代銅器展について昂奮して語る場面を書いているが、後年藤枝静男が青銅器に執着するこれが遠因であったかもしれない。なお本多秋五も青銅器には強い関心がありいくつか随筆を書いている。文中の小川晴暘については「北京三泊─石家三泊─太原三泊─大同二泊─夜行列車─北京」昭和五四年の項参照)

青春愚談( 20 ) ─中村光夫氏?のウワサも─小林秀雄氏かどうか確かめて訪問  
「東京新聞」八月三一日夕刊  随筆(『寓目愚談』口絵につかわれた平野謙のデッサン。志賀直哉と家康の「はじめの妻」のことについては「志 賀直哉と築山殿のこと」昭和四九年がある)

青春愚談( 21 ) ─許せなかったことも今は─悔恨と自恃との悩みの連続(最終回)  
「東京新聞」九月一日夕 刊  随筆

添田紀三郎のこと   
「昼夜」一九七一年秋号(第一三号・九月)  追悼( ・『添田紀三郎著作集』 本多秋五も本号に追悼文を寄せている。「或る年の冬 或る年の夏」の竹井、小説「聖ヨハネ教会堂」昭和四九年の「室井達三郎」はこの添田〔旧姓室田〕〕紀三郎がモデルである。随筆「聖ヨハネ教会堂」昭和四八年では本名。「奈良の夏休み」昭和三二年で志賀直哉の将棋の相手をさせる室田を書いている。「四国・九州行き」昭和三九年の高知での文芸講演会のところで、高校時代の友というのは添田である。「晴着」の旧友Mも添田。モデルについての本書の立場は「春の水」の項に書いた。なお『第八高等学校一覧』昭和五年の生徒氏名一覧〔成績順〕の第二〇回昭和五年卒業理科乙類三八名に室田紀三郎と勝見次郎〔藤枝静男〕の名がある。ちなみに成績順は一四グループにわけられていて室田は九番目、勝見は一二番目のグループである。平野朗〔謙〕の名も文科乙類に見える。ついでに言えば平野は一二グループ中、七番目のグループ。/『添田紀三郎著作集』昭和四七年限定非売品について補足する。添田の一周忌を期して添田峰夫人がまとめたもの。本の構成は、まえがき平野謙、添田の作品〔1作品・2ラジオ随想・3雑文・4コラム・5エッセイ〕、年譜、付録。雑文に「近代文学講演会始末」注・昭和三九年の高知女子大学での講演会のこと、「藤枝静男『落第免状』補遺」。コラムに「友を選ばば」で藤枝、付録に藤枝の追悼文や本多秋五の「浪人時代の一齣」など収録。添田は文芸同人誌「昼夜」の名実共に主宰者であった。なお年譜の昭和三二年四八歳の項に「生まれて初めて小説を書く」とある。昭和四七年一月死去、享年六一歳) 

網野菊著『遠山の雪』 ─簡素な文章でささえる─索漠たる半透明の世界
「読売新聞」九月一〇日朝刊  書評(

隠居の弁  
「文學界」一〇月号  随筆(文中の岡田宗叡氏とは骨董屋未央堂(びおうどう)主人である。未央堂については「在らざるにあらず」昭和五一年の項参照。このとき手に入れた李朝民画について編者に拙文「花鳥図・雉」藤枝文学舎ニュース第四七号がある。李朝民画については「朝鮮民画」昭和五一年の項参照。また『田紳有楽』あとがきで文房具図についてふれている。/昭和四九年に同題異文があり間違えやすいので注意。『藤枝静男著作集第三巻』初出一覧で、この「文學界」の「隠居の弁」も昭和四九年になっているが誤り。

武者小路実篤著『一人の男』上下 ─『或る男』以後の行路─全編を貫く強い人間信頼
「東京新聞」一〇月四日夕刊  書評(

『或る年の冬 或る年の夏』あとがき   
『或る年の冬 或る年の夏』(一〇月一二日、講談社)  自著あとがき( 「これでやっと一度は書いておきたいと考えていたテーマに決着をつけることができたわけである。とにかくここに記した時期が自分の一生を決定したという意味で私には深い感慨がある」とある。平野謙は『添田紀三郎著作集』まえがきで書いている。「『むだあし』は題材的に藤枝静男の『或る年の冬 或る年の夏』と一部ダブルところがある、と指摘しておきたい。その共通の題材となった時期は、また添田紀三郎や藤枝静男や本多秋五や私などに共通した暗い青春の一時期でもあった。昭和五、六年ころのことである」)

老友   
「群像」一〇月  小説(大村は藤枝静男自身が、半井は随筆「ヨーロッパ寓目」に出てくるNがモデルである。なお文中のポリヤコフ一九〇〇〜一九六九はモスクワに生まれ、ロシア革命を機にパリに亡命。第二次大戦後のフランス抽象絵画の旗手として活躍した。ポリヤコフの資料としては昭和六三年に西武美術館で開催された「ポリアコフ展」図録があり、大凡の画業が理解できよう。大蒜〔おおびる〕=ニンニクの古称。/大村と半井が絵を描く必然性について、ちょっとやりあう個所がある。編者もその一端に連なる者として、半井の言葉は、私の言葉でもあるように思えた。また半井が自分の作品について語る言葉もわかる。「見たくないやつにも結局は見させたいんだ。妥協したら駄目だ。どうしたらいいだろうね」のセリフは、モデルであるNが実際に喋ったセリフなのか、それとも藤枝静男の創作か。大村は「おれに聞かれたって困るよ」と答えているが。/スペイン生まれの菓子屋が創価学会員だとある。創価学会ヨーロッパ総支部、パリ支部の結成は昭和三八年。/クラナッハでは「空気頭」昭和四二年にA子の風呂上がりの立ち姿が、クラナッハの描いたレダそっくりだとある)
 
収録─創作集『愛国者たち』・『藤枝静男著作集第三卷』
 

志賀さんのこと   
「読売新聞」一〇月二二日夕刊  追悼( ・『群像日本の作家9 志賀直哉』平成三年に収録。 志賀直哉が「平生『一生をよく生きたい』という意味の言葉をもらしていられた」とある。このことでは「ゼンマイ人間」昭和五五年でゴヤの絵の隅に「俺はまだ学ぶぞ」とあるのに感じる「私」は、「こういう精神力万能的な感動のしかたは白樺派的だな、と思い、俺は白樺派の残党だなと改めて自覚し、時代おくれの滑稽を認めて後悔のない苦笑を」する。/文中病床の志賀直哉に朝鮮民画「花鳥図」を見せ「下三分の一を残して切ってしまおうと思いますがどうですか」という場面がある。平成一〇年に浜松文芸館で開催された「藤枝静男と李朝民画展」に展示された「花鳥図・雀」「花鳥図・鸚哥」に三分の一に切られた気配がある)

昔の道   
「潮」一一月号  随筆( ・『わが体験─人生こぼれ話』昭和五三年潮出版  藤枝静男は昭和一七年九月から敗戦まで、平塚市海軍火薬廠共済病院眼科部長、予備海軍医少尉であった。平塚駅の改札を出て突き当たる神社は平塚八幡宮である。海軍火薬廠の跡地は現在横浜ゴム工場と平塚市総合公園になっている。横浜ゴム工場正門近くに平塚火薬廠跡の碑がある。昭和二〇年七月一六日の平塚大空襲は悲惨を極めた。当時の市域の約八割を焼失、死者二三七名、重軽傷者二六八名、罹災戸数七六七八戸)

野太い今昔物語   
「サンケイ新聞」一一月四日夕刊  随筆(「今昔物語集」として   「内容の生々しさと非情さで教訓はうち破られ、突き放したような即物的な文体のもたらす実在感によって現実の方が教訓からはみ出している。短篇小説のエッセンスとでも言うべきものがそこにある。出てくる人物は本能的、行動的で時に男性的なユーモアを帯び、これを表現する文体は簡潔で力強く、しかも少しも痩せていない。骨が太く肉が厚い」と書いているが、これはそのまま藤枝静男作品のことと編者には受け止められた。というより藤枝静男作品をこれ以上に過不足なく語ることはできないだろう)

志賀さん一面   
「文芸」一二月号  追悼( ・『近代作家追悼文集成 』平成一一年ゆまに書房。 文中の園池は園池公致〔そのいけきんゆき〕。明治一九年生まれ、昭和四九年歿。小説家。作品に「清一と神経衰弱」「一人角力」など。藤枝に「園池さんのこと」昭和四九年がある)

私がもっとも影響を受けた小説  
「文藝春秋」一二月増刊号  随筆(志賀直哉「城の崎にて」をあげている。単行本未収録  短いので以下全文「この小説は十六か七で読んで心を揺り動かされて以来、五十年近い今日まで、私に絶えざる影響を与えつづけている。常に私の行く手にある。/これは透徹した自然描写と深い人生・死への省察が、一分の隙もなく融合した『思想小説』である。世界が狭いとか、ドラマがないとか、だから小説でなくてただの随筆に過ぎないなどと云う人には、始めから縁のない作品である。/従って、通訳あがりのアメリカ評論家や、メートル法で小説を批評したり書いたりする人には読む資格がないと考えている」。通訳あがりのアメリカ評論家とはサイデンステッカーである。このことでは「寺沢の自動車」昭和四一年の項参照)

埴谷氏のこと   
『埴谷雄高作品集4文学論文集』月報4(一二月二〇日刊)  随筆(   喫茶店「蘭房」は「空気頭(初稿)」に登場する。また「福島君という人から」とある。このことでは本多秋五年譜昭和二一年四月に「勝見次郎〔藤枝静男〕を訪ねる。戦後初めての会合なり。二泊す。二一日に、平野と八高で同級の福島善之助と河村直〔福島の会社に入っていた〕が来談、福島が「近代文学」への援助金を約す」) 


現代文学秀作シリーズ『凶徒津田三蔵』 
昭和四六年九月二四日  講談社刊
装  幀 大沢昌助
巻頭写真 野上 透
解  説 小川国夫「個の存在証明」
収録作品 凶徒津田三蔵/イペリット眼


創作集『或る年の冬 或る年の夏』 
昭和四六年一〇月一二日  講談社刊    
装  幀 栃折久美子
収録作品 或る年の冬 或る年の夏(或る年の冬/或る年の夏/怠惰な男)
あとがき 藤枝静男 
本書は昭和四六年度(第二四回)野間文芸賞最終選考作品の一。 

『或る年の冬 或る年の夏』書評       
浅見淵「サンケイ新聞」一一月二九日夕刊・小川国夫「読売新聞」一一月二九日朝刊(『漂白視界』昭和四七年冬樹社・『小川国夫作品集第六卷』昭和五〇年河出書房新社・『藤枝静男と私』)・菅野昭正「日本経済新聞」一二月一二日朝刊・阿部昭「東京新聞」一一月二九日夕刊(『散文の基本』昭和五六年福武書店・『阿部昭集第十巻』平成四年岩波書店)・久保田正文「群像」一二月号(『作家論』)・川村二郎「海」昭和四七年一月号・入江隆則「文芸」昭和四七年一月号・多田裕計「週刊読売」一二月一七日号・八木義徳「新刊ニュース」一二月一五日号・柴田翔×田中澄江「毎日新聞」一一月二一日朝刊〔対談書評〕・進藤純孝「図書新聞」昭和四七年一月二二日号・平野謙「週刊朝日」一一月二六日号匿名(『新刊時評(下)』)



            

       


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