昭和四四年(一九六九年)      六一歳

「厭離穢土」を『新潮』二月号に、「或る年の冬」を『群像』四月号に発表。六月、浜名湖会(農業団体保養所に二泊。常滑、野間、師崎を巡る。『浜松百撰』九月号のグラフ「作家の休日」でこのときの様子)。『早稲田文学』七月号編集長対談で立原正秋と「『落第免状』余聞」。七月、本多の斡旋で志賀直哉編『座右寳』特製版を入手する。八月、長女一家浜松へ、以後同居。一〇月、NHK静岡テレビでインタビュー「愛眼愛筆・藤枝静男」。一一月、本多と京都・神戸旅行。泉屋博古館、白鶴美術館などを見る。一二月、平野、中島和夫と紀州旅行、本多は仕事の都合で不参加。なおこの年、開高健が『文學界』六、七月号に「『犬の血』と『イペリット眼』の場合」を、桶谷秀昭が『文芸』七月号に「もう一つの自然回帰─藤枝静男論」を、谷川昇が「文芸静岡」第二一号に「藤枝静男の文学にふれて」を書いている。

  児島惟謙著『大津事件手記』   
「文芸」一月号  書評(「愛国者たち」昭和四七年の項参照。  ・講談社文庫『凶徒津田三蔵』昭和五四年に収録。取り上げている『大津事件手記』は昭和一九年築地書店刊。同書後記に「翁(児島)の手になる手記が二種、即ち第一記録と第二記録とがありますが、本書に収録させて頂きましたのは、その第一記録の方であります。第二記録の方は、既に昭和六年春秋社より発行」とある。この児島の手記については家永三郎編注による東洋文庫『大津事件日誌』昭和四六年があり、第一記録、第二記録ともに収録されている。/なお児島惟謙は関西大学の前身「関西法律学校」の創立に参画、現在関西大学千里山キャンパスに胸像がある))

金庫の始末   
「中日新聞」一月一〇日夕刊・「東京新聞」一月一六日夕刊  随筆(この随筆の内容といささか違いはあるが、このモティーフを「やっぱり駄目」昭和五五年に使っている。

志賀直哉『和解』   
「静岡新聞」一月一六日夕刊  書評(

厭離穢土   
「新潮」二月号  小説( Ekel エーケル=〔むかつくほどの〕嫌悪〔感〕・ ekelhaft エーケルハフト=吐き気を催すような、不快きわまる、嫌でたまらない〈三修社独和辞典〉。/「『隠逸伝』という古ぼけた藍表紙の和本」は、正しくは『扶桑隠逸伝』である。『扶桑隠逸伝』は元政上人の漢文による著述で江戸前期寛文四年に刊行されたもののようだ。和訳は八隅景山によって江戸後期文政年中に行われ、文政一一年再刻されている。いま編者の手元にあるそれは、この文政一一年の再刻版のようである。残念ながら上中下三巻のうち下巻が欠けている。景山八隅先生著、全三冊、皇都書林文徳堂發兌、池嶋敬之画とある。「厭離穢土」の章が手にしたのは寛文四年発行のものか。本作の記述から挿絵も編者のものとは少し違うようであり、また編者のものには讃もない。収録されている隠者は役小角、伏見翁、民黒人、竹渓道慈、開成皇子、道融、玄賓、善謝、徳一と続き、上中下三巻で七五名。/藤枝静男は自分が読みまた見て惹かれたものを、コラージュ的に作品のなかに挿入する手法をしばしば採用する。この「厭離穢土」ではこの『隠逸伝』であり、「空気頭」昭和四二年では佐々木基一『停れる時の合間に』、福岡徹『新・糞尿潭』、中山恒明『患者の顔 医者の顔』、『本草綱目』、雑誌「瓜茄」などであり、「欣求浄土」昭和四三年ではヒッピーを紹介したテレビ番組とピンク映画「性の放浪」であり、「木と虫と山」同年では三松正夫『昭和新山生成日記』であり、「田紳有楽」昭和四九年〜五一年では橋本武治「古丹波焼余話・山出しのこと」、西川一三『秘境西域八年の潜行』であり、「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年では曾宮一念の詩「火葬小屋」であり、「出てこい」昭和五一年では「大智度論の物語」である。他にもあろう。/自宅に戻った「章」は妻に肉親の名前を大書した半紙を何枚も鴨居に貼付けさせる。妻の語調に「自分に馴染みもない夫の肉親に対する反感と嫉妬の情がただよっていた」と書く。このことでは「空気頭」「悲しいだけ」の妻は「わたしはこのお墓の下に入るのはいやです」と云う。本作は藤枝静男が自らの末期を描いてみせた作品であるが最後をこう結んでいる。「けっこう楽しそうな顔もしていたが、しかし腹の底から楽しんだことは生涯一度もなかったという気もする。哀れな男だがそれも已むを得ない。章よ、やすらかに眠れ」。「やすらかに眠れ」ということでは、「風景小説」昭和四九年に「同胞に優しく守られて安眠したいのである」と書いている)
 

時評─佐伯彰一「読売新聞」一月二九日夕刊(『日本の小説を索めて─文芸時評 69 〜 72 』昭和四八年冬樹社)・奥野健男「サンケイ新聞」一月二五日夕刊(『情況と予兆』昭和四七年潮出版)・久保田正文「静岡新聞」一月二七日夕刊

収録─創作集『欣求浄土』・講談社文庫『空気頭・欣求浄土』・『藤枝静男著作集第六卷』・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』

  小豆島文学散歩   
「文學界」三月号  随筆(  「このまえ出した随筆集のせいで平野謙と本多秋五の威信がだいぶ下落したという抗議があった」とある。随筆集『落第免状』のことである。たしかに平野、本多についてアレコレたくさん書いている。例えば「奈良公園幕営」で本多の高校時代の仇名がキンタマ、「平野断片」で平野が道で父と出会って「あッ、お父チャンだ」、「本多秋五」で風邪を引いた本多が姉に「秋シュウ、だるいか」と頭をなでられる、「馬籠行き」で平野は歯槽膿漏の歯で歯ギシリする。/本随筆で尾崎放哉句碑を訪ねたことがある。現在は「小豆島尾崎放哉記念館」が土庄町にある。藤枝たちが見つけ出した句碑は現在どうなっているだろうか。また黒島伝治文学碑を訪ねる。小豆島苗場。文中にあるように丸金醤油〔マルキン忠勇株式会社〕から約二〇〇メートルの所にある。「頭上に烏の群れでも舞っていれば申し分がない」とあるのは、黒島の代表作「渦巻ける烏の群れ」からの言辞)

感想   
「浜松市民文芸」第 14 集(三月三一日)  選評(単行本未収録)

或る年の冬     
「群像」四月号  小説(文中の寺沢は藤枝静男自身がモデル。本初出では平野謙、本多秋五、北川静男をモデルにした人物をそれぞれZ、S、Tで記述。またUは随筆「添田紀三郎のこと」昭和四六年の添田がモデルであろう〔添田は「聖ヨハネ教会堂」の主人公のモデルでもある〕。なお「怠惰な男」昭和四六年から、「春の水」昭和三七年と同じく平野、本多、北川をモデルにした人物を中島、三浦、飯尾にしている。また添田をモデルにした人物を竹井。本初出でA、単行本で菅沼のモデルは都留重人。都留については「泡のように」昭和五三年で書いている。「飯尾の兄」は「阿井さん」昭和三三年の阿井さんとモデルが同じ。「二つの短篇」昭和二三年の項参照。三枝子は「阿井さん」の「奥さんの姪」及び「みんな泡」昭和五六年の「Hの従姉妹」とモデルが同じ。/本文に戻れば、文末に「作中人物にモデルはあるが、その言動はかならずしも事実ではない」と記している。本多秋五は『藤枝静男著作集第一巻』月報1でモデルにされたことについて書いている。「それにしても、ここで平野をモデルにした人物の描き方は、まるで姉ひとり弟ひとりのきょうだいで、姉が弟のことを語るようにやさしい。それと較べて、本多をモデルにした人物の描き方は、ほとんどグロテスクである。『そんなこと身に覚えがないぞ!』と叫びたくなる個所がいくつかある。まあ、小説構成の必用上、コントラストをきつくしたのだ、とでも考えるより他ない。しかし、主人公自身の描き方は、はるかに辛辣で容赦がない。それに較べれば、平野の扱い方も本多の扱い方も大変寛大で、むしろ手ぬるいというべきである」と本多も「寛大」である。/なお「寺沢」が語学勉強のために毎晩三頁ずつ読み「彼」に平静をもたらしてくれたというキューゲルゲン『一老人の若年時の追憶』の和訳は岩波文庫にある〔キューゲルゲン『一老人の幼時の追憶』上・中・下〕。ナポレオンの場面は上の一九七頁、ゲーテの場面は同二四二頁にある。広津柳浪「変目伝」がある。柳浪は「残菊」で知られ、広津和郎の父であり永井荷風の師である。/「ナップ」十月号からの作品の引用がある。木村良夫「嵐に抗して」であり引用は原文の通りである。「嵐に抗して」は『日本プロレタリア文学大系5』昭和三〇年三一書房に収録されている。/中島の好きな室生犀星の詩を引用し、パセティックと評している。 Pathetic 「悲壮な」ということでは江藤淳『一族再会』書評昭和四八年でもパセティック。直接関連はないが、『田紳有楽』後記に「スタティックなものは始めから嫌であった」を編者は連想した。 static =静的。/寺沢は昔の中学の教頭を訪ねる。中学時代にその教頭から借金する場面は「硝酸銀」昭和四一年にもある。「硝酸銀」ではつぎのように書く。「名刺の裏に『借用証』、それから『一金貳円也』と書いてあった。章が名前を記すと『その下に拇印を押して』と云って丸い朱肉入れを突き出した。『あッあッ』という、声にならぬ呻きが章の咽喉にこみあげた。これはいったい何だろうと彼は思った」。/「××往来」の「尖端科学」の仕事については昭和六年の年譜参照。/海水着を着てのびあがるように片手を上げた女優のポーズが或る画家の絵にそっくりであったとある。その絵は古賀春江の「海」である。藤枝静男に中野嘉一著『古賀春江』の書評がある。/竹井におごられてカフェに入った寺沢が「これ飲めだってさ」と女給に笑われる場面は、「聖ヨハネ教会堂」昭和四九年でも「あハハ、これ飲めだってさ」と使われている。/寺沢は赤城山に登る。このことでは、昭和六年暮れに一人で赤城山に登ったことを「歳末」昭和四二年に書いている。/「或る年の冬」「或る年の夏」「怠惰な男」が小説「或る年の冬 或る年の夏」として一つにまとめられる経緯については「怠惰な男」昭和四六年の項参照。なおモデルについての本書の立場は「春の水」の項に書いた)
 

時評─中村光夫「朝日新聞」三月二八日夕刊(『時代の感触─時のなかの言葉』昭和四五年文藝春秋社)・安岡章太郎「毎日新聞」三月二九日夕刊(『小説家の小説論』昭和四九年河出書房新社)・篠田一士「東京新聞」三月二九日夕刊・佐伯彰一「読売新聞」三月二九日夕刊(『日本の小説を索めて文芸時評 69〜 72 』)・奥野健男「サンケイ新聞」三月二七日夕刊(『情況と予兆』)・久保田正文「静岡新聞」三月二七日夕刊・上田三四二「週間読書人」三月三一日号・饗場孝男「図書新聞」四月一二日号・津田孝「赤旗」四月一日号

合評─小田切秀雄・遠藤周作・佐伯彰一「群像」五月号

収録─創作集『或る年の冬 或る年の夏』(昭和四六年講談社 この「或る年の冬」と後出の「或る年の夏」「怠惰な男」の三篇を、長編小説「或る年の冬 或る年の夏」として構成)・『藤枝静男著作集第五卷』・講談社文芸文庫『或る年の冬 或る年の夏』(平成五年講談社)



感あり   
「毎日新聞」四月三〇日夕刊  随筆(冒頭部分を削除して

耕治人著『一條の光』 ─「個」を生かす  
「群像」五月号  書評(限定版についての書評。『一條の光』〔限定五〇〇部・題字/武者小路実篤・表紙絵/武者小路小絵・扉絵/赤坂三好・読後感/井伏鱒二・解説/本多秋五〕昭和四四年芳賀書店。なお本書には普及版〔昭和四五年皆美社〕がある。本多秋五の解説に病臥の高見順もほめていたとして耕治人の詩「鴎の奪取」が一部引用されている。全文紹介する。「鴎は荒天より/海上に/垂直に/己の身を投げ打って/己の生命を養う糧を奪取する/東北の海は/大きく揺らぎ/白い鋭い波浪の/音もなく激しく立ち騒ぐはるか彼方は/にぶく光って/荒天に連なり/遠くシベリアの岸を/洗うのである/この海に/鴎は/バサリと云う激しい音と共に/己の身を投げ打って/己の糧を奪取するのである」。    なお『耕治人全詩集』昭和五五年武蔵野書房がある。また「群像」本号創作合評で「或る年の冬」) 

若い小説家たち   
「静岡県」五月八日夕刊  随筆(  「早稲田文学」編集長対談で編集長の立原正秋、速記兼テープ係の高井有一、助手の後藤明生が来浜したときのこと。このときの対談は「早稲田文学」七月号に「『落第免状』余聞」として掲載。一方立原も「蛙とスッポンと海鼠」山形新聞一一月二一日でこのときのことを書いている。立原が「早稲田文学」編集長だったのは昭和四四年一月〜昭和四五年二月。なお立原たちを案内した金指の初山宝林寺は「壜の中の水」昭和四〇年に出てくる黄檗宗の寺のモデルである)

旧街道再見   
「東京新聞」五月一四日夕刊  随筆(「 旧街道 」として  「貫名山という清潔な小寺」は袋井市広岡にある貫名山妙日寺。姫街道は江戸時代の主要街道の別ルートの一部に対する呼名、女街道とも呼ばれた。ここでいう姫街道は見附宿〔静岡県磐田市〕と御油宿〔愛知県豊川市〕を結ぶもの)

二十年の浜松生活から  
「旅」六月号  随筆(

似たようなこと   
「朝日新聞」六月四日発表と『寓目愚談』の初出一覧にあるが未見 (

他称大家  
「潮」七月号  随筆( ) 

ボッシュ画集   
「群像」七月号  随筆( 文中の『ボッシュ画集』は、ドイツで出版されたものを英訳 したもの。1966年〔昭和四一年〕発行、二八センチ×三二センチ、四五一頁の大冊である。著者は文中にもある通り Charles de Tolnay であるが、『藤枝静男著作集第一巻』月報1で佐々木基一が「藤枝氏は、バルダス著 の『ヒエロニムス・ボッシュ』という大冊の美術書を持ってきて」とある。間違いでなければ、藤枝はもう一冊 ボッシュの画集を所蔵していたことになる。神田の古本屋で見ていったん買うのをやめたが「繰り返し頭に蘇って消えないので、帰ってから平野に電話で頼んで買っておいてもらった」とある。編者にも二十代の昔同じような思い出がある。やはり神田でルネッサンス時代の画家のデッサン集を見つけた。分厚かったし高価でもあったのでやめて帰省したが、レオナルドの素晴らしいデッサンが繰り返し頭に浮かんだ。翌日改めて上京、休みであった店を開けてもらい購入したのであった。藤枝は昭和四五年のヨーロッパ旅行でボッシュの実物と対面する。ボッシュについて「ヨーロッパ寓目」昭和四六年、「ボッシュ」同年がある。鴎外訳「冬の王」については、「ボッシュ」昭和四六年および「雉鳩帰る」昭和五三年でも書いている) 

庭の皮はぎ   
「東京新聞」七月二三日夕刊  随筆(冒頭の埴谷雄高の随筆は「還暦祝い」東京新聞七月一五日夕刊─『埴谷雄高全集』第八巻に収録。該当する個所を引用する。「現代では消滅しかかっている毅然たる男性的作家である藤枝静男には、厳密な記録癖があって、赤いベレー帽などをその年の該当者に贈呈する場面を八ミリのカラーフィルムにとり、その仕上がりをみると、監督藤枝静男、撮影佐々木基一といった彼自身の筆になるタイトルまで付せられた一編の記録映画に仕上げられているのであった。そのなかでは、一昨年の平野謙の記録がことに抜群で、これらのフィルムはいずれ近代文学館に寄贈されるそうであるから、伊良湖畔の藤村詩碑の前の平野謙といった情景は、庭の木の枝に登った往年の芥川龍之介のフィルム同様、貴重なものとなるはずである」。なお文末に『摩訶耶寺庭園学術調査報告書』が届いたとある。この本については「眠りをさます東海の名園」昭和五四年で書いている。

田中澄江著『虹は夜』 ─夫への怨念と愛情の奔出  
書評(単行本未収録)

眼医者をたじろがせた"目" 
「潮」一〇月号  随筆(「 眼は心の窓か 」と改題して  イペリットは「イペリット眼」昭和二四年、特攻隊員の強姦は「明るい場所」昭和三三年、兵隊の下半盲・陸上部員の右半盲は「空気人形」昭和二六年の項参照。兵隊の下半盲と陸上部員の右半盲は、「空気頭」につながる重要な記述である。いずれにせよ「空気頭」にある両眼上半盲の症例はない)

武田泰淳著『新・東海道五十三次』 ─マイカーの弥次喜多  
「東京新聞」一〇月一六日朝刊  書評(

永井龍男著『灰皿抄』・尾崎一雄著『冬眠居閑談』─定着した文章を発見
「日本読書新聞」一一月一七日号書評(  冒頭、永井龍男『青梅雨』の書評同様装幀について書いている。『灰皿抄』の装幀は川島勝。『青梅雨』同様シンプルであり、永井の好みか。『冬眠居閑談』は著者のあとがきに「切抜きを全部新潮社の山高登氏に渡して、原稿の取捨、配列、それに装幀などの一切を同氏にゆだねた。自分が手や口を出すより、その方が安心である。凝り屋の氏のことであるから、きっと好ましい本にしてくれるだろう」とある。本書にとくに装幀者の名前はない。尾崎の考え方も一つであろう。編者もまた個展の際、展示の一切を画廊に任せたことがある。その展示は作者にとって新鮮であった)

日記  
「風景」一二月号  随筆(   十月五日に「来月初めの連休に」「住友と藤井有隣館と白鶴の殷銅」とある。住友とは泉屋博古館である。『本多秋五全集』の本多年譜昭和四四年の項に「一一月一日、京都へ行き、先着の藤枝静男、安達禎男〔藤枝の長女の夫〕と合流、住友泉屋博古館を見て、京大人文科学研究所に林巳奈夫を訪ね、翌日は神戸の白鶴美術館、京都の藤井有隣館を見学」とある。編者も泉屋博古館と有隣館を見る機会があった。とりわけ泉屋博古館の青銅器コレクションの質と量に圧倒された。/十月七日に「午ロータリー例会、卓話は幼稚でつまらなかった」とある。藤枝静男は浜松ロータリークラブの会員であった。『浜松ロータリークラブ五〇年史』昭和六一年によれば入会は昭和三二年一月。本書に「例会卓話集」があり、勝見次郎〔藤枝静男〕は昭和五六年二月に「雑談」と題し志賀直哉について語っている。浜松ロータリークラブについては「十年」昭和四三年があり「一〇〇%出席の御褒美をいただいた」「無理した覚えは一回もありません」「かと言って『今日は例会だぞ』とウキウキして出席したことも一度もありません」とある.十月九日のNHKでの録画は「愛眼愛筆・藤枝静男」)



↑TOP
NEXT→